徒然草170段 さしたることなくて
原文
さしたる事なくて人のがり行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば、疾く帰るべし。久しく居たる、いとむつかし。
人と向ひたれば、詞多く、身もくたびれ、心も閑(しづ)かならず、万の事障りて時を移す、互ひのため益なし。厭はしげに言はんもわろし。心づきなき事あらん折は、なかなか、その由をも言ひてん。同じ心に向はまほしく思はん人の、つれづれにて、「今暫し。今日は心閑かに」など言はんは、この限りにはあらざるべし。阮籍が青き眼、誰にもあるべきことなり。
そのこととなきに、人の来りて、のどかに物語して帰りぬる、いとよし。また、文も、「久しく聞えさせねば」などばかり言ひおこせたる、いとうれし。
現代語訳
これといった用事がないにもかかわらず人が仕事を逃れ行くことは悪いことだ。用があって行ったとしても、用事が済んだのなら早く帰るべきだ。長々と居るのは骨の折れることだ。
人と向かい合っていると話が長くなり、体も草臥れ、心も忙しく、いろいろなことが障害となり、時が過ぎていき、お互いのために良いことは何もない。つまらなそうに話すのも悪いことだ。客に気乗りしない時には折を見てそのわけを話した方がいい。同じ気持ちに合わせてほしい人がつまらなそうに「今しばらく、今日は心やすらかに」などいう場合はこの限りではない。阮籍は歓迎の気持ちを込めて客を迎えたと言うが、誰にでもあることであろう。
そのようなことのないよう客が来て、和やかに話して帰られることほど良いことは。また、手紙も「しばらくご無沙汰してしまい」などと書きだされているのはとても嬉しいことだ。
我が闘病記1 白井一道
私は74歳になろうとしていた。床屋から出て自転車に乗り、家に向かって走り出そうとしていた時だ。突然、私は自分が誰であるのかが分からなくなった。家への道順が分からなくなった。恐ろしなった私は自転車から降り、歩き始めた。どこを歩いているのかが分からなくなった。なんとなくこの辻を曲がろうと思い、歩き始めた。大きな道路に出た。この道路は左に行かなければだめだ。なんとなくそう思った。角を左に曲がると元の道路に出た。この道路は左に曲がらなければならない。ただそう思った。するとまた同じ道に出た。そうだ。さっきの辻を左に曲がったのは間違いだった。真っすぐ進もう。勇気をもって真っすぐ進んだ。すると突然見慣れた景色が出現した。あの建物は昔、ラオックス、電気店だったはずだ。この道路は右に曲がらなければならない。なんとなくそう思った。右に曲がり、直進したが見慣れない景色が続く。突然、私に話しかけてくる人がいた。「この道を行くとAスーパーに行きますか」。私は何が何だか全然わからなかった。ただうなづいていた。自転車を引き、歩いていると徐々に記憶が蘇ってきた。幾分勾配のある道路を登り切るとなだらかな坂になる。そうだこの道を下っていくと自宅への道になる。私は携帯電話を取り出し、家内に電話した。「今、自分がどこにいるのかが、分からなくなった」と話した。国道を横切り、横断歩道を自転車を引き、渡り切り少し歩くと和菓子屋がある。ここを右に行くと自宅への道だ。嬉しさが湧きあがって来た。見慣れたコンビニを左に見て、県道を渡り、細い路地に入ると自宅だ。良かった、帰り付くことができた。自宅に着くと家内が家から出て、私を迎えに行こうとしている所だった。
頭が突然痛くなることもなかった。何の自覚症状もなく、ある日、突然、自分がどこにいるのかが分からなくなった。その恐怖だけが残っている。正常な意識を回復した私は、医者に行かねばならないと思ったが、その前にしなければらないことがあった。翌日、罹り付けの医者に行くと医者は私に紹介状を渡し、すぐに市立病院に行くよう指示した。タクシーを呼び、家内と一緒に市立病院に行った。市立病院の受付で一時間近く待たされ、診察されるとすぐ、点滴が始まった。寝台に載せられ、私は病室に運ばれた。私はどのような病気になったのか、一切分からなかった。寝たまま点滴を受けていた。
入院して二、三日後、看護師さんが点滴を変えに来た。「白井さんは右の方が見えないのよね」と言って私の右側に寄り、「私が見えるかしら」。左に動き「私が見えたでしょ」と言った。私には両方が良く見えたが頷いた。私は「脳梗塞、視野欠損」を患った事を知った。