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国家が先か憲法が先か☆保守主義から見た「法の支配」(上)

2010年05月10日 06時32分45秒 | 日々感じたこととか

国家が先か憲法が先か。こう自問するとき、私は「卵が先か鶏が先か」と自問自答するのと同様な感覚を抱かないではありません。けれど、この「国家が先か憲法が先か」の問いは、就中、現在の日本では強い実践性を帯びているのではないでしょうか。そう私は考えています。

所謂「立憲主義」の強い影響下にある現下の日本の憲法研究者のコミュニティーでは、「憲法とは国家権力を縛る箍である:憲法は国家権力に対する命令であって、国民を拘束するものではない」「国民の多数の意志によってしても国家権力が基本的人権を制約することは原則的に許されない」「君主制が過去の時代の産物になった現在、「国民主権」に言う「国民」には相当の期間平穏に日本で暮らしていて、かつ、生活の本拠が日本以外にない外国人も含まれる」等々と言った主張が大真面目に語られています。

他方、「憲法9条を遵守して国が滅ぶ事態を看過するわけにはいかない」「憲法とは煎じ詰めれば国柄や国体のことであり、現行憲法典の中でも日本の文化伝統と親和性の低い規定は無効である」、更には、「そもそも明治憲法や国際法に違反する改正手続によって成立した日本国憲法は無効であり、加えて、「法の支配」の原則から見ても明治憲法が現在でも現行の憲法だ」と唱える論者も存在しているようです。

実際、現行憲法9条の解釈において「国家が先か憲法が先か」の問いは「卵が先か鶏が先か」との問いとは違い(否、「同様に」なの、鴨)、各々の論者に「憲法とは何か」「国家とは何か」を巡って厳しく立場の表明を要求する。実際、

「自然権たる自衛権を憲法が否定することはできない以上、現行憲法の9条の字句にかかわらず日本国は自衛のための武力を保有しうるし、自衛のための戦争も遂行できる」
    

という現在の有権解釈の主張に対しては、「憲法は国家に優先する」とばかりに否定的に解する憲法研究者も少なくないのですから。

尚、「日本国憲法は交戦権を否定しているのだから、交戦権に含まれる講和条約を締結することは日本国憲法を根拠にしては不可能。よって、サンフランシスコ平和条約等の講和締結が可能だったのは明治憲法の講和大権によるものだ」という妄言を吐いている向きもあるようですのでここで老婆心ながら申し添えておけば、

第一に、日本国憲法が占領下に制定された以上、近い将来、この憲法を根拠にした日本政府の行為によって日本が占領状態を脱して主権を回復することを日本国憲法も前提としていたと解されること、第二に、憲法9条とパラレルな不戦条約等の解釈においては国際法では通常「交戦権」とは「戦時国際法が認める交戦国の権利・義務が認められる地位」を意味すること。これらから、日本国憲法の解釈として、「国の交戦権は、これを認めない」(9条2項後段)に言う「交戦権」には「講和条約締結権=戦争によって生じた権利義務を確定する権限」は含まれない。要は、講和条約締結権を憲法9条2項が否定しているとは解されず、よって、日本政府がサンフランシスコ平和条約等々の多国間・二国間の条約を結び、もって、大東亜戦争によって生じた領土問題や賠償問題を解決したことは憲法論的に見てなんら問題ではありません。閑話休題。





■「国家が先か憲法が先か」の意味
国家が先か憲法が先か。この問いに言われる「先か」とはどのような意味なのでしょうか。ところで、「卵が先か鶏が先か」の問いに含まれる「先か」が因果関係を示していることは間違いない。ならば、「卵が先か鶏が先か」に答えることはそう難しくはないのかもしれません。すなわち、

①卵から産まれない鶏はおらず、卵から生まれない鶏はいない
②卵から産まれる動物は鶏だけではない
③鶏ではない動物が卵を産み、その卵から鶏が生まれた
④鶏よりも卵が先にこの地上に発生した    


ここで、問題は、実は、③の段階では③2「鶏ではない動物が鶏を産み、その鶏以降、親鳥の産んだ卵から鶏が生れるようになった」という議論も③と論理的には等価ということ。そして、その場合の結論は④2「卵よりも鶏が先にこの地上に発生した」になるのでしょう。而して、私が「ならば、「卵が先か鶏が先か」に答えることはそう難しくはないのかもしれません」と大見得をきったのは、①の鶏の定義が③2「鶏ではない動物が鶏を産み、その鶏以降、親鳥の産んだ卵から鶏が生れるようになった」という想定を排除しているからです。

このお遊びで何を言いたかったのか。それは、経験的事実の裏打ちが要求される因果関係を巡る議論においても(経験的事実が入手できない未知の領域では)用語の定義によって結論が左右されるということです。而して、その問いが因果関係ではなく、権利関係や論理的な認識の順序を巡るものであれば、その解答が用語の定義の如何に左右される度合が極めて大きいことは自明でしょう。而して、「国家が先か憲法が先か」の問いもそのようなタイプの問いであろうと思います。

お遊びはこれくらいにして、「国家が先か憲法が先か」の問いの意味を措定しておきましょう。憲法9条の解釈等々、この問いが特に実践性を帯びる幾つかの場面を想起するとき、この問いに含まれる「先か」は、(イ)憲法の運用において優先される価値の順位、(ロ)国家や憲法を認識する上での論理的な優先順位が問われていると一応考えられると思います。すなわち、

(イ)価値の順位
憲法典の諸条項に明記されている基本的人権、あるいは、(例えば、国民主権や天皇制といった)諸原理・諸制度よりも優先される実定憲法的な価値があるのか。そして、そのような価値が存在するとすれば、そのような価値の中には<国家>でイメージされる表象に付随するものがあるか。

(ロ)論理の順位
<憲法>を理解する上で<国家>のイメージが不可欠の前提か否か。逆に、<国家>を理解する上で<憲法>のイメージが不可欠の前提か否か。敷衍すれば、<国家>とは世の森羅万象の中から<憲法>によって切り取られる対象が構成する「部分集合」(あるいは「真部分集合」)か、または、それら「部分集合-真部分集合」の内部に観察される「構造」にすぎないか否か。逆に、<憲法>とは世の森羅万象の中から<国家>によって切り取られる対象が構成する「部分集合-真部分集合」の内部に観察される「構造」にすぎないのだろうか。    


これらのことが「国家が先か憲法が先か」の問いの意味ではないかと思います。

ならば、「憲法9条を遵守するあまり国家の生存が絶たれるなどという事態は憲法的にせよ超憲法的にせよ認められない。よって、自衛権は憲法的にせよ超憲法的にせよ認められる」とか、「平穏に日本に居住する、かつ、日本以外に生活の本拠がない外国人を「国民」と同一視するが如き、国家の一体性と自己同一性を掘り崩す憲法解釈は憲法的にせよ超憲法的にせよ認められない。よって、外国人への日本国籍の付与は憲法的にせよ超憲法的にせよ原則的に帰化制度を通してのみなされるべきだ」という主張の是非がこの「国家が先か憲法が先か」の問題と密接に連関している。  
  
と、そう私は考えるのです。而して、マルクスが『経済学批判』の序言述べている次の認識は国家と憲法を巡る「論理の順位」に関する発言と理解できるでしょうし、他方、ラートブルフ『法哲学』の次の言葉もまた同様ではないでしょうか。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。

社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。(岩波文庫, p.13) 


価値判断すなわち評価は存在事実によって影響されない、と主張しようとはしない。・・・存在事実と価値判断の間の因果的関係はここでは論点ではなく、むしろ存在と価値の論理的関係が論点なのである。価値判断は存在事実を原因として生まれることはできないと主張しているのではなく、むしろ価値判断は存在事実を理由として基礎づけられることはできないと主張されているのである。

法律学の対象は、事実であり、法の命令であり、意欲の命題であるが、法律学は、この事実を事実としてではなく、その客観的意味によって考察するゆえに、この事実は、法律学により当為命題すなわち規範として取り扱われる。(東京大学出版会, p.115, p.276)     


では、「国家が先か憲法が先か」の是非は如何。憲法と国家の「概念の枠組み=定義の定義」を反芻しながら思索を掘り下げてみたいと思います。





■憲法の概念と国家の概念の枠組み
ハンス・ケルゼンは「法と国家の同一説」を唱えました。曰く、「法学的に観察する限り、国家とは法体系以外の何ものでもない」、と。この見解は、(例えば、ある社会現象を経済学の観点から見ればそれは経済現象であり、他方、法学的に見ればそれは法現象であるように)「認識が対象を決定する」という新カント派の認識論を否定しない限り(現在の分析哲学の地平においても)正しいでしょう。

而して、本稿の射程がどこまでも、(イ)憲法基礎論から見た場合、憲法典の諸条項に含まれない価値や規範の中で憲法の諸条項から演繹できる価値や規範に法の効力において優先されるものがあるのか、あるいは、(ロ)憲法基礎論の認識において、<国家>の表象がなければ<憲法>を理解することはできないのかどうかを究明するものである限り、本稿の射程内においては<国家>も<憲法=憲法体系>でしかない。一応、そう言わざるを得ないと思います。

では、本稿の「卵と鶏」問題は「憲法が国家に先んじる」ということで一件落着か。ならば、「憲法を遵守するために国家が滅んでも、少なくとも憲法論的には可とすべき」なのか。

否、です。なぜならば、ケルゼンの叡智は、憲法基礎論において<国家>と<憲法>が同一であることを教えてくれるものの、(ロ)その<憲法=国家>の内部に憲法典を構成する諸条項とは別に「国家」という言葉が指し示すある特殊な規範内容が存在している可能性と、(イ)そのような「国家」という言葉に憑依する規範や価値と憲法典を構成する諸条項との法的効力に差異が存在する可能性とを排除しないからです。

要は、ケルゼンの「法と国家の同一説」もまた<憲法体系=国家>の内部構造の決定に関しては「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」のです。

以下、「憲法」と「国家」の概念そのものを整理した上で、<憲法=国家>の内部構造を究明すべく「法の支配」の原理を補助線に使って思索を進ることにします。


<続く>


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