2018年5月14日 KKnanking氏からの指摘を受け、当方の記事内容の訂正変更を加えました。

2018年05月14日 21時23分40秒 | 1937年 南京攻略...

2018年5月14日【変更箇所と結論の修正】

変更箇所①
変更前【[115聯隊第11分隊12月12日午後兵工廠戦闘]をみると歩兵第115聯隊の第11中隊と戦車第五大隊(細見中佐率いる戦車第二聯隊[補記:細見中佐が率いていたのは戦車第五大隊で、戦車第二連隊は南京戦には参加の史料が無い])が、中華門よりの兵工廠を制圧占領している(図参照)。第11中隊は中華門(南門)への道が閉ざされていて、そのまま兵工廠を警備して14日迄滞在しているし、戦車第五大隊もその後の記載が無い。】
変更後【[115聯隊第11分隊12月12日午後兵工廠戦闘]をみると歩兵第115聯隊の第11中隊と戦車第五大隊(細見中佐率いる戦車第二聯隊[補記:細見中佐が率いていたのは戦車第五大隊で、戦車第二連隊は南京戦には史料が無い])が、中華門よりの兵工廠を制圧占領している(図参照)。第11中隊は中華門(南門)への道が閉ざされていて、そのまま兵工廠を警備して14日迄滞在しているし、戦車第五大隊もその後の記載が無い。】

変更箇所②
変更前【尚(十三)の《第四中隊ハ驀進シ来タレル115i配属ノ軽装甲車中隊(小倉五大隊)》の小倉五大隊とは【戦車第五大隊】と考えられている。サンケイ栃木の『郷土部隊奮戦記』でも、《歩兵第百十五連隊に配属された九州小倉の装甲車第五大隊の一個中隊と協力》と戦闘詳報と同じであり、戦闘詳報記載者の認識は、【戦車第五大隊】ということになる。しかし前述通り115連隊の戦闘詳報から中華門(南門)への道が閉ざされている以上中華門(南門)攻略参加の可能性は【戦車第五大隊】の史料の発見がないと確実には分からない状態である。115の戦闘詳報に於いても《細見中佐率いる戦車第二聯隊》とあるのは、記載間違いが存在する。同じく中華門(南門)を攻略していた第6師団の第13聯隊はどうかというと、偕行社(『南京戦史』P.135)では独立軽装甲車第2中隊・第6中隊との共闘の記載があるが、戦車第五大隊の記載が無いことを考えると66聯隊の記載は間違いであると確認できる。
この戦闘詳報の記載者は、66聯隊の戦闘詳報の記載は、中華門(南門)攻略に参加していない115聯隊と戦車第五大隊を入れるという過ちを犯しており、【信用性】に疑い生じたことになる。】
変更後【尚(十三)の《第四中隊ハ驀進シ来タレル115i配属ノ軽装甲車中隊(小倉五大隊)》の小倉五大隊とは【戦車第五大隊】と考えられている。サンケイ栃木の『郷土部隊奮戦記』でも、《歩兵第百十五連隊に配属された九州小倉の装甲車第五大隊の一個中隊と協力》と戦闘詳報と同じであり、戦闘詳報記載者の認識は、【戦車第五大隊】ということになる。しかし前述通り115連隊の戦闘詳報から中華門(南門)への道が閉ざされている以上中華門(南門)攻略参加の可能性は【戦車第五大隊】の史料の発見がないと確実には分からない状態である。115の戦闘詳報に於いても《細見中佐率いる戦車第二聯隊》とあるのは、記載間違いが存在する。同じく中華門(南門)を攻略していた第6師団の第13聯隊はどうかというと、偕行社(『南京戦史』P.135)では戦車第五大隊独立軽装甲車第2中隊・第6中隊との共闘の記載がある。又、KKnanking氏の指摘があり、偕行社のP.211の4行目に《第四中隊ハ幕進シ来タレル配属ノ軽装甲車中隊〔注・戦車第五大隊の品川大尉指揮の集成軽装甲車中隊〕ト協力シ、》とのこと。
*****P.211*******
問題の(十三)の115連隊配属の第五大隊の軽装甲車中隊といつ協力行動をとったかは定かでは無いが、【兵工廠】と【城壁】の記述もなく、偕行社に66連隊の(附図一〇)も(要図)が掲載されていない為、その行動不明である。
ただ、午後2時30分発の66連隊第1大隊中華門城外を午後3時に占領するようにとの命令があり、第4中隊は東側地区、第1中隊は中央地区、第3中隊は中華門に通じる本道東側地区より侵入掃討を開始する命令が発せられている。
*******南京地図********
しかしながら、同時刻には115連隊11中隊が戦車第五大隊との協力の下に【兵工廠】を制圧中であり、(十三)の戦車大隊と合同した第四中隊の記述には、【兵工廠】の記述や城壁についての記述もなく、本来、66連隊が担当するエリアである、中華門【東側城壁】と【兵工廠】をめぐる戦いには参加していないことになる。
当方の左記の主張の、【66聯隊の戦闘詳報に中華門(南門)攻略に参加していない115聯隊と戦車第五大隊の部隊の中華門参戦部隊かどうか不明な部隊を入れるという過ちを犯しており、【信用性】に疑い生じたことになる。】については、戦車第五大隊が【兵工廠】攻略後、【兵工廠】の西側道を南に進路をとって、中華門方面へ行ったとすると、66連隊の第4連隊と合流するやも知れず、記載違いとまでは言えずこの主張の取り下げる。

再度、点検と確認を行った結果、次の不思議な点を発見した。
66連隊の捕虜鹵獲場所と鹵獲後の線路上に集結せしめた後、洋館に収容したとあるが、一旦中華門に通じる本道東側地区で鹵獲した支那兵を雨花台へ登った所にある線路上に集結させてそして場所は不明だが洋館に収容せしめるなど果たしてこのような事が可能であったのか非常に疑問である。サンケイの郷土部隊奮戦史では凹地となって居るため、66連隊の表現と異なっている。地図上にはない軍事物資輸送などの敷説線路があった場合かは不明であるが、史料は存在していない。秦郁彦氏の捕虜の画像(ブログ後半に有)でも、線路が明確ではなく線路よりも凹地や壕の様にも見えなくも無い。仮に66連隊の捕虜の仮集成地が線路上だとすると前述通り不思議な行動であり、この事は地図を見ればおかしな記述であるというのは一目瞭然である。
**********雨花台周辺********

変更箇所③
変更前【③66聯隊の戦闘詳報の記述で、12日、13日の【戦闘状況】が他の部隊と、不在の協力部隊の記入や作戦の時間的整合性がとれない事実。】
変更後【③66聯隊の戦闘詳報の記述で、12日、13日の【戦闘状況】が他の部隊との作戦の時間的整合性がとれない事実。捕虜の集積地での不合理な記述などが存在すること。】

変更箇所④
変更前【という7つの点から、特に①②が無い状態、かつ③④による【戦闘行為】の【虚偽の記述】在る中では、⑤の回想と⑥の証言のみでは到底【信用】出来るものでは無い。】
変更後【という7つの点から、特に①②が無い状態、かつ③④による【戦闘行為】の【不明の記述】在る中では、⑤の回想と⑥の証言のみでは到底【信用】出来るものでは無い。】


南京事件の一つとされる【夏淑琴】事件についての考察

2018年05月11日 20時32分39秒 | 1937年 南京攻略...

1937年の南京事件には、虐殺事件として有名な 夏淑琴事件というのがある。日本でも東中野教授が訴えられた事件として知られている。
その事件の概要は、1937年12月13日 激戦区の中華門の東北の新路口にて、家主4名、借家人である夏淑琴氏(当時7歳)の一家7名が家に留まる中、突然乱入してきた日本軍兵卒によって家主家族、両親祖父母と乳飲み子の弟が殺害、姉二人強姦殺傷された事件である。又周辺一帯で約500名程が日本軍に殺されたとされている。事実ならば非常に陰惨で悪質な虐殺のケースとなり得ると考えられる。重要な点は、夏淑琴氏のみが事件を知り得る証言者であること。そして数々の証言をされていることである。
夏氏と妹のみが生き残り、2週間後に近くの養老院の老婆により発見される。その後養老院から叔父叔母に引き取られ、その話が安全区委員会に伝わりマギーが調査に出向き、安全委員会の219件の短文の報告や、通称マギーフィルムと呼ばれる映像を映している(現在Yotubeで見ることが出来る。夏淑琴氏の事件は2:59ぐらいから)。この事件は東中野教授が偽証言者と記述したことで、名誉毀損裁判となり、東中野氏側が敗訴確定した(東中野教授が肯定派からエセ学者と言われる判決を受けた)。その中で、夏淑琴氏は当時撮影されたマギーフィルムに映る少女としては一応歴史的な根拠のある証言者として判決がなされている。

以上が事件のあらましと発覚である。

この事件の主な登場人物を紹介することにする。
主人公は、当然ながら、 

夏淑琴(7歳か8歳)【殺害行為の目撃者&証言者】でマギーフィルムに映る少女その人である。


その事件を証拠づける人物として次の人々が存在する。
ジョン・マギー:非目撃者
②《姓名不明》叔父(母親の弟):非目撃者
王芝如(叔父の妻24歳):非目撃者
④「老人堂」の老女(フィルムに映る老女):少女発見者、非目撃者
⑤夏の祖母(母方の母親):非目撃者
⑥夏の妹(4歳):準目撃者(幼少故証言能力無し)

【被害者】
馬氏家族(家主、妻、子供2名) 4名
夏氏家族(父親、母親、祖父母、姉2名、弟1名)7名、

前述したように、証言内容や目撃者の有無などから、ある種の【密室虐殺事件】であり【目撃者は夏淑琴氏以外には存在しない状態(ここ非常に重要)】である。
証言内容等から、夏淑琴氏の家族の下宿の家は井形の構造と考えられる。



引用元(https://read01.com/jj52gKx.html#.WvUEAYWr9_o)

 

次いで、笠原十九司氏『体験者27人が語る南京事件』における夏淑琴氏へのインタビューを紹介する。ゆう氏のサイトでもすぐにでも確認できる。

そこには夏氏自身の【目撃】証言者としての資格を失う部分が存在する。しかもその証言により事件そのものが【何者か(第三者)の創作物】の可能性の疑惑すら感じさせる。
その重要な部分を引用してみると


《私の家族の悲劇について、最初に話してくれたのは叔母でした。いま話したような家族の状況は、私はまだ小さかったので、叔母が話してくれたのを聞いたのです。私は、時には叔母を恨むことがあります。もしも彼女が私の名前を他人に言わなければ、南京大虐殺被害証言者として、いろいろな辛い、嫌な目にあうことにはならなかったはずですから。》

この証言で【最初に話してくれたのは叔母でした】とある。つまり、【目撃】の【記憶】を持つ【目撃者】ではない事を自らの告白している。そして不思議なことに夏淑琴氏は当時叔母夫婦は北の南京安全区へ行っており当時不在であったはずの【当時現場に不在で目撃し得ない叔母(王芝如)】が何故か事件の詳細を教え聞かせたことになっている。
この事について【一次史料】である、国際安全委員会のジョン・マギーの安全区当案に掲載された報告を下記に記述する。第二一九の件は、訳出と出典が異なる為、重複して記述してあります。

 

第二一九件 
ジョン・マギー氏のきくところでは、十二月十三日から十四日にかけて、城南に住む一家の家族一三人のうち一一人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った二人の小さな子供が話してくれたのである。(マギー)
(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P116)
*ゆう注.この事例は、「夏淑琴さん事件」として知られています。
(ゆう氏サイトより『夏淑琴さんの証言集』 【Link】 http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/kashukukinshougen.html)


第二一九件
一月十三日、十四日の両日、日本兵は南城姓某家で一人を殺した。婦女は汚辱された。二人の子供だけは無事であった。

(『外国人の見た日本軍の暴行』ティンパーリー原著 評伝社 P.183 10行目 附録 南京暴行報告(続二))


第二一九件
ジョン・マギー氏が聞いた話によれば、十二月十三日から十四日にかけて、南市のある家族13人のうち十一人が日本兵に殺され、女達は強姦されて手足を切断された。二人の小さな子供が生き残りこの話を語った。
(冨澤繁信『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』 P.292 第五十六号 現在の情勢に関する覚書)

又東京裁判でのマギー氏の証言は、

一九三八年(昭和十三年)のある日、南門の内側辺りへ行くと、そこでは中国人が五百人くらい殺されたということであったが、案内された一軒の家での年老いた老母の話によると、そこでは沢山の子供が殺され、唯二人の子供だけが逃げたとのことであったが、八、九歳の少女の話によると、日本兵が入ってきた時背中を二度ばかり刺され、その傷はもう大分治っているとのことであったが、その刺された傷を私に見せたので、私は写真を撮った(注・この写真も検察側証拠として提出されていない)。
冨士信夫著『「南京大虐殺」はこうして作られた』 P.38)

ジョン・マギー氏の証言には、1月31日にスマイスのまとめた【第五十六号 現在の情勢に関する覚書】に掲載されているが、この報告作成がいつとは明確ではないが、1938年は間違いなく、少なくとも19日間の時間があった事を示している。しかも其外に500名程の支那人が殺害があったとしている。しかし証言残っているのはこの夏淑琴一家のみで他の500名程の支那人のケースとともに、殺害現場の目撃証人の記述や証言も残っていないという不思議なマギーの報告である。つまり、この一家を含め500名程の支那人(非交戦者かどうかも不明)が殲滅され、夏淑琴氏のみ生存者と強調付けたかったという見方も出来る。

当時支那軍による安全区への避難命令が出されていたことは、New York Timesの特派員F.T.ダーディン記者の南京発12月8日(水)特電の記事にも記されていて、

The Nanking defense commander, Tang Sheng-chih, proclaimed the city within the zone of hostilites and decreed that all noncombatants must conecentrate in the internationally supervised safety zone. The movement of noncombatants elsewhere in the city will be banned, except for persons holding special permits to be indicated by a symbol specially stamped on yellow arm bands.

【当方訳(誤訳の可能性有)】
南京守備隊の司令官唐生智(Tang Sheng-chih)は、戦場は街へ突入したと重大な宣言をした。全ての非戦闘員は国際的に管轄された安全区に集まらなければならないと命令した。非戦闘員が市内のどこかへ異動する事は禁止された。特別なシンボルをスタンプされた下黄色い腕章を示せる特別に許可された人間を除いて。

とあるように、この軍や政府の施設のある近辺で、老人や女子供などが【避難】していないと言う事の方が異常な状態であり考えにくい。

マギーの其の他の証言にみると、

『マギー牧師の解説書』より
彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。
(『ドイツ外交官の見た南京事件』P177:ゆう氏サイトより)

ここには、不思議な【夏氏の兄】という不思議な文言が出ているが、【兄=叔父】と考えて一旦無視はしておく、問い質すことによって得られた情報には、答えたのは目撃者でも無い叔父叔母の情報も含まれていると考慮しなければならない筈である。

 

当時の日本軍の行動に目を向けると、先ず47聯隊(熊本)が中華門城壁西側を突破しが13日午前3時に第6師団歩兵第13聯隊(熊本)が中華門が激戦の後開放され、第114師団の115連隊、150連隊も東側の雨花門を攻略侵入、午前8時以降には城内掃討戦を開始している。

 

この図から見ると、1937年12月10日から始まった南京攻城戦に於ける激戦場一つである南京城市最南の中華門の近くの支那人住居集中エリアであることが判る。秦郁彦氏の著書『南京事件』にある【南京城内要図】を見ると、憲兵司令部や内政部などの政府機関の建物があり、防衛兵站備蓄の拠点なり得た場所で、居住民には安全区への【強制的な避難命令】が出ており、当時その様な中で一民間人一家が居ると言う事は考えにくい。また、騒音という面でかなりの支那人兵卒で溢れて物々しくあり、そこから北に離れた南京安全区でも南からの砲撃の音が響いていたとラーベの日記で記述があるように、激しい戦闘があったであろう新路口という城南のエリアで、新路口よりやや北にあるセントポール寺院から北を望んだ画像にも破損した屋根などが散見でき。戦闘の砲弾とうがここまで及んでいたことが判る。


 

セントポール寺院から北を望む(出典:イエール大学ライブラリー)

 

新路外と思われるエリアにはピンク色で斜線。

 

これらのことを含めて考えても、夏淑琴氏の証言のような日常生活が継続出来る筈はないし。子供心に恐ろしいはずのもの凄い爆音や震動が記されていないなど証言にはとても不審な所がある。

 


【結論】

【笠原インタビュー】や戦闘状況やマギーの証言も含めると、マギーが調査にやってくる前に何者かの創作を聞かされ教え込まれたとの疑いの可能性が出て来た訳で、証言の内容をそのまま【真実】とするには大きな問題がありすぎる。

但し、夏淑琴氏の名誉の為に氏が【虚言】を弄したと主張するつもりはない。ただ、擦り込まれた【記憶】を【証言】しているに可能性のある【無垢で正直な人物】であるとお断りをさせて頂きく。

 

2019/7/4 ゆうサイトリンク変更。新路口地図変更。
2020/2/10 ゆうサイトアドレス変更につき、『夏淑琴さん証言集』へのリンクを変更