先日、日本集中治療医学会の専門医制度改革に関するパブリックコメントを書いた際に少し考えた。
教育とは何か。
私達はみな、親になると子供を教育する義務をもつが、親になるためのトレーニングを受けるわけではなく、資格試験もない、何となく親になり、その大多数は曲がりなりにも自分の子供の教育に成功し(良い学校や会社に入れるとか、オリンピック選手にする、とかそんな意味ではありません。真っ当な社会生活が営めるオトナとして世に送り出す、という意味です)、「自分の親にこうせいと言われたから自分の子供にもこう教え」ながら、困りながらも何となく愚痴も言わずに(言うか愚痴ぐらい)、育てる。
また、「ウチはこうだけどオタクはどう?」なんて比較はするものの、何か統一された教育要項なるものが存在するわけでもない。「今日から◯◯町三丁目の子供教育要項はXX家のものに決まりましたので、以後遵守するように」なんて話もあるわけがない。「子供を有名私立中学に入学させるための親子二人三脚」のような自慢本を読んでもちっともシンパシーを感じない。この「細かいところは各自判断して勝手にやって下さい」というあいまいさ、「よそはよそ、うちはうち的な」見えない不可侵条約があるのに、なんとなく日本という社会の中でうまく適応できる成人が育てられる。もちろん学校や社会による教育が果たす役割は大きいだろうが、考えてみれば不思議なことである。
子育ては、ただ単純に自分が親からこうしてもらったという古い記憶を、自分のアタマ、ココロ、カラダが勝手に呼び醒まして、半ば無意識的に子供という一番近い次の世代の代表に分け与えているに過ぎないのではないか、と思う。ほとんど本能的に、感覚的に何かを伝えているだけ(注1)。もっと奥底を覗いてみると、同じ言語、社会生活を共有している者たちの共通感覚のようなものがあって、それを伝えている部分も大きそうである。
もちろん、親から子への伝達行為の模倣は、肯定ばかりでなく、自分がこうされて嫌だったから自分の子供には行わない類いの否定的なことも含まる。どっちに転ぶにしても「たたき台」が必要と言うわけだ。しかし、肯定から否定への振れによって95%信頼区間を飛び越えることは稀で、奇人変人が奇人変人のまま存在感を放って暮らせる社会がつづく。
学校や職場での教育も似通った部分があるだろう。つまり、これらのコミュニティーにおける教育において、“判断は現場に任せ”られても、“教師から生徒への共通感覚の伝達”は確実に行われる。したがって管理者は、非常におおざっぱな、たとえば「◯◯精神の育成」などのカッコはよいが実体はなんだかよくわからない目標とカリキュラムと時間割さえ決めておけばよかった。
本題の医師卒後教育も、このような人間関係に対する信頼に依存し現場放任主義的に運営されてきたし、今後も大筋は変わりあるまい。
このような放任主義は欧米でも同様である。しばしば米国式の重層的現場医師教育を屋根瓦式と呼ぶが(注2)、医療文化がこのような形式で年寄りから若い人に伝達されていく形は、規則として明文化されているわけではない。ただただ現場に任されている。そこに家庭や学校で受け継がれる彼らの共通感覚が無意識的に共有されているのはもちろんだ。そんな放任主義でうまくやってきたのは、日本と同様、教育が根源的にそういう性格のものだからであろう。そして、とうとう医療ばかりでなく医療教育まで輸出しようとしているほどに成功したと言ってもよい(注3)。
近年、EBM、根拠にもとづいた医療、医療の標準化、グローバル化の要求はますます強まるばかりである(注4)。欧米型の医療、 EBM、根拠にもとづいた医療は、口頭で説明し議論する能力を要求する。「できるだけ正確に理解してもらい、納得してもらい、行う」ことを願う医療なので、理論的であること、説明に説得力があることが要求される。「推して知ってもらう」発想はそこに存在しない。
一方、日本の伝統的教育法、すなわち「教わるものでなく見て盗む」「口伝えで学ぶものではなく読んで学ぶ」「推して知るべし」「和を貴ぶ」「授業を黙って聴く」「疑問をもっても先生、先輩の話に口を挟まず拝聴する」「議論できず我慢の結果が口喧嘩になる」などの手法は、国内だけですべてを完結できる時代であればうまく機能していた。しかし、いまや外圧を押しのけられるほどの強固さを我が国の医療も教育も経済も政治も備えていない。薬や医療技術がグローバルマーケットを相手にしないと成立しなくなって少なくとも10年は経過した。では前向きに考えて「どれどれ、そのグローバルとやらの良い点を吟味してみようかな」と欧米型の合理的な医療をよく理解しようとし、結果的に感化され、その良い点を導入し、実践しようとすればするほど、日本伝統的教育のアラが見えてしまう。
仮にグローバルマインドを持った医療者を真剣に育てようと決意しても、目標とカリキュラムと時間割を改革しただけでは、その遂行は教育者の資質に依存し、効率的な再生産は期待できない。もし教え方やその具体的内容が現場任せで、もし現場が日本の伝統的教育手法を無意識的に続ける限り、欧米型の医療の真髄に触れて、その良い点をどのように生かすか腐心する、という境地には到達しない。臨床研修医制度のように、制度は変わったものの、ただ若い人が行きたいところに行けるという利点以外に代わり映えのないアラの目立つ変革になる。本来取り入れるべきその教育精神、風土をうまく日本に適応させようという動機をもち、まずそれを担う指導医を作るという発想が必要である。
グローバルへと同調しなくったってよいではないか。日本的なものは日本的なままでよいではないか。こういう意見ももっともである。確かにうまく行っているうちは確かにそれでよかった。しかし、今後この方針を取り続けることへのダウンサイドを以下に2つばかり示して終わりたい。
グローバルな見地から見たときの説得力のある話し方ができる医師は増えない(英語の問題はおいておいても)。上述のように教育は現場における伝達の連鎖で成立するので、そもそもそういう話し方のできる指導医が増えない限り増えない。ロールモデルとなるべき指導医をまず作成しようという戦略がない限り、大きな変更はないだろう。ただし、国として、世界の中でそういう独自のポジションを選択するつもりであればそれでよいが(注5)。
もう一つは、グローバルに見れば叩かれて消えて然るべき日本のみの土着医療がいつまで経っても浮いた状態で脈々と指導医からレジデントへと受け継がれ、医療費を消費して行くことであろうか(注6)。
以上が、専門医制度改革のパブコメを書こうとして関して感じたことである(これを提出したわけではありませんのでご安心下さい)。
以下、注です。
(注1)そして失敗し親として学び、子供とともに成長する、ということはしばしば言及されますよね。この件は本題でないので割愛。
(注2)実体験からすると、屋根瓦式というより、師匠、兄弟子、弟弟子に連なる徒弟制度という感覚に近い
(注3)米国レジデント教育の大元締め機関(ACGME: Accreditation Council for Graduate Medical Education)には、どうやら世界戦略があるようです。ACGMEのaccreditがない日本の医学部を卒業しても将来米国で研修できなくなるとか、すでにシンガポールは英国スタイルから米国スタイルに移行しつつあるとか。医学、医療のグローバル化は良いとしても、教育にまで口を出してほしくない、と理由なく感じてしまいます。教育は無意識的な文化の連鎖だから、これに口出しされるのは思い切り自己否定につながるわけで、アレルギーが起るのでしょう。医学教育のグローバル化、標準化と言えば聞こえは良いですが。
(注4)看護雑誌でも「エビデンスにもとづく◯◯看護」という表題をつければ売れる時代である。本当にもとづいているかどうか相当怪しいのは言うまでもないのでしょうが(でも、つい言ってしまうのがひとから嫌われるもと)
(注5)正直49%ぐらいそれでよいと思いますね。ただ“夢を見ろ”と言われ無邪気に育った世代である自分たちが、“夢を見ないほうがいいんだよ”と若者に囁くときのやるせなさ、後ろめたさは居たたまれないものがあるので、極力明るく、二言目には「海外へ行け」とハッパをかけています。
(注6)これについては、また「二項対立その3」として述べる予定。「叩かれて消えて然るべき治療が実際に消える」ダイナミズムがあるところがグローバルの健全さ。本年、ネシリチド(ちなみにカルペリチドと同じ受容体に作用する同族の薬です)や活性化プロテインC(ちなみにリコンビナントトロンボモジュリンと同系統の薬です。これは本年市場から撤退)が全否定されたことは、自身アンビバレントな感情を抱く米国という国が、その失われた10年に自分でケリを付ける自浄能力があるところをガーンと示され、とても自己(自国)嫌悪に苛まれた(NEJM 2011;365.1:32-43、http://www.reuters.com/article/2011/10/25/elililly-idUSN1E79O08320111025 )