家永裁判判決と南京事件の話

2020年08月26日 13時31分55秒 | 1937年 南京攻略...

noteからの転載です。どうしようかと迷ったのですが、一応ブログの方にも掲載しておきます。
少し、手直しをしてます。

ブログの前記事【【南京事件】には、二種類ある。】で、【南京事件】には、2種類あると述べた事があります。

 


(1)【南京大虐殺】という【虐殺】の文言を使い、【感情的に酷い】【殺害・強姦・略奪】が【違法・不当】な形で行われた【戦争犯罪】を示す【事件】。


(2)【南京攻略戦後】において、【戦争犯罪】のケースとして当時は存在せず、国際法(戦時国際法)・国内法の観点から【違法・不当】かどうかを争っている【事件】。
という2つの事件があるという事です。


 

日本の国内で、近代史の記述表現について争われた裁判で【家永裁判】と呼ばれるものがあり、家永三郎氏(故人)が、執筆した【教科書】の【記述】を巡る裁判で、当時の文部省と【表現の自由】を争った訴訟裁判がありました。

Twitterなどで、この裁判の判決を持って、(1)の【根拠】として【立証】はなされたとする意見が流されています。

宮武嶺氏(元関西学院大学法科大学院教授。東京弁護士会。日本反核法律家協会理事。)という法律家のブログ【Everyone says I love you !】に次の様に記載されている事などから、その様に考えておられる方も居ると見られます。

そこで、少し言及をつぶさに検討する事にしてみました。


最高裁判決が1997年8月に出てから、日本政府も南京虐殺事件の存在自体は認めるようになり、他の教科書にもひとまず南京事件が記載されるようになりました。
[宮武嶺氏(元関西学院大学法科大学院教授。東京弁護士会。日本反核法律家協会理事。)のブログより引用。]


引用のように、この最高裁判所判決で、日本国が【南京虐殺】の【存在】を【認めた】との考えなのですが、その最高裁判決の判決文のうち次の点は注意すべきと考えております。


【裁判所の判決文面のうち】
学界の状況に基づいて判断すると、《中略》
南京占領の際の中国人の女性に対する貞操侵害行為は、行為の性質上その実数の把握が困難であるものの、特に非難すべき程多数で、残虐な行為として指摘され、中国軍民に対する大量虐殺行為とともに南京大虐殺と呼ばれて、南京占領の際に生じた特徴的事象とされているのが支配的見解であると認められる。
(宮武嶺氏ブログより引用。)


この文面の中の【学界の状況に基づいて判断】という文面があります。よく読んでみるとわかる事は、裁判所が判決の根拠に【依拠】したのは、【当時の史料】から【裁判所】が【調べた】という事ではなく、当時の【学界の状況】に【依拠した】という点は、注目すべき点なのです。

つまり、【当時の学界】がどういう史観や思考が【支配的であったか】が問題であって、【事件】そのものが問題だったという事ではないのです。

当然ながら、文部省の検定を勤めた人物も【南京攻略戦】に関する専門家でも何でもありません。

1989年に1984年〜1985年に偕行社の機関誌で掲載された『証言による「南京戦史」』をまとめた『南京戦史』が出版されて以降も、学術界は【何】が【虐殺】なのかも【定義付け】もなされないまま、【虐殺事件】があったという【考え】が【支配的】だったことは判っています。


代表格とも言える洞富雄氏(故人、元早稲田大学文学部教授)、藤原彰氏(故人、元一橋大学名誉教授)、笠原十九司氏(都留文科大学名誉教授)、秦郁彦氏(拓殖大学教授・千葉大学教授)という学者達が【中国共産党の意向】(東京裁判・南京軍事法廷史観)又は【政治的に中国共産党への忖度】をふまえた論旨を学界で【支配的】にさせていただけなのです。

それが、現在でも正しい【認識】であるかと言えば、全くそのような事はあり得ません。

秦郁彦氏は、その肩書きとして【法学博士】とありますが、その代表的著作の『南京事件 ー虐殺の構造』を読むと判りますが、国際法おろか国内法の観点からも【事案】についての論考が見られません。

その他の学者に至っては、国際法への理解は全く皆無、【可能性】と【蓋然性(パーセンテイジ)】が理解できていない論考というありさまで、ほぼその論考は【想像】であるというのが実態です。

裁判所における【根拠】に【依拠】したというも【学界での支配的な見解】というのは、
【想像】の域を超えないものなのです。

ちなみに、偕行社などで板倉由明氏や原剛氏などが言い出した【陸戦法規違反】とは何かと言いますと、ハーグで1907年に結ばれた【陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(通称:ハーグ陸戦条約)】とその【付則】としてある【陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則】です。

【学界で支配的な見解】である(1)の南京事件とは、それに乗っかってその【条約】に【違反】を【戦争犯罪】にするという【極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)】に準じた考え方のようです。


しかしながら、現在この東京裁判が当時の国際法に準じていたかは、現在の研究でどの国際法学者であっても【適法】と言い切れる学者は居ない現状です。

家永裁判の当時の【学界での支配的な見解】ではないことが、現在の【支配的な見解】ではないことがわかっています。

当方は、何度も言及していますが、【国際法】に於ける【ハーグ陸戦条約】が【刑法】でも何でも無い、【合意法】【相互法】の範疇にある【条約】であり、当時この【条約違反】が【刑法】に準ずる【犯罪】に相当するというコンセンサスは形成されておらず、家永裁判判決よりも後に1998年のローマ規定として初めて国際社会で形成されています。
そして、東京裁判当時でも【法の遡及】という【法】を【形成】されるより前の【行為】にまで適応できるかという事が、国際社会でコンセンサスが得られていたという訳ではありませんし、戦勝国が敗戦国に対して【法の遡及】を行ってまで、【犯罪】として処罰できるという事はありませんでした。
それは第一次世界大戦の敗戦国のドイツの皇帝を【陸戦法規違反】の【犯罪人】として裁こうとしたのですが、中立国であったオランダは【そのような慣例もなく国際社会のコンセンサスも法も無い】、【文明社会、文明国家の基本である罪刑法定主義】に反するとして【拒否】しております。
それ以降も、東京裁判まで国際社会として何か【コンセンサス】の【形成】の為の【立法への議論】が存在したかというといっさい見られません。
話を【南京事件】に戻しますが、さらに当時日本国は1929年の【俘虜の待遇に関する条約(通称:ジュネーブ条約)】の扱いに関して【批准】しておりません。

【条約】は、【協定】ですから、【批准】していなければ、
その【義務】に【拘束】されるいわれは全くありません。

例えば、A国の国内法で路上喫煙は禁固5年、罰金10万円という【刑法】があっても、B国にその様な法律が無ければ、B国に居るならば、何ら【義務】も【拘束】もされないのは当たり前の話です。
ですから、【条約】を結んでお互い公平な【義務】と【拘束】を取り決めるのです。

日本の【学界の支配的な見解】は、日本だけが【義務】を一方的に破っていたという【願望的見解】を堅持していますが、当時の【史料】を見ると一方的に破ったという史料はどこにもありません。

むしろ、中国側の方がまず破ったという形跡があります。

【陸戦法規】には、【徽章着用(軍服着用)】が兵士には【義務】付けられて居ます。
何故、そのような【義務】があるかというと、戦闘に置いて【一般人(民間人)】つまり【非戦闘員】という戦闘に従事しない人々が戦闘に巻き込まれないよう、敵軍から攻撃されないように【人道上】の為のもので、【兵民分離の原則】と呼ばれるものです。(戦闘がどういった行為まで含めるかここでは詳しくは述べませんが、実際の攻撃行為、防衛陣地の構築、食料・兵器と弾薬運搬・傷病兵士への医療行為も含まれると認識されています。)
当時日本軍と争っていた中国軍とは、蒋介石の率いる国民党軍、地方軍閥、共産党軍ですが、彼らは南京戦の緒戦である上海事変の頃から、【便衣隊】という【徽章(軍服)を脱いだ状態での戦闘行為】をおこなっており、極めて悪質な【義務違反】であると考えられますが、【学界の支配的な見解】を保持する学者達は、その事を【軽視】又は【無視】する事によって【条約違反】が無かったかのように装っています。
実は、こういうやり方は【学術界】での【支配的見解】の中で、往々にして行われています。それで【支配的な見解】だ【多くの賛成を得ている】としているのです。

【条約】とは【相互法】であり、一方が【破棄】又は【義務不履行】であるならば、【義務】に拘束される必要はありません。

何らかの【不当行為】であったとしても、そもそも【義務不履行】の相手に対して【義務】を履行する必要は存在しません。
ただし、【義務】を履行してはならないという【義務】もありません。
ですから、日本軍関係の史料を読むと、義務を守って戦闘法規を遵守している記述を見ることができます。
そのような【法的状況】の中で、日本軍の【不当行為】というのがそもそも存在するのでしょうか。
それを先回りして【道徳的・道義的責任】ということを言い出す学者も居るのですが、

そもそも【戦闘行為】自体が【人を殺傷する・敵所有物を破壊する】という【平時】に於いては【不道徳行為】なのです。

そして戦闘行為が正当化される以上は、【道徳的・道義的責任】は【協定】の範囲内に含まれているのです。
とうの南京事件は、1937年7月の盧溝橋での偶発発砲事件からの戦闘から上海事変の戦闘の過程である南京攻略戦でのことです。
その中で、日本国政府は【一撃屈服論】として【応懲】を国際社会にも国内にも掲げます。
これの意味ですが、【学界の支配的な見解】を支持する学者達は、【征服・侵略】だとするのですが、日本国政府及び日本軍にそのような【意図】は見当たりません。
盧溝橋からの北支及び中支に及ぶ中国側からの度重なる軍事攻撃に対する報復であり、【国際法】での【復仇宣言】に他なりません。

【国際法】での【復仇】とは、相手の攻撃に対して【相応】の攻撃を持って【停止させること】を目的としたものです。

日本軍の行為は、【相手の軍事攻撃】に対する【停止させること】を目的とした【報復宣言】なのです。
それを【学界の支配的な見解】を支持する学者達は、そう言った点に関心も理解無く【征服・侵略】の延長線上という【見解】を示すのです。
これは【大きな間違い】です。
当時の日本軍の行動は、バタバタとした想定していない事案への場当たり的な計画性のかけらも無い行動で、上海事変での上海攻略に関しても中国側の防衛設備の状況を念入りに調べもせずに大打撃を受けて多数の戦死傷者を出している事からも理解できます。
通常計画的な【征服・侵略】ならば【敵戦力】の【状況】は念入りに調べて攻撃場所を選んで攻めるからです。
その後日本軍が各拠点である中支・北支の都市を占拠していきますが、これを日本軍の領地・領土としているとしていますが、実際には満州国と同様に中国人による政府を立ち上げて治世を行わせています。そして現地人がより良い生活ができるようにインフラ等生活環境を整えていっています。
日本軍は、そこに駐屯していますが、判りやすい例で言うと1990年のイラクのクウェート侵攻に端を発する湾岸戦闘後、イラク敗戦後に於ける欧米のPKOによる駐留と変わりありません。
現在、アフリカのマリ共和国のようにフランス軍が駐屯したりしているのと変わりがありません。
【学界の支配的な見解】を支持する学者達には、その様な事実は目に入らず何でも日本国・日本軍の【侵略と支配】体制という認識しか持ち得ないのです。

さらに、【学界の支配的な見解】を支持される学者達が無視する重要な事があります。
第一次世界大戦から大きな影響を持つようになった【戦時宣伝】です。それついて当時の状況と併せて述べられる事はありません。【戦時宣伝】について語られる場合は、ほぼ日本国内の【戦意高揚】と【劣勢】を隠した【大本営発表】しか述べられる事がありません。
実際には、【敵】への【戦意】を削いだり、【悪魔化】するための【虚偽】をラジオ・新聞・広告などを【国外】で広げる手法があるのです。
イギリス・フランスは謀略型、アメリカは報道型、ソ連は英米混合方式で相手にダメージを与えたり、中立国への支援を取り付けたり参戦させる為に用いられたのです。

【南京事件】とは、中国の戦闘を長引かせるため米国・国際社会の支援を得られるように作成された【戦時宣伝】の側面がある事は拭えないのです。

なぜなら、当初陥落3日間に南京に戦場報道の為に滞在していた欧米の5名のジャーナリストが報道してますが、そのうち米国の2名のジャーナリストの記事の中に見られる【外国人目撃者達】という複数の目撃者や、【消防士】【警察官】への不当な殺害は、当時彼らと同様に南京に滞在し、国際安全地区という一応中立地帯を運営していた欧米人の記録にはいっさい見られないからです。その【外国人目撃者達】や【消防士・警察官】という文言を作ってジャーナリストに伝えたのは、国際安全地区を運営していた欧米人のうち米国の宣教師でもあり金陵大学の教授であったマイナー・シール・ベイツという人物によるものであると判っています。
アメリカ特有の報道型という【戦時宣伝】に沿った手法により、【虚偽】が【事実】として欧米に拡散される自体となったのです。
なぜか、【学界の支配的な見解】は、こういった事を【軽視】【無視】する傾向があるのです。
【戦時宣伝】と関連するのですが、家永裁判当時はまだ、アメリカのNSA(アメリカ国家安全保障局)によるアメリカ国内のソ連のスパイの調査文書【ヴェノナ文書】とロシアの公文書【リッツキドニー文書】の公開がまだだったので、東京裁判の判決が力を持っていたのですが、そして第二次世界大戦や支那事変の起こる要因に【ソ連】や【共産主義者】達の【謀略説】があった事はあったのですが、事実ではない【陰謀論】という【虚偽】【想像】【とるに足らない説】とされていました。それが公開されて以降、米国の研究者の分析によるとそれらの文書から判った事は、

【戦争】を【謀議】して【戦争】を起こしたのは、【ソ連】であり【共産主義者】達であり、本来ならば【戦争犯罪者】として本来裁かれて【処罰】されるべき、【社会から排除】されるべき存在だったということなのです。

【謀略】は、外交官や政府の要人に近い立場の人につかわれる【インテリジェンス】と大きく拡散させるメディアを使った【戦時宣伝】があります。
ソ連はこれを巧みに使ったと考えられています。

南京の国際安全地区にも主要メンバーとしてソ連人2名が関わっています。マギー神父という有名なマギーフィルムを残した人物が居るのですが、東京裁判でも証言していますが、当時ソ連人と同居していた事は史料から判明しています。

当時のアメリカはソ連と国交があり、アメリカ政府のホワイトハウスの主要なメンバーにソ連のスパイが蔓延していた事は先の【ヴェノナ文書】から判明していますし、日本の当時の内閣総理大臣近衛文麿の政策諮問機関である【昭和研究会】、さらに個人的な相談懇親会【朝飯会】には、ゾルゲ事件で捕まった尾崎秀実をはじめ風見章など、共産主義者に取り巻かれていた事実があります。
しかし現在もまだ、【学界の支配的な見解】はこれを【軽視】【無視】している現状です。
こんな【現状認識】に【過誤】がある【状況】が【学界の支配的見解】ならば、【最高裁判所】の【判決】の【根拠】は、【正確な事実】を基にしていないという事になります。

正確に最高裁判所の文書を読むならば、最高裁判所は【事案】の【事実・無実】は判り得ないので、【学界の支配的見解】を【根拠】にした訳ですから、現在2020年においては、【学界の支配的見解】が【過誤】であったのですから、最高裁判所の【判決】の【内容】は誤っている事に他なりません。
学界からの公式発表はありませんので、今でも【学界はその支配的見解を堅持している】ものと考えます。このような事は、愚か以外何者でもないのです。
また、日本政府が認めているかというとそうでもなく、例えば外務省歴史Q&Aの6のように、家永氏の【記述】での【軍民】の【軍】=【兵士】への【不当な殺害行為】への記述は見当たりません。
【多数の】又は【いくつかの】(a number of)【非戦闘員】への殺害行為を認めていますが、どのようなケースに於ける【殺害行為】であるかは、【史料】を【提示】しておらず判明していません。例えば【戦闘行為】に加担した非戦闘員への殺害行為も含まれる事になります。

つまり、日本政府が【南京虐殺】の存在自体は認めたかどうかという事は、曖昧で、あり得ないのです。
【虐殺】という用語は、【感情含有用語】であり、受け手が【酷い・可哀想】などと思えば、それが【正当行為】であったとしても【存在】する用語になるからで、【客観的・科学的】な用語として使用することは【不適切】以外の何者でもありません。

1998年に国際刑事裁判所設立と同時に規定されたローマ規定では、【虐殺】という文言は、【ジェノサイド】として規定されており、日本軍が行ったとされる【戦争放棄違反】とは、【別】とされており、記述には【殺害】又は【大量殺害】となっています。

法曹界に関わっている、法律家が【虐殺】などという用語を日本軍の行為について平気で使用するというのは、法律家の言葉知らず、国内法家の国際法知らずと言う事に他ならず、恥ずかしい行為だと考えます。
ちなみに、家永三郎氏は御専門は、wikiを見る限りでは、文学博士(東京大学:学位請求論文『主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究』)、日本思想史研究、憲法などであって、南京攻略戦についてや近代史に於ける日本国・日本軍の歴史、はたまた国際法について造詣が深いとは言えない方である。


wikiより引用《
抗日戦争の中で行ったゲリラ攻撃に戦時国際法に違反するものがあったとしても、圧倒的に優勢な装備を有する日本軍の侵略に対し、正規軍のみによる、あるいは戦時国際法の定める条件に形式的に適合した方法にしたがった防衛のみを要求するのは、期待可能性を無視したものというべく、正当防衛として違法性を阻却するものと考えるべきではなかろうか。個々の具体的行為について見れば、害敵手段としての相当性を逸脱した例もあったようであるが、日本軍が中国全土でくり広げた残虐行為の連続を考えるときに、その種の例外が若干あるとしても、それを拾い出して中国の責任を問題とすること自体公正を失するというべきであろう。》


これを読むと、どれだけ目が曇っているのかという感じです。
抗日運動によるゲリラという陸戦法規違反行為を正当防衛であるとされて、日本軍に於ける抗日運動への対処は、【残虐行為】の連続であり、日本国が全く悪いのだという戦後の東京裁判史観のステレオタイプそのものです。

【陸戦法規】というのは【条約】に付則したもので、【条約】という【協定】、つまり【双方】の【合意】による【意思と義務】のことです。


 一体、この戦闘を誰が企画し始めたのでしょうか。 

張作霖爆殺以降による度重なる【抗日排日行動】で被害を受け続けた日本が、さらに盧溝橋以降の度重なる軍事挑発に対する正当防衛であるという認識を持たないばかりか、日本軍が軍事的に優勢であるという全く議論違いの論理の整合性も無い頓珍漢ぶりを発揮されています。そんな軍事の優劣は全く関係がありません。

そもそも中国側による戦闘が企画されたのは【西安事件】からです。

ソ連の下部組織であった中国共産党が張作霖の息子の張学良を使って、【抗日戦闘】へ向かわせたのですから。
なぜ、このことを【事実の把握理解】に入れないのかさっぱり【理解】に苦しみます。

基本的に、【学界の支配的な見解】を支持する学者たちやこの人物は何か当時の様々な状況を理解しようとしているのではなく、飽くまで【日本軍を悪い】にしたいと望んでいるだけなのです。

そこに、歴史を正しく認識しているという姿は見る事ができません。
この人物と争った文部省にしても、裁定をした裁判所の裁判官にしても、結局【事案】について何ら正しく見るという事は無かったと考えます。


学界の状況に基づいて判断すると、《中略》
南京占領の際の中国人の女性に対する貞操侵害行為は、行為の性質上その実数の把握が困難であるものの、特に非難すべき程多数で、残虐な行為として指摘され、中国軍民に対する大量虐殺行為とともに南京大虐殺と呼ばれて、南京占領の際に生じた特徴的事象とされているのが支配的見解であると認められる


という最高裁判所の判決文に際して、これが(1)【南京事件(虐殺を使用)】を立証せしめている訳ではなく、現在その戦争犯罪自体の【法律】が無かった以上は、それが【存在】しうるものではないという事になります。
戦闘行為自体により人間が人間を殺害し合うという、非道徳行為である上で、それを【正当化】している以上は、日本軍の行為をことさら【犯罪者】扱いは不当きわまりない行為なのです。
この家永裁判を通じて、日本の最高裁判所が【南京事件(虐殺を使用)】を立証せしめたという事は全くありません。
当時の【想像による】【学界の支配的な見解】を【根拠】にしたという事なのです。

 

そして、結論としては、その【根拠】に
【過誤】がある以上は、
最高裁判所の【判決文】も又【過誤】である
という事になります。


【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その23

2020年08月19日 20時05分16秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】とは、主に【城外】に【崇善堂】の埋葬記録などから、各村落の合算をすると大量の【非戦闘員】が居て、それが戦場における日本軍の不軍紀且つ国際法の陸戦に関する【条約】の【陸戦法規】に違反する不当行為による【殺害】で、しかも【大量殺害】を犯したという主張である。
この馬鹿げた主張に反論する前に、情報収集として城外に【大量の非戦闘員が特定エリアに集結又は分散的に居た】のかという記録がないかを目的に次の戦闘詳報を調べた結果の一つである。

調べた戦闘詳報は、
  山砲兵第9連隊 第一大隊 【9月〜12月】(*1)

今回は第9師団関連の【山砲兵第9連隊 第一大隊】という第9師団隷下第6旅団隷下の部隊の【戦闘詳報】から見てみたまとめである。この山砲第9連隊は、第6旅団に属し、同旅団第35連隊等に協力し、淳化鎮から光華門・紫金山と扇形に展開して要地を攻略している。
結論からみると進軍路程の無錫=>武進(常州)=>金檀城=>土橋鎮を経て、淳化鎮より西側に広がる南京城までの山丘と盆地面に関して【民間人(非戦闘員)】が【蝟集】していたという【痕跡】【形跡】を【戦闘詳報】からは読み解くことが出来なかった。戦闘詳報中に淳化鎮からその南京のエリアには、ほぼ要塞化された陣地が構築されていて、激しい戦闘があり、そのような地域で【民間人(非戦闘員)】が【蝟集】していたのであれば、当然ながら双方の【戦闘行為】により多数が戦死傷していたことはまちがいないが、今回の戦闘詳報には、【民間人(非戦闘員)】が逃げ惑うような記録はいっさい存在しない。


〈12月7日 【C13070271000】 15頁 0879 戦闘経過要図〉

この山砲兵第9連隊 第一大隊の【戦闘詳報】は、上海戦より通して残っているので戦史を知る上では重要な史料と考えられる。
この記事の論旨に該当する崇善堂の埋葬記録は、一部【紫金山】エリアでかぶるが、淳化鎮周辺の青龍山山丘周辺は激戦地の要塞であり、多数の中国人兵卒が死んでいるはずであるが、基本的に埋葬活動の実績の記載の【無い】エリアである。なぜ、ここが漏れ落ちたのかいっさい不明である。
注意を要する点としては、上海戦以降で、蘇州占領時あたりから度々【参謀長(師団)注意・旅団長注意・大隊長注意】として、無錫城攻略以降に11月27日から12月の始めまで【良民保護】【外国権益建築物物品保護】と、【良民(土民)殺戮、家屋放火、徴発と略奪を混同への禁止厳命】と【処罰】も含む戒告のような【注意】がなされている。
山砲兵団の動きは、12月2日には卜戈鎮に着陣し、12月6日には土橋鎮の西の淳化鎮手前の索野鎮に着いているので、相当な速さで進軍していることがわかる。
11月27日から12月6日で100km近い行程を妨害工作物(防護柵や地雷、橋の破壊)や雨天による泥道、クリーク(自然の堀)などを超えて所要日数は9日程で到達している。
ただ淳化鎮以降から南京占領直前までは、そのような【注意事項】はなくなって、理由としては進軍速度と戦闘が激化してきて戦闘中心の記載となっている。


(無錫の南西にある雪堰橋鎮から句容の西にある淳化鎮)

念のためもう一度書いて置くが、南京事件FQAサイトのこの【3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】記事の次の【主張】に対する反論である。
該当サイトの【記事】の主旨は、主に【城外】に【崇善堂】の埋葬記録などから、大量の【非戦闘員】が居て、それが戦場における日本軍の不軍紀且つ国際法の陸戦に関する条約の【陸戦法規】に違反する不当行為により殺害で、しかも大量殺害を犯したという主張である。
その根拠としては主に【崇善堂】の【埋葬記録】などである。それ以外にも周辺での【避難】せずに、又は家族の都合などで、村落の大部分の【一般住民が取り残されていた】ものを、【戦闘】及び【徴発の際】などでの日本軍の不当行為で【殺害】したという【主張】である。
これへの反論としてこの【分析】を書いている。誤解のないようにお願いする。
範囲としては、【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】である12月3、4日以降の範囲に限定する。でなければ前にも後ろにも収拾がつかず論的に判断できないからである。
それと、【歴史】を調べる上で、【第一次史料】はとても重要であり、当時を【知る】という意味では、【最重要】な【史料】ではあるのは言う間でもない。ただ、【精査】という【史料批判】は必要なものである。
【戦闘詳報】は、リアルタイムで記述されるものでは無く、戦況によって変化する中で、担当者の置かれた状況次第で、後日に書かれることになり、記憶や連絡メモなどを参考に記載される。書いた時での記憶の忘失・誤記憶、連絡メモなどは紛失なども状況に依ってはあり得るので、【記憶】【推測】【想像】による【記載】になることがある。それはいわゆる【蓋然性が低い】と言うことに外ならない。
【淳化鎮】は、南京城東南方向の青龍山山系(大城山山系)から起伏のある丘の裾野の盆地帯で、各地山腹等に防衛陣地(掩蓋壕やトーチカ、鹿砦(木製の柵)、鉄条網、地雷帯など)が厳重・重層的に構築されている要塞地帯である。無錫からは蒋介石が造った用水路網を徴発した民間船を使用し、金檀城とその先の薜埠鎮へ進軍ができ、移動速度が増しているが、その後陸路の行軍となり、句容のほぼ西にある土橋鎮から淳化鎮手前で敵軍との本格的な交戦で進軍速度は落ちている。
なお、丹陽城・金檀城を焼き払っているという情報が当時の上位の上海派遣軍参謀長の飯沼守日記(*2)に記載されている。
そして、該当サイトが根拠としている【崇善堂】の埋葬記録には、このエリアでの埋葬記録は、【該当箇所】が無い。

 

【分析・考察】


南京城周辺は、防衛地帯であり、トーチカ・掩蓋壕・鉄条網・鹿砦・地雷などが多数埋設されていて、かなり行動が制限されている。
その中で、【民間人(非戦闘員)】が分割して大中小と蝟集しているということは、なかなか想定しにくい上、戦闘詳報類にも南京城周辺に於の【民間人(非戦闘員)】の姿を視認したことは書かれていない。
無錫や武進(常州)周辺で、他の師団である16師団20連隊の保坂軍医や牧原信夫の【日記】にあるような【民間人(非戦闘員)】を殺害したと言う記載がある事は確かだが、それがどういう前提であったかは判明しておらず、第九師団や山砲兵団で進軍上で度々出される事となった【注意事項】は、淳化鎮以降は戦況の激化に伴い戦闘一色になり【無くなっている】。
何度も繰り返しになるが、山砲兵第9連隊の戦闘詳報は、【紫金山山麓】や【光華門】という【要塞・要害】へ続く【敵】重要拠点を攻略した記録であり、【民間人(非戦闘員)】がいることは考えにくい。実際にいたとしても【戦闘行為】と【それ以外の殺害行為】を明確に分ける実証することは不可能である。しかも大なり小なりの人数の【民間人(非戦闘員)】が【陣地内】に【避難・蝟集】していたと【証明】するような【記述】も見られない。地雷や鉄条網で囲まれた要塞・防衛陣地内に居て、戦闘に巻き込まれ被災していたとしても【戦争行為】の双方攻撃の一環であり、日本軍に何等問題があった行為とは認識は出来ない。
又、上述しているように上海派遣軍の参謀本部には【堅壁清野作戦】という一応の中国軍使用以外の建物への破壊と焼却が報告されている。この金檀城攻略以降にも【良民殺害厳禁】の注意事項が出されているが、実際の行動が【誰】による【行為】かは【明確】ではない。
通常では地元民保護はすると考えるが、ラーべの日記(*3)にも見られるように中国軍にそのような【民間人(非戦闘員)】の意図は見られない。南京城周辺も12月7日以降に日本軍の行動に利用されることを想定した建造物の焼却・破壊を行なっている(当然ながら中国軍の利用目的上の村落への焼却はなされていない)し、翌年には、黄河決壊作戦や長沙焼却作戦などというものがあり、地元民保護を行う思考が存在していない。


〈堅壁清野作戦エリア 12月7日〜12日〉

地元民と記述したのは、当時の中国大陸では中華民国が国家として存立していたわけではなく、中華民国、地方勢力軍閥、中国共産党という異なる勢力が絡んでいるので日本国と抗争している間でも互いに抗争しているので、国民国家として国民保護という観点が存在していないためである。地元民といえど敵対勢力圏の人間は敵になるからである。例えば、蒋介石軍は第四軍という中国共産党軍(ゲリラ)に対して後に攻撃を加えている。
しかも、蒋介石の率いる中華民国も民主的な体制ではなく、軍事独裁者として蒋介石の家族血縁軍閥組織というファシズム体制である故に地元民への保護などはなされていない。このことは南京での民間人(非戦闘員)避難をまず第一に考えず、推定20万を超える【民間人(非戦闘員)】を戦闘区域内に残置したということなどからも裏付られる。
話を戻すと、【民間人(非戦闘員)】への殺害行為を師団は日本軍兵士の行為と判断しているが、その行為を補完する様な【史料】としては今の所、他の部隊である第16師団20連隊の第3大隊の軍医である保坂晃日記や同連隊の第3機関銃中隊員である牧原信夫上等兵の陣中日記(教えてゲンさんサイト参照)があるものの、山砲兵団の進路における【事例】がどうであったかは確認できない。
ちなみに、一兵士や軍医が【民間人(非戦闘員)】を【殺害】を認識して、【可哀想】という【憐憫の感情】を抱いていた事は、確かであるがそれらがどういう【条件】の下で行われたのかは、日記からだけではわからない。事実として【戦闘行為を行っていない民間人(非戦闘員)殺害】あったのかどうかだが、異なる師団で同様のケースが行われるにはそれなりの理由があると考えてしかるべきである。(非戦闘員とは、身分の事で兵卒と異なる身分の名称としている。戦闘行為を行ったとしても非戦闘員である。民間人も同じ用語である。)
1996年に結成された【新しい歴史教科書をつくる会】(*4)の登場に危機感を抱いた当時小学校の教師だった松岡環女史(*5)が、第16師団の33連隊を中心に収集した証言があるが、その中にも【武進】周辺での保坂晃氏や牧原信夫氏の書いた様な証言が多数あるわけではない(ただ当然ながら戦後の時間を経た【証言】はあくまで参考程度、史料としての信頼性・信用性は極めて低い史料である)。南京城攻略が中心という理由もあると考えるが、加害史観にどっぷりと染まった人物の書籍にもほぼ見られない。
後述するが、仮にそのような非戦闘員への殺害が起こったのであれば、師団参謀長・連隊長・大隊長などの各命令後に添付された【注意事項】が多数なされていることからも、【軍規の弛緩】などと言う話とは異なる事態が起こったのではないかと考える。とはいえ、行程上に存在していた宿営等した、又は周辺の村落を悉く全て纏まった蝟集民間人(非戦闘員)を襲撃して殺害を行ったという【記録】はどこにも見られない。当時の軍の行動は速やかな南京攻略で、【敵部隊】でもない各村落襲撃し【殺害】をしている時間と労力があるならば進軍と徴発(食料収集)に使われている。【南京大虐殺】を主張される大学教授や研究者達の主張でも、日本軍は各部隊が南京城攻略一番乗りを目指して、我先に【進軍】していると分析されていると同様に、もたもたと宿営や周辺の村落を襲撃して【民間人(非戦闘員)】を殺害して回っている余裕は見られない。つまりあり得ないということである。

一応、無錫城攻略以降に次のような【注意事項】が各師団・連隊・大隊命令に添付されているので掲載しておく。

 

〈9月28日 【C1111847400】35頁 1112 宿営に関する注意事項 上海兵站司令部 船上〉

 



〈11月19日 【C13070270500】22頁 0735/0736 旅団長注意事項 第九師団第六旅団 蘇州城〉

 


〈11月20日 【C13070270500】32頁 0746 連隊長注意事項 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊 蘇州城〉

 


〈11月20日 【C13070270500】33頁 0747 連隊長注意事項 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊 蘇州城〉

 



〈11月20日 【C13070270500】36頁 0750 連隊長注意事項 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊 蘇州城〉

 


〈11月23日 【C13070270600】6頁 0768 連隊会報 山砲兵第9連隊 蘇州城〉

 


〈11月26日 【C13070270600】19頁 0781/0782 連隊長注意 山砲兵第9連隊 雷家鎮〉

 


〈11月27日 【C13070270600】28頁 0790 連隊長注意 山砲兵第9連隊 雷家鎮〉

 


〈11月27日 【C13070270600】30頁 0792 連隊長注意 山砲兵第9連隊 蘇州城〉




〈11月29日 【C13070270600】39頁 0801 師団参謀長注意 第九師団 雪堰鎮〉

 


〈11月29日 【C13070270600】41頁 0804 師団参謀長注意 第九師団 雪堰鎮〉

 


〈12月2日 【C13070270900】13頁 0830 大隊長注意 山砲兵第9連隊第一大隊 卜戈鎮〉

 


〈12月12日 【C13070271000】31頁 0948 同日会報 上軍会報抜粋 南京城下工兵学校付近〉

 

注意事項を並べてみると、11月27日以降から29日の先行追撃部隊が無錫を出発して太湖の北側の線に沿って雪堰橋鎮(無錫の南東)へ進軍途中で通達が増えている。
最初に注意事項が出たのは、11月19日で、【略奪】への注意であった。蘇州城入場に関し事前の注意だったと考えられる。
良民に対しても必要以上の寛容は必要ないが、適宜宣撫するように指示している。
11月20日の連隊長注意で行為としての【略奪】が出現しているが、側聞(伝聞)という噂レベルの話である。後に書くが【徴発】に関する【通貨】【言葉の壁】の問題もあったのではないかと考える。
その連隊長注意に、初めて【良民】と【敗残兵】を区別するようにという言葉が出てくる。戦場の緊張の中で、当初から想定せねばならなかった【便衣隊】を考えると、区別に関して各小隊では相当難しい対応を迫られたと考える。
この日には、兵士に対して盗難の疑いをかけ始めて所持品検査を開始している。
命を掛けて戦う兵士達にとっては情けない話であったと想像する。
11月26日には、連隊レベルで【良民保護】への注意事項が出されている。
11月27日に、【家屋放火、良民殺戮】への【禁止厳命】があるが、数々の注意事項から関して【行動】が【軍命】にそむけない日本の兵卒の行動としては違和感を感じる。
しかも、具体的な事例は記載されていない。
後手を縛られている【遺体】についても記載されているが、何故そのような【遺体】があるのか非常に気になる点である。
11月29日は、師団からの注意として【家屋放火】を行ったものに対して【厳重処分】を警告しているにも関わらず、帯同する師団本部の近くで度々の注意に対して堂々と反抗的行為をつづけるという事は考えにくい。
師団は、良民保護を厳命しているが、実動部隊の中隊・小隊・分隊の兵士レベルからすれば、良民の【敵意】を測る尺度は存在しないし、スパイ行動を見逃す訳にもいかないはずである。又、村落の住民自体が【反抗的】と判断し得れば、当然ながら【殲滅】という事にも繋がり得る。後述するが【便衣隊】の存在も考慮に入れなければならない状況であり、個々の部隊の判断によるものと考えられる。
場所的には、無錫から南西に向かった雪堰橋鎮であり、ナチスの軍事顧問団が作ったゼートクラインの防衛ライン上に位置している。
11月29日以降は、注意事項が減るのは、戦闘の激化もありえるが、【民間人(非戦闘員)】が宿営地を含め蝟集していなかったと考えられる。

 


〈9月28日 【C1111847400】32頁 1109 宿営に関する注意事項 上海兵站司令部 船上〉

で、【便衣隊】の名称が使われている事から、日本軍は当時中国軍が【陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約】および付属の【陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則】(*6)を破っていると認識していたという事でもある。又、良民と敵敗残兵との区別や、良民の【敵意】を測る方法等難しい判断が各部隊の兵士に求められていたと考えられる。
【戦時国際法】は、【条約】という【協定】なので、一方が【遵守】しなければ、敵対国のみが【義務】に【拘束】されるものではないとも考えられる。
当時の日本軍が、国際法に関する教育を兵士に施さなかったと批判する研究者も存在するが、どちらかというと中国側や南京につめていた宣教師・メディア等を含む欧米人達も又国際法を理解していなかったと考えるべきである。

 


〈11月21日 【C13070270500】40頁 0754 大隊長命令 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊第一大隊 蘇州城〉

清掃に関する記述が見られるが、この辺は現在の日本人と変わりない清潔好きな民族性がうかがえる。

 


〈11月22日 【C13070270500】46頁 0760 連隊長命令 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊 蘇州城〉

当時の敵兵の遺体も埋葬していたというのは、進軍中でもやっていた事というのは驚きである。

 


〈11月21日 【C13070270500】47頁 0761 第九師団参謀長注意事項 第九師団〉

における【支那通貨】を経理部で回収という命令が出ているが、このことが徴発と略奪が混同される原因の一つであったのではないかと考えられる。又、日本軍兵士側は【法幣(*7)】は使わない。中国人側は【軍票】は【通貨】としての認識は持ち得ない。実際の交渉時に【使える・使えない】という【言葉の不通】も伴ってトラブルになり攻撃し傷害と殺害に到るケースも【想像】出来ないわけではない。

 


〈11月23日 【C13070270600】6頁 0768 連隊会報 山砲兵第9連隊 蘇州城〉

における以降の【単独外出禁止】と【隊長の証明書所持】が為されている。単独行動に於ける敵軍・敵住民による拉致・殺害防止と兵卒の個人犯罪を防ぐ防止措置と考えられる。

 


〈11月25日 【C13070270600】13頁 0775 第九師団経理会報 第九師団 蘇州城〉

こまごまと、徴発を意識した細かい行動をとるように支持している。

 


〈12月12日 【C13070271000】24頁 0941 松井石根大将訓示 11月23日付 南京城下工兵学校付近〉


11月23日付けでだされていた松井石根大将の訓示が12月12日になって届くのはどうかと考えるが、それよりも前に注意事項が発せられている事を考えると各師団長レベルには伝えられていたのではないかと考える。

注意事項として、様々なレベルで【注意】がなされている事実がわかる点で面白く、山砲兵第9連隊第一大隊の【戦闘詳報】は貴重な【史料】である事がわかる。
たた、戦闘地帯の分析に於いては、16師団のように【民間人(非戦闘員)】の状況等を示していない事は、問題だったのではないかと考える。

 

【参考文献・参照】


(*1)山砲兵第9連隊第一大隊『支那事変参戦記』 アジア歴史資料センター 【レファレンスコード】は以下を参照してください。

【9月】
C11111847400
C11111847700
C11111847600
C11111847500
C11111847200
C11111847300
【10月】
C13070269700
C13070269600
C13070269500
C13070269400
C13070269300
C13070269200
C13070269100
C13070269000
C13070268900
C13070268800
【11月】
C13070270600
C13070270500
C13070270400
C13070270300
C13070270200
C13070270100
C13070269900
C13070270000
【12月】
C13070271000
C13070271100
C13070270900
C13070271300
C13070271200

(*2)偕行社『南京戦史 史料集Ⅰ』 P.201/9行目 「敵は丹陽、金檀を焼きつつあり」とある 飯沼守日記 11月30日(http://www.howitzer.jp/topics/index2.html)

(*3)ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴイッケルト編、平野卿子訳『南京の真実』講談社文庫 2000年9月13日刊)
P.85 1行目 引用《
12月6日
黄上校との話し合いは忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。
「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか。あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げこもうとしている連中をわが兵士たちの役にたてることができたのですぞ!」
 これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句がつげない!しかもこいつは蒋介石委員長の側近の高官ときている。ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか! なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ? 首になわをつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?》
(真実を知りたい-NO2 林 俊嶺)
当方ブロク記事参照→ https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/029d7260823477e7378f53eadbe3575d

(*4)【新しい歴史教科書をつくる会】 次のリンクを参照してください。 【サイト】  【wiki】

(*5)松岡環著『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて―元兵士102人の証言』2002年8月1日 社会評論社 【Amazon】

(*6)ハーグ陸戦条約 ウィキペディア参照 1907年第2回万国平和会議で改定。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規などとも言われる。交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されている【条約】のこと。【Link】

(*7)法幣 ウィキペディア参照 中華民国蒋介石政権により1935年11月3日の幣制改革によって政府系銀行が発行した銀行券(不換紙幣)を、中国の法定貨幣(Fiat Money)として流通させたものである【Link】