Winning Ticket for All Vol.2

レース展望と回顧、馬券術について

12/30(土) 「日本で成功する血統」

2023-12-30 | 競馬文化

 今年のJRAを振り返ると、馬券的な妙味ではなく「強い馬が勝つ」という意味での The Race of the year は、天皇賞・秋か、あるいはジャパンカップだったかなと思います。いずれも勝ったのは、承知のとおりイクイノックスで、今年はドバイも勝ちましたし、世界ランキングでも1位になりましたので、「最強」にふさわしい一年でした。陣営にその気があったかどうかわかりませんが、残る高みは、日本競馬の悲願である凱旋門賞制覇でしたが、残念ながら引退となりました。もし、イクイノックスが凱旋門賞に挑んだらどんな結果になるかは、想像するしかありません。

 日本のスピード競馬に強い上に、欧州のパワー競馬でもトップに立つ――そういう日本馬は現状ではなかなか出て来ないですね。私はそんなに血統に通じているわけではありませんが、イクイノックスの血統表を見ると、母方にトニービン(欧州血脈)がいるものの、全体としてはリファールやヘイローのクロスが効いて、あの超絶のスピードが出ているのでしょう。とすれば、本質的には日本の競馬に合う「マイラー系」の馬なのかな、という感じがしていて、世界ランク1位でも、欧州競馬の最高峰・凱旋門賞で頂点に立てるかどうかは、疑問なしとしません。このあたり、日本・欧州(・米国)の競馬で活躍する血統について、「専門家」の見解はだいたい以下のとおりだと思います。話の内容が「20世紀」なのでいかんせん古いですが、今でも通用する面はあると思いますので、少々引用してみます。

……「ヨーロッパで成功する血統」

   「日本で成功する血統」

 このふたつが結びつかなくなって久しい。そのむかし日本の競馬がスタミナ優先だった時代は、ヨーロッパで実績ある血統がそのまま日本でも反映し、これとは逆にアメリカの流行がそのまま反映するというわけでもなかった。

 ところが(日本が)スピード優先の競馬に移行し、サラブレッドの質が向するにつれ、逆転現象がうまれ、いまは「アメリカで成功する血統」や「アメリカで成功する配合」が日本にストレートに結びついている。

 このヨーロッパと日本の矛盾を、ノーザンダンサーの血が解消してくれたこともあったが、時代が移るにつれてヨーロッパに根づいた一流血統がふたたび日本に反映しなくなった。なぜ、こうした矛盾が生じるのか。

 その大きな理由は、ヨーロッパの競馬と日本の競馬の形態のちがいにあるだろう。日本の形態は、アメリカとヨーロッパの中間にあるといわれるが、どちらに似ているかといえば、やはりアメリカである。中間とされるのはアメリカ競馬がダート主体のためで、それをのぞけば日本はアメリカにきわめてよく似ている。

 イギリスは自然の丘陵を利用してコースを設けているため、アップダウンが多くコースも不定形で、いってみればクロスカントリーのようなコースで競馬がおこなわれる。一方、日本もアメリカも、オリンピックの陸上競技場のトラックのようなコース、つまり楕円形コースで競馬がおこなわれる。

 その多くが小回りの、コーナーのきつい楕円形で、したがってコーナーリングの器用さが要求され、また発走地点からすぐ第一コーナーを迎えるため、スタートセンスも重要な要素となってくる。

 これにくらべてイギリスの競馬コースは広びろとしており、また発走地点からすぐにコーナーが待っているわけではなく、コーナーリング器用さやスタートセンスといったものはそれほど勝敗を大きく左右しない。

 ヨーロッパでもとくにイギリスのコースは、スタミナや力強さや持久力を必要とする重たいハードな馬場である。ゲートから出るとほとんどが前半はスローペースで進んで、最後の直線で勝負を決する競馬だが、ハードな馬場を走るため、途中でスタミナの消耗度が激しく、日本のようにスタートから飛ばしてそのまま逃げきってしまうような馬はほとんどいない。

 これにたいして日本はスピードが出やすい軽い馬場で、コースに坂があるといってもイギリスの坂にくらべれば平坦同様である。このためスタートからガンガン飛ばしても最後までなかなかバテない。アメリカのダートコースもスピードの出やすい構造になっており、力強さや持久力やスタミナではなく、日本の芝コースと同じくスピードや瞬発力、スタートセンスやコーナーリングの器用さが要求され、先に行った方が有利であるという点で共通している。

 したがってスタートのダッシュ力のにぶい馬、すなわちスタートでいつも出遅れてしまう馬は展開に左右され、競走能力が高くても取りこぼしが多くなる。……

 スタートで出遅れてむりに先に行こうとすれば、そこで余計な体力を使ってしまう。そのぶんゴール前の攻防で詰めが甘くなってしまうのである。下級レースでは能力で勝ってしまうこともあるが、レベルの高いメンバー相手ではそうもいかず、スタートの出遅れは致命的となってくる。

 すなわち日本とイギリスでは、名馬や名種牡馬に育っていくうえで重要視される資質に異なりがあるのだ。日本はどちらかといえばマイラーとして優れた資質をもった馬のほうが有利で、それがヨーロッパで成功した血統が日本に来て生きなかったり、逆にヨーロッパで埋もれていた血統が日本で開花したりする秘密だろう。

 ……古くはパーソロンとテスコボーイの二大種牡馬がそうだった。

 いずれも日本にスピード革命をもたらした種牡馬だが、本質的にマイラーであったため、ヨーロッパでは一流半か二流のあつかいを受けていた競走馬であり、血統であった。ところが日本ではそのマイラーとしての資質が抜群の威力を発揮し、それどころか適性距離までも大幅に伸ばし、2400メートル級はもちろんのこと、3000メートル級の大レースの優勝馬まで次つぎと出していった。

 これは軽い馬場と小回りの楕円形コースによるところが大きい。コーナーを回るごとにペースダウンするため、そこで息をぬくことになってスタミナの消耗度が軽減され、イギリスのハードなコースで苦戦していたマイラー血統でも、日本なら距離をこなしていくのである。(以下略)

                    (吉沢譲治『競馬の血統学』、NHK出版、2001年、156-160頁)

 さすがにパーソロン(シンボリルドルフの父)とテスコボーイ(トウショウボーイやサクラユタカオーの父)は、サンデーサイレンスが日本の競馬を席捲する前、1980年代の話なので、いくらなんでも古すぎます。馬の1年が人間の4年に相等するとすれば、人で言えば100年、すでに3・4世代が経過し、サンデー系でさえすでに孫の代に入っているのですから。

 サンデーの孫と言えば、牝馬のスルーセブンシーズが今年凱旋門賞に挑戦して惜しくも4着でした(有馬は残念ながら12着と大敗でしたが)。日本のスピード競馬に適合的なサンデー系でも、スルーセブンシーズの父ドリームジャーニーはやや異質かもしれません。同じステイゴールドの産駒では、凱旋門賞2着だった“あの”オルフェーヴルがいます(ドリームジャーニーの全弟)。ステイゴールドがジリ脚で結局日本のGⅠを獲れずに終わったものの、海外のドバイと香港では見事GⅠ勝ちしているのは何とも示唆的です。日本の馬たちの血統が「スピード競馬寄り」の配合だとしても、中には、ステイゴールドのように海外でこそ、の馬が含まれているかもしれません。そういう馬を見出すのも来年の競馬の楽しみです。もちろん凱旋門賞を勝つ、これは「宿願」です。

 ということで、今日はレースの回顧や予想から離れた内容になってしまいましたが、こんなところで止めておきます。今年は1月5日でなく、6日がJRAの初日なので、開幕までにはまだ余裕があります。明日の大晦日はブログはお休みにして、レース展望は年が明けてから再開することにします。本日もお読みいただきありがとうございました。どうかよい年をお迎えください。

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イギリス競馬とブックメーカーの出現

2023-03-29 | 競馬文化

 昨日昔引っ越ししたときの荷物を整理していたら、20数年前のモノがいろいろと出てきて懐かしい想いがしました。葉書や写真を見ていると、これはいかんなと思いつつ、ついつい時間が過ぎてしまいます。昔読んで、内容はほとんど忘れていた本まで出てきて、改めてペラペラとめくってみると、(イギリス近代)競馬の始まり(ブックメーカーの出現)について書いてある箇所がおもしろかったので、今日はいつもと趣向を変えて、この部分を引用して、ブログに残しておきたいと思います。以下、引用です。

 ……自分の持ち馬を他馬と競わせる。そして、それに何がしかの財貨を賭ける。これは、おそらく人類が馬を家畜として飼い馴らし、かつそれに騎乗することを知って以来、営々として続けてきたことであろう。見えない結果に対する投企の意志、いわゆる射幸心は、人間のかなり本源に近い欲望のひとつと考えられる。それは肉眼では太陽を直視できないように、素手では空を飛べないように、人間が未来を知り得ないという時間の絶対的な拘束を受けているからである。

 それはともかく、射幸心とは「偶然の利益を狙う心情」なのだから、賭けの対象も、常に偶然の結果が出るように仕組まれていなければならないことになる。皆だれしも必然の結果を期待して投企するのだが、必然の結果など予め知り得はしないのだから、当然のことながら射幸心も絶えることがない、というわけだ。

 ……18世紀後半以降に起こった近代競馬成立の転換点のひとつは、少頭数によって複数回のレースで勝者を決めるヒート競争から多頭数による一回勝負へとレースの形態が大きく変化したことであった。この一事だけでも、偶然性の度合いが格段に増したことが判るだろう。ヒート競争は、おなじ出走馬によって競争を繰り返すわけで、何よりも耐久力が基本となり、ヒートを重ねるうちに偶然性の確率が低くなっていくからだ。それに対して、出走頭数の多さはもとより、一回の競走だけで決着する方式がいかに偶然性に満ちているか、容易に想像できよう。

 ヒート競走が盛んに行われている頃、賭けは一対一で交わされるのがふつうであった。素朴な形態のレースでは、馬主自身騎乗するのが一般であったから、賭けも騎手同士、つまり賭けと賞金の区別はなかったわけだ。見物衆もこれに賭けるのはもちろんだが、それでも基本は一対一であった。グランド・スタンドがまだ整備されていない時代のこと、多くの見物は各自の馬に乗って訪れ、レースが始まると、それと一緒に、しかも掛け声(賭け声)を怒鳴り合いながら走ったという。レースの当事者からすれば、さぞ喧(やかま)しかったに違いない。

 しかるうちに、棒、杭などを打ち立ててコースが確定するようになると、出走馬と併走するなどという賑やかなこともできなくなった。ちなみに、後年、一般的になる「ステークス競走」のstakeは、元はこうした杭の謂い(いい)で、この杭の上に賭け金(賞金)を置いたところから来ているという。……

 見物衆の賭けの場はどこになったかというと、「蛇の道は蛇」の諺どおり、自ずと集まる処はできるもので、その目印として杭が立てられるようになる。これがBetting Postと呼ばれる杭棒である。賭けをしようとする人々は、この杭の周りに集まってきて、自分の賭け率(オッズ)を大声で呼び掛け、それに応じる相手を探すのである。……

 こうした「ベッティング・ポスト」に集まって賭けが交わされる場合、参加者の数が増えてくれば、そのオッズによっていくつかのグループが分かれることが出来する。オッズによって纏まりができることを「マーケットが成立する」というが、それをはっきりさせるために柵で囲いを作るようになっていく。そうしてできた囲いをringといい、これが今日、各競馬場で設定されている観覧席の区画「リング」の始まりになった(それぞれのコースで趣向を凝らした名称をつけているが、いずれもリングを付している)。どこでも一般席はSilver Ringと呼んでいるが、これも銀貨で賭けを楽しむ中低所得者層の入る区画という意味から来ている。……

 18世紀も後半になり、競馬場の整備が進むにしたがい確固としたグランド・スタンドが建設されるようになると、……競馬の賭けは出走馬のオーナー、関係者、コースのメンバーといった範囲をはるかに越え、不特定多数の人々のあいだで行われるようになってくる。……いまでは電子取引に仕事場を追われてしまったが、東京の兜町や大阪の北浜にある証券取引所には「場立ち」と称する人びとがかつていた。株の売り買いや銘柄、数量などを腕や手・指の独特な動きで遠方の相手に伝えるのが彼らの仕事だった。それとまったく同じ役割を受け持っていたのがテイクタク・マン tic-tac manである。出走馬の情報は、その馬主や調教師が握っていることはいうまでもないわけで、この人々のあいだで交わされる賭け、とりわけそのオッズはもっとも信頼性の高いものだ。これをいち早く摑んで、外にいる仲間に伝えるのが男たちの役目であった。その奇妙な仕草は、長いあいだイギリスの競馬場の風物詩ともなっていたが、ここ数年で、携帯電話などの通信機器の急速な普及で、すっかり見られなくなった。

 はなしをもういちど18世紀に戻そう。レース形態の転換期まで盛んだったヒート競走は、二頭による一騎討ちという印象があるが、これは誤りで、勝者を決めるまで何回かヒートを繰り返すというのがその真意である(一騎討ちの競走はマッチ・レースである)。ということは、三頭以上の出走馬によるヒート競走もあったわけだが、そういう場合でも、賭けは一頭について、一対一の相対で行うのが通例であった。つまり、ある一頭かその他大勢かというわけだ。当時はこれをone and the field といっていた。頭数が増えても、マッチ・レース時代の感覚で賭けをしていたということだろう。だが、考えてみれば、これは今日の「単勝」と同じ謂で、ある一頭の勝者に賭けるという意味では、これこそが競馬の賭けの真実なのかもしれない。

 ところが、18世紀後半になり、……出走頭数の増加が不可避になってくると、賭け金の点で折り合いのつく相手を見つけるのが難しくなってきた。出走馬の実力が伯仲する、つまり偶然性の度合いが高くなれば、尚更であった。……不特定多数の観衆が挙(こぞ)って賭けに興ずるようになったこと(もあって)、……比較的小さな集団なら、そのなかで相対の賭け相手に金額を提示したり、あるいは引き受けたりすることも可能だろうが、集団が大きくなれば、大勢のなかから相手を得るのは簡単ではない。

 されど、どんな時代でも知恵者というものがいるもので、こうした時代の趨勢を機敏に察知し、才覚を発揮する人びとが現れる。Bookmekerの登場である。

 ブックメーカーの創意は、考えてみればコロンブスの卵のようなことだが、当時は大胆な発想だったに違いない。つまり、出走するすべての馬に、それぞれ別のオッズをつけたのである。それまで、これだと思う馬一頭に賭け額を提示し、これを引き受ける人間と個人的に賭けを行っていたのが、すべての馬それぞれに払い戻しの倍率をつけて、それに賭けようとする人間に示したのである。

 こうしてみると、ブックメーカーに「賭け屋」という日本語を当てているが、じつはこれも正確ではなく、厳密には「賭け屋の引受屋」が正しいのである(その証拠といえる話がある。街のベッティング・ショップへ行って、「今度のクリスマスに雨が降るという予想に五倍のオッズをつけ、10ポンド賭けたいが」と窓口で申し込むと、認められれば、これを引き受けてくれるのである)。

 ブックメーカーは賭けを大衆のものにしたともいえよう。(以下略)

                      (山本雅男『競馬の文化誌』、松柏社、2005年、163-169頁)

 明日は、3/26(日)高松宮記念の日の中京のレースを馬券戦術から振り返ってみます。今日もお読みいただきありがとうございました。今日も一日がんばりましょう。

 

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