333ノテッペンカラトビウツレ

 奇跡は 誰にでも 一度おきる だが おきたことには 誰も気がつかない

“ネタにする”という愛

2008-08-24 01:27:51 | SP(Standard Program)
●働いたり、途中で遊んでみたり、また働いたりと落ち着きのない土曜日。もう数百万人が言っていることでしょうけど、この国の気候はおかしくなってますよ。何なんですか、この寒さは。数週前の灼熱地獄がウソのようです。

●若杉公徳の『デトロイト・メタル・シティ』は、おしゃれ系ミュージシャンになりたい青年が、デス・メタルのカリスマとして活躍するギャグ漫画ですが、ポイントは“おしゃれ音楽”も“デス・メタル”もどっちもネタにされていながら、そのネタのされ方に差があるところです。若杉氏は“おしゃれ音楽”を悪意からネタにし、“デス・メタル”を愛とは言わないまでも「お前らのマヌケさにはシンパシーを感じる」という気分でネタにします。だから、読者は常にゲラゲラ笑いながらも、おしゃれ音楽好きな根岸ではなく、デス・メタルのカリスマであるクラウザーさんを支持します。それは決して崇拝ではなく「“ネタにする”という愛し方」による支持です。よって、クラウザーはもちろんのこと、根岸も無条件に肯定されてはいけません。ネタにするという屈折した愛情、ネタにされることによって愛を得る痛みこそが本作の魅力だからです。

●というわけで、筆者は原作と映画は全くの別物であると大きな声で訴えてもなお、映画『デトロイト・メタル・シティ』は駄作だと思います。映画製作者が原作を自分たちの解釈で映画化するのは結構なことだと思います。映画は原作との間違い探しではないですから。しかし、その解釈が…あまりにも凡庸なのはどういうことなんでしょうか。そんなあっさりとクラウザーの存在が全肯定されるなら、わざわざこんな話にする必要ないじゃん!キャストは全員、相当イイ線いっていると思うのですが、肝心の脚本がこれじゃあねぇ。ザックリ言うと、この映画には悪意がない!悪意が存在しない以上、「悪意に対する嫌悪」も「悪意という形をもった優しさ」もまた存在しないわけですから。

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