1941年5月27日付 NYTのジョージ・A・フィッチの人物紹介記事

2017年03月22日 21時38分07秒 | 1937年 南京攻略...

(K氏ご提供) 


American Will Aid China In Running Cooperatives
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George A. Fitch
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Wireless to The New York Times.
CHUNGKING, China, May 27 - George A. Fitch, American Y.M.C.A. executive in China, has been appointed executive adviser to the Chinese industrial cooperatives.
Mr. Fitch will serve as coordinator between goverment departments and the Chungking(Chongqing) headquarters of the coopertives' comission. working directly under the chairman, Dr. H.H.Kung. 


【当方訳文】

アメリカ人が共同体を運用して中国を救うだろう。
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ニューヨークタイムスへワイヤレス通信。
中国重慶市5月27日より −
ジョージ・A・フィッチ、米国人でYMCA中国の重役、彼は中国の工業組合の執行顧問に任命されている。
フィッチ氏は協同組合運営委員の政府担当部署と重慶本部の間でコーディネーターとして働く。孔祥熙博士(Dr. H.H.Kung)チェアマンの下で直接働いている。
(NYTの1941年5月28日付) 


 

尚、孔祥熙(1880年9月11日-1967年8月16日)とは宋家と結託した孔宋集団のトップであり、国民政府の財政部門を担当した蒋介石のパトロン。
この孔祥熙の下で働いていたジョージ・A・フィッチは、当然支那側の人物であり、中立公正な外国人という訳ではないという事が理解できる記事。

詳しくは、wiki等をご確認下さい。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E7%A5%A5%E7%86%99


 


F.T.ダーディン記者の1937年の南京事件に於ける記事の矛盾点について

2017年03月16日 16時07分20秒 | 1937年 南京攻略...

フランク・ティルマン・ダーディン記者の1937年の南京事件に於ける記事は、よく読んでみると誤りもあるし、矛盾もある。
戦闘中の混乱による、情報なども見られる。メディア記者として当時の様子を知り得た情報の正否を確認しようとしたり、正確に情報を伝えようとする倫理観があるのかどうか疑ってしまう記事のようである。証言など得られた情報のチェックをせずにそのまま流しているかのようで、正しい情報と誤った情報が混在し正確な認識が困難な状態である。
これらダーディン記者が書いた記事をもって、南京虐殺が有ったという史料とするには、全く適正できないと考えられる。
つまり、この記者の記事を使って【南京虐殺があったという根拠にはならない】ということである。

以下に矛盾する点をあげてみた。

【矛盾する記事内容】



  • 頑強な連隊がいくつか、月曜日(13日)になってもなお日本軍に抵抗していたが、防衛軍のほとんどが、逃走を続けた。何百人もが外国人に身を任せてきた。記者は脅えた兵隊たちから何十挺もの銃を押しつけられた。彼らは、近づいてくる日本軍に捕まらずにいるには、どうしたらよいのかを知りたがった。
  • 中国軍の統制の悪さから、火曜日(14日)の昼になっても、まだ抵抗を続ける部隊がかなりあった。これらの多くが、日本軍にすでに包囲されていることも、また、勝てる見込みがないことも知らずに戦っていた。日本軍の戦車隊が整然とこれらを掃討していった(18日特電)

------ 以下の内容と矛盾 -------

  • 多くが発見された場所で殺害されたが、なかには、軍とはなんの関わりもない者や、負傷兵、怪我をした一般市民が含まれていた。記者は、水曜日(15日)の二、三時間の間に、三つの集団処刑目撃した。そのうちの一つは、交通部近くの防空壕で、100人を越す兵隊の一団に、戦車砲による発砲がなされた虐殺であった(18日特電)

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【当方考】

15日のダーディン記者の目撃情報は、13日、14日、15日における抵抗する部隊があった証拠であり、《交通部近くの防空壕で、100人を越す兵隊の一団に、戦車砲による発砲がなされた》は、普通常識的に考えれば処刑】でもなければ【虐殺】でもなく、限りなく戦闘による掃蕩とするのが正しいと考えられる。




  • 南京で日本軍の虐殺が開始されてから、市は恐ろしい様相を呈してきた。負傷兵を治療する中国軍の施設は、悲劇的なまでに不足してきた。(18日特電)

------ 以下の内容と矛盾 -------

  • 一週間前でさえ、しばしば路上で負傷者を見掛けた。ある者はびっこをひき、ある者ははいずりながら治療を求めていた。(18日特電)

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【当方考】

一週間前(特電18日の前であれば、11日となる、12日であっても日本軍占領前)であり、負傷兵を治療する支那軍施設が不足しているというのも病院関係者が避難しているので当然のことであり、日本軍の占領下による非道であるということはあまりにも矛盾がある。


 


  • 大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。(18日無線)
  • その死傷者は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。(19日無線)
  • 市の南部および南西部から避難できなかった大勢の市民は殺害され総計ではおそらく戦闘員の死亡総計と同数くらいにのぼるであろう。記者は日本軍が地域を掌握してからの市南部を訪れたが、一帯は日本軍の砲爆撃で破壊され一般市民の死骸がいたるところに転がっていた。(1月9日航空便)

------ 以下の内容と矛盾 -------

  • 南京での中国軍の防衛作業の特徴は、相変わらず建物の全面的焼却である。南門近くの人口密集地区全体から住民が追い立てられて、市の安全区に送り込まれ、この小都市一つくらいの規模の地区が燃やされていた。同様に、下関駅近くのモデル新村一つが焼却された。(9日特電)
  • 焼き払いのたいまつは南門周辺や下関でも使われた。(1月9日航空便)

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【当方考】

南門とは【中華門の事であり、城壁の内外ともに人口密集エリアになっている。つまりエリアの人間が地区の焼却という清野作戦の為に追い立てられて安全区へ送られたと報道しているにもかかわらず。南部で日本が占領掃討戦中にあたかも虐殺を行ったかのような報道は矛盾の極み

 


  • 日本軍の好みの処刑方法は、塹壕の縁に10人ほどの兵隊を集め、銃撃すると、遺体は穴に転がり落ちるというものである。それからシャベルで土をかけると、遺体は埋まってしまうというわけだ。(18日 特電)

    ------ 以下の内容と矛盾 -------

  • 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあれば弾を打ち込んだ。(18日 特電)

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【当方考】

日本軍の好みの処刑方法と書きながら、乗船する際の【目撃の処刑方法】は、この手法をとっていない。では【好み】とは一体何なのか。バンドのみ特別な処刑方法であったのか。理解に苦しむ記事。


1937年 南京事件に於けるティルマン・ダーディン(Frank Tillman Durdin)が目撃したとする記事の部分

2017年03月16日 14時33分51秒 | 1937年 南京攻略...

【ダーディンが目撃したとする記事の部分】 


  • 湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。少年たちは年齢10から12歳、軍服姿の正規兵で、伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。ときには最前線で戦争をゲームのように楽しんでいるように見える。南京東方の村落はどこも無人の巷と化していた。住民は守備隊に代わられ、公路上には難民があふれている。(1937年12月7日 特電)
  • この特派員はその日早く一緒に戦った数名と日本の非常線を抜けて丘を下った偶発的運命で生き残った者とこのユニークな戦争のエピソード最終段階を目撃した。(1937年12月9日 特電)
  • 本記者は車で前線に行く途中、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを見た。中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村は、一面煙る廃墟と化し、事前に避難しなかった住民は、その僅かばかりの哀れな持ち物を背に南京に向かって道にあふれ、ときおり立ち止まっては、もといた家のほうを悲しげに見やるのであった。(1937年12月8日 特電)
  • 広間と中庭が連なる迷宮「朝天宮」は、ほぼ十年にわたって兵工廠または軍の集結中枢の役を果たしてきており、最近は周囲の近代的兵舎とともに重要な駐屯軍の中枢、武器庫になっていた。寺院のある丘は市内でも最も人口稠密な地区の中心にあたるが、その一般住民の多くはまた安全区に避難していない。太平路が商業中心である。南京の住民は金曜日に比べて緊張も解けパニック状態もなくなっている。日本軍の城内進入撃退によって、中国軍が攻撃軍に十分持ちこたえているということを立証したからだ。現在の気持ちは一種の諦めであって、何千という人々がまだ安全区に避難しているが、彼等の恐怖心を表わさず、いかなる戦禍をも耐え忍ぶ用意があるかに見える。下関門(悒江門)は朝方再び明けられ、一日中、自由通行が許された。門は夕方早くにはまた閉じられた。(1937年12月12日 特電)
  • 多くが発見された場所で殺害されたが、なかには、軍とはなんの関わりもない者や、負傷兵、怪我をした一般市民が含まれていた。記者は、水曜日の二、三時間の間に、三つの集団処刑を目撃した。そのうちの一つは、交通部近くの防空壕で、100人を越す兵隊の一団に、戦車砲による発砲がなされた虐殺であった。(1937年12月18日 特電)
  • 南京で日本軍の虐殺が開始されてから、市は恐ろしい様相を呈してきた。負傷兵を治療する中国軍の施設は、悲劇的なまでに不足してきた。一週間前でさえ、しばしば路上で負傷者を見掛けた。ある者はびっこをひき、ある者ははいずりながら治療を求めていた。(1937年12月18日 特電)
  • アメリカ大使の私邸さえもが侵入を受けている。興奮した大使館の使用人からこの侵入の知らせをうけて、バラマウント・ニュースのカメラマンと記者は、大使の台所にいた日本兵五人の前に立ちはだかり、退去を要求した。五人はむっつりしながらおとなしく出ていった。彼らの略奪品は懐中電灯一本だけであった。(1937年12月18日 特電)
  • 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあれば弾を打ち込んだ。(1937年12月18日 特電)
  • 頑強な連隊がいくつか、月曜日(13日)になってもなお日本軍に抵抗していたが、防衛軍のほとんどが、逃走を続けた。何百人もが外国人に身を任せてきた。記者は脅えた兵隊たちから何十挺もの銃を押しつけられた。彼らは、近づいてくる日本軍に捕まらずにいるには、どうしたらよいのかを知りたがった。(1937年12月18日 特電)

 

ゆう氏戦争犯罪ドットコムにあったダーディンの記事を調べたところ。
ダーディンが、目撃したというのは、記事中9箇所ぐらいのようです。
ダーディンは割りと正直で自分が見たことはわざわざ記者と入れて居ることが多いので分かり易い記事でした。
ただし、8日、9日は湯山へ前線取材に言って居るので記名が無くともダーディン目撃と考えられる。(城門は6日からほぼ全て閉鎖され、下関や一部の門で少しの隙間が空けられて一般市民はほぼ出入りは出来なかったと考えられる。しかし、この情報が正しければ12日の下関の挹江門のみ出入りが自由と言う事となる。)
★朱文字は、ダーディンの主観や脚色と思われる。