醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1530号   白井一道

2020-09-25 12:59:17 | 随筆・小説



 森崎東映画監督を追悼する



 今年7月に亡くなった森崎東監督は、特に感銘を受けて夢中になって鑑賞した作り手だ。近年も、名画座の特集上映の際には中年はもちろん、若い男女の客からも容赦なく涙を搾り取っていた。わたしのようにすれてきて、古いコメディでこれみよがしに笑う客がキライだったり、古臭い人情噺には警戒心を怠らなかったりする人間ですら、森崎作品となると映画館の中で嗚咽が止められない。「泣かせる映画が良い」という話ではなく、森崎監督の作り出す映画は、どれもなにか尋常ならざる力で観客の心に波風を立てて、怒涛の如く平常心をなぎ倒していくのだ。抵抗したくてもアヴァンタイトルの映像がもはや魅力的で、アッと思った時には心を持っていかれている。とにかくその作品はエモーショナルで、下層社会への共鳴が深く、社会問題へ内側から鋭く切り込むような視点は他の追随を許さない。
これを読んでいる方々がこういった前口上に興味を持って、いざ配信で観ようとすると、そのタイトルで手が引っ込んでしまうかもしれない。「喜劇 女は度胸」「生まれかわった為五郎」「女咲かせます」……こんなすさまじくダサいのばかり。しかし映画本編は内容から細部の設定まで、現在に至っても最先端の問題提起が輝いている。たとえば森崎東の映画には、必ずセットや実際の建物に至るまで、廃品回収業者の人々が多く住んだ集落が映り込む。本数の多さからしてもたまたま見つけた気まぐれなロケなどではなく、撮影を行う地域の貧困集落をリサーチしているとしか思えない現場の見つけ方だ。かなり早い時期からダークツーリズムに取り組んだ映画監督として、「ハイパーハードボイルドグルメリポート」のような危険な場所への潜入撮影の先駆者といえる。
登場人物たちもストリッパー、ヒモ、ヤクザ、日雇い、斡旋師、原発作業員、実在した集落全体で泥棒をやっていた集団など、ちょっと(あるいは大きく)主流から外れてしまった者たちが主人公として描かれる。 松竹時代のストリッパーものでは森繁久彌とその妻役の中村メイコといった女優陣が、「新宿芸能社」という御座敷ストリッパーの斡旋業を営むシリーズが代表作だ。「喜劇 女は男のふるさとヨ」では、ストリッパーを志し、お金がないから片目ずつ整形をしていく緑魔子が不思議で可憐だった。緑魔子は薄幸さが似合う女優で、本作での彼女は街で出会った落ち込んだ青年を励ますために、なけなしの施せるものとして自分の体を与えようとしたところ、売春容疑で捕まってしまう。
一方、生まれ育ちはそういった界隈ではないのに、ある日社会の歯車から外れてしまって迷い込んでくる青年たちもいる。森崎作品でそんなドロップアウト組を演じる財津一郎がまた絶品だ。洗練された知的な青年なのに、ある日なぜか不思議の国のアリスのように、今まで見えていなかった下層社会に足を取られたようになる。そもそも森崎東は脚本も書く監督で、渥美清の「男はつらいよ」シリーズのキャラ作りに携わっていた。寅さんも下町の不良少年がテキヤの商いをするという、みずから流れ者になっている男だ。
今は時勢が荒んではいるけれど、多くの人が会社員となったり家業を継いだりして、死ぬまでが想像できてしまう生活に入るものだ。その日常は冒険がない代わり、安定した人生設計ができる。それはかけがえのないもので、多くの人がそうやって暮らしていっているのに、みすみす安定から脱落していく者たちはついていない、危うい星の下に生まれているのかもしれない。そんな上手く立ち回れない人間たちに対し、森崎映画は優しい。
森崎東の作品がフィーチャーするのは、一般的には非日常な仕事や暮らしを営む人々で、それは昔から周縁に広がっていた最後の手段的な社会といえる。ドロップアウトしても、気力さえあるうちはなんとか生きることの出来る場所。それは表の世界からは封をするように隠され、福祉の手が十分に行き届かなかったりする。福祉というのも表社会のルールに則って得られるものだから、周縁の社会に寝起きする暮らしの中では、不器用で保護を受けることすら難しい断絶もあるのだ。我々の生活と重なりながら別の層を作る、そんなマージナルな土地で猥雑に生きる人々を捉えたのが、森崎東の映画だった。

 映画評論家 真魚八重子