スピリチュアリズムに出会い
生き方が180度かわりました
シルバーバーチの霊訓を人生の指針としています
地上では必ずしも正義が勝つとはかぎりません。
なぜなら因果律は必ずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。
ですが地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衝を取り戻します。
霊的に見て、あなたにとって何がいちばん望ましいかは、あなた自身には分かりません。
もしかしたら、あなたにとっていちばん嫌なことが実は、あなたの祈りに対する最適の回答であることも有り得るのです。
ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度では無く霊的尺度で判断するように努めることです。
というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。
祈りにはそれなりの回答が与えられます。
しかしそれは必ずしもあなたが望んでいるとおりの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとっていちばん望ましい形で与えられます。
神は決して我が子を見捨てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的なモノサシで批判することはやめなくてはいけません。
絶対に誤まることのない霊的真理が幾つかありますが、そのうちから二つだけ紹介してみましょう。
一つは、動機が純粋であれば、どんなことをしても決して被害をこうむることはないということ。
もう一つは、人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるということ。
この二つです。焦ってはいけません。
何事も気長に構えることです。
何しろこの地上に意識をもった生命が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです。
さらに人間という形態が今日のごとき組織体を具(そな)えるに至るのに何百万年もかかりました。
その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかったことでしょう。
その力、宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。誤まることのないその力を信じることです。
解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。
悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」─こうおっしゃる方があるかもしれません。
しかし私は実際にそれを体験してきたのです。
何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。
その長い旅路を振り返った時、私はただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりです。
一つとして偶然というものが無いのです。
偶発事故というものが無いのです。
すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。
霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかも一目瞭然と分かるようになります。
私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。
愛は大きさを測ることができません。重さを測ることもできません。
いかなる器具をもってしても分析することはできません。
なのに愛は厳然として存在します。宇宙における最大の力です。
大自然の法則を機能させる原動力です。
愛あればこそ全大宇宙が存在するのです。
宇宙がその宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後にはこの愛の力が存在します。
生命活動の原動力であり、霊の世界と物質の世界の間に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。
辿り着いた高級霊界からの遼遠の旅路の末に再び地上に舞い戻り、古くかつ新しい名言〝愛は死を乗り超える〟を改めて宣言することができるのも、この愛あればこそです。
あなた方を今日まで導き、これ以後もより一層大きな霊的回路とするための受容力の拡大に心を砕いてくれている背後霊の愛に目を向けて下さい。
昼の後には夜が訪れるように、春の後には夏が訪れるように、種子を蒔けば芽が出るように、霊は着実に開眼し一歩一歩その存在意義の成就に向けて階段を昇ります。
日常の煩瑣(ハンサ)な雑事の渦中にあって、時には僅かの時間を割いて魂の静寂の中に退避し、己れの存在の原動力である霊性に発現の機会(チャンス)を与えて下さい。
心に怖れを宿してはいけません。
完全に拭い去らないといけません。
誕生以来今日までずっとあなたを導いてきた霊が、今になって見捨てるはずがありません。
これまで日夜あなたの生活の支えとなってきたのであり、これ以後もずっと支えとなることでしょう。
なぜなら、あなたに絶対成就してもらわねばならない仕事があるからです。
霊がこの世へ携えて来た能力がこれからもその役目を果たしていきます。
こちらから援助に当たる霊の背後には宇宙の大霊すなわち神の力が控えております。
それは決して裏切ることはありません。
宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。
しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅かしか感識しておりません。
受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。
それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落着きを身につけなければなりません。
そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受けることができます。
それが神の摂理なのです。そういう仕組みになっているのです。
受け入れ、吸収する能力に応じて、エネルギーが配給されるということです。
受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。
それだけのことです。
悲哀の念が消えるに従って、魂を取り巻いていた暗雲が晴れ、確信の陽光がふんだんに射し込むことでしょう。
宇宙に存在を与えたのは神の愛です。
宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。
全宇宙を経綸し全存在を支配しているのも神の愛です。
その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。
愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差しのべさせるものです。
全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。
そして、いつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。
好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。
そこには徳性も神聖さもありません。好感の持てない人を愛する──これが魂の霊格の高さを示します。
あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人のために手を差しのべること、これは容易なことではありません。
確かに難しいことです。
しかし、あなた方は常に理想を目標としなければいけません。
他人に出来ないことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからです。可哀そうにと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。
最高の徳は愛他的です。
愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する、これです。
愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これはやさしいことです。
しかし、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心掛けでは出来ません。が、
それが奉仕です。
真の愛は大小優劣の判断を求めません。
愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。
宇宙の大霊は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。
向上進化の梯子を登って行けば、己れのために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。
ただ施すのみの世界です。
大切なのは、人間が永遠なる魂であり、地上生活はその永遠の巡礼の旅路のほんの短い、しかし大事な一部なのだという事実を知ることです。
その地上生活を無知の暗闇の中ではなく、叡知の光の中で、肩をすぼめず背筋をまっすぐに伸ばして、恐れを抱かず堂々たる落ち着きをもって生きるべきです。
あなた方は一時の勝ち負けのために備えているのではありません。
目先の結果、一時の勝利ではなく、永遠なる目的、無窮の闘いに携わっているのです。
成就したものがいかなる結果をもたらすかを安易に推し量ってはいけません。
今日世界各地で、難攻不落と思われた城壁が崩れ落ち、特権階級が揺さぶられ、独占支配は崩壊し、迷信が減り、無知が次第に押し寄せる霊的真理によって追い払われていきつつあります。
あなた方の懸念は無意味であり根拠がありません。
しっかりとした手に守られております。
これまでもずっと、それによって支えられてきました。
もしそうでなかったら、とうの昔に地上を去っていることでしょう。
霊的なものにとって〝恐れる〟ということがなによりも強烈な腐食作用を及ぼします。
恐怖心と心配の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。
なんとなれば、それが霊力が作用する通路を塞いでしまうからです。
光の中ばかりで暮らしておれば光の有難さは分かりません。
光明が有難く思われるのは暗闇の中で苦しめばこそです。
こちらの世界で幸せが味わえる資格を身につけるためには、そちらの世界での苦労を十分に体験しなければなりません。
果たすべき義務を中途で投げ出してこちらへ来た者は、こちらで用意している喜びを味わうことはできません。
少なくとも永続的な幸せは得られません。
人生の目的は至って単純です。
霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、さまざまな体験を積むということです。
そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうというわけです。
この地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。
その教訓を学ばずに終われば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります。このことは地上だけでなく、私どもの霊の世界でも同じことです。
毛を刈り取られたばかりの羊は冷たい風に当たらないようにしてやるものです。
神の帳簿は一銭の間違いもなく収支が相償うようになっております。
つまり人間の行為の一つひとつについて、その賞と罰とが正確に与えられます。
これを別の言い方をすれば、原因があれば必ずそれ相当の結果があるということです。
いかなる苦難にもそれ相当の償いがあり、体験を積めばそれ相当の教訓が身に付きます。
片方無くして他方は有り得ません。
体験もせずにどうして教訓が得られましょう。
そして教訓を学んだ時から、その教訓を生かす義務が生じます。
地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。
自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。
ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話です。
あなたがた地上の人間にとっての大きな問題点は、やむを得ないことかもしれませんが、人生というものを間違った視点から観ていることです。
つまり、あまりにもこの世的・物質的観点からのみ人生を考えていることです。
人生には確かに地上的な要素がありますが、同時に霊的なものであり、永遠に続くものなのです。
その永遠なるものを地上的視野だけで眺めてはいけません。
それでは十全な判断は出来ません。
神の子には、一人の例外も無く、善悪ともに〝埋め合わせ〟の原理が働くのですが、地上生活のみで判断しようとすると全ての要素を考慮することができなくなります。
人生には目的があります。
しかしその目的は、それに携わる人間が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。
笛に踊らされる人形ではないのです。
人間の一人ひとりに分霊が宿っており、一人ひとりが無限の創造活動に参加できるのです。
つまりあなた方には個的存在としての責任と同時に、ある限度内の自由意志が与えられているのです。
自由意志といっても、大自然の法則の働きを阻止することができるという意味ではありません。
ある限られた範囲内での選択の権利が与えられているということです。
運命全体としての枠組みは出来ております。
しかしその枠組みの中で、あなた方が計画した予定表(ブループリント)に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第だということです。
もしかしたら、そのブループリントさえ自覚できないかもしれません。
でも魂は神性を宿すが故に常に活動を求め、自己表現を求めて波のようにうねります。
時にはそれが悲嘆、無念、苦悩、病苦という形をとり、無気力状態のあなたにカツを入れ、目を覚まさせることになります。
もしも神があなたを創造活動へ参加させ、そうすることによって潜在的神性を開発させることを望まないのであれば、あなたがこの世に生を享けた意味は無いことになりましょう。
そこに〝埋め合わせの原理〟が働いていることを理解しなくてはいけません。
つまり創造活動に貢献する仕事に携わりつつ潜在能力を開発していく生活の中で、あなたの人間的発達が促進されていくという仕組みです。
援助を求める真摯な熱意が等閑(なおざり)にされることは決してありません。
衷心からの祈りによる霊的つながりが出来ると同時に、援助を受け入れる扉を開いたことになります。
その時に発生する背後での霊的事情の実際はとても言語では説明できません。
元来地上の出来ごとを表現するように出来ている言語は、それとは本質的に異なる霊的な出来ごとを表現することは不可能です。
どう駆使してみたところで、高度な霊的実在を表現するにはお粗末なシンボル程度の機能しか果たせません。
いずれにせよ、その霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えが出来たことになります。
すなわち一種の悟りを開きます。
大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの霊性に全く気付かぬまま生きております。
こうして生きているのは霊的存在だからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだということが理解できないのです。
人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。
本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。
つまり真のあなたは霊なのです。
生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。
肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。
その形体としての存在はほんの一時的なものです。
用事が済めば崩壊してしまいます。
が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。
その辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。
肉体的束縛を突き破ったのです。
魂の芽が出はじめたのです。
ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出て来たのです。
あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。
そうなった時こそ地上生活本来の目的である霊と肉との調和的生活が始まるのです。
霊性を一切行使することなく生活している人間は、あたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人と言えます。
霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。
神性が目を覚ましたのです。
それは、その人が人生から皮相的なものではなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。
霊の宝は地上のいかなる宝よりも遥かに偉大であり、遥かに美しく、遥かに光沢があります。
物的なものが全て色褪せ、錆つき、朽ち果てたあとも、いつまでも存在し続けます。
魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。
それはこの宇宙でも最も強力なエネルギーの一つなのです。
その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。
これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。
その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し延べます。
この霊的自覚が確立された時、あなたにはこの世的手段をもってしては与えることも奪うことも出来ないもの──盤石不動の自信と冷静さと堅忍不抜の心を所有することになります。
そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだ──自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。
人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。
どうか、何処でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。
冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。
議論をしてはいけません。
伝道者ぶった態度に出てもいけまません。
無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。
根づくところには時が来れば必ず根づきます。
あなたを小馬鹿にして心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねて来ることでしょう。
私たちを互いに結びつける絆は神の絆です。
神は愛をもって全てを抱擁しています。
これまで啓示された神の摂理に忠実に従って生きておれば、その神との愛の絆を断ち切るような出来事は宇宙のいずこにも決して起きません。
宇宙の大霊である神は決して私たちを見捨てません。
従って私たちも神を見捨てるようなことがあってはなりません。
宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿っております。
地球は地軸を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。
種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死し、そして再び新しい芽を出すことを繰り返しています。
色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやかに靡(なび)き、かくして全世命が法則に従って生命活動を営んでおります。
私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることはできないのです。
私たちもその一部を構成しているからです。
どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれていることを忘れぬようにしましょう。