【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。
【7 [杉内俊雄(=偽名)]陣中日誌】
P.141
7[杉内俊雄]陣中日誌
所属:歩兵第65連隊>第二大隊>第7中隊・編成
階級:少尉
大正12年(昭和12年)
10月05日 午後10時30分、北家宅発夜間行軍。途中呉淞にて敵の空襲を受ける。
10月06日 月浦鎭南方の胡家浜着。
10月07日 道路改修工作作業。
10月08日 雨。歯痛の為休養。天幕から雨漏りして悲惨。
10月09日 雨。輜重隊の輸送は泥道で難航。
10月10日 支那双十節(*2)
10月12日 胡家浜午前7時30分発。揚子鎭を経て劉家行午前11時30分、大平橋午後1時30分、七傍宅で道路作業、
午後4時30分に作業終了し、蔡寧宅に露営。
10月13日 蔡寧宅で午後演習。
10月14日 午前6時30分、道路改修工作目的で劉家行へ向かう。午前8時老宅北方丁字路より老宅を経て
孫家頭間の道路改修。北老宅道道路修復。第2小隊に銃撃を受け1名負傷。最初の負傷者。
10月15日 戦地の演習は気乗りがしない。隊員7名率いて劉家行北方で機材警備。
10月16日 前線移動の命。午後5時蔡寧宅出発。孫家頭西南エリアに着し展開。午後12時戦傷者1名。
10月17日 前日から壕内で夜を過ごす。午前7時40分、軽機関銃分隊1名負傷。猛家宅攻撃命令受領。
迫撃砲の為1名戦死、1名負傷。
10月18日 午前9時第7中隊予備隊となり相家湾に後退せよとの大隊命令。午前11時第5中隊に掩蓋材料を運搬。
第5中隊1名後巷交戦で戦死。応橋頭において迫撃砲で第8中隊1名戦死、2名負傷。
10月19日 午前8時、相家湾より北米三房へ移動。第5中隊後巷攻撃支援。1名受傷後経過良好で小隊復帰。
第7中隊北米三房防守。部隊主力須宅占拠。
10月20日 銃声激しい中安眠。
10月21日 北米三房儘。軽機関銃分隊隊長1名負傷。午後6時須宅に移動警備。
午後11時敵夜襲があり、接近戦で手榴弾攻撃を受ける。
10月22日 北米三房戻り警備。前夜第5中隊・第2大隊重機関銃隊(ⅡMG)と協力して昨夜の夜襲の敵兵に
大損害を与え、遺体150名、鹵獲した敵兵2名の戦果を大隊へ報告。正午師団予備となり第116連隊と
交代し劉家行北方エリアに宿営。午後9時急な命令で大隊本部に第二大隊重機関銃隊を移動させる。
本部周辺は迫撃砲の猛攻撃を受ける。
10月23日 午後2時迫撃砲による敵猛攻撃を受ける全員沈黙する。200数発と聞く。夜間1名負傷。
第104連隊と交代、前線の劉家行から午後3時三ヶ村警備に回る。
敵銃撃激しく塹壕から頭を上げる事出来ない。
10月24日 午後6時負傷中の部隊員の戦死の報を受ける。1名赤痢の為野戦病院入院。
10月25日 三ヶ村南方面で交戦。3名戦死、5名負傷。
10月26日 2名負傷。弾丸雨飛と名付ける。午後4時30分、大場鎭陥落。馬家宅附近敵軍による夜襲有り。
多大の損害を与えて撃退する。3名戦死。
10月27日 敵射撃激しい。友軍による空爆と山砲による反撃。
10月28日 午前9時40分、第2次補充兵1名戦死。
10月29日 第2小隊奮戦し、馬家宅北方高地占拠。午後4時クリーク渡河。午後6時30分交戦開始激戦。
敵頑強に抵抗し停滞。午後8時迄に、第2小隊戦死者多数。4名戦死、4名負傷。
10月30日 午後2時、第104連隊と交代し馬家宅から後退する。櫓網湾で2日ぶりの食事、休息。
11月01日 王家橋で戦死者を荼毘に附す。先日の食事の為下痢を起こす。
11月02日 戦死者の英霊の墓標を建てる。
11月03日 明治節。戦地より皇居遙拝。午後1時出発、唐家宅で第11師団と警備を後退する。
11月04日 平穏。給養受ける。
11月05日 中隊主力拠点エリアに交通壕を掘る。
11月06日 前日同様交通壕掘削。11師団の残置してくれた糧秣と犬猫肉を食べる。
命令で本部へ軽機関銃隊員を送る。
11月07日 雨。午前10時30分。右翼の万年橋に位置する第1大隊第1中隊に行く。
大隊本部に行き後任の大隊長と面会する。
11月08日 快晴。部隊員1名復帰。
11月09日 快晴。第1大隊方面で銃声が激しい。
11月10日 第1大隊方面及び第6中隊方面銃声と迫撃砲弾攻撃を激しく受ける。午後三ヶ村方面友軍機により空爆。
11月11日 快晴。空軍機による支援爆撃。野戦病院入院中の部隊員1名戦死。
11月12日 早朝、唐家宅北方出発。敵退却。
11月13日 沈家行、花園宅南方着。
11月14日 午前0時出発。午前8時に花園灘占拠。午後0時30分渡河して王宅付近露営。
11月15日 午前8時発。北西方面追撃。塘支占午後6時着し宿営。
11月16日 午前7時発。午後4時敵遭遇交戦拠点占領。
11月17日 午後1時30分、謝家橋鎭東方交戦。1名戦死。午後謝家橋鎭攻略で交戦。1名戦死、2名負傷。
11月18日 謝家橋鎭対岸の橋梁破壊への決死隊5名を出す。
11月19日 謝家橋鎭抵抗頑強で停滞。
11月20日 午前1時斥候。午前4時追撃開始。午後4時10分宿営。
11月21日 午前8時追撃開始。午後4時10分宿営。
11月22日 天候快復の見込み。午前7時朝食。休養。
11月23日 南国宿営地発。クリークを1時間程乗船航行。斥候を出して敵情偵察。午後3時1名負傷。
11月24日 午前3時、敵夜襲。小隊負傷、1名重傷、4名軽傷。
11月25日 風邪の為戦闘に不参加。大隊後方追尾。
11月26日 前日同様後方追尾。
11月27日 前日同様。
11月28日 午前8時宿営地発。午前11時青陽鎭着。友軍戦車・野戦砲・自動車の活躍を見る。
11月29日 敵頑強。正午南閘鎭で市街戦闘開始。
11月30日 南閘鎭占拠。江陰城攻略へ転戦。
12月01日 敵頑強。小隊1名戦死。夜間行軍。
12月02日 午前10時江陰城陥落入城。第三大隊昨日占拠。北方高地で軍旗を奉拝。
編成当時小隊は56名だったものが、現在十数名となる。
【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】
12月03日 第13師団に侍従武官が派遣され、感激する。
12月04日 江陰砲台を見学。
12月05日 午前9時軍旗奉拝。補充兵370名。第7中隊25名補充。聖旨伝達式。
12月06日 小隊の補充員8名の人名列挙。
12月07日 午前7時30分。第1・2・3大隊江陰城西門より出発。7里(約28km)先に露営。
12月09日 午前7時発。行軍6里(約24km)の姫庄に露営。第11師団が鎭江に夜入城。
12月10日 第1大隊鎭江へ急進。鎭江は第11師団により既に占拠。
午後2時30分入城。設営後、徴発。物資豊富。宿営。
12月11日 連隊午前11時発。午後6時、第2大隊を戦闘に橋頭鎭到着。途中アヒルの大群に驚く。
12月12日 豊富な物資を徴発。午後6時急の出発。午後10時頃3里(約12km)先に宿営。
12月13日 午前8時30分発。午後6時宿営。
12月14日 午前5時発。南京城外約6kmの幕府山山麓で敗残兵鹵獲する。約1万7千。
武装解除して、第3大隊が収容隊の任に就く。第7中隊軍旗護衛し南京城の上元門に午後6時20分着。
支那海軍学校宿営。
12月15日 晴天。中隊主力は残敵掃討の為出動。小隊は軍旗護衛で待機。
12月16日 正午頃日本に居る身内・知人からの便りが着く。東京日々新聞社記者の松本則栄氏から直接郵便物を
受け取る。郷里は積雪多いと知る。南京は比べると青々としている。12月とは思われない陽気。
朝食後歩哨。新聞社に感想文を依頼して、記念撮影をしてもらう。午後南京城内を中隊一部と共に見学。
12月17日 午前7時30分、第65連隊軍旗護衛中隊として第13師団を代表して、入城式参加。
12月18日 第4次補充10名有り。揚子江沿岸で捕虜を監視。
12月19日 2名入院。一人は18日。
12月20日 午前9時50分渡河後、浦口鎮へ向け出発。西葛鎭午後4時着し宿営。
【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
江陰城攻略以降は、鎭江城内でも、それ以降もそれまでの交戦状態からの飛び交う銃弾や迫撃砲による敵の攻撃で戦死傷者が出る状況とは全く異なり平穏である。実物の日記の記述は、かなりいい加減でふざけた表記もある人物で、年号を【昭和】の筈が【大正】と書くなどのっけから大丈夫かと心配になるようなものである。激戦の負傷者を書いているから人に対する気遣いを感じるが、記載の中に【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
不思議な事に、この人物は幕府山での捕虜に関してのその後は一切書いていない。12月18日には揚子江沿岸で捕虜の監視としている点と18・19日に1名宛入院している。殺害は、16日と17日の2日に多いので18日というのはおかしな話出る。収容施設の火災についても記載が無い。当時の事について全く関わらなかった可能性もある。ただ少し気の抜けたふざけた記述をする人物であるから、気にしなかったのか、興味が無かったのか、事の重大さを感じて記載しなかったのかは全くの不明である。12月2日の記載にあるように編成当時56名だった小隊が、十数名となるような上海事変での悲惨な戦闘であった事が理解できる記述となっている。
国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*3)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この杉内という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない。
引用 チャールズ・メイヤー(*4)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。
》
日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。
この杉内の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。
【参考文献・参照】
(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】
(*2)支那双十節 wiki 【Link】
(*3)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】
(*4)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】
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