英語と書評 de 海馬之玄関

KABU家のブログです
*コメントレスは当分ブログ友以外
原則免除にさせてください。

英語ディバイドという現象

2005年07月16日 12時49分44秒 | 教育の話題



世はあげて英語、英語です。一時の中国語ブームが彼の国のカントリーリスクが露になって失速したこともあり、一層、世は英語・英語・英語という感じ。これを称して「英語ディバイドの時代」と言うらしい。デイバイド(divide)とは「分水嶺」とか「分割」という意味だからして、英語ディバイドの時代とは「英語ができる者とできない者が画然と判別され、そして、英語ができる/できないという能力差によって社会や会社における評価が決定される時代」ということでしょうか。 

本当かしら? 

まあ、しかし、これらが本当としても嘘としても、英語ができた方ができないよりも多分望ましいとは日本だけでなくフランスでも韓国でもほとんどのビジネスマンや父母が思っていることでしょう。なら、「英語ができる」ということは<どんなことが英語でできる>ということなのか。英語ができる者としてできない者からデイバイドされる要件は何なのか。そしてそのようにデイバイドすることとそのデイバイドの結果に従って諸個人を社会的に処遇することに、これまた社会的な意義と必然性があるのか。これらのことを考えてみたいと思います。


英語ディバイドの時代であると同時に現在の日本社会は(恐らく多くの先進国は。否、「世界中は」ですかね?)PCディバイドの時代であり、ルール/スタンダードディバイド(世界標準の法的考え方が身についていること、)の時代でしょう。世にPCスクールは華盛りですし、ISOの3文字は「USO!」と言いたくなるくらい巷に氾濫しているのですから。デイバイド=分水嶺の大安売り、現在はデイバイドインフレーションの時代と言えるかもしれません。

英語ディバイド論に対して私は、英語の必要性、英語ができる/できないという事柄の意味、そして、デイバイド論の氾濫という3つの切り口からその内容と射程を(意味と意義、あるいはこれらが妥当性を持つ範囲を)考えています。簡潔に述べます。

英語を第一言語(≒母語)とする人口は約3億7千5百万とされている。また、第二言語(≒地域内公用語か地域間コミュニケーションのための公用語)とする人口もほぼ英語を第一言語とする人口に等しい。これに、外国語として英語を使用する推計人口とされる約7億5千万を足せば、現在この惑星上では合計15億人が英語でコミュニケーションが行えることになります。これは第一言語との比較となり条件は異なりなすが、中国語(所謂北京語および広東語)の12億人を上回り、ヒンディー語、スペイン語の各々約3億人の5倍です。ちなみに、日本語を第一言語とする人口は世界の言語人口ランキングの中で第9位から10位であり、ドイツ語やフランス語、イタリア語の母語話者人口よりも多いのです。つまり、第一言語として見た場合、英語は文字通りワンノブゼンに過ぎませんが、その使用可能人口から見た場合には中国語とともに言語の世界のジャイアント、と言えると思います。

★出典
本パラグラフの情報は総てデイヴィッド・グラッドル『英語の未来』
研究社出版(1999年)によります。



「インターネットで流通流布される情報の85%は英語だ」としばしば語られています。実は、その情報の出所は、Internet Society の1995年以前の調査であり、この10年間でインターネットの世界はその全体の拡大と同時に多言語化の時代に突入しており、現在ではインターネット空間における英語の占有率は格段に低下していると予想されます。しかし、1990年代初期の世界の出版物に占める英語の割合は28%(ちなみに、日本語の占有率は5.1%、中国語は13.3%)であったものが、この15年間で英語の比率は間違いなく増大していると推計されており英語の重要性は定量的とマクロ的に見てもやはり拡大しています。

しかし、英語の重要性は上のパラグラフで述べたような定量的な数字によってではなく、<重要な情報>に占める割合という端的には数量化できない部分にあるのではないでしょうか。外交交渉の言語としてフランス語は最近までまだその独特の地位を保っていましたし、19世紀の半ばまではラテン語はヨーロッパと北米諸国では必須の言語でした。それは、国際政治や学術文芸の領域で<重要な情報>の少なからずがラテン語やフランス語でコミュニケートされていたことの反映でした。まして況や、<重要な情報>における現在の英語の存在感においておや。(★)。


★フランス語の価値とコストパフォーマンス
石原東京都知事がおっしゃったように「フランス語は数が数えられない(数えにくい)言葉」というのも事実ですが、現在の国際政治やビジネスにおいて(よほど特殊なケースを除けば)フランス語を学ぶ必要は全くなく、また、哲学・思想においても(現代において哲学とは英米の「分析哲学」に他なりませんから、哲学史を専攻するとか、これまたよほど特殊な研究対象を選ぶのでない限り)フランス語を学ぶのは時間の浪費/研究からの体のよい逃避にすぎません。よって、石原都知事が、首都大学東京のカリキュラムからフランス語がなくなってもかまわないと考えられたのは当然であり、むしろ、都民が納めた税金の有効な使い方としては(国際競争力のある人材を養成しもって国家と社会に貢献する大学の使命を鑑みるならば)フランス語などは大学で教えられるべきではないのだと思います。税金が投入される大学ではフランス語はようなし。しかし、我が日本は自由の国ですからフランス語を教えたり学んだりしてはならないということは断じてない。ならば、洋梨ではなく「おふらんす」が好きな方は自分の費用で好きなだけフランス語を勉強されればいいのです。ちなみに、私はアテネフランセよりも昔の日仏学院が好きでした♪

★出典
本パラグラフの中で出版物に占める言語の割合のデータは
上掲『英語の未来』によります。




さて、「日本人は英語が苦手」とはほとんど確立した<常識>のようです。その理由としては、英語と日本語とでは音韻体系自体が異なるからとか(★)、日本の英語教育は文法中心/暗記中心の漢文型教育であり実用性に乏しいとか、日本人は「完全な英語を話さないといけない」という強迫観念が強く間違いを恐れるあまり積極的に話すことをしない、よって、いつまでたってもオーラルコミュニケーションの経験値が増えないから、とか言われています。中には英語と日本語とでは音の周波数帯が異なるから日本人は英語が苦手なのだとまで言い切られる論者もおられる。私に言わせれば、これらの理由は満更嘘ではないが、さりとてビジネスを英語でできる程度のコミュニケーション能力を多くの日本人が身につけられない理由としては弱い。細かな話は今後別所で展開するつもりですが、英語ディバイドという現象に引きつけながら英語教育について一言しておきます。

日本の受験英語教育は、ある意味では外国人が短期間に極めてハイレヴェルの思想と情報の内容を英語で理解する能力を身につけるという点では史上最も成功した事例の一つとされています。意外ですか? このことは日本の英語教育の研究に携わる欧米の専門家コミュニティーの常識だと思います(私が留学カウンセリングをさせていただいた範囲でも、比較言語教育専攻で英国に留学された方々の中には、日本人や在日の日本市民である彼女/彼以外のゼミの他の全員が大東亜戦争前から戦後の日本の英語やドイツ語教育を称賛する<不思議な場面>に遭遇し、逆カルチャーショックを受けられた方々は少なくありません)。なのに、未だに、日本では受験英語教育をネガティブに捉える<常識>がまかり通っている。実に不思議なことです。 私は、「日本人は英語が苦手」という命題自体に異議申し立てをしたいと日頃から思っています。

★音韻
音韻とはある言語の音声を構成する「音の部品」の単位のことです。ある「音の部品」は他の「音の部品」との差異によってのみ自己の存在を保証される性質を持っています。つまり、個々の音韻は<音韻の差異の体系>の中に組込まれて初めて音の部品としての機能を発揮することができるのです。




私は「日本人は英語が苦手」という命題自体に異議申し立てをしたい。

けれども、百歩譲って、「日本人が英語が苦手」であると受取られるビジネスシーンが少なくないことを根拠に、「日本人は英語が苦手である」ことを認めるとしましょう。そう考えた場合、私に言わせれば「日本人が英語が苦手」な理由ははっきりしています。それは、日本では英語ができなくとも喰っていけるからです。日本では英語を話さなくとも収入が得られるからです。あるいは、日本では英語が話せなくとも日常生活ができるからです。他の言語と英語との比較をしてみれば、日本語と英語の音韻の差異や周波数の差異などは枝葉抹消の事柄に過ぎません。

こう考えれば、英語ディバイド論とは「英語ができなくとも喰っていけた」古き良き時代から現在は「英語ができなければ喰っていけない」少なくとも「生きにくい」時代に変わりつつあるという主張なのではないかと思います。少なくとも、ある企業やある業界やある職掌においてはそのような変化がこの社会や会社の中で生起していると肌で感じられていることが英語ディバイド論の背景にはあるのは間違いないでしょう。ならば、英語ができる/できないという事柄の意味は簡単です。そう、何をもって英語ができるできないかを判断する分水嶺の正体は明確である。それは、自分の組織と業界と職掌において生活の糧を稼ぐ(そのための成果を達成する)ために必要にして充分なだけの英語力が各人の分水嶺となる、と。


目を瞑って聞けばアメリカ人と聞き間違えるようなナチュラルでビューティフルな発声は、彼/彼女がナレーターや通訳者として生計を立てようとするのなら英語ができる/英語ができないを分かつディバイドとなるでしょう。しかし、そんなことは大部分のビジネスパーソンにとってはどうでもよい能力です。90分のスピーチができるスキルはプレゼンテーションをする立場の方にとっては必須の能力でしょう、しかし、専らプレゼンテーションを聞くことが仕事の方にとっては15分のスピーチが聞き取れればほとんどの用は足りると思います。

まさに、ディバイドの時代とは各人が各人のためにオーダーメイドに設定された分水嶺に到達することを要求される時代なのではないか。英語がコミュニケーションツールやコミュニケーションヴィークルとして世界標準化する時代が英語ディバイドの時代の一面であるとするならば、その裏面は各人各様の必要にして充分な英語運用能力を獲得することが要求される多様化の時代でもある。私はそう考えています。そして、そこでは、英語力一般の向上なる牧歌的な目標をエンプロイヤーもエンプロイィーも追求する余裕も筋合いもなくなりつつあるのかもしれません。

ディバイド論の氾濫ということの人類史的な意味を、私は世界の均質化と世界の特殊化の両方が同時に進行している状況と理解しています。ディバイド論のインフレーションはその表面的の現象である。KABUは何が言いたいのか。

それは今までは、相手の身元も思想も能力も好みの異性のタイプも良く解っていたもの同士がコミュニケーションをすれば事足りた時代であったのに比して、21世紀のビジネスシーンでは全くの他人、文字通りの異邦人(あるいは異星人)と競争&協働しつつ、20世紀に比べ一層のスピード感をもってクリエーティブな成果をコンスタントに達成しなければならない。かつ、その成果だけでなくプロセスを関係者だけでなく世間に公表し説明しなければならない。正に、どこの馬の骨とも解らぬ者達と協働し競争しながら生き馬の目を抜く仕事を持続しなければならないのが、21世紀のメガコンピィティションの時代だと思います。ならば、どこの馬の骨とも解らない者同士がコミュニケーションを遂行するための共通のツールとシステムが(PCの喩えで言えば、共通のOSが、)希求されるのは当然ではないでしょうか。そしてそれが、英語でありPCスキルであり英米法であり、よって、米国弁護士資格でありMBA(経営学修士号)なのだと思います。

けれども、そのような状況に人間が長期間耐えられるとは私は思いません。どこの馬の骨とも解らない者達との協働と競争は短期間の期間限定であるか、一日の生活時間の極限られた一部であるか、または、漸次、その関係が<異星人>との関係から、<友>や<敵>という同じ人間同士の関係に推移するのでなければ、生身の人間にはそんな状況を持続することはできないと私は考えるのです。ならば、ディバイドの時代のOS群はあくまでもスキルであり手段としての役割しか持ちえないことになるでしょうし、他方、世界の均質化は表面的には同質性の度合いを高めながらも、その一方では個性の自覚を進行させる契機となるのではないか。そして、社会学的に眺められた場合、個性の核心は民族性であり民族の歴史であり民族の一員としてのプライド。即ち、ある民族の一員としての自己同一性、アイデンティティーであることを私は疑いません。ディバイド論の氾濫の時代。英語ディバイドの時代は日本が再構築される時代に他ならない。私はそう考えています。



P/S
改訂版も書きました、よろしければこちらも。

・改訂版・英語ディバイドという現象
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/621f80f88ad4d1324393bb56ee5dc0d0




ブログ・ランキングに参加しています。
応援してくださる方はクリックをお願いします


 ↓  ↓  ↓

にほんブログ村 英会話ブログ


コメント (10)    この記事についてブログを書く
« 懐かしい英語教材(6) 『Si... | トップ | イデオロギーとしての英語と... »
最新の画像もっと見る

10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
スペシャリストタイプだったら? (ronbun_8787)
2005-07-20 16:16:27
厳しい時代ですね。アタマでは私も英語に関して同じようなことを考えていました。ただ、自分自身もまた国内で生活していますので、子ども達に説得する力がないのが現状です。



ひとつ面白いことがあります。

ウチの子は受験などせず、推薦も蹴って、映像関係の専門に行ってしまったので、当然受験英語の常識は知りません。私のほうがよほどマシ(かも?)



なのに3Dの英語(かなり専門的)はわかるんだそうです。いや、翻訳ソフトがなく英語でやるしかないんだそうで、「必要であれば英語に向き合う」一つの例でしょう。



その子が何によって自分は勝負するのか、説得するのか、によっても違ってくるのではないかと思います。

今KABI先生の考えていらっしゃるのはかなり高度なジェネラリスト養成のようですね。

でも、それだけではないスペシャリストの立場での英語の理解、そしてそこからプレゼンテーションする能力を開発する方法もあるように思います。
返信する
8787先生 座布団2枚♪ (KABU)
2005-07-21 11:34:56
>ronbun_8787先生



息子さんのお話はよくわかります。身につけられるべき英語力のレヴェルや種類は「必要によって変わる」と私も思います。



私自身、"This is a pen." "How do you do?" しか言えないころにアメリカを営業で廻って、「商談に必要な英語力」はなんとか半年くらいで身についたのですが(?)、ジェネラル話題が飛び交う雑談はその後も数年間は皆目<火星人の言葉>でした。あるいは、アメリカで日米や日米インドの技術者同士が打合される際に(技術内容が解らない可愛そうな通訳さんを置き去りにして)、技術者の皆さんが図面を指差しながら、"This is that." "Oh! This is that?" "Sure! That is this, and this is that." "OK. Beautiful!" てな感じでコミュニケーションされる場面にもしばしば遭遇した。逆に、日本でMBAに進学するためのGMATとかロースクールのJDコースに進むためのLSATとかのテスト対策講座で、算数やテクニカルな部分を教えていて、私より遥かに総合的な英語力が上の生徒さんが(生徒さんにはアメリカ人の方も少なくなかったのに)、そのような特殊な英文の場合、その内容を素早く正確に理解する点では私よりも劣ることを痛感したこともあるからです。多分、卓球がうまくなりたい方にとって重量挙げのトレーニングはあんまり効果的ではないのでしょうね。



今考えているのは「かなり高度なジェネラリスト養成」とは痛い所を突かれましたね。もし、いつかオフ会などがあって8787先生とご一緒する機会があれば<座布団2枚>差し上げましょう♪ 同じ小田急沿線住民なので満更チャンスがないこともないでしょうから。 



これについては、「これからの時代は、高度なジェネラリストといわず、より高度な英語力というか、英語で語れる思想や教養の内容が必須になる」という私の危機感というか信念がバイアスになっているのだと思います。「英語力よりも英語で話す内容が大切」とは、多くの方が仰っていることですが、私の場合は企業内英語研修の研修前後の効果を測定してきた経験に基づいた危機感と信念です。ただ、「英語を話す能力」さえもが充分身についてもいない大部分のスペシャリストの方々に対して、「話される内容が大切ですよ」という教訓をたれるのは、すこしエクセントリックな議論ですね、と我ながら認めます。だから、座布団2枚♪
返信する
お返事 (ronbun_8787)
2005-07-21 13:01:36
KABU先生の「エキセントリック」さはしばしば誤解されやすいのでご注意くださいませ。ピュシスにおいてロマンチックな方なのでしょう。

「英語で語れる思想や教養の内容が必須になる」は私も同感であります。でも、ちょっとへそまがりでもあります。(笑)

これから私は仕事モードになります。(一応売れっ子なんで)KABU先生も然りかと存じます。

お体にお気をつけになってください。ここへの訪問も少なくなるかと思いますが、折を見てまたお邪魔します。
返信する
Unknown (じじい)
2005-07-23 09:32:12
都知事はびっくりする発言が多いですね。 しかし、この発言は首都大学東京設立の際、近年、仏語の人気が余りよくなく受講人数減少傾向のため、フランス人講師の削減を行い、組合や団体に批判されていたことの延長線上のものだと思います。 かって、ミッテランも「エコノミック・アニマル」発言をした際、日本人は誰も提訴しなかったですし、提訴は過剰反応だと思います。 都政はがんばってもらいたいですね
返信する
フランス語もドイツ語も生き残りが大変です (KABU)
2005-07-28 19:16:05
大学でも研究者でも、ドイツ語・フランス語のニーズは日本海溝の底まで真っ逆さま状況です。翻訳者の、しかも、社会科学領域や理科系の領域での専門翻訳者の層はかなり薄いです。



昔、ある掲示板で、当時の東京都立大学のフランス語の先生方があんまり首都大学東京への移行に反対するのなら「フランス語も英会話と同じで業者に外注しようか」という都知事の発言について、石原さんを批判する投稿者に対して私が「いっそ、フランス語など授業自体をやめればいい」と書いたらその後「沈黙」でした。



フランス語やドイツ語が(数字を数えにくいにしてもフランス語でももちろん数字は数えられるし)立派な言葉で豊かな文化を伝える言葉ではあると思いますが、「市場価値」というか「コストパフォーマンス」からみれば、日本の大学でもれなくこれらを教授するというのは最早難しいと思います。



立場的には(どちらかと言えば)石原さんを日頃応援している私も、今回の石原さんへの訴訟提起を通してフランス語が話題になり、少しでもフランス語やドイツ語への関心が日本で高まればいいなとさえ私は思います。それくらい、英語・北京語(+ぎりぎり韓国語)以外の外国語はピンチですよ。頑張れフランス語!
返信する
多忙ゆえ舌足らずでごめんなさい (ronbun)
2005-07-29 09:38:10
じじいさん(ごめんなさい)のおっしゃること、私も気になっていました。



国立大学が法人化して市場原理が入ってきて、その是非が問われますよね。儲かる部門はいいけれど、そうでないところはたいへんそうですね。どうも世の中の流れがアメリカ張りになってきたようで…。

こういう時こそ「逆」を考えたい!

石原さんの発言に私も反対! 最近サガンのように「黒い服に真珠」なんて気取りたくもなりました。(笑)



あと、ちょっと多忙すぎて記事をきちんと読むヒマがなくてここでついでコメントをさせてもらいます。

『ヨーロッパの個人主義』の本を思わず引っ張り出しました。西尾幹二さんにしろその他w氏もN氏も

以前、10年以上前は現代文の課題文として採用されていましたよね。なのに今は全然!

私は会の動向に目を向けつつも中立の立場をとらざるをえなかったのですが、今年は私の属する教育界そのものが違ってきたようです。ご自分で授業を決められる立場の先生は…ですが。グローバル化時代に対応する人材の養成を目標とされていますね。人権一点張りの方々は影が薄いです。確実に変わっています。
返信する
フランス語の価値 (non_non)
2006-12-18 18:52:29
Mixi英語教育コミュでお世話になっております。
フランス語の価値について一言言わせてください!
今でも、仏語は文化的かつ社会的価値が強く、ビジネスは英語でも、「フランス語が話せます」という一言で、「け、たかが日本人」のような態度が、「おおー、僕はフランス語、学校でやったんだけど、できなくてね」などという英国人、米国人によく遭遇しました。(ちなみに私の仏語は南仏なまりで、会話はできるけど文法めちゃくちゃで書けないレベルです)
それによって、ビジネス的に優位あるいは対等な立場になったこともよくあります。(交渉で精神的な優劣感はかなり大切)
欧州大陸では仏語が通じるところが多く、ある程度会話ができるということで、かなり関係が近くなり(バリアが取れる感じです)、優位になることが多く、マイナスになることはありませんでした。カナダでもケベコワ間では仏語の社会的優位性が見られるそうです。
私のビジネスは欧州メインで、米国、南米は取引が少ないため、うがった見方かもしれませんが、NY大の社会言語学者と話した限りでは、スペイン語の社会的地位が米国では低く、「西語話せるよ」はネガティブインパクトで、南米でも国際交渉に携わるビジネスパーソンは英語が堪能なため、よく日本で「ビジネスなら西語(や中語)」というのは、今では変わってきているのではないかと思います。

言語価値は、話者の数ではなく、このような文化的価値もまだカウント可能であるかと思います。そして現実的にビジネスへのインパクトも少なくない(研究論文は見ていませんので経験値より)と思うのです。

ディバイドとずれてすみませんでした。
返信する
同感。で、こっちはドイツ語 (KABU)
2006-12-20 12:03:25
nonさん>

同意します。実は、私(謙遜ではなく)英語が This is a pen.しか話せない頃からアメリカでビジネスやっていました(交渉相手は、大学のMBAのデーンやアドミッションディレクター)。もちろん、彼の地は「世界には英語しか言葉はない」と多くの人が思っている土地であり、よって、「英語がシャビーだと馬鹿と思われる」土地でもある。

だから、圧倒的に向こうにメリットのある商品でしたがそこそこ売れはするが、真面目に交渉相手にはされなかった(つまり、爆発的に成功はしなかった)。それを変えたのがドイツ語の会話力とドイツ哲学の話しでした。

それは、アメリカで地べたを這うような営業活動に入って半年がたったころ。中西部の某超有名大学の総長主催のレセプションで彼女がドイツからの移住者であるという紹介があったので、私は「自分は大学院でドイツの法哲学や歴史哲学を学んだ」と言い、いくらかドイツ語を話したのです。すると、彼女から直々に「この方に来週早々アポイントを入れてもらうように!」の鶴の声が秘書の方に! 

それから、あの大学の総長のお眼鏡にかなったらしいということで、ビジネスは軌道に乗りました。げに、芸は身をたすくです。
返信する
レス、ありがとうございます (non_non)
2006-12-21 21:41:37
KABUさん、「芸は身をたすく」、いい言葉ですね!
「芸」は芸であり、アシストするもので、
本体は「身」であるということも暗に語っていると思います。
私はいやいややっていた「詩吟」が、海外で役立ちました。何度も舞台に出る羽目に(着物着て)。
トピずれ、すみませんでした。

Divideの方は、Digital Divideが、年代が低いほどなくなってきていますね。アジア地域では安い自作機や違法ソフトのおかげで、心配するほどのハードウェア的なDivideがなく、今や年代。それもユーザフレンドリなソフトのおかげで解消可能になってきます(あと10年かな)。Internetへの欲求が大きかったのでしょうけれど(アダルトサイトが貢献)、英語も大きな欲求がない限りDividedされたままでしょうか。
10年ぶりに日本に遊びに着た、というような外国人は一様に「英語ができる人が増えた」という感想を持つようではありますが。
(Divideされてもいいんじゃないかなーとは思います。正直)
返信する
それは感じます。でも、・・・ (KABU)
2006-12-23 22:36:16
nonさん>

「10年ぶりに日本に遊びに着た、というような外国人は一様に「英語ができる人が増えた」という感想を持つようではありますが。」は、日本で20年以上、広い意味の英語教育に携わっている者には皮膚感覚で感じられることです。

20年前といえば、TOEFLやIELTSという「単語」さえ、平均的な東大生-京大生は知らなかったですから。けれど、「英語での読解力」や「インプレッシブな内容を英語で話す能力(話しのネタは同じでも)」に関しては、Top層はかわらないまでも、その次の層が薄くなってきているとも感じるのです。むしろ、それは国語力の問題でしょうかね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

教育の話題」カテゴリの最新記事