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憲法における「法の支配」の意味と意義

2010年05月18日 20時29分23秒 | 日々感じたこととか


保守系ブログの中で「法の支配」というタームがちょっとしたブームを巻き起こしているようです。本稿は「法の支配」を軸にして憲法と国家の概念について検討した前稿の補論です。読者からご要望を頂いたこともあり、「法の支配」に絞って、その憲法における意味と機能を整理してみました。

歴史的には、権力の恣意的運用に対する抵抗の<論理>であった法の支配が、現在、保守系論者から持ち出されていることは、民主党政権の成立という国内政治状況に加えて、グローバル化の中で益々国家主権が制約される場面が増えて来ているというあまり愉快ではない時代の反映なのでしょうか。蓋し、上にも記したように本稿は、下記前稿の補論です。このあまり愉快ではない時代に保守派として対峙する参考として、よろしければこの機会に前稿も再読いただければ嬉しいです。

・国家が先か憲法が先か☆保守主義から見た「法の支配」(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/00122700104818ed5200fd98fb3f705d


◆「法の支配」の意味
前稿でも触れたように「法の支配」という言葉は多義的。畢竟、どの言葉をどんな意味で使おうと、一般的に確立している意味でその言葉を用いるか(専門用語の場合には、その専門家コミュニティーで確立している意味で用いるか)、あるいは、都度、明確に定義して使用する限りそれは論者の自由でしょう。而して、憲法学や社会思想の専門用語としての「法の支配」の意味は概略次の三個に整理できると思います。


(1)英国流の保守主義における法の支配
国家権力から相対的に独立した裁判所が発見する「正しい法」による「国民の権利の確保-権力の恣意的な権力行使の排除」は憲法の不可欠の内容である。

而して、その「正しい法」とは英国社会に英国人の権利として伝統的に存在するものであり、裁判官が作るものではなく裁判官が発見するものである。また、この「正しい法」の前には万人は平等でなければならない(よって、行政官または訴訟当事者としての国家を特別扱いする欧州大陸流の「行政裁判所」は認められない)という主張。

(2)フランス流の立憲主義からの法の支配(日本の過去の通説)
憲法は最高の効力を有する法規であり、その憲法の機能は人類に普遍的な天賦で不可侵の基本的人権を国家権力の恣意的運用から守護することにある。

この憲法の機能を「画餅」に終わらせないように、①人権を制限する法規は事前に、かつ、権利制限の内容も権利制約の手続も適正なものとして公示されること、②究極的には、行政権・立法権から独立した司法権によって人権制約の妥当性が判断されなければならない。このような①②が「法の支配」であり、それは人類に普遍的な憲法の内容である。

(3)分析哲学と功利主義を基盤とする法の支配(世界の現在の通説)
「法の支配」とは「理性的な人々の行動を規制するために法が備えるべき性質」の一つであり、「国家機関の行動を一般的・抽象的で事前に公示される明確な法によって拘束することにより、国民の自由を保障しようという理念」である(長谷部恭男『比較不能な価値の迷路』(東京大学出版会)p.149;『憲法』(新世社)p.21)。

具体的には、法に関して、①一般性・抽象性、②公示、③明確性、④安定性、⑤相互に無矛盾であること、⑥遡及の禁止、⑦国家機関が法に基づいて行動するように、独立の裁判所のコントロールが確立していることがその内容となり(長谷部ibid)、一言で言えば、「法の支配=適正手続(due process)」である。この意味の「法の支配」はそれがなければ憲法が憲法として、否、法が法として機能しないという意味でそれは憲法と法の「事物の本性」から論理的に演繹された実定的な憲法の原理と言える。    


蓋し、これら三個の法の支配理解はそれを「事前に存在している法を楯にして裁判所が国家権力の恣意的運用を妨げる法原理」と考える点では轍を一にしています。而して、注意すべきは次の二点。

(イ)前二者は「法の支配」に言う<法>に具体的な内容を盛り込む「内容が濃厚」な原理であるのに対して、最後者の(3)は法規の内容を捨象した形式的で「アメリカン」な原理であること。

(ロ)これら三個は、各々、法の支配が実定憲法の原理として(要は、単なる個人の願望や党派のスローガンではなく現実の法的紛争の処理に際して実定法として)機能するとされる効力根拠を異にしていること。すなわち、(1)英国流の保守主義は「英国社会の伝統」に、(2)フランス流の立憲主義は「基本的人権の普遍性と不可侵性」に、そして、(3)分析哲学と功利主義からの法の支配は憲法の事物の本性と論理を法の支配の効力根拠と考えていると言えると思います。    


前稿の後半「法の支配の意味」の項目で触れたように、しかし、法社会学的に観察した場合、英国においても(国会主権が確立した1688年-1689年の「名誉革命-権利宣言-権利の章典」以前でさえ、かつ、世俗裁判所が「発見」したコモン・ローに限定するとしても)「英国人の普遍的権利」なるものは通時的にも共時的にも存在したことはありません。ならば、「法は英国社会に伝統的に確立しているものであって、作られるものではなく発見されるべきものだ」という主張は事実ではなく観念の表明にすぎない。ただ、英国社会には19世紀末までは(ある意味、その残滓は21世紀の現在も、と言うべきでしょうか)「そのような「法の支配」の観念を抱いていた人々が少なからず存在したという事実」は認めなければならないと思います。

而して、(2)のタイプの法の支配の理解がその効力根拠と考える基本的人権の普遍性なるものが、歴史的に特殊な極めて<文化帝国主義的>な傲岸不遜であることは言うまでもないでしょう。ならば、(2)について確認すべきは、それが芦部信喜・樋口陽一さんを代表とする現在の日本の通説である背景には、個人の尊厳と基本的人権に普遍的・絶対的な価値を認めるフランス流の「基本的人権理解-立憲主義理解」に法的確信を感じる人々が、日本の憲法研究者コミュニティー内部では多数派であったことでしょう。

何より、「正しい法による権力の制約」を求めることは、(特に、「何が正しい法であるか」が表面的には不明なハードケースにおいては)「何が正しい法」であるかを決定する権限を持つ有権解釈者の取り仕切りを尊重するという意味以上のものではないでしょう。蓋し、(1)(2)の根拠の怪しさを一瞥した現在、もし、法の支配の原理が実定憲法にその座を占めたいのならば、「法の支配」の意味内容は(3)の分析哲学と功利主義からの法の支配の理解からそう大きくは外れることはできないのだと思います。


◆法の支配の実践性
冒頭にも記したように、現在、保守系ブログでは「法の支配」という用語が熱く語られているようです。それはおそらく、中川八洋『正統の哲学 異端の思想』『正統の憲法 バークの哲学』『保守主義の哲学』等の影響かとも思われますが、蓋し、(1)のタイプの英国流の法の支配の主張、すなわち、「法は英国社会に伝統的に確立しているものであって、作られるものではなく発見されるべきものだ」という主張が保守派の琴線に触れるのだと思います。尚、私の考える保守主義の内容については下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。


・保守主義の再定義(上)(下)
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/141a2a029b8c6bb344188d543d593ee2

・保守主義とは何か(1)~(6)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-474.html

・風景が<伝統>に分節される構図-靖国神社は日本の<伝統>か?(およびその続編)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87aa6b70f00b7bded5b801f2facda5e3

・<伝統>の同一性と可変性☆再見沖縄? (上記記事の続編)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/42e496c4a2cedfb92c560cdca38bfe54


畢竟、夫婦別姓法案・外国人地方参政権付与法案、更には、人権救済法案や入管法へのアムネスティ条項の混入(不法滞在の外国人を一括「合法的存在」にする暴挙)等々、民主党政権がたくらむ諸々の反日法案への危機感、あるいは、GHQから下げ渡された現行の日本国憲法への反感を抱く論者にとって、「法はその社会に伝統的に確立しているものであって、作られるものではなく発見されるべきものだ」と、英国流の法の支配理解を一般化した命題が日本の実定憲法の内容とすれば、確かに、それは戦後民主主義を信奉するリベラル派や民主党政権に対する強力な<武器>を手にすることになる。ならば、「法の支配」が保守派の一部から熱い視線を送られるのも人情としては私も理解できます。

けれど、世の中にそんな美味しい話は落ちていない。蓋し、


(1)土台、英国流の法の支配は英米固有のものであり、それが立法を通じて継受されるか、あるいは、世界の憲法研究者のコミュニティー内部で法的確信を獲得するのでもない限り、英国流の法の支配が日本の現行憲法の解釈原理になることはあり得ない。

(2)英国流の法の支配もフランス流の法の支配もそれは単なる観念、もしくは、スローガンであって実定憲法の内容を具体的に定める機能は持たない。

(3)分析哲学と功利主義からの法の支配理解も、法が備えるべき性質を示唆する憲法原理ではあるけれど、それはあくまでも法解釈の枠組みを提供するものであって、法の支配から法規の、まして、憲法の具体的内容を演繹することはできない。

(4)法の支配とは、究極的には「司法権-裁判所」の正当化原理であり、土台、法の支配から最終的な有権解釈者たる裁判所ではない私人が、自分の考える「正しい法-日本社会に伝統的に確立している法」を法の支配から正当化される<法>とすることはできない。    


これらの理由から、法の支配を根拠にした、民主党政権の反日立法批判や日本国憲法の無効論は成立しようがないのです。けれども、(1)英国流の法の支配理解は、よって、それを含む「法の支配」という概念は、「国民の法意識-国見の法的確信」を媒介にすることで、単なる(3)の分析哲学と功利主義からの理解を超える実践性を帯びることもできるのではないか。すなわち、

(甲)確かに、憲法規範としての法の支配の原理は(3)のタイプのものでしかなく、それは憲法の具体的内容を導き出す「濃密な原理」ではない。

(乙)しかし、憲法典を含む憲法体系に法的効力を与える(実効性と妥当性を与える)一因たる「法は日本社会に伝統的に確立しているもの」という観念は、その存在が社会学的に観察可能な「事実としての観念-実存としての憲法の一斑」かもしれないということです。   


ケルゼンが喝破した如く、法学的観点からは「国家は法体系そのもの」でしょう。これは認識論的にはどこまでも正しい。けれども、憲法が憲法典に尽きるわけではなく、憲法慣習、および、憲法の概念や憲法を巡る事物の本性によって編み上げられている総合的な意味連関と理解するとき、もし、憲法典と区別される<憲法>の内部と周辺に<国家>が想定できるとすれば、それは「事実の世界の憲法制定権力によって法の世界に産み落とされた憲法を貫ぬき法の世界と事実の世界をつなぐ結節軸」なのであり、「実存としての憲法-実存としての民族の文化複合体」であろう。

而して、(乙)に述べた、国民の法的確信の内容として社会学的にも観察可能な法の支配はこのような<国家>の内容の一斑であり、それは、憲法典の(よって、時の国家権力の権力行使の)正当性を判定可能な法的実践性を帯びるの、鴨。蓋し、「法の支配」という言葉はこのように(甲)(乙)の重層的意味で理解すべきである。と、そう私は考えています。



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