英語版Wikiの[Nanjing massacre]のレイプの被害者数は、[2万人]と[8万人]という数字について

2024年01月18日 11時10分12秒 | 1937年 南京攻略...

英語版Wikiの[Nanjing massacre]のレイプの被害者数は、[2万人][8万人]という数字が掲載されている。

https://en.wikipedia.org/wiki/Nanjing_Massacre

この2万と8万という数字が、どのように割り出されたかについての私の意見を述べたい。


前者の[2万人]は、東京裁判(IMTFE:The International Military Tribunal for the Far East)で、法廷で国際安全委員会のメンバーだったベイツ:Miner Searle Batesが証言した内容の中で安全区のリーダーだったラーベ:John Heinrich Detlef Rabeが見積もった数字だと述べている。日本兵は6週間で割ると1日平均470のレイプ事件を惹き起こしたこととなる。更には1938年1月14日付のSiemens社社長へのラーベからの手紙の中に2万人という数字を書いている。

2つの数字は、おそらく彼らの同僚であるLewis Strong Casey Smytheが作成した報告書(War Damage in the Nanking area Dec. 1937 to Mar. 1938』WDNA)の中にあるデータが推測の根拠となっている。
彼は1938年に行ったされる全家族は47,450中の13530家族への調査で、その内16歳〜50歳までの女性全体の[8%]のレイプ被害があったと報告書の中で主張している。この[8%]という数字が、2つの数字([2万]and[8万])を理解する上で重要な手がかりとなる。

https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938 (WDNA#Page_7)


スマイス報告に依れば、南京の人口は1937年8月の上海バトルが始まる以前は約100万人だった。後者の[8万人]は、その人口の8%として割り出した数字を単純に強姦被害者としたと考えられる。(WDNA#Page_7)



しかし、スマイス報告に従うならば、1938年3月の調査当時の人口は、221,150人だ。その南京の人口の男女の構成比率を男49:女51としていた。例えば人口が100万だとしても、被害者を女性の比率から計算すると約51万人でその8%は約4万人になる。レイプ被害者の8万人という数字は、成立しない。意味の無い極端な数字だと判る。日本兵が見境なく男性までレイプしていたのなら別だ。12月28日迄に日本軍のほとんどが他の戦地に移動して、南京には4千人程度しか残っていなかった。これを考えると現実的な数字ではない。
さらに、スマイスの統計からの15歳〜64歳までの比率は51.8で、女性の対象年齢の人口は約26万人になる。その8%は約2万と成る。これはラーベが主張した数値に近い。だがそれは矛盾している。南京を去った後ドイツに戻ったラーベがヒトラー宛の上申書に難民は25万人と書いているからだ。25万人が全て女性ならば、8%で2万人となる。そのような事あり得ないので、彼の数字は矛盾した数字になっている。
スマイス報告書による当時の人口を約20万人という数値を使えば、20万人のうち対象年齢を計算すると約10万人なる。その8%は約8千人と激減する。ただしベイツの主張には合致してるので彼はスマイス報告のデータから導き出したものだと言えるだろう。


http://imtfe.law.virginia.edu/collections/sutton/7/31/ips-doc-no-2247 (WDNA#Page_7)


つまり、[8%]という数値から全て割り出された数字になっている。


最後に、私は約8千人という莫大な数値のレイプの被害者が居たと証明した訳ではない。
そもそも、スマイス報告書にある[8%]という数値自体に蓋然性の信用性は殆ど無いに等しい。

スマイスは、13,530世帯からの調査で[強姦被害を<訴えた>数値]から算定した。

重要な事は性犯罪での医学的な知見や警察・司法などの捜査の上で事実であると認定された強姦被害結果から算出した数字ではないということだ。又、日本人と中国人のハーフがその後多数生まれたという歴史記録もない。

結論として蓋然性のとても低い数値から導き出された被害者数は、事実として考えることは不可能だろう。
今回は、2万〜8万という数字がどのような方法で作成されたかを考えたが、その数字には蓋然性がかなり低い、限りなく無意味な数字だと判断出来る。
Wikipediaの数値情報は、デマだと考える。


南京の戦場及び安全区についての理解

2023年12月01日 08時15分00秒 | 1937年 南京攻略...

南京陥落前後に生じた所謂南京事件(南京大虐殺・南京虐殺・レイプオブ南京)を理解する為には南京城の構造や戦場の状況を少し説明する必要がある。

なお、日本国内の議論やSNSなどの口論では南京事件は捕虜及び中国兵の処刑の国際法に準じていたかが論点になることが多い。ただ今回は東京裁判や中国共産党や海外のWikiやブログなど定義である一般人の大量殺害を定義としている。

南京市は、高さ10m〜12mの古代中国帝国によって作られた城壁に囲まれた南京城の内のエリアと、城壁外の門前にひろがる門前街および各地村落と未開発エリアに分かれる。

戦場は主に重要な城壁外の2つの防衛拠点があり、南の雨花台、東の紫禁山と呼ばれる小高い山に中国軍の要塞が築かれていた。

本格的な南京城壁外の戦闘が9日に始まってから、激しい戦闘の後12日夜に司令官が黙って南京から逃亡し、南京防衛中国軍は戦闘に敗北した。中国軍は北部の揚子江側と東の北側などから逃走を図ったが、ほとんど日本軍に殲滅された。(出典:冨澤繁信「原典による南京事件の解明」http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Using-Primary-Sources.pdf


南京を理解する為には、この城壁内の状況と城壁外の状況があるということを知っておく必要がある。

南京陥落前は城壁内部は非戦闘地域で、城壁外部は主要戦場だった。
当時、アメリカ人やドイツ人、イギリス人が、城壁内部の欧米人居留エリアに安全地帯つくった。上海戦でフランス人牧師(Robert Jacquinot de Besange)が作った上海の安全地帯に習って作られた。
彼らは[The International Committee for Nanking Safety Zone]と自称し、彼らは安全地区で約20万人の大勢の一般の中国人を保護した。
そのエリアを管理する上で、彼らは日本軍との交渉や苦情・陳情を行った。
公式文書として、南京安全区檔案(Documents of the Nanking Safety Zone)を残して居る。「檔案」は公式文書の意味である。


有名なジョン・ラーベを始め、欧米人の彼らの情報のほとんどが、その周辺で見たり聞いたりしたことだった。
公式文書には日本軍の不法行為(殺人・強姦・掠奪・放火)が書かれているが、どれも証拠不十分な噂程度の話で、殺人も23件で、53人の被害者に過ぎなかった。
安全委員会の実質的なリーダーだったアメリカ人宣教師・金陵大学教授のベイツは13日から15日までの3日間が最も酷かったと記述を残したり、東京裁判で陳述しているが、公式記録には僅か15人程度である。
城壁外部に眼を向けると、戦闘終了後では地雷や不発弾などがあり危険で、中国敗残兵の掃蕩も行っていたので彼らの城壁外の探索を日本軍も許可をしてなかった。
彼らの情報源は、城壁内部にほとんど限られていた。
一部、デンマーク人のシンドバーグ(シンベア/南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-49547357)という若者が、南京城壁から30km離れた龍潭近くのセメント工場から避難民の陳述書を安全区のメンバーに伝える為に日本軍の来るまで移送されてやって来たが、彼の情報でも9箇所の村で死者は50人程で、彼らが兵士だったのか一般人で戦闘で巻きこまれたのか日本兵による犯罪を証明する証拠は残されていない。(出典:『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店 石田勇治・笠原十九司・田嶋信雄・吉田裕 2001年)
WW2後に日本の政治家や将軍を裁く東京裁判が開かれ、その軍事裁判で南京暴虐事件が告発された。
それによると1937年12月13日から1938年2月6日迄の6週間に、南京の城壁内部周辺で20万以上の【一般人が大量殺害】され、強姦や、放火、掠奪が行われたと【判決(judgment)】を受けた。この判決で重要なのは【一般人の大量殺害】であることで、捕虜や中国兵への扱いではない。


南京の攻略戦を指揮した日本軍の松井石根大将が、防止措置を何もしなかった又は効果のない命令を出した無責任だったという理由で、【犯罪的責任】という聞いたことのない【罪】で【死刑判決】を受け、1948年11月12日に巣鴨プリズン(Sugamo Prison〈East Ikebukuro Central Park〉)で絞首刑にされた。
当時、戦争犯罪という法律は存在せず、唯一の国際法学者で裁判の判事に名を連ねていたパルは、そのことを指摘している。WW1で負けたドイツ皇帝の訴追が国際法では存在しないと引き渡しに応じなかったオランダの対応でも判る。因みに、国際法で【戦争犯罪】が成立したのは1998年で、第23条と第24条はとても重要な事が書かれているので知っておくべきだろう。(国際刑事裁判所に関するローマ規定


東京裁判の【判決】の根拠とされたのは、慈善団体と南京の行政官の一人と数人の個人による情報による埋葬記録だった。
死体がゾンビでない限り自ら動かないのは当然であり、城壁内部で一般人が数万人から20万人も集められ城壁外部へ移動する歴史記録は確認されない。又は大量の死体を城壁外部に運んだ記録も無い。城壁内部で大量の死体を焼却した記録も無い。

有名な侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の江東門は城壁外である。前述した城壁内部に居た欧米人は、そのような情報の記録は一切残していない。


開戦前には、城壁外の村々は中国軍によって焼き払われ、一般人は城壁内部へ避難を強制された。安全区に避難した一般人は、そこから外出する際は黄色の腕章を付けなければならず、特別な許可証を中国軍から発行してもらう必要があった。
そのことは、陥落3日後12月15日迄滞在したNYTの記者(F. Tillman Durdin)が記事にしている。


前述したデンマーク人が南京安全区にもたらした陳情書には次のように書かれている。竜潭から太平門、南京までのおよそ25キロの間にある全村落と約2000戸以上の家族、数千軒の家屋が焼かれた。東陽鎮から中山門、南京までのおよそ30キロの間にある全村落と一万戸以上の家族、一万軒以上の家屋が焼かれた。
彼らの陳情の内容では、日本軍によって焼却されたことになっているが、中国軍によって焼かれた状況を日本軍に責任転嫁させた情報工作(ニセ情報)だったと考えられる。
大量殺害の証拠である埋葬記録の内、城壁外部で大規模埋葬を行った団体が、崇善堂(Chongshantang)という慈善団体だった。
11万近い途方もない埋葬を僅か1ヶ月程度で行った。正確には日数は25日間だった。


しかし、この団体の行動記録は当時の日本軍や欧米人の記録には見ることは出来ない。東京裁判の証拠でも詳細はほとんど掲載されていない。
彼らは秘密裏に、日本軍に邪魔されることなく、埋葬を行った事になる。
この意味は、仮にそれらの死者が存在しても、少なくとも南京暴虐事件での期間に殺害されたかは不明であり、通常考えられるのは戦闘での死者だと言う事になる。
日本軍が関係した別の埋葬団体の記録からも、城壁内部は確かに埋葬記録はあるが、城壁を守る中国兵も日本軍から攻撃されて死んだ者が少なくないので、ほとんどが戦闘及び巻き添え、同志討ち(friendly fire)、怪我(上海及びその途中での戦闘で負傷した中国兵、日常での事故を含む)、病気、餓死、寿命(lifespan)だったと考えられる。
崇善堂の活動は、1984年に歴史家の阿羅健一氏(Kenichi Ara)が中国の歴史記録を発掘したことによって、当時活動していない団体だった又はとても微弱な活動だったことが判っている。(出典:「崇善堂」の埋葬記録 虚偽と証明 https://nanking-shinjitsu.com/2023/02/07/%e3%80%8c%e5%b4%87%e5%96%84%e5%a0%82%e3%80%8d%e3%81%ae%e5%9f%8b%e8%91%ac%e8%a8%98%e9%8c%b2%e3%80%80%e8%99%9a%e5%81%bd%e3%81%a8%e8%a8%bc%e6%98%8e/
とても単純な話だが、これ等の情報を知らない人や状況を理解せずに南京事件に付いて述べる人が多いので注意を促す。


外務省HPの歴史Q&Aの【6.南京事件】の記述を巡る和田政宗議員の質問に対する林大臣答弁

2023年04月05日 14時33分04秒 | 1937年 南京攻略...

2023年4月3日の国会(The National Diet)の参議院の決算委員会(House of Councillors Accounts Committee)で和田政宗議員が外務省のHPの歴史認識(Nanjing Incident 1937)の記述について質問した。

林外務大臣の答弁が歴史問題に対する日本政府の重要認識だったと考える。

あらためて日本政府は明確に東京裁判・南京軍事法廷での判決内容を否定したことになる。

※なお、平成19年(2007年)4月24日に閣議決定された質問主意書への政府答弁が現在不明なので、分かり次第情報を付加するつもり。なお事件関係者の証言についても情報は提示されていない。

 

林外務大臣の答弁は次の通り:

いわゆる南京事件に就きましては、その事実関係をめぐりさまざまな議論が存在していることは承知をしておるところでございます。

いまご指摘にありました外務省のホームページの記載でございますが、は平成19年(2007年)4月24日に閣議決定された質問主意書への政府答弁、これを記載したものでございまして、どう答弁で示されました認識は関係者の証言や事件に関する種々の資料から総合的に判断したものでございます。

この資料でございますが、外務省が作成した物は確認できておりませんが、

政府機関で作成されたものとしては1975年に出版されました当時の防衛庁防衛研修所戦史室による戦史叢書支那事変陸軍作戦第一巻において該当する記述があると承知しております。

 

 

これがその記述。
『戦史叢書: 支那事変陸軍作戦1』

http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=086 コマ番:229) P.436


注 南京事件について

南京は外国権益(foreign interests)が多く、また多数の非戦闘員(Non-combatant)や住民(residents)がいる関係上、方面軍司令官は、とくに守するよ軍紀風紀を遵守するよう指導していたが、遺憾ながら同攻略において、掠奪、婦女暴行、放火等の事態がひん発した。これに対し軍は法に照らし厳重な処分をした(14・15)

ところが当時同地にとどまっていた諸外国特派員が生々しい戦禍の状況を世界にし喧伝した。

たとえば英国マンチェスター・ガーディアン紙(The Manchester Guardian)の中国特派員H.J.ティンパーレン(Harold John Timperley)が、昭和十三年(1938)七月「中国における日本軍の残虐行為(What War Means: The Japanese Terror in China)」を編集発行し、米国のジャーナリスト、エドガー・スノウ(Edgar Snow)はその著「アジアの戦争(The Battle for Asia)」(昭和十六年(1941)発行)のなかでこれを紹介し「軍国主義日本の狂暴(frenzy violent of Japanese Militarism)」を全世界の人々に印象づけようとした。

そのなかで最も強調しているのは、日本軍が何十万という捕虜や住民を殺したということである。

<中略>

しかし、その証拠を些細に検討すると、これらの数字は全く信じられない。

以上


日本の中学校・高校の授業に使用される教科書に【南京大虐殺】の記述を全く削除すべきであるという意見について

2021年04月05日 12時00分00秒 | 1937年 南京攻略...

日本の中学校・高校の授業に使用される教科書に【南京大虐殺】の記述を全く削除すべきであるという意見をSNSで見ることがある。
しかし【南京大虐殺】の記述を全く削除する必要はないと考えている。
寧ろ、次の点を留意して記述される必要があると考える。

①日本国内および国際社会で、現在も【事実】と【事実の解釈】を巡っての係争が行われ続けている。確かに主要な学術会や知的エスタブリッシュ(通称知識人)の面々は学内や組織の政治的な意向から現在は学術論争をしていないことは事実と考えている。ただ少なくとも、日本国政府はユネスコ記憶遺産での中国側主張の【南京大虐殺】を認めていない。

②日本では、議論のためのⅠからⅢの3つ程度の類型が存在する。
Ⅰ、事実関係という類型(人数、行為エリア、期間を巡っての証拠〈史料、画像、証言〉の分析
Ⅱ、国際法からの解釈による類型(戦闘行為そのもの違法性:不戦条約・九ヶ国条約、殺害行為の違法性:ハーグ陸戦条約)
Ⅲ、インテリジェンスヒストリーからの類型(戦争宣伝・謀略)で、近年ヴェノナ文書が大きな影響を与えた。

南京にまつわる【論旨】には4種類がある。

A)南京大虐殺論(中国側主張)
Ⅰ(1.30万人以上。2.南京城内及び15km圏内での殺害。3.12月13日〜1月末)、Ⅱ(不戦条約違反による侵略戦争により全て違法、南京軍事法廷・東京裁判の判決を肯定。戦争犯罪として理解)、Ⅲ(存在しない。虐殺を否定する場合は右翼や軍国主義者によるデマ)

B)南京事件論(【虐殺】という用語を使用する。4万人から10万以上を設定し、兎に角大量の人間を虐殺したと主張。)
Ⅰ(1.4万人、5万人、6万人、10万人とバラバラ学者で異なる。2.上海から南京の周辺エリアを含む。1937年11月末から1938年7月程度)、Ⅱ(不戦条約違反による侵略戦争により全て違法、東京裁判の判決を肯定。戦争犯罪として理解)、Ⅲ(事実に影響しない程度の極小規模の戦時宣伝を認識。)

C)南京事件論(【虐殺=陸戦法規違反】と定義。旧日本軍親睦会である偕行社や編集者の板倉由明氏、畝本正己氏等の事件の解釈)
Ⅰ(1.2,000人から約2万人。2.南京城内及び周辺攻略拠点。3.12月9日〜3月初め)、Ⅱ(ハーグ陸戦条約の陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則に反する行為のみ軍律違反。南京法廷・東京裁判判決を否定。)、Ⅲ(A、Bの大部分が、戦時及び戦後の戦争宣伝という虚偽。)

D)南京事件(【虐殺を否定】又は【虐殺という用語使用を否定】。日本国で起きる平時の犯罪率程度の兵士個人による殺害事件。その他はほぼ戦闘行為に依る合法殺害。違法行為は推測に過ぎず戦争宣伝という虚偽。)
Ⅰ(1.推測不可能。2.南京城内及び周辺20km圏内。3.12月3日〜3月初め)、Ⅱ(ハーグ陸戦条約の陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則に反する行為のみで、当時の国際法では犯罪行為ではない[戦争犯罪否定]。南京法廷・東京裁判判決を否定。)、Ⅲ(現在のABの主張は戦時及び戦後の戦争宣伝という虚偽として認識)

補足として、日本国政府の外務省が現在も公開しているホームページの内容が【南京大虐殺】および【虐殺】を公認しているという主張もあるが、文言的には【虐殺】は一切見られず、又【根拠と成る史料】の指定及び公開もしていない。
2021年初めに、自民党の山田宏議員の活躍で、外務省ホームページの英語版に於ける【a number of】という大量を示すともとれる文言は紛らわしいので削除された。このことで【数量】的にも何かを示しているわけではなくなった。

Ⅰ〜Ⅲの分類と、A〜Dの論旨が大学などの高等教育研究機関では、学内及び組織の論理(政治的理由)で検討されているとは言いがたい。
しかし、民間の出版物ではそれぞれ自由に研究した分析文献が発表されているので、過去の公刊された文献などを含めると理解が深まる。
また、インターネットでも国立公文書館アジア歴史資料センターや国会国立図書館デジタルアーカイブ、各大学のアーカイブでは、史料や論文などが公開されているので、根拠と成る史料・資料を探すことの習慣を身につけさせることにも繋がる。
それによって、メディアやインターネットで流される情報の真否を判断できる素養をつけることになるかと考える。
そして、現状を正しく認識することで、海外で流布されている主に(A)や日本の学術会に蔓延している(B)への真否を判断できるのでは無いかと考えている。
むしろ、臭いものに蓋をするのではなく、時間を取って様々な情報を提示することで考える力を養わせることも必要である。
又、明治以降の日本国の近代化の歩みを考えれば、【国際法】は絶対に無視することが出来ない要素である。【戦時国際法】については、現在【国際人道法】という名前に変わっている。批准した国家は国民にそれを教育・周知して行くことを義務づけているが、この国際人道法ですらまともに国際社会でも日本国内でも義務教育及び周知されているとは程遠い現状を打破するためにも並列的に教育していく必要がある。

この辺を考えると中学や高校の社会科の教師は非常に大量の知識が要求される専門性が必要であり、一人の人間ではほぼ不可能だろう。
なので、ネット会議のように一人ではなく複数の教師による同時進行的な授業が必要と考えている。現場にいる教師は司会進行役(又は教育補助)といった役割の方が良いかも知れない。

国際刑事裁判所規定(ローマ規定より)


戸谷由麻著『東京裁判―第二次大戦後の法と正義の追求』の中の気になる箇所の紹介

2021年03月17日 09時41分10秒 | 1937年 南京攻略...

前回の東京裁判関係文献の読書感想文に引き続いて、関連した文献の読書感想文である。
その気になったところと言うのは、

引用《
P.332 6行目
…滝川は東京法廷であきらかになった南京事件については、日本軍による大規模な暴虐があったことをみずからの現場検証とも照らしあわせて事実として認めており、東京裁判の史実確定の機能をある程度は評価していた。

上記の中の【現場検証とも照らしあわせて】というところである。因みにその【現場検証】についての説明として、滝川政次郎弁護人(旧海軍大臣の島田繁太郎被告の補佐弁護人)が1953年に出版した東京裁判の回想録兼概説書『東京裁判を裁く』からの引用である。

引用《
当時私は北京に住んでいたが、南京虐殺の噂があまりに高いので、昭和十三年の夏、津浦線を通って南京に旅行した。南京市街の民家が概ね焼けているので、私は日本軍の爆撃によって焼かれたものと考え、空爆の威力に驚いていたが、よく訊いてみると、それらの民家は、いずれも南京陥落後、日本兵の放火によって焼かれたものであった。南京市民の日本人に対する恐怖の念は、半年を経た当時においても尚冷めやらず、南京の婦女子は私がやさしく話しかけても返事もせずに逃げかくれした。私を乗せて走る洋車夫が私に語ったところによると、現在南京市内にいる姑娘で日本兵の暴行を受けなかった者はひとりもいないという(『東京裁判を裁く』下巻 P.114)。

この引用文から判ることは、

①彼が弁護人としての調査、警察及び検察の捜査として南京に赴いたのではなかった。

②単に興味本位のきらくな【旅行】だった。

③市街地を巡ったコースが不明。

④日本兵の放火と証言した人物が不明な事。又日本兵の放火が断定できる物証があったとしても理由が不明。

⑤南京の婦女子に声を掛けたエリアが不明な事。又状況が不明。

⑥南京市内の女子が全て日本軍の暴行を受けたとの洋車夫の証言があった。ならば、混血児の調査と産婦人科での堕胎処置の件数の調査していない。

①〜⑥のことを考えれば、【現場検証】となどと呼べるかどうかは、一顧だにもできないはずである。

法学関係の人間ならば、この辺ぐらいは【疑問】を持つはずであるが、この戸谷氏は【絶対に証拠は調査しない主義】全開なので滝川政次郎の【回想】を【事実】として認識し拡散しようとしてる。
むしろ、このような【印象】を持つ人物が、弁護団に加わっているし、又戒能通孝氏のように【共産主義・社会主義】へのどちらかというと傾倒が見られる人物が【南京暴虐事件】自体への反論を【妨害・阻害】したとも想像は可能である。
また、菅原裕弁護人(旧陸軍大臣の荒木貞夫被告の主任弁護人)も引き合いに出しているが、その菅原氏の回想『東京裁判の正体』(1961年出版)で【他方では、しかしそのうち二割方は真実だと考えないわけにはいかなかった】との記述を事実の証明としていることについても、頭からの【事案係争】を【投げ捨てて】いる弁護団ならば、そう【思う】のはあり得る話だとうなずけても、その感想が【事実】又は【真実】とは又【別】である。
まして【二割方】とは、何に対して二割方なのかも明記がない。【殺害人数か】それとも【残虐性】か、【殺害・強姦・放火・略奪】のパーセンテイジかも提示していない。この菅原氏の記述は、東京裁判における【証言者の証言】【口供述書】からの、検証を放棄した上での単なる【想像】による【感想】に過ぎない。
厳しいことを言えば、現地での【現場検証】や被告人に相当する将校・兵士を証人を召喚したりする必要があったのにもかかわらず、事実係争を放棄した人物達の単なる言い訳に過ぎないだろう。(ただし、予算・人員・時間とも厳しい制限のあった弁護団には不可能だったことは承知の上である。)

《そうしたうわさがあったことからこと何千キロも離れた北京に住みながらも、滝川は現場にみずから向かって真実を確かめようとしたのだった。》と、滝川氏を持ち上げようとするのだが、滝川氏が【南京旅行】をおこなったのは、1938年11月で、すでに『日寇暴行実録』という中国国民党と中国共産党の制作した戦時宣伝書が既に出版されているし、7月には香港などでも、ティン・パーリーによる『外国人が見た日本人の暴行』というプロパガンダ書籍が世に出されている。LIFEやLookなどでも盛んに事実と異なる【日本軍の悪業】を煽っている。上海近辺からの情報(虚偽)は拡散している。東京大学教授の韓 燕麗(カン エンレイ/Yanli Han)論文『戦時中の重慶における官営撮影所の映画製作について―『東亜之光』を中心に』によると、1938年4月に香港で『戦時中国』(China at War)という英文月刊誌を出版などしているし、1938年に「日本侵略者の暴行」を写した写真および映画がアメリカの各地で展示・上映された。また、ロンドンにおいても、『中国反攻』『南京失陥』『中国為自由而戦』など6本のドキュメンタリー映画が、述べ400回も上映されている((18)劉景修「抗戦時期国民党的対外宣伝紀事」重慶市檔案局『檔案史料与研究』第5期、1990年3月。前掲謝儒弟主編『重慶抗戦文化史』163–164頁より転引)とある。これらは、蒋介石国民党麾下の共産党系である軍事委員会政治部の陳誠および中央宣伝部と外交部の要員の指令で行われている。

つまり、事実ではなく【虚構話】による情報である。当然ながら、南京では1937年12月15日以降、メディアの人間は南京には居ない。つまり拡散される情報は、それらしき情報か伝聞から想像したものにすぎない。それを滝川弁護人が聞いただけと推測が出来る。現場検証などではない単なる観光旅行中の南京市内での出来事が彼をそういう虚偽情報が事実であると思い込んでしまっただけと考えられる。


【南京事件と泰緬「死」の鉄道】のセクションで、もう一人に被告である武藤章をあげている。

引用《
中支那方面軍の参謀副長だった武藤章があげられる。かれは日本軍が残虐行為をおかしたことを法廷内外でいくども認めており、たとえば開廷以前の国際検察局による尋問では、「南京の場合は、二大隊か三大隊が市中に入ることになって居りました。ところが全軍入城してしまった結果、ついに南京略奪暴行事件となったのです」とのべている。つづけて武藤は、国際検察局の調査官とつぎのような問答をしている。
問 支那でも比律賓でも、非常に多くの罪のない婦人子供が殺害され又は強姦せられたことを知って、貴殿は良心の苦しみを感じませんでしたか。
答 南京及びマニラの残虐行為のあと、自分は両件に於ける参謀の一幕僚でしたので、日本の軍隊教育に何か欠陥があると感じました(15)。
右の発言から、南京のみならずマニラなどその他の地域でも自国軍による残虐行為があったことを武藤が認識していたことがわかる。また無党派、問題の根源が日本の軍隊教育にあるかもしれないとものべていることから、軍律問題の根がたいへんふかいと自覚していたこともわかる。公判中も武藤の証言はほぼ一貫しており、事件当時に塚田参謀長から「窃盗、殺人、殴打及び強姦事件のあったことを聞きました」とのべている。また、侵攻以前に選別隊のみ入城をさせる命令がなぜくだされたのかという質問に対し、「若し余り多数の軍隊を南京に留ることを許したならば、是等の軍隊が上海に於て艱難辛苦を嘗めた事に鑑み、扮擾が起ると感ぜられたのです」とも証言した(16)。武藤被告や日本人弁護人による証言は、ここ数十年にわたって保守層が主張してきた南京大虐殺まぼろし論に疑問を呈する内容であり、重要である。

【南京の場合は、二大隊か三大隊が市中に入ることになって居りました。ところが全軍入城してしまった結果、ついに南京略奪暴行事件となったのです】という下りだが、
偕行社『南京戦史』や冨澤繁信氏の『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』の序版で解説されている南京攻略軍の配置と城内掃蕩部隊を知るとこの武藤章の言質がおかしいことが判る。考えられるのは①参謀副長と言っても全軍行動の把握をしていなかった。②裁判時による虚偽を行っている。③忘却しているなどの3点である。
冨澤繁信氏の論文『原典による南京事件の解明』から地図を参照させて頂くと、各部隊の掃蕩エリアを区切って活動していることを考えれば、各師団司令部は城外に置いていたり、無軌道に【全軍】が城内に入ったという【事実】は窺えない。
この主張をとっているのは秦郁彦氏を初めとする笠原十九司氏などの【南京大虐殺肯定派】の人々で、この根拠の無い想像による論旨に拘泥する理由は、どうしても【南京大虐殺】を肯定したい欲求があると透けて見える。(秦郁彦氏は中間派と呼ばれているが、偕行社の戦史研究から派生した中間派とは異なり、中国共産党への忖度と妥協の産物である【4万人説】を唱える【南京大虐殺肯定派】に属する人物。)
それと、開廷以前の国際検察局による尋問は、弁護人を同伴しない被告の人権を無視した尋問であることをこの戸谷という人物は無視して居る。人権を掲げて活動している人物が呆れ果てる知見である。
又この国際検察局の次の尋問【非常に多くの罪のない婦人子供が殺害され又は強姦せられたことを知って、貴殿は良心の苦しみを感じませんでしたか。】は、あきらかに誘導尋問だろう。
こういうことを【世界人権宣言】などからの人権的考え方を理解しているはずの戸谷氏が如何に人権など考慮もしていないことが判るのではないだろうか。
どのような悪人であれ、個人の人権は【法廷】で【罪】が判定されるまでは、その個人の人権は守られるのが【法廷の大原則】だろう。
呆れ果てた人権活動家である。

もう一つ、【パル判事の反対意見とその波紋】で

引用《
ただしパルの指摘する日本の直面した「脅威」とは、おもに経済的・政治的・思想的な脅威であって、軍事上のものではない。反対意見によると、中国における共産主義の伸張中国における日本商品ボイコット運動米国による蒋介石に指示される中立主義違反西洋諸国による経済封鎖などの事象が、日本にとって自衛戦争を起こすためのじゅうぶんな根拠を為すという(3)。つまりパルが展開する自衛論とは、さしせまった軍事上の脅威があるかないかにかかわらず、自国が非友好的な国際環境におかれた(傍点付き)という「誠実な」認識をもったとき、その国家指導者が打開策として自由に軍事力を発動してよいというものだった。

この文章について、近年の研究では、(イ)【中国における共産主義の伸張】は、ソ連とその共産主義者のスパイによる【影響工作】による日米の政策を歪められてしまった。(ロ)【中国における日本商品ボイコット運動】は、単に平和的な活動ではなく【暴力を伴ったボイコット運動】だった。(ハ)英米による蒋介石への【戦時国際法違反】という【中立義務】を破って、軍事物資や戦闘員・顧問による支援を展開した(援蒋ルート、フライングタイガー、重慶での艦船派遣)。【戦時国際法違反】であり【戦争犯罪】では無かろうか。
【さしせまった軍事上の脅威があるかないかにかかわらず】は、(イ)は兎も角、(ロ)と(ハ)は差し迫った【軍事上の脅威】にあたる。
そして、現在でも【自衛】に関しては【明確な定義】が確立しているわけでもない。フランスとアメリカが作った【不戦条約】での【自衛権】の解釈も、明確であるわけではない。
【ケロッグ・ブリアン条約】を読んでも、何処にも【自衛】にかんする明確な定義もない。この【差し迫った軍事上の脅威】が【自衛権】という考え方は、戸谷氏が座学を怠ったか印象操作を行いたかったか不明ながら、何の根拠にもなって居無いのが現実である。

どうしても、日本は東京裁判で裁かれたとおりの【戦争犯罪者】達が政策を実行してきた【戦争犯罪国家】にしたいという【欲求】が強く、それに拘泥しているために、【史料】からの【事実】を判断することを怠っていると言わざるを得無い。戸谷氏の眼は、曇っているという感じである。

【参考図書】
戸谷由麻著『東京裁判―第二次大戦後の法と正義の追求』(2008年/みすず書房)
冨士信夫『私の見た東京裁判 上』
冨士信夫『「南京大虐殺」はこうして作られた』
偕行社『南京戦史・史料集Ⅰ』
偕行社『南京戦史・史料集Ⅱ』
偕行社『証言による「南京戦史」』
冨澤繁信『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』
藤田久一『戦争犯罪とは何か』
終戦後十周年国民委員会編『世界がさばく東京裁判』
多谷千香子『戦争犯罪と法』
信夫淳平『戦時国際法講義』

【参考サイト】
Wiki:不戦条約 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84
外務省:不戦条約 https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/s22-1.html