【刑法】でいう【犯罪】とする【法】又は【陸戦法規】には存在しない。その1

2019年12月16日 00時00分00秒 | 1937年 南京攻略...

その2の続き

【結  び】


軍律審判と通常司法は違う。軍律審判は【行政行為】と【軍事行動】であるし、日本軍を裁いた極東国際軍事裁判(通称東京裁判)においても、日本軍の行為に於ける【蛮行】を裁く【法の根拠】などが無く、それを【法】曲げて【無かった罪を作り出し】ことで、国際法として【刑法】の【戦争犯罪】が成り立っていたことが無く、その様な罪科無きもので裁いた【判決】は【無効】であると判断する。
軍事裁判であるのなら、なおさら講和成立後は、アムネスティ条項で日本軍の【戦犯】は無効と成すべきである。それに関係することでもあるが、靖国参拝など政教分離の議論は別として、天皇陛下および日本国民の代表としての内閣総理大臣は、国家として国家のために殉じられた人々に対する敬意を示す行為も再会すべきである。
【法の支配】というのなら、【国際法】の視点からの認識による現代に日本の史観の変更と、この【人権無視】も甚だしい【サンフランシスコ条約】についてのせめて米国・英国・フランスについては、【非人道な条約】に関する改定を求めるべきであると考える。


【参照論文・文献】


(*1)冨士信夫氏著 『「南京大虐殺」はこうして作られた─東京裁判の欺瞞』 展転社 1995年5月
P.22 2行目
〈この作戦は支那の首都南京の掌握とともに終了した。この古代都市の住民が強盗、拷問、強姦、殺戮の目に遭わされたこと、虐行、乱的軍人の盲群の手に持たされた放火物、銃剣および機関銃は、匈奴「アチラ」以来比類なき戦慄すべき物語を綴ったことおよび支那軍人が把に括られ、無差別に乱殺されたことを我々は証示する〉と述べ、その後引き続き中国における日本軍の行動等について述べて冒頭陳述を終わったが、

(*2)笠原十久司著『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』平凡社新書403
一九三七年から開始された日中戦争の初期、当時の中国の首都南京を占領した日本軍が、中国軍の兵士・軍夫ならびに一般市民・難民に対しておこなった戦時国際法や国際人道法に反した不法、残虐行為の総体である。

(*3)ハーグ陸戦条約 wikihttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E9%99%B8%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84
ハーグ陸戦条約(ハーグりくせんじょうやく)は、1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(英: Convention respecting the Laws and Customs of War on Land, 仏: Convention concernant les lois et coutumes de la guerre sur terre)」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。1907年第2回万国平和会議で改定され今日に至る。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規などとも言われる。
交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。
日本においては、1911年(明治44年)11月6日批准、1912年(明治45年)1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された。他の国際条約同様、この条約が直接批准国の軍の行動を規制するのではなく、条約批准国が制定した法律に基づいて規制される。

(*4)ヴェストファーレン条約 Wikiよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E6%9D%A1%E7%B4%84
(ヴェストファーレンじょうやく、羅: Pax Westphalica、独: Westfälischer Friede、英: Peace of Westphalia)は、1648年に締結された三十年戦争の講和条約で、ミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約の総称である。ラテン語読みでウェストファリア条約とも呼ばれる。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である。
この条約によって、ヨーロッパにおいて30年間続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれ、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至った。この秩序を「ヴェストファーレン体制」ともいう。

(*5)①倉山満著『国際法で読み解く世界史の真実』 PHP新書 2016年11月15日
P202 11行目 第四章 国際法を使いこなした明治日本、破壊したウィルソン=>4 人類を劣化させ、国際法を破壊したウッドロー・ウィルソン=>旧外交否定と民族自決が開いた地獄
(*5)②倉山満著 『ウェストファリア体制 天才グロティウスに学ぶ「人殺し」と平和の法』 PHP新書 2019年11月16日
P.229 6行目 第四章「ウェストファリア体制」の現実=>ウッドロー・ウィルソンが人類を不幸にした
第十四条、国際連盟設立。国際連盟は「仮面を着けた大国主義」と言われます。
以上すべて、それまでの国際秩序を全否定し、世界をウィルソンの思うように作りかえようとしたのです。
ウッドロー・ウィルソンの十四ヵ条宣言で、「ウェストファリア体制」は風前の灯火になってしまいました。

(*6)多谷千香子著『戦争犯罪と法』(2006年12月5日)岩波書店
P.2 「第2節 第一次世界大戦後のドイツ戦犯の裁判」
・ヴェルサイユ条約 平和条約予備交渉
1919年1月25日 ドイツ及びその同盟国の戦争犯罪について連合国としての対応を協議する「戦犯の責任及び処罰に関する委員会:通称15人委員会」(Commission on the Responsibility of the Authors of War and on Enforcement of Penalties)で国際法違反の罪を犯したものを次の四つにタイプに想定した。①捕虜を虐待した者、②戦争の指揮官、③戦争の法規及び慣習違反を命令した者又は見逃した者、④その他、国際法廷で裁くことが適当な者であり、戦犯を連合国が裁く為の国際法廷を作る事、文明国に共通する法の一般原則を適用する事、量刑は連合国及びドイツの慣習によって決める事。
刑罰(Penalties) 227条〜230条
227条 ドイツ皇帝を裁く米・英・仏・伊・日の裁判官からなる特別法廷を創設する。オランダに皇帝の引き渡しを要求する。
228条 ドイツは、戦争の法規及び慣習に違反した戦犯を、連合国が軍事法廷で裁く権利を認め、戦犯を引き渡す。
229条 連合国の一国の国民に対して戦争犯罪を犯した戦犯は、当該国の軍事法廷で裁かれる。いずれの場合も、被告人は、弁護人をつける権利を有する。
230条 ドイツは、捜査・裁判に必要なすべての証拠・資料・情報を提供する。

(*7)藤田久一著『戦争犯罪とは何か』 岩波新書 1995年3月20日
P.61 7行目 Ⅱあらたな戦争犯罪の観の模索=>4.カイゼルの刑事責任をめぐる議論
〔オランダ政府は〕戦争の起源にはまったく関知しなかったし、……最後まで中立を維持した。それゆえ……同政府は諸国の高度の国際政治行為にくわわる国際的義務を認めえない。もし将来、国際連盟によって、戦争の場合に、犯罪とされた行為で、かつ、犯された行為より以前の規定によって制裁を科せられる行為を裁くために、権限ある国際管轄権が設定されるならば、オランダはこの新制度にくわわることになろう。……〔オランダ王国の憲法もまた〕つねにこの国を国際紛争の敗者のための避難地として古くからの尊敬すべき伝統も、オランダ政府がこの法律およびこの伝統の利益を前皇帝から奪うことによって諸国の願望にこたえることを許さない。
一九二〇年二月一五日新覚書がオランダとドイツに送られた。これは、やや穏やかな表現ながら、引き渡し要求が聞き入れられなかったことを遺憾とし、あらためて引き渡しを求める理由を述べた。これに対してオランダ政府は三月六日改めて覚書を送って反論した。同盟および連合国側とオランダとのこのような覚書によるやりとりがくりかえされたが、結局事態は変化せず、引き渡しが行われないまま推移したのである。
ドイツの異議申し立て
また、ドイツ政府はヴェルサイユ平和条約のこれらの刑罰規定にくりかえし異義を申し立てていた。すでに一九一九年五月七日のドイツ外相ブロックドルフ・ランツァウ伯の演説は、戦勝国が戦敗国に「敗者として賠償を支払わせ、罪人として刑罰を加えよう」としていることに抗議していた。さらに、いくつかの覚書で、中立国による戦争責任の調査を求めた。そして二九日の覚書に付けられた陳情書で、二二七条に規定してある特別裁判所は国際法上何の法的根拠もなく、例外的裁判所というべきものであって、遡及的効力を有する例外的法律を適用しようとするものであるとして、異義を申し立てた。
結局ドイツ政府は、平和条約を受諾するに際して、二二七〜二三〇条に署名しえないと留保したのである。

(*8)倉山満著『国際法で読み解く世界史の真実』 PHP新書 2016年11月15日
P.27 9行目 第1章 国際法で読む国別「傾向と対策」=>戦争そのものに善悪の区別はない
国際法は、無意味な殺傷、不必要な残虐行為をやめさせようとの発想に立ちます。
そこで登場した考え方が、「戦争とは、国家と国家による決闘である」との考え方です。決闘は単なる喧嘩ではないので、ルールがあります。グロチウスの意図は、その」ルールを整備しようというところにあります。
そもそも「決闘」とは、「どちらの主張が認められるかは、ルールに基づき正々堂々と戦って決着をつける」というものです。決着は「善悪」でつけるのではありません。善悪を言い出したら、決闘で負けた者が「それでも自分が正義だ」などと言い出して収拾がつかなくなります。

(*9)清水正義著『第一次世界大戦後の前ドイツ皇帝訴追間題』」『白鴎法学』第十九号
例えば、オーストラリア首相ヒューズは「彼[前皇帝]には世界を戦争に突っ込ませる完全な権利があるのです。今、我々は勝利をした。だから彼を殺す完全な権利がありますが、それは彼が世界を戦争に突っ込ませたからではなくて我々が勝ったからです。法律違反で彼を訴追するなんて、首相、それはできませんよ」と率直に語り、ロイド・ジョージを牽制すると、軍需相チャーチルも呼応して、「前皇帝を絞首刑にするという道を意気揚々と開始するのは易しいし、大衆の一般的関心をその中に取り入れることもできる。けれど、時が過ぎてやがて大変な袋小路に陥ってしまうことになるでしょう。世界中の法律家たちがこの起訴状はとても支えきれるものではないことに気がつき始めるでしょう」と非常に消極的な姿勢に終始した。

(*10)陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約 Wikiより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E9%99%B8%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84
第1条:締結国はその陸軍軍隊に対し、本条約に付属する陸戦の法規慣例に関する規則に適合する訓令を発すること。
第2条:第1条に掲げた規則及び本条約の規定は、交戦国が悉く本条約の当事者であるときに限り、締結国間にのみこれを適用する。
第3条:前記規則の条項に違反した交戦当事者は、損害ある時は賠償の責を負うべきものとする。交戦当事者はその軍隊を構成する人員の全ての行為に対して責任を負う。
第4条:本条約が正式に批准された際には、1899年の条約に代わるべきものとする。ただし、1899年の条約は本条約に記名しながら批准をしない諸国間の関係においては依然効力を有する。
第5条:本条約はなるべく速やかに批准しなければならない。(詳細略)
第6条:記名国でない諸国は本条約に加盟できる。(詳細略)
第7条:(批准国における効力発生条文につき 略)
第8条:締結国が本条約を破棄するときはオランダ政府にその旨書面で通告しなければならない。オランダ政府は、直ちに通告書の認證謄本をそのほかの諸国に送付し、かつその通告書を受理した日を通知すること。
破棄はその通告書がオランダ政府に到達した時点から一年後、通告した国に対してのみ効力を生じる。
第9条:オランダ外務省が帳簿を管理する。(詳細略)

(*11)英国砲艦のレディバード及び同型艦のビーに砲撃を加え被害を与えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89_(%E7%A0%B2%E8%89%A6)
「パネイ」号事件に関する米大使宛書翰写送付の件 https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C01001546500
各種情報資料・支那事変彙報 「パナイ」号事件損害額明細(米国ドルにて計上) https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000761421

(*12)倉山満著『国際法で読み解く世界史の真実』 PHP新書 2016年11月15日
P.102 第2章 武器使用マニュアルとしての「用語集」=>刑事裁判と民事裁判にたとえればわかる

(*13)石田清史著『近代日本に於る参審の伝統─ 裁判員制度を契機として─』 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月
P.62 h.軍律会議
軍法会議の性格を明らかにするため、軍律会議(又は軍律法廷。以下軍律会議と呼ぶ)に付言する。この言葉は耳慣れないが、東京裁判もまた軍律会議であった。極東国際軍事裁判と称して軍法会議と呼ばないのはこの為である。軍事裁判=軍法会議とする誤解が蔓延しているが、軍律会議も又軍事裁判である。軍律会議は戦時に特設される臨時の機関で、統帥大権に基き、自軍の利益のために設けられる。よって犯人のマグナカルタ(当方註:罪刑法定主義のこと)的機能は乏しい。軍律と軍律会議は名こそ違え、内外に存在する。近代日本に於る嚆矢は日清戦争の際「占領地人民処分令」に基き設置した軍事法院であった。日露戦争時も陸軍第四軍に審判委員会が設けられた。支那事変に際しては陸軍が軍律会議、海軍が軍罰処分会議を置いた。米軍にもMilitary Commission軍事委員会、英軍にもMilitary Court under Martial Lawが存する。
軍法会議が主として自国民に対する裁判であるのに対し、軍律会議は逆に外国人を裁く。敵国軍人や敵性住民も戦時国際法を遵守する限り国際法の保護を受けるが、戦争法規を犯して敵対行為を働く者は単なる戦時重罪犯、戦時刑法犯であるから国際法の保護を受けない。敵国軍人や占領地域住民の違法な敵対行為は戦時反逆罪として軍の処分に委ねられ、軍法会議にかけることなく、軍が自ら定立した刑罰法規で処断し得る。これが軍律であり、軍律会議である。国際慣習法上認められて来たものであるが、1907年のハーグ陸戦法規第3款が「敵国ノ領土ニ於ケル軍ノ権力」として第42条以下を以て占領地に於る軍律、軍律会議を認めたと解されている。国内法的には大日本帝国憲法第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定される統帥大権に根拠を求めた。軍律や軍律会議は作戦用兵上の必要に基き、軍が自ら定立するからである。つまり軍事行動であり、戦争行為なのである。軍刑法や軍法会議法などに対する下位法であるから当然、上位法に劣後し、法律の制約を受ける。

(*14)佐藤和男監修『世界が裁く東京裁判』 明成社 改訂版 2005年8月
P.271 1行目 【附録Ⅱ】日本は東京裁判史観により拘束されない=>二 講和条約とアムネスティ条項
さて、ここで、アムネスティ条項(amnesty clause)の説明に移ります。前述のごとく戦争を終了させるものは講和ですが、第一次世界大戦以前の時代にあっては、交戦諸国は講和に際して、平和条約の中に「交戦法規違反者の責任を免除する規定」を設けるのが通例でした。これがアムネスティ条項と呼ばれる者ですが、アムネスティとは「国際法上の大赦」を意味します。
国際法では伝統的に戦争それ事態は合法制度とされ、戦争の手段・方法を規律する交戦法規に違反した者だけが戦争犯罪人として、戦時敵に捕らえられた場合に裁判にかけられて処罰されました。戦争を計画・遂行した指導者を犯罪に(いわゆるA級戦犯)とする国際法の規則は、厳密には今日でも存在していないと観がエッレ艇増す。(第二次世界大戦後、国際連合憲章の発効とともに、自衛戦争とは反対の侵攻戦争[俗訳・侵略戦争]は、明らかに違法行為とされましたが、重大な違法行為としての犯罪とは正式にはまだされておらず、このことは国際連合国際法委員会においても認められています。)
アムネスティ条項の説明の実例として、アメリカの国際法学者C・G・フェンウィック博士が自著『国際法』(一九三四年)の中で述べているものを要約しますと、同条項は「戦争中に一方の交戦国の側に立って違法行為をおかしたすべての者に、他方の交戦国が責任の免除を認める」効果を持つものとされます。しかも、講和条約中に明示的規定としてアムネスティ条項が設けられていない場合でも、このような責任免除は講和(戦争終結)に伴う法的効果の一つであることが確認され、アムネスティ(大赦)が国際慣習法上の規則となっていることがわかります(五八二頁)。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=3344585&id=43123435

(*15)横浜弁護士会BC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会著『法廷の星条旗─BC級戦犯横浜裁判の記録』 日本評論社 2004年7月

(*16)ポツダム宣言 wikiより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80
ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英: Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日にイギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発された、全13か条から成る宣言である。正式には日本への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって、「米英支三国共同宣言」ともいう。
他の枢軸国が降伏した後も交戦を続けていた日本は、1945年8月14日にこの宣言を受諾し、1945年9月2日に調印・即時発効(降伏文書)に至って第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結した。
ソビエト連邦は後から加わり追認した。

(*17)東京大学名誉教授 大沼 保昭(国際法)『講演会「東京裁判 ──国際政治と国際法の立場から──」 東京裁判──歴史と法と政治の狭間で──』
P.23 下段3行目
ただし、侵略戦争が違法であることと、その戦争指導者が個人的に刑事責任を問われることは別問題です。違法と犯罪は異なる概念であって、ニュルンベルク裁判、東京裁判の実体法で初めて指導者責任観が戦争違法観と結びついたのです。ですから、侵略戦争の犯罪という訴因で日本の指導者を裁いたことは国際法上合法と言い難い。このことは確認しておきたいと思います。

(*18)多谷千香子著『戦争犯罪と法』 岩波書店 2006年12月5日
P.64
しかし、ハーグ陸戦法規も1929年のジュネーブ条約も、禁止される行為を掲げてはいるものの、違反については、前者は締約国の損害賠償義務を定めるだけであり、後者は話し合い解決を予定しているだけで、個人の犯罪として処罰すべき旨の規定はない。
損害賠償義務については、ハーグ陸戦法規3条が、「ハーグ陸法規の規定に違反した交戦国は、事件に応じて、損害賠償の義務を負う。交戦国は、軍隊の構成員によって犯されたすべての行為に責任を負う」と規定している。
それなら、どのようにして、これらの違反が個人の犯罪として処罰されるようになったのだろうか、それは、以下のとおりである。
ハーグ陸戦法規で禁止される行為は、1907年に同条約ができて初めて国際的に禁止行為として認知されたものではなく、それ以前から国際慣行として守られてきた戦争のルール及び国際人道法に違反する行為であった。つまり、条約は、ルールの新設ではなく、慣行の確認にすぎなかったが、条約が締結されて処罰するようになった。この時点では他国の裁判所や国際的な刑事裁判所が、世界管轄のもとに戦犯を処罰することはなかったが、ニュルンベルク裁判では、「文明国では、ハーグ陸戦法規は、(筆者注:個人の犯罪として処罰することが)1939年から(筆者注:第二次世界大戦開戦当時から)国際慣習法として確立している。ニュルンベルク条例は、この国際慣習法を確認したものにすぎない」とされ、国際的な刑事裁判所であるニュルンベルク裁判所で戦犯を処罰するために適用された。
ニュルンベルク裁判所での「ハーグ陸戦法規は、1939年から国際慣習法として確立している」という解釈には、異論もないわけではない。しかし、伝統的な戦争犯罪を国際的に処罰しようという動きは、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約の当時から存在し、ニュルンベルク条約が初めてではない。したがって、それからはるかに時代の下った第二次世界大戦当時には、そのような考え方は多くの国に広く受け入れられ、国際慣習法として確立しており、異論はとるにたらないという議論には説得力がある。
仮に、この異論が正論だとしても、ニュルンベルク条例の内容は、早くも1950年に国際法委員会(ILO)によってニュルンベルク原則として定式化され、国連総会で採択されて多くの国に受け入れられている。したがって、少なくともそれ以降は、国際慣習法として確立していることはまちがいなかろう。

(*19)加藤一郎『ニュルンベルク国際軍事法廷憲章批判』(『教育学部紀要』文教大学教育学部 第36集 2002年)
さらに、もとをたどると、ニュルンベルク裁判の法的根拠であるロンドン協定には、アメリカ検事ジャクソン、フランス予備裁判官ファルコ、ソ連検事ニキチェンコが署名している。このことは、ニュルンベルク裁判が、立法者、検察官、裁判官を兼ねることを禁じた「司法権力の分割」という根本原則からまったく逸脱していたことを意味している。
ロバート・ジャクソン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3_(%E6%B3%95%E5%BE%8B%E5%AE%B6)

(*20)清水正義『第一次世界大戦後の前ドイツ皇帝訴追間題』」『白鴎法学』第十九号
例えば、オーストラリア首相ヒューズは「彼[前皇帝]には世界を戦争に突っ込ませる完全な権利があるのです。今、我々は勝利をした。だから彼を殺す完全な権利がありますが、それは彼が世界を戦争に突っ込ませたからではなくて我々が勝ったからです。法律違反で彼を訴追するなんて、首相、それはできませんよ」と率直に語り、ロイド・ジョージを牽制すると、軍需相チャーチルも呼応して、「前皇帝を絞首刑にするという道を意気揚々と開始するのは易しいし、大衆の一般的関心をその中に取り入れることもできる。けれど、時が過ぎてやがて大変な袋小路に陥ってしまうことになるでしょう。世界中の法律家たちがこの起訴状はとても支えきれるものではないことに気がつき始めるでしょう」と非常に消極的な姿勢に終始した。

(*21)多谷千香子著『戦争犯罪と法』 岩波書店 2006年12月5日
P.55 2行目
(3)アメリカのICCの対策法
(i)「ハーグ襲撃法」
アメリカは、ICC発行に備えて、American Servicemembers Protection Act od 2002 を、2002年1月23日に制定した。これは「ハーグ襲撃法」とあだ名され、「アメリカは、ハーグの拘置所からアメリカ人を奪還するため、直接的な武力行使に訴えるつもりなのか」とオランダの人々を驚かせた。
アメリカは、そのようなことを考えているわけではないと説明しており、同法の内容は、以下のとおりである。
①アメリカがICCと協力するのを禁止する。協力とは、例えば、連邦裁判所をはじめとする合衆国及び州の政府機関が、ICCの協力要請に応じて、捜査・引き渡し・秘密情報の提供・調査回答などをすることである。ただし、後に、ICCがアメリカの敵国についての事件を扱っているときには、協力することが出来るように改正された。
②アメリカ軍人などがICCに身柄を拘束されているときには、その身柄を自由にするため、すべての必要かつ適切な手段を行使する権限(筆者注:ハーグ襲撃法とあだ名される所以であるが、明文では「すべて必要かつ適切な手段 all means necesasary and appropriate」になっていて、軍事的手段とは書かれていない)を大統領に付与する。
③NATO諸国、その他の同盟国、及びアメリカ国民をICCに引き渡さない旨の98条合意(後述)を締結した国を除いて、ICC締結国には軍事援助しない。
(ⅱ)98条合意=アメリカ人不引渡しの合意
アメリカは、SC決議1422 及びハーグ襲撃法に念をおすように、ICC締結国となった各国に大使を派遣し、いやしくもアメリカ人をICCに引き渡すことがないよう、合意をとりつけようとしている。
なお、ICC Statute 98条は、免責特権を有する外交使節の引き渡しを禁じる国際法上の義務に背くこと、又はその他の条約上の義務に背くことを被要請国に強いることになるときは、ICCは引き渡し要請をしない旨、規定している。同条は、軍人の地位協定、外交使節についての合意、犯罪人引き渡し条約に言及したもので、これらの目的にのみ使うことができ、一般的にある国の国民(例えば、アメリカ人)をICCに引き渡すことを禁じるためには使えない。したがって、98条合意は、Icc Statute 98条に沿うものではないが、形式的文言を借りているため、そのように呼ばれる。
98条合意は、アメリカも98条合意相手国に対して同様の義務を負う双務的な場合もあるが、片務的合意もある。98条合意の締結方法は、98条合意を結ばなければ、軍事援助及び経済援助をストップするという強引なものである。
なお、98条合意の要点は、以下の通りである。
①アメリカの現役又は軍人・役人、アメリカに雇われた人(外国人をふくむ)、アメリカ人を、ICCに引き渡すことを禁じる。
②引き渡さなかった場合、アメリカ国内での捜査・訴追は、必ずしも義務ではない。

(*22)南シナ海判決
南シナ海判決(みなみシナかいはんけつ)では、1982年の国連海洋法条約附属書VIIに基づく南シナ海問題に関するフィリピン共和国と中華人民共和国の仲裁裁判(英語: Matter of the South China Sea Arbitration before an Arbitral Tribunal constituted under Annex VII to the 1982 United Nations Convention on Law of the Sea between the Republic of the Philippines and the People's Republic of China)、通称、南シナ海仲裁裁判 (-ちゅうさいさいばん、英: South China Sea Arbitration)の判決(裁定)について説明する。
この事件は、中華人民共和国が、海域や島々の領有権を有すると主張してきた、いわゆる九段線[2]に囲まれた南シナ海の地域について、フィリピンが国連海洋法条約の違反や法的な根拠がない権益の確認を常設仲裁裁判所に対して申し立てた仲裁裁判である。
櫻井よしこ著 『仲裁裁判所判決を「紙くず」 無法中国への最大の反撃』 月刊Hanada 2016年9月号 オピニオンサイトiRONNA https://ironna.jp/article/4466
引用

彼らは、当初から仲裁裁判による解決を拒絶しており、当然のことながら、この判決にも激しく反発している。中国外務省は十二日、「法的拘束力のない判決を受け入れることはない」 「中国の権利を著しく侵害した」とする声明を発表、中国政府も「南シナ海における活動は二千年以上の歴史がある」と主張した。
[中略]
〈中国には、領土問題について歴史的に欧米主導の国際法体系から「被害を受けた」という潜在意識がある。中国は近代史の中で領土や権利を失ってきたが、いずれの場合にも条約があり、「合法的」とされてきた。既存の国際法が形成される過程で、中国の意見はほとんど反映されなかった〉
[中略]
だが、中国は国連海洋法条約(UNCLOS)を批准した。批准したからにはそのルールを守らなければならないというのが、私たちの原理原則である。批准によるメリットを受けながら、一方で自国に不利な部分のみ無視する勝手は許されない。中国はそうした西側陣営の基本的価値に真っ向から挑戦しているのである。


(*23)クリミア危機・ウクライナ東部紛争 wikiよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%9D%B1%E9%83%A8%E7%B4%9B%E4%BA%89
クリミア危機・ウクライナ東部紛争[2]は、2014年2月下旬に発生したウクライナ騒乱以後、クリミア半島(クリミア自治共和国)とウクライナ本土の東部2州(ドネツィク州とルハーンシク州)で起こっているウクライナ政府軍と、親ロシア派武装勢力や反ウクライナ政府組織、ロシア連邦政府・軍との紛争(軍事衝突や対立)である。
ウクライナ系メディアでは、ロシアの正規軍の関与が広く見られることからロシアによる侵略、ロシアによる占領、またはウクライナ・ロシアの戦争と呼んでいる。ポロシェンコ大統領もしばしば現状説明として「ロシアとの戦争」という用語を用いる。ただしウクライナ、ロシアともに宣戦布告は行っていない。一方、ロシア系メディアでは、この紛争初期にはロシアの春と表現する場合もあったが、以降は「ロシア軍は関与していない」との立場から、今次紛争をウクライナ国民同士の対立であるウクライナ内戦であると表現している。他方で、欧米諸国からは、派兵や兵器・燃料の供給をはじめ、ロシアの直接的関与は明白だとして、対露制裁を科すなどの措置を取っており、「内戦」という用語は用いず、代わりに紛争、占領、侵略、軍事侵攻等の用語を使用する。
クリミア自治共和国では、衝突初期の2014年2月下旬-3月にかけて行われたロシアによる軍事干渉と、国際的な非難を浴びながら行われた住民投票の結果、同年3月17日にロシアへの編入を求める決議を採択したと宣言。ロシア軍の支配下に置かれ、さらにロシアへの編入が宣言された。その後、ウクライナ本土の東部2州(ドネツィク州、ルハーンシク州)での抗議運動が、武装した分離主義勢力による反乱へと広がった結果、ウクライナ政権が軍事的反攻に乗り出すことになった。



参考文献・論文
【論 文】
清水正義『第一次世界大戦後の前ドイツ皇帝訴追間題』
廣峰正子『民事責任における抑止と制裁(2・完)─フランスにおける民事罰概念の生成と展開をてがかりに』
山田卓平『国際法における緊急状態理論の歴史的展開』
松宮孝明『罪刑法定の原則と刑法の解釈』
小梁吉章『19世紀国際私法理論にいう「文明国」基準』
ミッチェル=バイヤーズ『慣習・権力そして法制定権力─国際関係と慣習国際法』
山内進『明治国家における「文明」と国際法』
竹内雅俊『国際法学における『文明の基準』論の移入』
桧山幸男『明治憲法下における戦時規定について』
小林好信『戦時下の刑法学についての覚書』
清水隆雄『テロリズムの定義─国際犯罪化への試み』
伊藤哲朗『国際刑事裁判所の設立とその意義』
福王守『『法の一般原則』概念の変遷に関する一考察国内私法の類推から国内公法の類推へ』
フィリップ・オステン『東京裁判に於ける犯罪構成要件の再訪』
内海愛子『東京裁判と捕虜問題』
神山晃令『国際労働機関(ILO)との協力終止関係史料』
石田清史『近代日本に於る参審の伝統』
本田稔『ナチスの法律家とその過去の克服』
永井均『日本のおける東京裁判研究の動向』
福井康人『国際刑事法の発展の歴史』
加藤一郎『ニュルンベルク国際軍事法廷憲章批判』
小池政行『国際人道法とは何か』
舘川知子『戦争犯罪について』
中立悠紀『東京裁判観_新聞・論者』
長島友美『東京裁判と国家主権の関わりについて』
斎藤洋『現代国際法社会における東京裁判の意義』
島田征夫『東京裁判と罪刑法定主義』
日暮吉延『東京裁判と国際政治』
大谷保昭『東京裁判と国際法』
アスキュー・デイヴィッド『占領下南京研究序説─道徳言説の脱却を目指して』
孟国祥『南京大虐殺事件に関する審判』
西 平等『Ⅶ 市民社会の敵・国際社会の犯罪者─テロリストの法的地位に関する法思想史的考察』
北村稔氏論文『東京裁判にみる誣告と事後法」
中原精一『国際法と国内法の関係』

【文献】
立作太郎『戦時国際法論』1944年
信夫淳平『戦時国際法講義 第2巻』
信夫淳平『国際法』
信夫淳平『国際政治論叢』第2巻
拓務大臣官房文書課編『外地に行はるる法律調』
木原正樹『「国際犯罪」としての侵略:国家責任法および国際刑法の法典化の歴史的および理論的検討』

【パンフレット】
佐藤和男『国際法の観点から考える東京裁判』
WW1_同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書
極東国際軍事裁判(東京裁判)の欺瞞性についての法的検証
国際刑事裁判所に関するローマ規定
国際法の学び方
Rule-of-Law-A-guide-for-politicians-Japanese『法の支配 政治家のためのガイド』

【講演映像】
寺谷広司「国際社会における悪と法」ー東京大学 公開講座「悪」2015 https://youtu.be/jEIglkyIQM4


【刑法】でいう【犯罪】とする【法】又は【陸戦法規】には存在しない。その2

2019年12月15日 00時00分00秒 | 1937年 南京攻略...

その1からの続き

  1. 戦争での殺傷を、平時の【殺人】などの【非道行為】と一線を画す必要があるのは言うまでもない。
  2. 平時に於ける【サイコパス・ソシオパス】などが行うような、【拷問・快楽殺害】とは違うことも明らかである。
  3. 【法令違反】=【犯罪】かどうかである。
  4. 【戦争法規違反】とは【国家間】の【違約】であって、【刑法】でいう軍隊構成員の【個人】の【犯罪】でも無く又【国家】の【犯罪】でも無い。
  5. 【戦時国際法】には、【旧軍人】を【裁く】という【刑法】は存在しない。
  6. 【占領政策】の【軍律審判】は、【軍事行動・行政執行】であって【刑法】による【処罰】では無い。

ハーグの陸戦法規(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約/1911年)には【第3条:前記規則の条項に違反した交戦当事者は、損害ある時は賠償の責を負うべきものとする。交戦当事者はその軍隊を構成する人員の全ての行為に対して責任を負う。(当方補記:当事者としてあるが:当事者は国家のことである。)(*10)】とあるように、例え【違反】としても【犯罪】でも無く、飽く迄も【賠償】の対象である。
支那事変の12月12日の揚子江を漢口へ遡上する避難船団に同行していた米国砲艦パネイ号と英国砲艦のレディーバード号への攻撃に関する中立国の軍艦への攻撃という【陸戦法規違反】が発生したが、その解決は【賠償】だった(*11)。そして【該当】の日本国兵士は、米国及び英国に引き渡されて【戦争犯罪人】として何等かの【刑罰】を受けることはなかった。【陸戦法規慣例規則】を【違反した又は違反の疑惑のある敵側構成員】を【軍律審判】などの手続きを経ずして【殺傷】した者を【犯罪】として裁く国外・国内法での【法】および【罪刑】は存在しない。
当時は、【陸戦法規慣例規則】は、【行為規範】であって【裁判規範】ではなかった(*12)。そして【違反】=【犯罪】では無いと言う事である。
【国際法】には【戦時重罪人】という軍隊構成員による交戦法規違反、文民による武力敵対行為、スパイ、戦時叛逆、剰盗などがあり、原則として戦闘行為中に於ける敵側の行為に対して、戦争犯罪人、戦争重罪人などというものが国際慣例上概念として存在し、敵対国軍に鹵獲された場合には敵対国(敵国占領地)の【軍律審判】などで裁かれ処罰・処刑されている。【軍律審判】と【通常裁判】の司法を混同されることが往々にしてあるが、【軍律】とは占領軍の司令官が制定した占領地の住民に対する【一時的な規則】であり、軍律とは占領地の行政の長となる軍司令官が定めた規則で自治体で制定する条例と同様であり、【刑法】ではなく【軍事行動】又は【行政執行】である。又、【戦闘期間中の講和締結前までの占領期間中に鹵獲された敵兵や非戦闘員】に【一時的】に適用される行為で、【軍律審判】による処置は、戦争法規を犯して敵対行為を働く者は軍律に於ける軍律違反による軍罰が科せられる【国際法の保護】を受けない敵国軍人や占領地域住民の違法な敵対行為が対象となり、軍律で定めた【刑罰法規】で処断し得た。これが軍律審判であり、又は軍律会議である。【国際慣習法上認められて】来たものであり、占領や安全確保、作戦用兵上の必要に基き、軍が自ら定めることが出来る【軍事行動・戦争行為】である(*13)。軍律が【法】としての一面はあるとしても、【軍事行動・戦争行為】という【一時的なもの】であることは留意する必要があり、本来ならば講和締結と同時に【アムネスティ条項】により生きていた場合は、恩赦となり刑罰対象者ではなくなる(*14)。当然の事ながら、【犯罪者】という【前科者】でも全く無い。
戦後、BC級戦犯を裁いた横浜裁判(*15)においても、【戦争犯罪人】として【無差別爆撃】を行った【陸戦法規違反】として、日本国内で鹵獲された撃墜された爆撃機の米国人空軍兵士が、【軍律裁判を行う】又は【軍律審判せず】に処刑されているが、横浜裁判では【手続き】や【捕虜の権利の有無】や【捕虜の権利としての弁護人の選任】などがなかったことについてが【合法・違法】かが争点であったが、占領期での【行為】でもない過去の日本軍の【行為】をその後の米国が軍事委員会自体が運営・裁判出来るかどうかと言うことがそもそも国際法として慣習法として成立していたものでも認められているものでは無かった。
1945年8月14日にポツダム宣言(*16)を受諾し、【武装解除した】日本軍全体の降伏後の戦闘終結以後に【裁判受け入れ】て、占領政策中での【武装解除して】帰順を示している旧日本軍人・軍属・一般人を【陸戦法規違反】を【戦争犯罪人】として構成員の【個人】を裁くことが国際慣例として当時成立していなかった。少し脱線するが、そもそも、戦勝国側は侵略戦争は違法だと糾弾して開いた裁判だが、国際法学者の(故)大沼保昭東京大学名誉教授も、《侵略戦争の犯罪という訴因で日本の指導者を裁いたことは国際法上合法と言い難い。このことは確認しておきたいと思います。》と講演会の中で述べている。(*17)
この事の意味することは、1937年の上海事変及び南京攻略戦に於いて、日本軍の【陸戦法規】への【違反】が【犯罪】とは言いがたく、ニュルンベルグ法廷憲章で例え決まったとしても、【罪刑法定主義】という【文明社会】の【前提条件】からは、【文明の裁き】と言うものでは無く、【単なる戦勝国側の報復】という中世以前のまさにアッチラの如く【蛮行】を犯したことと同様である。
また、南京攻略戦の【蛮行】として引き合いに出される【捕虜の処遇】についても、田岡良一著『新版 国際法Ⅲ』347-348頁において、ハーグ附属文書23条d項(助命拒否の禁止)について、ウェストレーク(John Westlake:英国の国際法学者)を引用して《この規定が実行不可能な場合として一般に承認されているのは、戦闘の継続中に起こる場合である。このとき投降者を収容するために軍を停め、敵軍を切断して突撃することを中止すれば、勝利の達成は妨害せられ、時として危うくされるであろう。のみならず戦闘の継続中には、捕虜をして再び敵軍に復帰せしめないようんに拘束することが実行不可能な場合が多い。》とし、助命拒否が承認される場合があることを認めている。これは明確な規定がない為、柔軟性のあるもので、オッペンハイムも「投降者の助命は、次の場合に拒否しても差支えない、第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵に対して、第二は、敵の戦争法違反に対する報復として、第三は緊急必要の場合において(in c-se of imper-tive necessity)すなわち捕虜を収容すれば、彼らのために軍の行動の自由が害されて、軍自身の安全が危うくされる場合にはおいてである。」
戦時於ける戦闘状態によっての曖昧な規定であり、それをもって【犯罪】と認定することは不可能である。
米国の軍事委員会は(Military Commission、Military Tribunal)、軍律審判と論理的に同じとするならば、アムネスティ条項により講和後は【戦犯】に対する大赦であり、【戦犯】などは、1952年のサンフランシスコ条約以降は存在しなくなるはずだったが、実際にはそうは成らなかった。
南京城陥落後の占領の過程での、敗残兵摘出とその処刑行為が、この軍律審判を経ずに処刑されたことに対して、国際法違反を主張しているのは、この軍律審判を経ないまま処刑したことが手続き緩和が許容されるものではなく国際法上違法であるという主張が為されるケースがあるが、【陸戦法規】は【刑法】ではなく、【合意・相互法】であって、当時日本国は捕虜条約を批准して居らず【条約】に拘束されていたわけではない。又、横浜のBC級戦犯裁判の様に、戦闘機の搭乗兵士が意図的に【便衣】となって逃走したと言う事でも無く、【捕虜】と成り得る前提条件としての【徽章(軍服・軍装)】の着用があり、南京での城内での【便衣と成って逃走・潜伏する敗残兵】の摘発とその後の処遇についてと【違う】ものと考える。
WW1以後、WW2までに国際連盟加盟国や米国と1917年にロシア革命で出来たソビエト連邦という共産国家も含めた国際社会で、第1次世界大戦後、国際連盟の機関として1921年に常設国際司法裁判所(PCIJ)がオランダのハーグに設置されて国際刑事の議論が成されたかというと、少しはあったようだが【テロ】への規制などであって【陸戦法規違反】や【戦争指揮官の犯罪】が【戦争犯罪】として裁く【定義や条約項目】の検討は成されなかったし、当時【陸戦法規違反】が【罰】を持つ【犯罪】への昇華は、【政治】に依るもので、何か議論を踏まえて決定された事項ではない単なる【報復処置】への【項目】であると言う事が判る。ニュルンベルグ裁判で《ニュルンベルグ裁判では、「文明国では、ハーグ陸戦法規は、(筆者注:個人の犯罪として処罰することが)1938年から(筆者注:第二次世界大戦開戦当時から)国際慣習法として確立してる。ニュルンベルク条例は、この国際慣習法を確認したものにすぎない」(*18)》という連合国という戦勝国連合側は主張した。しかし、これは【罪刑法定主義】の【司法概念】を継承するならば、【法の遡及】を無視した【犯罪規定】に関しては矛盾する行為である。又南京攻略戦は、1937年の事で、厳密に言えば【国際慣習法として確立していない】となり、それを【南京暴虐事件】として【訴因55】で敗戦後の占領下で軍人でもなかった松井石根大将・広田弘毅外務大臣が有罪判決を受けたのは将に【自分達】の【主張】を全く【無視】して【有罪】にしていると言うことになる。
極東国際軍事裁判でも、【文明国】という言葉が一つのキーワードになって居り、南京暴虐事件の裁判に於いても、検察が【アッチラの如く】と称したように、【日本軍】を【野蛮国家】と位置づけようとしたことは前述した通りでだが、当時の【戦争】への認識は、本来【決闘】という兵力を用いた【外交交渉】でこれを【無差別戦争観】と言い【正戦論】のことで、正当な戦いである。そして【規則】への【違反=犯罪】という考えは存在していない。当時の他国による【国際法違反】に対する【自力救済】の為の武力に訴えることは禁止もされていなかったことはその他の国家の状況を見るとあきらかである。これは日本の北方四島・拉致被害、ウクライナのクリミア半島、南沙諸島の状況を見れば、現代に於も【自力救済】がなければ、何等領土国民を回復・守り得ないことの証左である。
【戦争違法観】という話が出て来たのは、1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後、ソビエト連邦など63か国が署名した。フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)(Pact of Paris)あるいはパリ不戦条約(通称:ケロッグ・ブリアン条約)である。飽く迄【前提(対手国の軍事・政治徴発)】の無い相手国への突然の軍事侵攻に関して問題にしているだけで。【戦闘行為という軍事力の行使】を【違法=犯罪】とした訳ではない。その上この不戦条約に於いても何が【自衛】で何が【侵略】かということは【明確に定義】はなされず、ケロッグは米国上院議会で、【経済制裁】を受ければ、それに対する武力の行使は【自衛】と判断出来るという見解を示している。又、イギリスは自国領内ではなく、海外領域にある自国権益に対する侵害も【徴発行為】となり【自衛】の為に【武力行使】を容認し得るものしている。この不戦条約ができて以降も【国際慣例】又は【国際慣習法】として、【戦争違法観】が国際社会で認知されていたかというと、米国のみが前のめりで、1932年の日本国への満洲の対応を【不戦条約違反】と「スティムソン・ドクトリン」で主張したが、これが国際法に於ける【国際慣習法】して成立したのではなく単に国際連盟の参加国でも無い米国1国の見解であって、米国はラテンアメリカに干渉をし続けた事で、ラテン・アメリカ不戦条約もパリ不戦条約同様の言葉だけだったと理解できる。又、ドイツがポーランドに侵攻したことは【侵略】と定義して非難された【開戦事由】にもなったが、当時同時にポーランドに【侵略】した【ソビエト連邦】が行った【罪】は【戦前も戦後】も問われたことがなく、【戦犯】として【個人】が【責任】を問われ、国際的な軍事法廷で裁かれたことはなく1991年12月に国家崩壊した。WW2まで【戦争違法観】が国際社会での国際慣例ではなかったということは、極東国際軍事法廷での前半の満洲事変から支那事変までの日本軍の行為そのものが単なる外交的【兵力を用いた交渉】であって、何か【文明国】から外れた【野蛮な行為】というわけではないと言うことが理解できる。
その上、極東国際軍事法廷憲章は、ニュルンベルグの【国際軍事裁判所憲章】から流用されたものであり、それ自体が、【立法者、検察官、裁判官分離の原則】を無視した事は、ニュルンベルグ裁判で検察官として告訴した米国の検察官ロバート・ジャクソンがこの憲章作成に関わっていたということは明らかになって居り、【司法】を無視したなものであることが判っている(*19)。日本国はポツダム宣言の10項により【裁判】を受け入れたが、それが【軍律審判】と考えて【罪刑法定主義の論理】から離れた【裁判】とは想定してなかったようで、【賠償】であって【個人を対象】とした【刑罰】とは考えておらず、対応が敗戦処理、人員、資金、資源の制約もあり戦勝国側よりも後手に回ったことは、【敗戦国家】の状況なら止む得ない状況と考えるのは普通の推察であろう。東京裁判でも、開始早々清瀬弁護士による裁判への動議について述べられていることを見ても日本側は、【文明国家の前提】【国際法】を理解し行動していたことになる。詳しくは冨士信夫氏著『私の見た東京裁判 上』をご覧戴きたい。有名な歴史著述家の秦郁彦氏がその著作『南京事件「虐殺」の構造』で、検察側の証拠が圧倒的だったという論拠を児島襄著『東京裁判』から引用した伊藤清弁護人の証言を使っているが、当時の環境・状況・時間を理解せずに、【平時】に於ける同レベルでの法廷争議と同一視するという余りにも軽率な考察をしている。
運用面で見ても、戦勝国という【連合国側出身の裁判官】などが多数を占め、中立性という面でも【裁判の公平性】も無く、何より【国際法】の専門家の学者は遅れてきたインドのパール判事のみで、人選にも国際法からではなく、【審理】もそれぞれの【主権国家内の法概念】が持ちこまれた【実験的】な裁判となった。それと重要な事は【通常裁判】ならば【伝聞証拠禁止の原則】や【偽証罪】が当然用いられるはずだが、その点も無視されているという【軍律審判】という面が都合よく使われている。横浜で行われたBC級を裁く裁判では、1946年の立法府再編法(Legislative Reorganization Act)によって設置された米国大統領直轄の組織である【軍事委員会 Military Commission】により裁判の運営が成された。これも又【軍律審判】と同様のもので、【審議】の運営そのものは、米国の【軍法】によって行われた【軍事行政】であり、通常の【司法】での【裁判】ではない。
東京裁判では、意外な事だが、オーストラリアのウェブ裁判長が【罪刑法定主義】の【法の遡及】に言及し他国の判事等に提議したが、イギリスの判事が多数派工作を行って議論を都合の良い方に捻子曲げた事実は余り知られてないようで、そもそも【戦争犯罪】を裁く事を主張したのが、1945年2月に行われた【違法】な戦勝国側の領土獲得を約束した密室のヤルタでの会談でイギリス首相のチャーチルが言い出した事を受けてのことである。チャーチルは軍需相だったWW1後の際、元ドイツ皇帝を裁くことに関して、「前皇帝を絞首刑にするという道を意気揚々と開始するのは易しいし、大衆の一般的関心をその中に取り入れることもできる。けれど、時が過ぎてやがて大変な袋小路に陥ってしまうことになるでしょう。世界中の法律家たちがこの起訴状はとても支えきれるものではないことに気がつき始めるでしょう」と語っているにも拘わらず、WW2後の際は変節している(*20)
サンフランシスコで、日本は各国と講和条約を結び批准した。その際の第11条の【極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。】として事実上永久に【名誉を回復する為】の【上訴上告】を否定されるという【非人道的な条約】を結ばざるを得なかった。当然ながらポツダム宣言受諾の戦闘終結後80年近くになるという状況で人権に対する眼が厳しい現代に、この【人権を著しく害した不公正な条約】は今も解消されていない。東京裁判やマニラ裁判では再審が出来ず、横浜裁判ではBC級戦犯裁判は出来た。再審の機会も与えずに処刑したことの人権無視は許されるのか。【文明】をかかげて【正義】をかかげて、裁判を行った連合国側に何の正統性や正義があるとういう根拠はどこにも無いし、現在の法曹関係者・法律関係者に対してもこの【人権無視】に対して声を上げない、逆に【助長する】などの行為を行うことに対して、【法の公平・正義】に疑問を抱かざるをえない。このような事では【法の支配】とは一体どういうものかすら判らなくなる。
むしろ、このことは【文明国】を称する連合国側が、国際ならびに各種権国家内の【司法】の前提である、【罪刑法定主義】という【文明国】の前提から外れた【野蛮国】であると言う事を証明した事に外ならない。
戦後はこの【憲章】からの【戦争違法観】という【司法概念】が生き続け、後に【国際刑事裁判所=ICC(International Criminal Court)】での国際刑事裁判所ローマ規程へつながるが、現在2019年時点で、アメリカ、ロシア、中華人民共和国などの国際連合の常任理事国の内の主要国は非加盟国である。日本は批准・署名している。ICCの規定には、戦争犯罪が明文化されているが、米国のようにICCに自国の兵士、外交官、一般人を引き渡しを拒む関係国との98条合意=アメリカ人不引渡しの合意条約(*21)や、近年での【南シナ海問題】に関するフィリピン共和国が中華人民共和国に対する常設仲裁裁判所に提訴した問題の判決(*22)は、フィリピン側の主張がほぼ通り、中華人民共和国の主張は、退けられた判決であったが、その後中華人民共和国はどうしたかと言えば、現在も違法・不法に周辺一帯を【占拠】した状態である。これも上位権力機構のない主権国家の並立機関では、【パクタ・スント・セルヴァンダ、pacta sunt servanda】が原則かつ前提である証左である。【合意】や【司法判決】を守らせる為には、【強制力】としての【軍事力】の存在が欠かせない。現在ではダントツトップの軍事力を誇る米国やそれに追随して他国を圧倒する軍事力を持つ中華人民共和国に、【合意】や【司法判決】を守らせるなどとと言うことは出来ない。そして現在もウクライナの東部及びクリミア紛争のようにロシア国の違法占拠(*23)、北朝鮮による日本国民の拉致被害、日本領土の千島列島・北方四島への違法占拠。韓国の日本国領土である竹島への違法占拠などがある。
日本の司法関係者は、東京裁判での司法について【意義】だけを【主張】され、何か素晴らしい進歩があったかように喜んで居られる方が大多数のようだが、実際問題として、その後の【司法】と【法の支配】等というものは、国際社会の利害関係に於いて【形骸化】【無視】【無効果】になっているのが現状である。
国際社会で【法の支配】が行きわたるには、上位権力が無い状態では、絵に描いた餅で、国家の持つ軍事力次第となる、その他の国際社会が何等【問題解決を先延ばし】又は【解決しない】とするだけで、何等【解決出来る手段】を提示出来ていない。そして【国際法】などの【法の支配】を言及する【法律家】の方々は、【解決】に向けて何等出来ること【皆無】【無力】と言っても過言ではない。

その3に続く

 


【刑法】でいう【犯罪】とする【法】又は【陸戦法規】には存在しない。その1

2019年12月14日 00時00分00秒 | 1937年 南京攻略...

もし、貴方が何等かの犯罪容疑者となった時に、
裁かれる裁判所の規定・手続き・運営に不備があり、
証拠すらマトモに審議されてない状態で
【新しい罪が作り出されて】【死刑判決】を受けた場合はどうするであろうか。
そんな馬鹿な裁判を貴方なら我慢出来るであろうか。
あきらめて無罪だ不当だと主張しないであろうか。
実際にそんな【裁判】と【判決】が現実にあった。

前回に引き続き(Ⅰ)について、

①少なくとも満洲事変から始まって1939年迄の支那事変継続中に於ける【南京大虐殺】とか【南京事件】とよばれる1937年の南京攻略戦前後の日本国及び日本軍・日本軍人・日本軍属のとった行為は【戦争犯罪】では無い。【陸戦法規慣例規則を違反した又は違反の疑惑のあるもの】を【殺傷】した者、旧軍人(既に軍人でない者)を何等かの【刑法】で【犯罪】とする【法】又は【陸戦法規】には存在しない。

②東京裁判当時【罪刑法定主義の論理】が、連合国側及び枢軸国側には、国際法としても外れることはなく、国際軍事法廷が【立法の原則】を逸脱し、【法の遡及】を行い【罪刑法定主義】という原則を破った事は逆に国際慣例に違反する行為。軍律裁判ではなく通常裁判ならばその他にも管轄・法根拠・手続き・運営・審理にも問題が見られる。

③東京裁判は【戦争違法観】として国内外の法曹会・法律学関係に、その【意義】を評価されるが、法的なこととは別としても、東京裁判の判決以降において現実の国際社会で紛争(戦闘行為)は数多あり、【戦争を違法化】や【法の支配】の目的である【戦争の防止】には何の役にも立たなかった

その昔から世界中では戦闘行為に依る国家・集団による大量殺害は行われてきたことは記録に残る限り存在する。それが近代国家出現以降も同じで、米墨戦争、WW1、第一次上海事変、支那事変、WW2、インドネシア独立戦争、中東戦争、蒋・毛戦争、朝鮮戦争、スエズ戦争、アフガニスタン戦争、ベトナム戦争、ユーゴ紛争、ナイジェリア紛争、湾岸戦争、シリア紛争、ISカルト教団紛争など言い出せば枚挙にいとまがない。
然しながら、極東国際軍事裁判(通称東京裁判)で【南京暴虐事件】として日本軍の行為を裁いた際、冒頭陳述でのT.H.モロー検察官は《匈奴「アチラ」以来比類なき戦慄すべき物語を綴ったことおよび支那軍人が把に括られ、無差別に乱殺されたことを我々は証示する》(*1)と述べ、日本軍の行為がまるで近代において特殊な中世以前のような野蛮な大量殺害者であると言及した。
しかし、実際にはそうではなく、日本軍の行動は明治以降の国際社会の【国際法】に準じた範囲での【行動】であり、当時の近代戦を大きく離れた戦闘行為では無かった。
【虐殺】という【用語】については、別の記事で書いたが、日本軍の行動への【政治的文言】の一つであって、事実を正確に認識出来ない用語としてあきらかだが、この事は兎も角として、用語の内容を突き詰めると、【違法とか不法】とかに行き着く。南京関係を含む近代史学者の笠原十九司教授および氏の所属する土下座強要派(南京虐殺肯定派・戦争責任追及派)らのグループの方々のみならず、秦郁彦教授を初め板倉由明氏ら中間派と呼ばれる方々もその本質は【違法・不法】な【殺傷行為】としている。(*2)
違法というのは法令違反を指すし、不法は法令違反若しくは反社会的・不道徳的な行為という意味も付加された用語であることは、現代の国語辞書などにもその意味とされているが、ただ、【戦時】(講和による終戦・停戦が結ばれていない状態)に於ては、【戦闘行為】に依る【殺傷】は【合法】である。【人の殺害】が【平時】と【戦時】では違い、【平時】では【犯罪・不道徳・反社会的な行動】として存在するので、その様な状態では無い【戦時】では何が【不道徳・反社会的】なのかを理解する必要がある。その手がかりとして国際社会での国際法の存在があり、1899年のハーグでの開かれた万国平和会議での【陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(*3)】という【諸国間での取り決め】による【規範】から外れる行為、又は違反行為を【不道徳・反社会的】としている。
このことは、土下座強要派にしても中間派にして、当方のような否定派にしても同じである。
しかし、ハーグでの陸戦法規に関する条約の締結後間もなく、その後の第一次世界大戦が1915年から始まり、この際に航空機、戦車、潜水艦、毒ガス、機関銃などの新兵器のみならず新たな戦闘スタイルである宣伝戦(虚偽のプロパガンダの情報戦)、暗号などが大きな威力を発揮して、条約が双方守り得ないような様な状況になっていた。WW1の特徴として、【新たな兵器】はプロパガンダの戦術で、WW1での米国の参戦は、虚偽のプロパガンダ(ドイツの蛮行・悪業という虚偽情報)によって誘導された一面もあり、散々虚偽のを流された揚げ句ドイツは結果敗戦した。但しドイツも同様行為を行ったが、ドイツ一国であった為、効果がなかった。第二次世界大戦でも、日本が同様となり、現代においても尚その【プロパガンダ】により苦しんでいる。
もう一つこの大戦の大きな特徴は、前述の通り新兵器や宣伝戦(新聞・ラジオ)、暗号が使われた事と、従来のウェストファリア条約(*4)での講話による解決では無く、戦勝国側が敗国者側の戦闘の開始と戦争中の行為の【陸戦法規違反】を【犯罪】として裁こうとしたことであった。倉山満氏によると現代の紛争の80%の原因を作り出した(*5)といわれる米国第28代大統領ウッドロウ・ウィルソン(民主党)が、勝者が敗者の罪を裁く為にパリのヴェルサイユ宮殿でドイツ及びその同盟国の【戦争犯罪】について連合国としての対応を協議する【戦犯の責任及び処罰に関する委員会:通称15人委員会】を招集したことが発端で、当初戦犯を裁くことに不賛成であったイギリスもドイツの共産革命が起こることを恐れて賛成し、敗戦国の君主及び陸戦法規違反者を裁く為に軍事法廷が開かれることになった(*6)。この勝者が敗戦国を一方的に裁くという行為は、当時、国際法での国際慣例でも無くこの時【新たに創出された行為】であり、これが【軍律審判】によるものか【文明国家内(主権国家内)】で行われる【通常裁判】と同様そしてどの国家の【刑法】【手続き】【運営】が適用されるのかが明確ではないまま、且つ敗戦国のドイツの同意・合意を得ないままに、四つの類型に分けた刑罰(Penalties)227条〜230条で裁くことを決定され、【量刑】はドイツの慣習によって決めると言う事で戦勝国側が意見を纏められた。これがその後WW2でのニュルンベルグ法廷や極東国際軍事裁判(東京裁判)に通じることになった。
しかし、講和受諾に当たって、ドイツ政府は227条〜30条は留保し、さらに国内法廷で4つの類型に該当した【戦争犯罪者】を自国の【国内法】で裁くことを戦勝国側と【交渉】し国内で裁いた。敗戦後ドイツ皇帝は皇帝を辞して、中立を保っていたオランダに亡命していた。連合国側はそのドイツ元皇帝をオランダに引き渡しを求めたが、オランダは【罪刑法定主義】を主張し、要求を【拒否】した。次が重要で、要求を断ったオランダに対し、戦勝国側がどうしたか。【戦犯】を保護するのであれば、【同罪】としてオランダに【宣戦布告】若しくは【経済制裁】を科して、ドイツ皇帝の引き渡しを要求したかというとそのような事実は無くでうやむやにした(*7)。つまり当時の認識としてオランダの主張は国際社会での通念的・常識的観念で、【国際軍事裁判】が【罪刑法定主義】の枠内を越えるものでは無いと言うことで、そしてこの段階でも【戦争】とは【正戦論】、つまり【正式・正当な国家同士の決闘】(*8)であり、【戦争犯罪】は戦闘継続中にあって、敵軍に鹵獲された場合のみ、捕虜としての【資格・権利】を保有したものが、その中で敵軍によって軍律審判・軍事委員会の審判を受けて、処置されるものであった。【陸戦法規違反】にせよ、【戦争指揮官】を【犯罪】とするような【国際慣例】が形成されていなかった。そもそも英国やオーストラリアでも当時の国際慣例で裁くことには問題があったという認識から消極的姿勢だった事が判っている(*9)。当時の戦勝国側が【罪刑法定主義】という【文明国としての前提】を無視しなかったのは、【ウェストファリア条約】を無視したそれより前の【野蛮時代】の【異端審問時代】に回帰出来なかったと考えられる。これには日本国も関わっており、当時の各国家の為政者及び司法関係者が無責任であったと考えられる。

その2へ続く

 


1937年の所謂南京事件、南京大虐殺を理解する前提。

2019年12月13日 00時00分00秒 | 1937年 南京攻略...
  1. 世の中には、【詐欺】という【犯罪】では無いが、悪意を持った【ペテン】が存在する。
  2. 【法】による【規則】と【罪刑】が無いと人は何人たりとも犯罪者(はんざいしゃ)と成り得ない。
  3. 【犯罪】は、合理的な【道徳・規範】から外れた行為に依り規定される。
  4. 【戦争】又は【戦闘】による、【殺傷】は【犯罪】ではない。


そんなあたり前の話が、ヨーロッパの中世物語や日本の時代劇のように無視されている事実がこの21世紀の新しい令和御代の今でも存在している。
それは東京裁判で犯罪者扱いされた人々であり、南京暴虐事件での【義務の履行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任があるとみとめなければならない。】として、しかも【犯行】でもなく【犯罪的責任】として【死刑】という【刑】を執行された南京攻略戦を指揮して見事勝利を収めた松井石根大将や、中国での南京軍事法廷で全く出鱈目な【無実の罪】で雨花台刑場の露と消えた谷寿夫中将や田中軍吉大尉、野田毅少尉、向井敏明少尉である。
さまざまな【虚言】が戦前・戦後を通して弄されて続け、現代においても【犯罪者】と決めつけて日本国・日本人への誹謗中傷の【種】にされている。そんな【ペテン】が世界および日本に罷り通っている。そんな【ペテン】の中でも最も悪質なのが、東京裁判であろう。
【南京大虐殺】、【南京事件】等と呼ばれている1937年の南京攻略戦について理解をする場合、どうしても知っておかなければならない又は、知っていて欲しい前提知識がある。


(Ⅰ)国際法、罪刑法定主義
(Ⅱ)1920年8月4日のソ連の【共産主義インターナショナル(コミンテルン)規約】
(Ⅲ)戦時宣伝(虚偽情報の拡散による敵国への打撃及び中立国への誘引を目的とした宣伝工作)

今回は3点の内の(Ⅰ)について少し私見を述べてみたい。

(Ⅰ)の国際法については、日本人の法科目を学んだ人間でも無いと殆どの日本人ないし国際社会の人々も知らないだろう。当方もその範疇に入っていた。
国際法は【法】であることは間違いがないが、ただ主権国家の国内法のように上位権力として構成員の団体及び個人に対する刑法上の警察力(武力)がない。そう言った意味で、【国内法】と同様の【法律】と同じと考える事は出来ない。
国際法と言えば、一般的に判りやすいのが2国間及び複数の国の【合意・相互】の【約束】の取り決めである【条約・協定】などで、【パクタ・スント・セルヴァンダ、pacta sunt servanda】が前提である。

国際法学者の島田征夫氏の『国際法』から少し引用してみる。

1 国際法は果たして「法」と言えるか
法とは、たとえば社会生活を維持し統制するために、強制力をもって行われる社会規範であると説明される。
国際法は法ではなくむしろ道徳規範であると主張されたこともあった。現在では国際法が法であることを否定する学者はほとんどいない。
2 国際法の特質は何か
合意の原則(パクタ・スント・セルヴァンダ、pacta sunt servanda)が基本 現在の国内法上、契約自由の原則の妥当範囲は、債権法などその一部に過ぎないが、契約自由の原則のコロラリーである合意の原則は、今日の国際法に於いては国際法の妥当根拠、特に国際法の拘束力を基礎づける意味をもっていりる。つまり、統一的な上位機関が存在しない分権的な国際社会では、合意の原則が国際法全般のいわば公理としてはたらいているのである。


憲政史家の倉山満氏の『国際法で読み解く世界史の真実』および『ウェストファリア体制』から、
《主権国家とは、他の何者にも命令されることがない存在です。国際社会は主権国家の対等を前提としています。》
《条約は破られるまでは、法としての推定を受ける(法諺)》

国際法とは対等な主権国家の集合体である国際社会でのその合意形成された【契約の一種】と理解出来る。国際社会のやり取りは【条約】による契約であり、そこでの軍事的紛争は【民事訴訟】での裁判官の存在しない【法廷=戦場】での【争議=戦闘交渉】であると容易に理解出来るはずである。
そして現代の国際法には【国際刑法】が一応存在するが、国際刑事裁判所(ICC、ICC-COP)への引き渡しなどには、米国のように他国との協定を結んで戦闘行為に係わる外交官・軍隊構成員を引き渡さないという条約(通称ハーグ襲撃法)まで存在する。(*1)これから鑑みれば、国際社会は【自由な契約】によってつながった主権国家が【並立する社会】である。
又、国際法学者の島田征夫氏は、論文(*2)の中で戦争犯罪人に触れ《戦争犯罪人とは、戦争犯罪を犯した個人をいう。戦争犯罪とは、狭義のものと広義のものとがある。狭義のものは、慣習法上古くから認められた概念であって、軍隊構成員による交戦法規違反、文民による武力敵対行為、スパイ、戦時叛逆、剰盗などがあり、原則として国内裁判所が管轄権を持つ。》と論文の中で述べられているが、後述するが【犯罪】と記述されるが、現在とWW2以前は異なっている。
1945年のポツダム宣言受諾から54年もの後に1998年に設立された、国際刑事裁判所の第25条の1項から4項のように個人が責任負い刑罰が科される条文が存在するが、戦前には1907年のハーグの陸戦法規に関する条約も1929のジュネーブ条約にも禁止される行為を掲げてはいるものの、違反については、前者は締約国の損害賠償義務を定めるだけであり、後者は話し合い解決を予定しているだけで、個人の犯罪として処罰すべき旨の規定はない。(*3)
【国際法】は、条約いう契約(明文有)と慣習法により成り立っている。慣習法とは、不文律(明文・法典が無い)が特徴で、慣習法となるには、国家間の実行と繰り返しによって、一般的慣行が成立し、法的に確信されたとみなされ、慣習法として認知されるが明文は存在しない。これが【国際法】として国家間に大きなそして重要な拘束的な意味を持っている。成り立ちは、1618年のキリスト教のカトリックとプロテスタントのヨーロッパ全体の紛争とその終結の第一歩となった1644年12月4日のウェストファリア講和会議の開催から1年間の協議の結果が、【慣習】として成立していったことで【慣習法】が生まれたという経緯がある。当時から現在まで《条約は破られるまでは、法としての推定を受ける》という法諺があるぐらい脆いものだが、慣習は繰り返しによる常識のような認識で、ただし、例外的に陸戦法規のように明文化されたものも存在する。国際法における慣習法と認識されていないもので、2国又は複数国での条約が結ばれていないことで国家間および個人が拘束されることがない。当時1930年年代および1940年代の国際法での主権の存在が、慣習では【個人】が対象ではなく集合体としての【国家】であったことは、重要である。
ここで問題になるのは、第二次世界大戦後での勝者である連合国の主にソ連・米国・英国は、「文明国では、ハーグ陸戦法規は、1939年から国際慣習法として確立している。ニュルンベルク条例は、この国際慣習法を確認したものにすぎない」(*4)と勝手に改竄を行ったが、当時の国際慣習法の前提条件のように繰り返し繰り返されたことない【約束事】がWW1以後にあった例が無く、常設裁判所に於いても【戦犯】を裁いたことも無いので、当時の国際慣習ではなかったと素人目でも判る。【陸戦法規に関する条約】の【違反】を根拠に【罪科】が無いものを【罪刑法定主義】という【文明社会の基本】【司法の大原則】を破ったもので、不当・無効とすべきものである。
その【罪刑法定主義】の論理とは、


島田征夫氏の『東京裁判と罪刑法定主義』論文から引用すると

罪刑法定主義を表現したと言われるマグナ・カルタ第39条を見てみよう。「いかなる自由民も、同一身分者の合法な裁判にもとづき、かつ、国の法律によるのでなければ、逮捕、監禁、差押、法外放置、国外追放を受け、もしくは、その他の方法によっても侵害されることはなしまた、朕は彼のうえに赴かず、彼のうえに赴かしめることもない。」(大野真義著『罪刑法定主義』)
〈中略〉
1764年についに世に出た。べッカリーアの主張は、当時の時代思潮と著しく異なったため、その公表には幾多の困難がともなっていた。彼は言う。
「法律が成文としてはっきり規定されており、司法官の役目は、ただ国民の行為を審査し、その行為が違法であるか適法であるかを法律の条文に照らして判断することだけになれば、そしてまた、無知な者であろうと、有識者であろうとそのすべての行動を指導する正と不正の規範が、議論の余地のないものであり、単純な事実問題でしかないことになれば、そのときは国民が無数の小圧制者のクビキのために苦しむことはもう見られなくなるだろう。」(べッカリーア『犯罪と刑罰』第4章「法律の解釈」より)
〈中略〉
「法律の勝手な解釈が悪いことである以上、法律の暖昧さについても同じことが言えよう。何故なら、その場合、法律は解釈される必要を生ずるからだ。法律が大衆の言葉で書かれていない場合、この不都合はまたずっと甚だしくなる。法律の条文が大衆には分からない死語で書かれていて、神がかった御宣託のように仰々しくしまいこまれていたのでは、それは一種の家内問答集でしかなくなってしまう。そして国民は自分の財産と自由に関して、とるべき態度を自ら判断することができなくなり、このために法律を解釈することのできる少数の者の従属の下に置かれなければならなくなる。」(べッカリーア『犯罪と刑罰』第5章「法律の暖昧さについて」より)

引用あるように、ヨーロッパ中世から近代への移行期における非常に非道・不正・恣意的な裁判の犠牲の歴史から生まれた論理で、例えば、喫煙の害が問題となり禁止の立法がなされ、違反の場合、懲役刑をなす法が立法したとしても、それより以前に喫煙していた人物がその【罪に問われることは無い】という現代の日本人ならごく当たり前のもので、それが【文明国の前提】とされている【法論理】【公理】で、【法の不遡及の原則】などとも呼ばれている【司法の大原則】である。この【罪刑法定主義】は、日本人であるならば、ほとんどの方が理解されている筈である。1764年に『犯罪と刑罰』を表したこのベッカリーアだけではなく、その100年も前にトマス・ホッブスも同様の事を主張して居ることを考えれば、それあらの司法の原則であり、国際法の根底条件と考えるべきなのは明らかである。
また法律の条文が、どんな人間にも判らない様なものであってはならないというのもこの原則であると考えると現代の日本がどうかというと余りに多種多様大量の法律があることで、法律家という専門家でないと分かり得ないようにもなっていることは、仕方がないとは言え前述のベッカリーアの理想とは異なっている現実がある。
国際法と罪刑法定主義の論理を文献などから、はしょって挙げてみたが、国家間の実行と繰り返しによって、一般的慣行が成立し、法的に確信されたとみなされる【慣習法】と【条約】で成り立つ【相互法・合意法(pacta sunt servanda)】である【国際法】、【文明国の前提】として守るべき【法理論】の【罪刑法定主義】を理解した上で、南京城攻略戦について、東京裁判での【南京暴虐事件】、戦後に言われ出した日本の大学や学術界と中華人民共和国の主張による【南京大虐殺】、数は少ないながらも【南京事件】という【虐殺】はあったという主張などの日本軍の【蛮行】とされたものについて、理解すべきである。
第一次世界大戦において、戦犯裁判を特別法廷として戦勝国側が行おうとした試みがあったが、中立国のオランダは【罪刑法定主義】という【司法の原則】を堂々と主張し、戦勝国側の連合国に対して元ドイツ皇帝を引き渡さなかったのみならず、ドイツ政府も、戦勝国側の行為は、単に戦敗国に《敗者として賠償を支払わせ、罪人として刑罰を加えよう》としていることに抗議し、中立国による戦争責任の調査を求めるなどの交渉を行った。そして更にはヴェルサイユ平和条約を受諾するに際して、第227〜230条に署名しえないと留保したことは重要な事である。(*5)
この事から判ることは、日本もふくむ第一次世界大戦の戦勝国側の主張は、ウェストファリア条約(*6)から逸脱し、【文明国】の前提を投げ捨てた野蛮な時代へ回帰した、【行為規範】を【裁判規範】を混同した、戦争と【犯罪】、敵と【犯罪者】を混同したとする倉山満氏の主張に全く頷けるものである。

【陸戦法規慣例規則】を【違反した又は違反の疑惑のあるもの】を【陸戦法規慣例に違反】して【殺傷】したものを何等かの【刑法】で【犯罪】とする【国際法】そして【国際慣例】には存在しない。

そして、後にニュルンベルク裁判と同様に日本軍の行為に於ける【蛮行】を裁いた東京裁判においても、【法】などが無く、それを【法】曲げて【無かった罪を作り出し】たことは明確である。国際法として【刑法】の【戦争犯罪】が成り立っていたことが無く、その様な罪科無きもので裁いた【判決】は【無効】であると判断する。
素人の一私見に過ぎないが、この事は、是非とも理解していただきたいことである。東京裁判においては、その意義を主張されている方々が居られるがそのことと、罪無き罪、無実の罪で裁いたこととは何の関係も無い問題の事実から目を背けた卑劣で・薄汚い・無責任極まる・卑怯なすり替えというものである。

当方のつたないテキストではおそらく判り辛いかと考えるので、別して【国際法】について次の文献・論文を読まれることをお薦めする。

  • 倉山満著『国際法で読み解く世界史の真実』 PHP新書 2016年11月15日
  • 倉山満著 『ウェストファリア体制 天才グロティウスに学ぶ「人殺し」と平和の法』 PHP新書 2019年11月16日
  • 島田征夫著『国際法 全訂補正版(法律学講義シリーズ)』 弘文堂 全訂補正版 2011年3月25日
  • 島田征夫著『東京裁判と罪刑法定主義』(論文)
  • 多谷千香子著『戦争犯罪と法』 岩波書店 2006年12月5日
  • 西村智朗著 『国際法の学び方』 2018年1月31日
  • ラオウル・ヴァレンベルグ人権人道法研究所 『法の支配 政治家のためのガイド』 ヒューマンライツ・アンド・ヒューマンロウ 2012年

 

【参照・参考文献・論文・サイト】


(*1)多谷千香子著『戦争犯罪と法』 岩波書店 2006年12月5日
P.55 2行目
(3)アメリカのICCの対策法
(i)「ハーグ襲撃法」
アメリカは、ICC発行に備えて、American Servicemembers Protection Act od 2002 を、2002年1月23日に制定した。これは「ハーグ襲撃法」とあだ名され、「アメリカは、ハーグの拘置所からアメリカ人を奪還するため、直接的な武力行使に訴えるつもりなのか」とオランダの人々を驚かせた。
アメリカは、そのようなことを考えているわけではないと説明しており、同法の内容は、以下のとおりである。
①アメリカがICCと協力するのを禁止する。協力とは、例えば、連邦裁判所をはじめとする合衆国及び州の政府機関が、ICCの協力要請に応じて、捜査・引き渡し・秘密情報の提供・調査回答などをすることである。ただし、後に、ICCがアメリカの敵国についての事件を扱っているときには、協力することが出来るように改正された。
②アメリカ軍人などがICCに身柄を拘束されているときには、その身柄を自由にするため、すべての必要かつ適切な手段を行使する権限(筆者注:ハーグ襲撃法とあだ名される所以であるが、明文では「すべて必要かつ適切な手段 all means necesasary and appropriate」になっていて、軍事的手段とは書かれていない)を大統領に付与する。
③NATO諸国、その他の同盟国、及びアメリカ国民をICCに引き渡さない旨の98条合意(後述)を締結した国を除いて、ICC締結国には軍事援助しない。
(ⅱ)98条合意=アメリカ人不引渡しの合意
アメリカは、SC決議1422 及びハーグ襲撃法に念をおすように、ICC締結国となった各国に大使を派遣し、いやしくもアメリカ人をICCに引き渡すことがないよう、合意をとりつけようとしている。
なお、ICC Statute 98条は、免責特権を有する外交使節の引き渡しを禁じる国際法上の義務に背くこと、又はその他の条約上の義務に背くことを被要請国に強いることになるときは、ICCは引き渡し要請をしない旨、規定している。同条は、軍人の地位協定、外交使節についての合意、犯罪人引き渡し条約に言及したもので、これらの目的にのみ使うことができ、一般的にある国の国民(例えば、アメリカ人)をICCに引き渡すことを禁じるためには使えない。したがって、98条合意は、Icc Statute 98条に沿うものではないが、形式的文言を借りているため、そのように呼ばれる。
98条合意は、アメリカも98漏斗井野相手国に対して同様の義務を負う双務的な場合もあるが、片務的合意もある。98条合意の締結方法は、98条合意を結ばなければ、軍事援助及び経済援助をストップするという強引なものである。
なお、98条合意の要点は、以下の通りである。
①アメリカの現役又は軍人・役人、アメリカに雇われた人(外国人をふくむ)、アメリカ人を、ICCに引き渡すことを禁じる。
②引き渡さなかった場合、アメリカ国内での捜査・訴追は、必ずしも義務ではない。

(*2)島田征夫著『東京裁判と罪刑法定主義』(論文) https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=3&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwix85nXwpbmAhVKfd4KHWkRBXYQFjACegQIAhAC&url=https%3A%2F%2Fwww.waseda.jp%2Fprj-wipss%2FShakaiAnzenSeisakuKenkyujoKiyo_01_Shimada.pdf&usg=AOvVaw03TUFv9zrqiNpIzHlrTvPn

(*3)多谷千香子著『戦争犯罪と法』(2006年12月5日)岩波書店(2006年12月5日)
P.179 国際刑事裁判所(ICC)設立規定
ローマ規程 25条 個人の刑事責任
1.ICCは、この規定に従って、自然人に対して管轄権を有する。
2.ICCの管轄に属する犯罪を犯したものは、この規定に従って、個人として責任を負い、刑罰を科される。
3.人は、次の行為を行った場合には、この規定に従って、ICCに属する犯罪について刑事責任を負い、刑罰を科される。
4.個人の刑事責任に係る本規定のいかなる条項も、国際法の下での国家の責任に影響を与えるものではない。
外務省 国際刑事裁判所 条文 P.32 12行目より
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/treaty166_1.pdf

(*4)多谷千香子著『戦争犯罪と法』(2006年12月5日)岩波書店(2006年12月5日)
P.65/6行目 第3節 伝統的な戦争犯罪
ハーグ陸戦法規で禁止される行為は、1907年に同条約ができて初めて国際的に禁止行為として認知されたものではなく、それ以前から国際慣行として守られてきた戦争のルール及び国際人道法に違反する行為であった。つまり、条約は、ルールの新設ではなく、慣行の確認にすぎなかったが、条約が締結されて処罰するようになった。この時点では他国の裁判所や国際的な刑事裁判所が、世界管轄のもとに戦犯を処罰することはなかったが、ニュルンベルク裁判では、「文明国では、ハーグ陸戦法規は、(筆者注:個人の犯罪として処罰することが)1939年から(筆者注:第二次世界大戦開戦当時から)国際慣習法として確立している。ニュルンベルグ条例は、ここ国際慣習法を確認したものにすぎない」とされ、国際的な刑事裁判所であるニュルンベルク裁判所で戦犯を処罰するために適用された。

(*5)藤田久一著『戦争犯罪とは何か』
P.60  Ⅱあらたな戦争犯罪の観の模索=>4.カイゼルの刑事責任をめぐる議論
オランダによる引き渡し拒否
一九二〇年一月一六日、平和会議事務総長はクレマンソーの署名した前ドイツ皇帝の引き渡しを求める書簡をオランダの大臣に送った。そのなかでつぎのようにいう。
オランダ政府は、国際法のもっとも神聖な規則の系統的無視のような国際条約の計画的違反のため、最高の地位にある者をふくむすべての者に対して、平和会議の定めた特別の制裁を認めることをはっきり要求する、取り消しえない事由に関与している。諸国は、多数の犯罪のなかから要約的に、ベルギーおよびルクセンブルグの中立の破廉恥な違反、野蛮かつ冷酷な人質制度、大量追放、リールの少女たちを誘拐し、家族から奪い去ったこと、軍事的利益のない全領域の系統的荒廃、大洋での犠牲者の非人道的放棄をふくむ無制限潜水艦戦、ドイツ当局によって戦争法を無視しておこなわれた非戦闘員に対する無数の行為などを想起する。これらすべての行為から、少なくとも道義的責任は、それらを命じまたは人の良心のもっとも神聖な規則に違反しまたは違反させるためにその全権限を濫用した最高責任者にまでさかのぼる。……オランダは、犯された犯罪を追求しまたは少なくともその処罰を妨げないために、その手段のかぎりで、他の諸国と協力することを拒否するならば、その国際義務をはたしていないことになろう。
〈中略〉
ドイツの異議申し立て
また、ドイツ政府はヴェルサイユ平和条約のこれらの刑罰規定にくりかえし異義を申し立てていた。すでに一九一九年五月七日のドイツ外相ブロックドルフ・ランツァウ伯の演説は、戦勝国が戦敗国に「敗者として賠償を支払わせ、罪人として刑罰を加えよう」としていることに抗議していた。さらに、いくつかの覚書で、中立国による戦争責任の調査を求めた。そして二九日の覚書に付けられた陳情書で、二二七条に規定してある特別裁判所は国際法上何の法的根拠もなく、例外的裁判所というべきものであって、遡及的効力を有する例外的法律を適用しようとするものであるとして、異義を申し立てた。
結局ドイツ政府は、平和条約を受諾するに際して、二二七〜二三〇条に署名しえないと留保したのである。

大蔵省印刷局編【官報】大正9年 1920年01月10日
ヴェルサイユ平和条約 1919年 227条〜230条
【国立国会図書館アーカイブ】 コマ番35 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954341/35

レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000148826

(*6)倉山満著 『ウェストファリア体制 天才グロティウスに学ぶ「人殺し」と平和の法』 PHP新書 2019年11月16日
P.116 10行目 両者を敵に回す力がないと仲裁は出来ない
最終的にミュンスター条約とオスナブリュック条約となります。この二つの条約を合わせたものが、ウェストファリア条約です。

ヴェストファーレン条約(ヴェストファーレンじょうやく、羅: Pax Westphalica、独: Westfälischer Friede、英: Peace of Westphalia)は、1648年に締結された三十年戦争の講和条約で、ミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約の総称である[1]。ラテン語読みでウェストファリア条約とも呼ばれる。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である。
この条約によって、ヨーロッパにおいて30年間続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれ、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至った。この秩序を「ヴェストファーレン体制」ともいう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E6%9D%A1%E7%B4%84