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<再論>保守主義の再定義(上)・・・占領憲法の改正/破棄の思想的前哨として

2017年05月20日 13時08分17秒 | 日々感じたこととか

 

保守主義とは何か? トランプ大統領が誕生しEU崩壊が秒読み段階にいった現在、このテーマが日本でも世界でもいよいよ実践的な重要性を帯びてきていると思います。グローバル化、すなわち、資本主義の一層の昂進に対して人類はいかにしてその生活と生存と文化を守ることができるのか。あるいは、資本主義と鋭く対立する側面も持ちながらも、ある意味、グローバル化の裏面でもあるリベラリズムの浸透、「地球市民」や「世界連邦」なるものを夢想し標榜する伝統破壊のこの思想潮流に保守主義はいかに拮抗し得るのか。「保守主義」の意味と意義を吟味検討することで、これらの課題に対処する指針も見えてくるの、鴨。そう私は考えています。そう、
 
所謂「多様性」なるものの価値や素晴らしさというもの。それを保守派も必ずしも否定はしないでしょう。わが国も、古来、数多の「帰化人」の方々を<新しい仲間>として受け入れてきたし、日本の文化伝統なるものの多くは彼等とのコラボレーションの果実であることを否定するような向きは「保守」などではなく、単なる、無知なのだと思いますから。

しかし、「多様性」なるものを具現する道のりやスタイルは、リベラル派がしばしばそう口にするように、別に、すべての国が「その市民社会を<地球市民的>なる無国籍の色合いに染める」ものばかりではないのではなかろうか。個々の国家が、各々、独自の文化と伝統を競いあうことによって、世界の総体としては百花繚乱・千紫万紅の<コラージュ>状況を現出する道のりもありはしないか。而して、保守主義に親和性のある「多様性」は間違いなく後者のスタイルであろうと思います。畢竟、いずれにせよ、リベラル派が主張するような「多様性」だけが<多様性>ではないことは明らかでしょう

 而して、このブログでもしばしば記している「定義」ですけれど、--所謂「バークの保守主義」なるものは思想の博物館の陳列品でしかないでしょうから--現在における保守主義を、
 
1)自己の行動指針としては自己責任の原則に価値を置く、そして、2)社会統合のイデオロギーとしてはあらゆる教条に疑いの眼差しを向ける、
 
よって、3)社会統合の機能を果たすルールとしては、さしあたり、その社会に自生的に蓄積された伝統と慣習に専ら期待する、換言すれば、その社会の伝統と慣習、文化と歴史に価値を置く態度を好ましいと考える--白黒はっきり言えば、伝統と慣習の中には(もちろん、その領域は時代と共に変動するのでしょうけれど)社会的非難という道徳的強制のみならず国家の実力を発動してなされる法的な強制によっても維持されるべき領域が存在すると考える--立場。
 
ならば、4)その社会の伝統と慣習、歴史と文化に価値を置く態度や心性がその社会のスタンダードな態度であり心性であることを認めリスペクトするような<外国人たる市民>に対しては、逆に、--古来、日本が「帰化人」の人々に対してそうであったように--彼等の伝統と慣習、歴史と文化を<国民>の方も尊重しリスペクトするべきだと考えるタイプの社会思想である、と。
 
思想の内容面ではなく、思想の形態面から「保守主義」をこのように再定義する場合、例えば、占領憲法の改正や占領憲法の破棄は保守派にとって必然の道である。と、そう私は考えます。閑話休題。

蓋し、グローバル化の昂進とリベラリズムの跋扈。これらの現象は、『大学』に所謂「修身斉家治国平天下」の四個すべてのプロセスに影響を与えつつあるのではないか、なぜならば、「修身斉家治国平天下」を成し遂げるための主体的格率(maxim)である「格物致知誠意正心」の内容確定において、保守主義の意味内容、あるいは、保守主義とリベラリズムの関係性はパラメーターとして機能するだろうからです。
 
私はこのブログで既に「保守主義とは何か」という問いに対して自説を展開しています(下記拙稿参照)。畢竟、自己の自己同一性を保つための恒常的な伝統の再構築と、そのような伝統を公共的で実定的な社会規範に高める漸進の前進の営み。これこそが保守主義の本性である、と。すなわち、
 
保守主義とは、世界と社会と歴史についての総合的で体系的な理論ではなく、ある歴史的に特殊な特徴を持った「社会認識のための姿勢」と「社会改革を実践する態度」であり、その基盤は「人間存在の有限性」と「自己の歴史的特殊性」に対する確信に遡り得る「実存主義的な価値相対主義」「経験主義的な現実主義」である。畢竟、伝統は自己の自己同一性を形成する不可欠のパーツであるがゆえに保ち守られるに値する価値を持つ、と。
 
・保守主義とは何か(1)~(6)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-474.html
 
・覚書★保守主義と資本主義の結節点としての<郷里>(上)~(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/bdcdd6661ad82103a6d8d07d93eb7049
 
・宗教と憲法--アメリカ大統領選の背景とアメリカ建国の風景
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3a1242727550e8e31a9133aa154f11bf
 
 
 
 
 
  
整理して再述すれば、「保守主義」とは次のように規定できるの、鴨。
 
私が言う「保守主義」とは、(例えば、社会思想の学説史博物館の陳列物にすぎない「バーク保守主義」なるものなどではない、)現在の現役の社会思想としての<保守主義>であり、それは次の4項目をその内容の核心として含むものです。
 
而して、その<保守主義>とは、英米流の分析哲学の地平に立つ、並びに、新カント派の認識論と功利主義の哲学、および、現象学と現代解釈学の思考枠組みと親和性の高い「社会と社会内存在としての人間、それら双方のあるべきあり方」を巡るあるタイプの世界観の体系のことです。
 
①左右の教条主義、就中、設計主義に対する不信と嫌悪
②慣習と伝統、歴史と文化の尊重と、それらの構築主義的で恒常的な再構築の希求
③国家に頼ることを潔しとせず、他方、国家の私的領域への容喙を忌避する、
 自己責任の原則の称揚と同胞意識の勧奨を支持する態度 
④差別排外主義の忌避
 (①~③に共感・承認される外国籍市民の尊敬、および、その歴史と文化、伝統・慣習の尊重)
 
換言すれば、②の内容は、(α)文化帝国主義の手垢のついた、かつ、根拠薄弱な「基本的人権」や「立憲主義」、「国民主権」や「民主主義」、「個人の尊厳:個人の自己決定権」や「人間の生命」なるものの価値を絶対視することなく、(β)現存在たる<自己>のアイデンティティーを根底で支える<歴史>が憑依している<言語>によって編み上げられた、そのような<伝統>としての<政治的神話>を肯定する、(γ)有限なる人間存在という自覚に貫かれた「大人の中庸を得た態度」というもの。
 
畢竟、個別日本においては、「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」というこの社会を統合している<政治的神話>を好ましいものとして称揚し翼賛する心性と態度。而して、時代の変遷の中で(例えば、「女系天皇制」を導入してでも)伝統と慣習の枠組みを維持し、かつ、恒常的に伝統と慣習、文化と歴史を再構築しようという態度であると言えましょう。
 
更に、敷衍しておけば、②と③の矛盾と緊張を巡っては、「国民の法的確信」を基盤とする<憲法体系>の調整に委ねようとする志向性こそ<保守主義>の態度であり、よって、白黒はっきり言えば、「伝統」や「慣習」、「文化」や「歴史」の中には、<憲法体系>によって、つまり、<保守主義>によって守護されるべきものとその保障の対象から外されるものの種差が生じるということ。
 
而して、けれども、その両グループに属する各々の価値と規範の間の境界線はアプリオリに定まるものではない。アプリオリに定まるものではなく、(例えば、現下の女系天皇制を巡る問題状況の如く)時代とともに変遷する「国民の法意識=国民の法的確信」に従い、「遂行論的-」あるいは「構築主義的-」に、厳密に言えば、現象学の言う「間主観性」の地平で、かつ、憲法論の地平で自ずと定まるもの。そう言えるだろう、と。

恒常的な伝統の再構築。これを(シャム双生児の関係にあると看做し得る)戦後民主主義を信奉する勢力と憲法無効論なる妄想に囚われている国粋馬鹿右翼という左右の観念的な社会主義と比べれば、「保守主義」と「社会主義≒リベラリズム」の違いは明確だと思います。
 
而して、保守主義の具体的な意味内容、就中、④自分達とは異なる文化やエートスを呼吸する人々に対する保守主義の態度については旧稿に譲り、本稿は上で述べた如き保守主義の本性から演繹される、①人間の有限性の確信と反教条主義、②伝統尊重、③国家権力にあまり多くを期待しない心性といった保守主義のエッセンスと私が考えるものに絞って自説を敷衍したものです。
 
 
 
 
 
◆保守主義と伝統の多様性と単一性
旧稿でも書いたことですが、「保守主義」の再定義の前哨として、「言葉の意味」について確認しておきます。蓋し、私はどの用語を誰がどのような意味で使用するかは、それが、(甲)専門家コミュニティー内部で確立している一般的な用語法に従っているか、そうでなければ、(乙)その話者が事前に当該の言葉を明確に定義している限り基本的に自由であると考えます。
 
例えば、所謂「女系天皇」制を導入した場合にその断絶が想定されるらしい「皇統」なる語に絶対的の意味内容は存在しないように、ヘーゲルやマルクスがその実在を信じて教条主義のまどろみに浸っていた、すなわち、概念実在論が想定していたような「言葉の本当の意味」なるものはこの世に存在しないのであって、言葉を使った相互討論が生産的で有意味なものになるか否かは、「言葉の正しい意味」ではなく、討論参加者の「言葉の正しい使用方法やマナー」に依存する、と。概念実在論を最終的に葬った分析哲学に従い私はそう考えています(尚、この論点に関しては下記拙稿を参照してください)。
 
・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0fb85611be79e7a89d274a907c2c51ac
 
・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2045fe3ac164014dde2e644c551d7c38
 
・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b699366d45939d40fa0ff24617efecc4

蓋し、よって、「保守主義」という言葉もまた本質的に多様ならざるを得ない。まして、例えば、イスラームとアメリカの伝統が異なるように各国各民族が唱える「保守主義」の具体的の意味内容も異ならざるを得ない。この経緯は共時的のみならず通時的な要因からもまた加速される。
 
すなわち、土台、「主権国家」「国民国家」「民族国家」、否、「民族」という概念自体が極めて歴史的なものであり、畢竟、一般に「主権国家」と「主権国家間の関係としての国際法秩序」を確立したとされるウェストファリアー条約体制(1648年)の後も1世紀余り、近世と近代の渾然融合は続いたのであって18世紀半ばまでは「主権国家」も「民族」も地球上に存在してはいなかった。ならば、「日本の固有の伝統」や所謂「法の支配」を可能にする「英国社会に普遍的な法」なるものがこの世に存在し得ないこともまた当然でしょう。後者に関しては、名誉革命(1689年)における「議会主権の確立」、および、階級対立の先鋭化を受けた19世紀後半以降の制定法の社会化とコモンローに対する制定法の優位の確立を想起すれば自明な如く、「法の支配」なる原理にいう「法」の意味もまた極めて歴史的で可変性を帯びたものなのです。
 
実際、我が国においては、幕末・明治初葉までは「国家」とは統治の主体たる大名家中と統治の客体たる領地・領民を指す、ローカルガバメントに関する言葉でした。更に、ゲルナーが喝破した如く、例えば、現在、我々が「日本的なもの」「日本古来のもの」と感じているものの少なからずは、「皇国史観」然り、「家父長制的な家族関係」然り、「教育勅語」然り、明治維新を契機に人為的に作り上げられた表象にすぎないこと。これまた否定できない事実なのです。而して、「終身雇用制」や「年功序列制」に至っては(「農地改革」とともに)国家社会主義を目指した所謂「1940年体制」の産物であり、戦後改革の中でこれらが日本の伝統的なものと錯覚されたのは心理学で言う所の「記憶の自己改竄」に他なりません。
 
民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)
 
ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。
【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】  

「国家」も「民族」も歴史的表象でありその意味内容も可変的で多様なものとすれば、これらを依代とする「保守主義」の意味内容もまた可変的で多様なものにならざるを得ないことは自明でしょう。これが、先に述べた、保守主義の意味内容は共時的のみならず通時的な要因からも本質的に多様ならざるを得ないという私の主張の背景です。
 
 
 
 
では、「日本の伝統」などはこの世に存在しないのでしょうか? 
保守主義とは定まった意味内容を欠く空疎な社会思想なのでしょうか?
否、です。
 
伝統とは、よって、保守主義とは伝統の恒常的な再構築の営みに他ならず、「日本的なもの」「日本古来のもの」は厳然と存在している。ただ、それら個々の表現形が通時的な普遍性を必ずしも持たないだけのこと。つまり、伝統とは外化され物象化され物神性を帯びる個々の事物ではなく、伝統を再構築する人々の意識と規範と行為に憑依する(ポパーの言う意味での「世界Ⅲ」(★)としての)何ものかに他ならないというだけのことです。
 
★註:世界Ⅲ
カール・ポパーは『客観的知識』第3章・第4章で、「考えられる対象」と「考える行為」と「考えられた内容」とは、相互に密接な関係はあるだろうが、それぞれ別の独自法則性を持つ領域であるとして、それぞれを世界Ⅰ・世界Ⅱ・世界Ⅲと名づけ区別しています。蓋し、学問体系・常識・生活のノウハウ等々は、すべて、公共的な言説空間に間主観的に存在するものであり、もちろん、それらはすべて人間の主観が産み出した産物には違いないけれど、他方、それが産み出された後、間主観性を帯びて以降は、最早、「非主権的-客観的」な知識と言うべきものである。と、そうポパーは考えます。
 
単なる「物の世界:世界Ⅰ」や「主観の世界:世界Ⅱ」とは別次元の「間主観的な知の世界:世界Ⅲ」は確かに存在している。例えば、誰しも、義経が頼朝に危険視されて討伐された事実を知っている。あるいは、かぐや姫が求婚者を体よくあしらって最後には月の世界に帰る結末を知っているし、憲法無効論の信徒がいかに悲憤慷慨しようが、外国人地方選挙権の賛否を巡る「保守派-良識派」と「リベラル派-売国派」の議論は現行の日本国憲法の条規や最高裁の過去の判決を前提にして戦われている。歴史的事実も御伽噺も現行憲法も「物の世界:世界Ⅰ」ではなく、論者の主観にのみその場を占めるものでしかないにも関わらずそれらは間違いなく間主観性を帯びているのですから。 
 
・愛国心-郷土愛:”祖国とは・・・・” (追補あり)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a4da343e2d1afbc46cb8b7a6ef480312
 
・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87aa6b70f00b7bded5b801f2facda5e3
 
畢竟、歌舞伎や狂言が日本の伝統のパーツであるのと全く同じ論理的な資格で劇団四季のミュージカルも新国劇のオペラも日本の伝統のパーツである。ボンカレーもカップヌードルも、女子高校生のセーラー服も甲子園の球児達の仕草やそぶりも--あるいは、AKB48さえも--日本の伝統のパーツなのです。換言すれば、伝統とは伝統的な個物と制度を恒常的に再構築するコミュニティーメンバーの心性と行動に他ならず、保守主義とはそのような伝統的の個物と制度の再構築に価値を置く社会思想であり、この意味の伝統と保守主義は、「共時的-通時的」に単一の表象として「世界Ⅲ」の中に厳然と存在している。
 
而して、現行の占領憲法第1章にインカーネトしている「皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」というこの社会を統合する<政治的神話>も、所謂「夫婦別姓」を断乎拒否する「家父長制的な家族イデオロギー」も、そして、「教育勅語」もまた日本社会の醇風美俗であり日本人が堅持すべき伝統である。と、そう私は考えています。
 
 
 
 
【十六夜日記】
 

<続く>
 

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