【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その16

2020年03月31日 11時30分00秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。

 


【3[遠藤重太郎(=偽名)]陣中日記】

P.87
3[遠藤重太郎]陣中日記

所属:歩兵第65連隊>第一大隊本部・大行李・編成
階級:輜重特務兵(1938年1月一等兵に進級)

10月03日〜10月18日
虬江碼頭に上陸。上海共同租界日本日東紡績官舎三重県人住宅に宿営。
午後8時発。雨天の中工兵隊の敷設道路を夜間行軍。然し膝まで没するような悪路。
明朝4日帰家宅着。

(日時不明)午前5時発。老家宅の前線へ。到着直後敵攻撃を受け1名戦死、1名負傷。
滞在10日。大行李特務兵65名の内1名戦死。現在64名、駄馬19頭が砲弾で戦死。
2km後退。さらに弾丸が着弾の為、蔡寧宅まで後退。後1ヵ月同地に駐屯。
行李長の馬の看護の為第一兵站病馬廠まで後退。
部隊は馬家宅、老陸宅、新木橋などの前線へ行軍する。65連隊の一番の戦績。
羅店鎭、嘉定城、無錫を通過し江陰鎭の本隊と合流。江陰城一番乗りの栄代を第12中隊の兵士が受ける。
江陰から鎭江までの行軍で足痛の為、戦友が背嚢をかついで貰う。自転車に乗って行軍する。
江陰を出発して5日目、鎭江へ到着。鎭江は電気が付いていて上海のようである。
某所へ行軍。
烏龍山砲台に向かった部隊が早々に第1中隊と仙台騎兵隊で占拠。
他部隊で向かった幕府山砲台で捕虜2万を得た。
戦友が12月17日午後10時に戦死。

12月19日 南京城を見学したのは12月17日。明日揚子江渡河。

12月20日 揚子江渡河し、西北方面へ行軍。



【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。

このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
この人物は、まとめ書きのような記述であり、【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】の開始がよく判らないが、当時の第1大隊の行動から、江陰から鎭江まで5日間かかっていることから、鎭江から幕府山まで2〜3日と計算すると江陰城手前ぐらいかであったと考えられる。行李部隊であるので前線へと言うより後続部隊であり、前線よりはゆとりがあったはずにも関わらず、10日滞在以降の記述に混乱が見れる。元々筆まめな方ではなかったのと後で思い出しながら記述した事で曖昧な記述になったと推察する。

この人物の記載の中に【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。

なお、幕府山に関しては、12月17日の殺害当時に【戦死】した戦友が【午後10時】としている事は興味深い点である。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*2)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この遠藤という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない

引用 チャールズ・メイヤー(*3)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この中野の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*3)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 


Twitter探訪で、見つけた【教科書に国民全員が関心を持ち続ける事の重要性】の記事。

2020年03月30日 22時12分51秒 | 日記

EconomicNews 政治・経済・テクノロジーなどの知りたい情報をお届けの

【教科書に国民全員が関心を持ち続ける事の重要性】(編集担当:森高龍二)

烏丸少将文麿さんは殿のTwitterより

 

文科省が来年4月から中学校で使う「教科書」についてエコノミックニュース社の森高龍二という方が書かれた記事で少し反論を。


①社会科の歴史教科書に「南京事件」「従軍慰安婦」といった記述があり、客観性の高い内容になっている。
②大学教授らでつくる文科大臣の諮問機関「教科書検定審議会」が【政治介入】のない環境が一定機能したといえよう。
③特に教科書の歴史記述における客観性は重要だ。
④南京事件などの記述に自虐的とする声もあるが、誤った行為における反省の上に立ってこそ、成長はある。
⑤国家が都合のいいように史実を歪めたり、特定思想の形成に利用したりすることはあってはならない。

⑥南京事件では「首都の南京で占領し、その過程で、女性や子どもなど一般の人々や捕虜をふくむ多数の中国人を殺害しました」(東京書籍)
⑦「占領した首都の南京では捕虜や住民を巻き込んで多数の死傷者を出しました」(教育出版)などのほか、リアルな描写の囲みも認定された。

⑦のリアルとして、
⑧学び舎の【囲み資料】として、当時8歳だった夏淑琴事件を詳述、父、祖父と祖母も射殺、母と乳児の妹殺害。15歳と13歳だった姉は強姦後殺害。夏氏は銃剣で3か所刺されながらも生存。4歳も生存。惨劇の家で、何日間も妹と二人で過ごしたことが記載とある。


株式会社エコノミックニュースの会社概要をみると所在地は、神戸市東灘区深江本町にあり、神戸と言えば貿易都市で日本で3つの中華街の一つ南京町がある。
代表者は、千葉常夫という人物で、事業内容は、ニュース配信サイト【エコノミックニュース】の運営、インターネットに関する企画・開発・コンサルティングサービス、インターネット広告の企画・制作・販売というものらしい。
別に、中華人民共和国からの直接・間接の依頼で、このような【宣伝記事】をお書きになったというような事実関係を掴んでいるわけでもないので、単に、同じ神戸市の【広告・制作・販売】会社というだけのことだが。

それはそれとして、すこし意味が判らない記述がある。

【客観性の高い内容】とは、一体【誰】が【認めているか】が書かれていない事である。本来なら、アカデミックが【客観性】を【体現】する場所になる筈だが、日本の近代史特に戦史にまつわる事は、【加害史観】のみという【異常】な状態が現在も続いていて、【加害史観】からの【歴史考察】しか為されていない。
それも確かに一つの【史観】には変わりにはないが、【客観的】というのならば、野生動物の観察同様に【ライオンが子鹿を餌食にしている様】を【善悪】という【加虐の観点】からレポートはしない。【学術】がその一定の【価値観】からの見方のみを【是】とすること変な話である。

次に、
②大学教授らでつくる文科大臣の諮問機関「教科書検定審議会」が政治介入のない環境が一定機能した
とあるが、政治家は共産党が居れば、社会党もおり、立憲民、れいわ新撰組党などの立派な【共産主義・社会主義】勢力が存在している。政治家というのは、本来民意を体現する者だから、その政治介入が出来ないというのもおかしな話である。①のことを【民意】としてオカシイとして反駁した【民意】が、諮問機関に【無視】されるという状況を作り出している。しかも【教科書検定審議会】のメンバーは、【選挙】で選ばれるわけではない。これは【公正】と呼べるであろうか。

③は、歴史記述における客観性は重要である。それ故に一つの客観性に乏しい【善悪】の価値観が入る【加虐史観】は、【客観性】があるとは言えない

④の【誤った行為における反省の上に立ってこそ】とあるが、その誤った行為を【認定】するのは一体誰なのかを提示していない。それに【成長】とは、全く【客観的】な【事実】への【認識】とは全く異なる。

【国家が都合の良いように史実を歪めたり、特定思想の形成に利用する事はあってはならない】のならば、【国民の付託を受けたわけではない】【何処の誰だか判らない学者風情や専門家でも学者でもない人物】に【国家】の【権威】を利用して【特定】の【加害思想】を【形成】する事に利用してもよいのであろうか。

⑥⑦の記述に関しても、一体何の史料に基づくのか明確ではないし、その史料の内容が事実かどうかの確認もないまま、国際法からの観点もない。例えば女性や子供の兵士は確認されているし、一般人と言っても中国軍兵士が便衣になるという国際法違反の状況を作り出した状況も書かなければ、単に日本軍が軍事的に無意味な非道を行っただけになってしまう。子供の育成の為にも、考える為にも【補足記述】が必要となるのは言うまでもない。

⑦のリアルとして、提示している夏淑琴事件については、これが【共産党系】の出版社から【政治的思想形成】のための【政治介在】で以外の何者でもないので、⑤の国家は駄目で、一政党のイデオロギーの思想形成は許されるのかと言う事になる。これは②の【政治介入】にならないのだろうか。
夏淑琴事件について当方が以前こちらの記事で書いたので参考にしていただけると理解が深まるのではないかと考える。因みに夏淑琴女子は稀にみる正直な方ということはここで敢えて申し上げておく。(笠原十九司先生がアレなだけと言う事ですな。)

今回の検定は、アカデミックが繫がりのある中華人民共和国の御主張に【忖度】した結果かどうかは判らないがね。会長をやって居られる山内 進氏は、一橋大学学長で、中国人民大学客座教授をされておられるようですから。少なくとも中華人民共和国という【共産主義国家】に親和性の高い学者のお一人であろうかと考えますな。

まぁ、当方が書いている事がよくわからな様でしたら、米国のTVドラマの【メンタリスト】でも見れば、少しは言って居る意味が判るかも知れないね。


【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その15

2020年03月30日 13時30分18秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。


【4[伊藤喜八(=偽名)]陣中日記】

P.98
4[伊藤喜八]陣中日記

所属:歩兵第65連隊>第一大隊>第1中隊・編成
階級:上等兵

10月03日 船上で不発弾の暴発の為、12名戦死
10月04日 上海上陸。東洋紡績会社宿営。
10月05日 午後10時発約8里(約32km)の行軍。前線配備に付く。
10月06日 夜間行軍8里(約32km)。古家宅にて大隊露営設置の所、敵襲撃に備える。
       鹵獲された敵兵15名ほど銃殺。惨い事だった。高射砲・海軍間の総動員で敵空軍への迎撃。

10月08日 雨で天幕内の露営が雨漏りで酷い事になる。
10月09日 夜間歩哨。
10月10日 雨。酷い露営となる。帰家宅・楊行鎮から1里半位(約6km)で宿営。
       師団司令部は周家宅の後方約1里半位(約6km)にある。

10月11日 午前5時発。旅団司令部まで行軍の途中には支那兵の遺体の山で実に愉快。
       敵のもの凄い迫撃砲攻撃の為右方面に移動。

10月12日 旅団司令部を警備。友軍の野砲・重砲音と図上を弾丸が行く。
       敵の迫撃砲も度々付近に落下する。第104連隊重軽傷者多数。担架で後方へ運ばれる。
       現在の旅団司令部位置は王家橋である。

10月13日 起床後体操。毎日航空音が凄い。省吾劉家行の荻州部隊第2野戦病院に分隊長以下3名の
       連絡へ行く。途中の敵の塹壕に驚く。

10月14日 午前4時発。大隊本部合流。櫓網湾の大隊本部警備。第1・2小隊前線の後方に付く。
10月15日 塹壕掘り。敵頑強に抵抗で前線は困難が伴う。午後7時迄は第2中隊の前線で敵100前まで、
       攻撃塹壕を第3小隊の第3・4分隊と協同で掘削工作を行うが、敵銃器の速射を受け不首尾。
       午前3時に大隊本部へ後退。酷い寒さ。

10月16日 一軒家(?)に向け、第104連隊攻撃開始。中隊1名戦死。午前10時、総攻撃。第3中隊は全滅。
10月17日 一軒家(?)に向け夜間攻撃。酷い泥まみれ。1名戦死。攻撃夜も継続。
10月18日 中隊からも死傷者多数。午前5時突撃。2名戦死。午後3時突撃塹壕から出た所で肩と足を
       銃撃され負傷。午後8時頃連隊の仮説病院で治療。

10月19日 岩倉部隊野戦第4病院へ入院。
10月20日 入院。砲弾音のする中、入院してくる他の負傷・罹患兵を眺めて寂しさを感じる
12月22日 前日21日変わらず、昨夜も敵迫撃砲着弾音が近くでして寝られず。
10月23日 午前8時、野戦病院から呉淞の串田部隊の病院に護送される。
10月24日 晴。退屈。知人と揚子江沿岸で2時間余り楽しく話す。
10月25日 晴。好天候が続けば戦闘も進み、この入院中に早期の停戦になる事を願っている。
10月26日 晴。入院儘。呉淞の景色は砲弾後で悲惨。
10月27日 午前8時上海の兵站病院に後送。午前11時到着。
10月28日 晴。病室から見た上海市外の支那人家屋も悲惨な状況。
        比べて外国人の家は意気揚々としている。

10月29日 子供の夢を見る。
10月30日 同じくこの度も夢を見る。曇り。早く治癒して部隊に復帰したいと思う。
10月31日 小雨。入院儘。
11月01日 入院。退屈。
11月02日 雨。病院の窓から外を見て郷里の家を思い出す。
11月03日 明治節でご馳走の給養。
11月04日 今日は飯上げ(*2)で愉快。工兵部隊が仮病舎の建築に懸命に働いている。
11月05日 入院儘。毎日部隊復帰を願う。
11月06日 入院儘。台湾産のざぼん(*3)の給養を受ける。美味しく同病室の者で頂く。
11月07日 入院儘。当病室から1名復帰。早期の部隊を願う。
11月27日 7日からは入院中の慰問品、退屈な事のなど。こまごまと。妻よりの手紙が届く。
11月28日 家内へ返事を出す。宮中から伊佐部隊に侍従武官が差し遣わされて御下賜品があった。
11月29日 午後1時から3時頃迄 演芸会を催しました。実に愉快。
11月30日 毎日楽しく過ごしている。慰問品有り。
12月01日 晴。夕方自動車事故があり、看護婦5名と、第9師団の兵士5、6名が無くなった。
        仕方がないが、気の毒と思う。

12月02日 曇。部隊復帰が楽しみである。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 明日隊員。復帰して前線へ出るのが楽しみである。
12月04日 学校(郷里?か不明)からの慰問作品を貰う。西本願寺の大谷伯爵の慰問に感謝する。
12月05日 本日退院。減退吹き。兵站司令部から南翔支部へ自動車で送迎後、本日はここで夜営。
12月06日 午前7時30分発。昨日寒くて眠る事が出来ず。崑山へ向け行軍。
        途中支那人の哀れな姿を見て連◆(文字不明)は出来ないと思う。
       支那人の子供に残飯をやる。可愛らしく、キャラメルを与えると喜んだ。

        安亭鎭の小学校に宿営。

12月07日 午前6時30分発。途中敵兵の遺体。崑山着、宿営。
12月08日 休養。午前中崑山鎭の山に登る。相当な激戦地で支那兵の沢山の遺体がある。
       測候所は破壊されている。

12月09日 午前8時30分発。蘇州方面に向け行軍。蘇州を通過して無錫着。宿営。
12月10日 無錫より1里(約4km)歩行。又自動車にて常州通過し丹陽へ着。露営。寒い。
12月11日 午前9時発。自動車にて行軍。句容の軍司令部着。宿営。
12月12日 句容儘。休養。
12月13日 昨日の夕食の油揚げで下痢を起こす。本日も滞在儘。戦友の顔を見て話がしたい。
12月14日 午前句容発。湯水鎭の軍司令部に午後1時半前に着。
       部隊は鎭江から渡河との事で午後2時丹陽に戻り宿営。

12月15日 午前8時発。鎭江手前の第2野戦病院宿営。戦友に会う。
12月16日 午前10時発。鎭江10時故路着。部隊は南京に向かって進軍との情報で、追求を始める。
       又丹陽、句容、湯水鎭に戻り宿営。

12月17日 午前8時発。湯水鎭から自動車で行軍、軍官学校、総理の墓を見て、戦友の墓に黙祷し、
       南京中山門より城内へ午前10時着。城内の励志社、陸軍軍官学校、警衛司令部などを通過。
       午後1時から南京入城式。夕刻大隊の第4中隊の宿舎に着く。
       夜、捕虜2万余人を揚子江岸で銃殺。

12月18日 大隊本部に行き、午後銃殺場所を見学。酷い惨状。我軍に戦死10名、負傷者を出す
       夕刻中隊の自動車で烏龍山砲台警備の原隊復帰して安心する。

12月19日 第1中隊が占領した烏龍山砲台警備。
12月20日 歩哨。午後2時発。第16師団33連隊と交代。第4中隊が幕府山砲台、
       第1中隊は大隊本部のあった場所に宿営。

12月21日 休養。戦友の遺骨を中隊が預かる。
12月22日 午前6時発。津浦鉄路線の中山碼頭により乗船。対岸の浦口上陸。
       昼食後浦口鎮に行軍着。宿営。


 

【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
この人物は、上海攻略戦での激戦で、受傷してほぼ野戦病院・上海の病院で過ごしている為、その後の行動はほぼ部隊への追求が主で、ゆとりがあったにも関わらず、各街や他の状況は何も書かれていない。
この人物の記載の中に【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
なお、幕府山に関しては、短い記述と、翌日に【遺体処理】でもなく【見学】という【変】な話を記述しており、前日参加したような記述だが、【実に酷い惨状】以外は、違和感のある記述となっている。又戦死者10名とあるが、戦史叢書第086巻 支那事変陸軍作戦<1>(*4)によれば、戦史としては将校1名と兵卒6名が戦史という事になっており、正確な情報が伝わっていない事が判る。

 

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*2)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この伊藤という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない

引用 チャールズ・メイヤー(*3)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。上陸した、10月6日の鹵獲した敵兵への銃殺を【惨い】と感じたり、病室から見た支那人家屋の状況を憐れんでいたり、退院後の部隊追求時に、支那人の哀れな姿に同情を寄せたり、支那人の子供にキャラメルを与えるなど人間らしい感性は忘れては居ない。ハーバード学派などの様な【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

この日記では、棲霞山近辺についての記述は一切無い。軍用車による行軍でほぼ通過点だったようである。BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)炊事場で調理された食缶入りの兵食を運び(「飯上げ」)、部屋で食器に盛り分けて食べること。【Link】
(*3)ざぼん(ぶんたん) 柑橘類の果物 【Link】
(*4)戦史叢書第086巻 支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで P.437 コマ番【229】 【Link】
(*5)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*6)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】


【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その14

2020年03月28日 14時30分57秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。

 


【5[中野政夫(=偽名)]陣中日記】

P.113
5[中野政夫]陣中日記
所属:歩兵第65連隊>第一大隊>第1中隊・第3次補充
階級:上等兵

11月29日 上海上陸。夕方支那人の紡績工場宿営。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月02日 30日、1日と宿営地に滞在。午前6時発。某所より乗船。滸浦鎮に午後4時上陸。午後11時に梅李鎮近辺着。
12月03日 江陰城に向かい行軍。就寝は藁を使う。
12月04日 行軍。午後12時近く宿営。
12月05日 両角部隊に合流。12中隊に同宿する。
12月06日 午前7時整列。軍旗奉拝と部隊長の訓示。第一中隊第3小隊配属。
12月07日 午前6時整列。江陰城発。南京ヘ向け行軍。午後4時無名宿営。行軍と軍隊生活になれない。
12月08日 行軍。分隊員2名落伍。落伍大尉の運搬物資を代わりに運ぶ。徴発に始めていく。
12月09日 午前6時出発。午後4時無名宿営。布団、米、豚、芋など多くを徴発。1分隊と協同で炊事を行う。
        自分以外の兵士の多くが足の痛みに苦労している。

12月10日 午前6時発。鎮江に午後1時着。そのまま行軍。午後8時半山中の無名に宿営。
        日本に長くいたという支那人が居て歓迎して貰う。但し食糧無く。

12月11日 午前6時発。午後5時龍潭鎮宿営。米・豚、支那酒を徴発する。他部隊の郷里の戦友と会う。戦友髭面になって驚く。
12月12日 午前8時、船の徴発の為、分隊某方面へ出発。なかなか発見できずに、桶船で間を移動する。
        付近ではクリークの水を耕作地に非違入れている為に、水面となり間は船による。米を多く徴発。
        午後2時帰営。午後5時約3里(約12km)ほど念のため威嚇射撃しつつ行軍。午後11時に無名地に宿営。

12月13日 晴。午後6時宿営地発。行軍途上数十名の敗残兵を射殺。
        午前10時頃、銃声頻繁になり初めてのことで動悸が高くなる。中隊独立隊となり1小隊は斥候に出る。
        付近の道は地雷が20m位おきにある。山斜面には塹壕、鉄条網が設置され厳重な陣地がある。
        ここが烏龍山砲台と知り占拠。砲台は揚子江に向けられており、陸方面はトーチカ群による陣地構築になっている。

12月14日 晴。警備の任の後、敗残兵掃討は中隊長以下2分隊で砲台攻略へ向かう。何名とも判らないほどの敗残兵を殺害。
12月15日 晴。敗残兵数百名降伏。多数の武器押収。昨日押収した敵軍用車両で武器を中隊陣地へ運ぶ。
12月16日 攻撃に出た部隊は南京ヘ入城。中隊は砲台警備の任。
12月17日 歩哨任務中、小隊員2名が、敗残兵による手榴弾攻撃を受け負傷。ここ毎日何名とも判らないほどの敗残兵の銃殺。
12月18日 晴。大体に於て1万7千の捕虜を処分する。平穏。
12月19日 晴。警備。第4次補充員着。分隊に退院の1名編入。
12月20日 午後2時、砲台警備を交代。宿営地を出発。午後5時、南京附近無名に宿営。
12月21日 晴。滞在儘。小春日和。内地へ手紙を書く。
12月22日 午前6時宿営地発。南京城外碼頭より揚子江を海軍船により渡河。午後4時浦口鎮着。宿営。物資豊富。



【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
この人物は、第3次補充員で、ほぼ戦闘後の部隊追求組である。烏龍山砲台攻略戦で初めて実際の交戦に参加したようで、烏龍山では敗残兵との交戦。数百の投降があったことが記載されているが、その後の捕虜に着いての記載はない。この人物は第1大隊の筈だが、警備に付いていた為か、遺体の処理にも参加していないようである。

ただ、12月16日の警備の任が、烏龍山砲台か幕府山砲台判然としないし、歩哨任務地が不明でありながら、敵軍による手榴弾攻撃があり負傷者が出たと言う事が書かれている。当時の状況は気の抜けない戦闘中であるという事を示すエピソードでもある。

この人物の記載の中に【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*2)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この中野という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない

引用 チャールズ・メイヤー(*3)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この中野の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*3)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 


【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その13

2020年03月27日 15時00分00秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。

 


【6[宮本省吾(=偽名)]陣中日記】

P.125
6[宮本省吾]陣中日記

所属:歩兵第65連隊>第一大隊>第4中隊・第3次補充
階級:少尉

11月27日 呉淞着。乗船儘。船中食糧が無くなり船長が願いを出している。
11月28日 雨。船中儘。
11月29日 上海華順碼頭より下船。恒豊紡会社宿営。上海共同租界は戦闘による惨憺たる有様。支那人一人も見ず。
11月30日 予防接種と休養。軍用車で日本人街へ、支那人外と比べて賑わっている。
12月01日 糧秣補充が少ない。2日分のみ。日本人街へ買い出しに行く。
12月02日 江陰城へ5日迄に到着すべしの命令を受け出発。午後7時乗船出発。滸浦鎭で下船。夜間行軍。
        午後11時半、梅李鎭着。農業倉庫宿営。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 午前10時発。午後5時30分、常熟着。爆撃砲撃の為破壊されてない家屋がない。
        廃墟のようになって痛ましく思う。少尉1名病死。

12月04日 午前6時出発。午後10時無錫着。路面状況は良好、敵兵の遺体が散乱している。
        砲兵隊・輜重隊と同時行軍で大混雑。

12月05日 午前9時発。昨日の疲れが残る中で青陽鎭着。連隊命令で急遽江陰城へ宿営予定から行軍となる。
        夜間行軍で江陰城着。中隊に仮編入され給養を受ける。

12月06日 両角部隊に合流。午前9時吊鐘山麓に集合。午前編成式と隊長の言葉。午後師団長の訓示。
12月07日 前線部隊として追撃戦参加。午前7時常州へ向け出発。荻洲部隊は対岸渡河支援の為鎭江方面に展開する。
        午後5時、常州東方2kmのに露営。徴発。

12月08日 午後6時30分出発。中隊は工兵大隊の支援の為共に先行する。午後5時30分宿営。中隊歩哨を立てる。
12月09日 午前6時出発。天候よく行軍支障なし。兵卒に足を痛めるものが多く支那人及び牛馬を荷役として同行させる為
        支那軍のようである。午後4時鎭江附近に宿営。途上重砲の音、騎兵隊の重機による敗残兵への攻撃音もする。
        友軍機による爆撃と砲声がする。

12月11日 午前7時出発。第1大隊のみ騎兵隊援護の命を受け前進。工兵隊が道路敷設工事を行っている。
        南京は未だ陥落せず。連日の行軍で疲労。午後6時宿営地着。主要道路確保と警備の任に就く。

12月12日 宿営地にて滞在。早朝より徴発。午後大隊長田山少佐より騎兵部隊の報告として午後1時7分南京陥落。
12月13日 前夜午後7時烏龍山砲台攻略の為出発。午前5時に大休止後、午前10時将校による斥候で敵情探索。
        途上敗残兵に遭遇し騎兵隊員と共に殺害。烏龍山砲台に敗残兵少々。外郭陣地には敵影無し。
        本体配置場所に戻るが既に前進し置き去りにされる。烏龍山は既に放棄されているとの報告が出来ず。
        本体は敗残兵を多数鹵獲し、一部は銃殺する。午後10時露営。

12月14日 午後5時発。南京附近の敵敗残兵掃討。敵戦意無く投降。何千に達する。
        武装解除後引率して城外の兵舎に収容すると万以上に達する。中隊にて8箇所に歩哨警備。
        捕虜は空腹で道端の葉を食するものまで居る。喉の渇きを訴えるものも居る。
        全く可哀相だが、戦闘中なのである程度迄断乎たる処置を執る。夜半、衛生隊が200名程の捕虜を引率してくる。
        警官や少佐、参謀とか通訳を通じて主張する者も居る。
        「日本軍は皆に対し危害を与えない、ただ逃げる暴れる様な事が有れば直ちに射殺する」と伝達して、
        その為か一応平穏。飲料水と食糧の不足には非常に困る

12月15日 滞在儘。昨日の捕虜収容と通達で疲れたたので、下士官に歩哨警備を任せ睡眠する。巡察将校を命じられ、
        警戒の為非常に疲労。夕方一部のみに食事を与える。中隊兵へも食糧配給が滞り、捕虜への給養など出来ない。

12月16日 午前10時に第2中隊と歩哨を交代する。しかし昼食時に火災が起こり、収容兵営の3分の1を延焼。
        午後3時に大隊は最後の手段を決定捕虜約3千を揚子江岸へ引率し射殺する。
        戦場ならでは出来ず又見られない光景。

12月17日 中隊一部は南京入城式に参加。大部分は捕虜の処分に任じられる。午後南京入城式に参加。
        夕方近くに帰営し、残りの捕虜処分に加わり出発する。2万以上の事で大失態となり友軍にも多数死傷を出す
        中隊1名戦死、負傷者2名を出す。

12月18日 曇。 昨日の出来事で、帰営し明け方に就寝。起床は昼。午後殺害した遺体の片付けをする。
        暗くなっても終了せず明日も引き続きとなり一旦引き揚げる。風冷たい。

12月19日 早朝より遺体整理。午後4時迄かかる。捕虜の衣類に始末で火災発生、宿舎に延焼しかける。
        明日渡河の準備で遅くまでかかる。

12月20日 中山碼頭より渡河。二里余り(約8km)行軍宿営地に着く。盆と正月が来た様な物資豊富


 

【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
この人物は、第3次補充員で、ほぼ戦闘後の部隊追求組である。その為敗残兵は少数残るが別段前線での交戦には参加していない。【幕府山占拠後】までは、特別なことは書かれていない。12月9日に支那人人夫と牛馬を使った行軍で部隊がふくれあがったことが判るぐらいである。12月13日の烏龍山で鹵獲した敗残兵の銃殺(一部とある)以外のついてのその後は書かれていない。12月14日の捕虜の哀れな状況について記載している。道端の葉は、諸葛菜(=蔓菁)(*2)だったのだろうか。人間にとって最重要な水分がないことが問題であったことが判る。

この人物が書いているが捕虜の身の安全の保障は【ただ逃げる暴れる様な事が有れば直ちに射殺する】は、重要なことである。第1大隊(田山隊長)が捕虜収容と警備をになっており、16日、17日の2日に亘る殺害と、18、19日の遺体の処理を担っていたことが判る。この記事のテーマは、南京城外の【大量】の【一般人】の【存在】と【大量殺害】を調べているので、【幕府山】についてこの程度に留める。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*3)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この宮本という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない

引用 チャールズ・メイヤー(*4)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この宮本の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)DIAMOND online 『諸葛亮孔明が愛した野菜「蕪《かぶ》」』 【Link】
    蕪(カブ) wiki 【Link】
    一年生植物 wiki 【Link】
(*3)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*4)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】