【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その12

2020年03月25日 19時45分44秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。

 


【7 [杉内俊雄(=偽名)]陣中日誌】

P.141
7[杉内俊雄]陣中日誌

所属:歩兵第65連隊>第二大隊>第7中隊・編成
階級:少尉

大正12年(昭和12年)

10月05日 午後10時30分、北家宅発夜間行軍。途中呉淞にて敵の空襲を受ける。
10月06日 月浦鎭南方の胡家浜着。
10月07日 道路改修工作作業。
10月08日 雨。歯痛の為休養。天幕から雨漏りして悲惨。
10月09日 雨。輜重隊の輸送は泥道で難航。
10月10日 支那双十節(*2)
10月12日 胡家浜午前7時30分発。揚子鎭を経て劉家行午前11時30分、大平橋午後1時30分、七傍宅で道路作業、
       午後4時30分に作業終了し、蔡寧宅に露営。

10月13日 蔡寧宅で午後演習。
10月14日 午前6時30分、道路改修工作目的で劉家行へ向かう。午前8時老宅北方丁字路より老宅を経て
       孫家頭間の道路改修。北老宅道道路修復。第2小隊に銃撃を受け1名負傷。最初の負傷者。

10月15日 戦地の演習は気乗りがしない。隊員7名率いて劉家行北方で機材警備。
10月16日 前線移動の命。午後5時蔡寧宅出発。孫家頭西南エリアに着し展開。午後12時戦傷者1名。
10月17日 前日から壕内で夜を過ごす。午前7時40分、軽機関銃分隊1名負傷。猛家宅攻撃命令受領。
       迫撃砲の為1名戦死、1名負傷。

10月18日 午前9時第7中隊予備隊となり相家湾に後退せよとの大隊命令。午前11時第5中隊に掩蓋材料を運搬。
       第5中隊1名後巷交戦で戦死。応橋頭において迫撃砲で第8中隊1名戦死、2名負傷。

10月19日 午前8時、相家湾より北米三房へ移動。第5中隊後巷攻撃支援。1名受傷後経過良好で小隊復帰。
       第7中隊北米三房防守。部隊主力須宅占拠。

10月20日 銃声激しい中安眠。
10月21日 北米三房儘。軽機関銃分隊隊長1名負傷。午後6時須宅に移動警備。
       午後11時敵夜襲があり、接近戦で手榴弾攻撃を受ける。

10月22日 北米三房戻り警備。前夜第5中隊・第2大隊重機関銃隊(ⅡMG)と協力して昨夜の夜襲の敵兵に
        大損害を与え、遺体150名、鹵獲した敵兵2名の戦果を大隊へ報告。正午師団予備となり第116連隊と
        交代し劉家行北方エリアに宿営。午後9時急な命令で大隊本部に第二大隊重機関銃隊を移動させる。
        本部周辺は迫撃砲の猛攻撃を受ける。

10月23日 午後2時迫撃砲による敵猛攻撃を受ける全員沈黙する。200数発と聞く。夜間1名負傷
        第104連隊と交代、前線の劉家行から午後3時三ヶ村警備に回る。
        敵銃撃激しく塹壕から頭を上げる事出来ない。

10月24日 午後6時負傷中の部隊員の戦死の報を受ける。1名赤痢の為野戦病院入院。
10月25日 三ヶ村南方面で交戦。3名戦死、5名負傷。
10月26日 2名負傷。弾丸雨飛と名付ける。午後4時30分、大場鎭陥落。馬家宅附近敵軍による夜襲有り。
        多大の損害を与えて撃退する。3名戦死。

10月27日 敵射撃激しい。友軍による空爆と山砲による反撃。
10月28日 午前9時40分、第2次補充兵1名戦死。
10月29日 第2小隊奮戦し、馬家宅北方高地占拠。午後4時クリーク渡河。午後6時30分交戦開始激戦。
        敵頑強に抵抗し停滞。午後8時迄に、第2小隊戦死者多数。4名戦死、4名負傷。

10月30日 午後2時、第104連隊と交代し馬家宅から後退する。櫓網湾で2日ぶりの食事、休息。
11月01日 王家橋で戦死者を荼毘に附す。先日の食事の為下痢を起こす。
11月02日 戦死者の英霊の墓標を建てる。
11月03日 明治節。戦地より皇居遙拝。午後1時出発、唐家宅で第11師団と警備を後退する。
11月04日 平穏。給養受ける。
11月05日 中隊主力拠点エリアに交通壕を掘る。
11月06日 前日同様交通壕掘削。11師団の残置してくれた糧秣と犬猫肉を食べる。
        命令で本部へ軽機関銃隊員を送る。

11月07日 雨。午前10時30分。右翼の万年橋に位置する第1大隊第1中隊に行く。
       大隊本部に行き後任の大隊長と面会する。

11月08日 快晴。部隊員1名復帰。
11月09日 快晴。第1大隊方面で銃声が激しい。
11月10日 第1大隊方面及び第6中隊方面銃声と迫撃砲弾攻撃を激しく受ける。午後三ヶ村方面友軍機により空爆。
11月11日 快晴。空軍機による支援爆撃。野戦病院入院中の部隊員1名戦死。
11月12日 早朝、唐家宅北方出発。敵退却。
11月13日 沈家行、花園宅南方着。
11月14日 午前0時出発。午前8時に花園灘占拠。午後0時30分渡河して王宅付近露営。
11月15日 午前8時発。北西方面追撃。塘支占午後6時着し宿営。
11月16日 午前7時発。午後4時敵遭遇交戦拠点占領。
11月17日 午後1時30分、謝家橋鎭東方交戦。1名戦死。午後謝家橋鎭攻略で交戦。1名戦死、2名負傷。
11月18日 謝家橋鎭対岸の橋梁破壊への決死隊5名を出す。
11月19日 謝家橋鎭抵抗頑強で停滞。
11月20日 午前1時斥候。午前4時追撃開始。午後4時10分宿営。
11月21日 午前8時追撃開始。午後4時10分宿営。
11月22日 天候快復の見込み。午前7時朝食。休養。
11月23日 南国宿営地発。クリークを1時間程乗船航行。斥候を出して敵情偵察。午後3時1名負傷
11月24日 午前3時、敵夜襲。小隊負傷、1名重傷、4名軽傷。
11月25日 風邪の為戦闘に不参加。大隊後方追尾。
11月26日 前日同様後方追尾。
11月27日 前日同様。
11月28日 午前8時宿営地発。午前11時青陽鎭着。友軍戦車・野戦砲・自動車の活躍を見る。
11月29日 敵頑強。正午南閘鎭で市街戦闘開始。
11月30日 南閘鎭占拠。江陰城攻略へ転戦。
12月01日 敵頑強。小隊1名戦死。夜間行軍。
12月02日 午前10時江陰城陥落入城。第三大隊昨日占拠。北方高地で軍旗を奉拝。
        編成当時小隊は56名だったものが、現在十数名となる。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 第13師団に侍従武官が派遣され、感激する。
12月04日 江陰砲台を見学。
12月05日 午前9時軍旗奉拝。補充兵370名。第7中隊25名補充。聖旨伝達式。
12月06日 小隊の補充員8名の人名列挙。
12月07日 午前7時30分。第1・2・3大隊江陰城西門より出発。7里(約28km)先に露営。
12月09日 午前7時発。行軍6里(約24km)の姫庄に露営。第11師団が鎭江に夜入城。
12月10日 第1大隊鎭江へ急進。鎭江は第11師団により既に占拠。
       午後2時30分入城。設営後、徴発。物資豊富。宿営。

12月11日 連隊午前11時発。午後6時、第2大隊を戦闘に橋頭鎭到着。途中アヒルの大群に驚く。
12月12日 豊富な物資を徴発。午後6時急の出発。午後10時頃3里(約12km)先に宿営。
12月13日 午前8時30分発。午後6時宿営。
12月14日 午前5時発。南京城外約6kmの幕府山山麓で敗残兵鹵獲する。約1万7千。
       武装解除して、第3大隊が収容隊の任に就く。第7中隊軍旗護衛し南京城の上元門に午後6時20分着。
       支那海軍学校宿営。

12月15日 晴天。中隊主力は残敵掃討の為出動。小隊は軍旗護衛で待機。
12月16日 正午頃日本に居る身内・知人からの便りが着く。東京日々新聞社記者の松本則栄氏から直接郵便物を
       受け取る。郷里は積雪多いと知る。南京は比べると青々としている。12月とは思われない陽気。
       朝食後歩哨。新聞社に感想文を依頼して、記念撮影をしてもらう。午後南京城内を中隊一部と共に見学。

12月17日 午前7時30分、第65連隊軍旗護衛中隊として第13師団を代表して、入城式参加。
12月18日 第4次補充10名有り。揚子江沿岸で捕虜を監視。
12月19日 2名入院。一人は18日。
12月20日 午前9時50分渡河後、浦口鎮へ向け出発。西葛鎭午後4時着し宿営。



【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。

このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
江陰城攻略以降は、鎭江城内でも、それ以降もそれまでの交戦状態からの飛び交う銃弾や迫撃砲による敵の攻撃で戦死傷者が出る状況とは全く異なり平穏である。実物の日記の記述は、かなりいい加減でふざけた表記もある人物で、年号を【昭和】の筈が【大正】と書くなどのっけから大丈夫かと心配になるようなものである。激戦の負傷者を書いているから人に対する気遣いを感じるが、記載の中に【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
不思議な事に、この人物は幕府山での捕虜に関してのその後は一切書いていない。12月18日には揚子江沿岸で捕虜の監視としている点と18・19日に1名宛入院している。殺害は、16日と17日の2日に多いので18日というのはおかしな話出る。収容施設の火災についても記載が無い。当時の事について全く関わらなかった可能性もある。ただ少し気の抜けたふざけた記述をする人物であるから、気にしなかったのか、興味が無かったのか、事の重大さを感じて記載しなかったのかは全くの不明である。12月2日の記載にあるように編成当時56名だった小隊が、十数名となるような上海事変での悲惨な戦闘であった事が理解できる記述となっている。

 

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*3)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この杉内という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない。

引用 チャールズ・メイヤー(*4)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この杉内の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)支那双十節 wiki 【Link】
(*3)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*4)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 


【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その11

2020年03月24日 14時33分13秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。


【8[柳沼和也(=偽名)]陣中日記】

P.154
8[柳沼和也]陣中日記

所属:歩兵第65連隊>第二大隊>第7中隊・編成
階級:上等兵

10月02日 上海への渡航中。船中兵士達が食中毒。午後10頃敵機襲来。船同士の衝突がある。
10月03日 午後3時30分上海の虬江碼頭上陸。虬江碼頭前の病院前に休憩中周りを見渡すと
        付近の家屋は全て爆撃されている。2名の支那兵の遺体がある。第1大隊第2中隊の3名戦死。
        午後6時半発。夜間行軍。日本紡績会社宿営。23名の落伍者を出した部隊がある。

10月04日 給養。水道水は割合良い。
10月05日 午後1時半の集合時空襲。上海陸戦隊本部付近の多数の探照灯がある。
        高高度の為、高射砲が届かない。10時25分発。橋が破損の為休止後修理が終了次第行軍開始。

10月06日 夜間行軍。顔が泥だらけになる。部隊とも食事が取れず空腹となる。胡家浜にて露営。
10月07日 夜警の歩哨後、勤務者以外は大隊教練に参加。午後10時から雨が降り出す。
        壕掘り演習でずぶ濡れになる。煙草とサイダーを買う。天幕より雨漏りで寝られず。

10月08日 雨止む。薪が濡れて火をたくことが出来ず、支那の民家で飯炊き。
10月09日 雨。小隊教練。雨でやる気が出ない。
10月10日 第1、5分隊で、旅団報告の為、膝まで没する泥道を各部隊の負傷兵を確認しに行く。
       兵装が濡れてしまい帰営後、12時近くまでかかって乾かす。

10月11日 午前中武器手入れ。午後編成。
10月12日 午前7時発。道を間違え前線の大平橋付近にて休息。道路工事を終えて、蔡寧宅露営。
10月13日 夜明け冷え込む。午後演習。幕舎警備で参加せず。
10月14日 午後6時集合、劉家行へ向け出発。迫撃砲や小銃弾が飛来する中で道路敷設。
10月15日 午前9時中隊教練。午後1時より大隊攻撃陣地並びに突撃陣地構築作業。夜同作業並びに突撃開始。
10月16日 午前中小隊訓練。午後渡河訓練。徴発にて参加せず。午後5時出発。
       午後7時に某敵弾の来る中塹壕を掘り露営。塹壕中の水で腹をこわす。

10月17日 朝敵弾飛来。負傷者有。午前9時出発。前線に到着。
       分隊の兵士の背嚢に弾丸が当たるような雨のように敵弾が飛来する中で塹壕掘る。
       午後4時再出発。午後5時大隊交戦を開始。敵弾絶え間なく続き迫撃砲により若干の重傷者。
       南朱三房付近で交戦。

10月18日 午前6時突撃開始。第7中隊援護射撃。中隊集結し大隊の予備に相家橋に集結。
        この時敵弾による被弾。幸運にも兵装のみ。塹壕を掘り露営。

10月19日 午前8時集合出発。須宅に午後第9師団と交代する。午後10時敵攻勢。
10月20日 午前2時と4時に敵攻勢。午前9時、握り飯1個渡る。午後5時穴の狸のような所に116連隊の中隊が
        加わる。敵の攻勢絶え間なく。

10月21日 須宅配置儘。午後1時より抵抗線作成。午後5時2・5分隊が前進。
        断続的敵弾飛来の中で拠点確保作業。部隊負傷者出る。元拠点復帰の命が出るが復帰。

10月22日 午前1時須宅前に人影有、分隊より射撃。日本軍斥候への誤射かと思われたが敵軍夜襲で交戦。
        午後3時にも夜襲があり交戦。敵は交通塹壕を使い手榴弾を雨のように投げ込んできた。
        激戦後敵交代。午前8時第26連隊と交代。師団の予備に入る。

10月23日 午前8時集合。前線へ向かう。苦戦をした第104連隊と交代。塹壕中を支那兵の遺体の間を縫って
        這っていく。午後6時配備地に着。敵陣不明。敵弾猛烈を極める。

10月24日 猛烈な弾丸の応酬の交戦。夜間壕を掘り進め攻撃準備。後部に背嚢を於いて前線へ戻る途中、
        迫撃砲を見舞われながら命からがら前線へ戻る。

10月25日 午前8時前進命令。突撃を重ね三家村占拠。小隊は第1・3・4分隊長を含め戦死者続出負傷者も多数。
        分隊のと離れて露営。

10月26日 午前中は中隊との連絡員となり分隊に戻る。おむすび半分を食べる。午前8時20分より再突撃。
        三家村を守備。午後9時40分敵来襲で戦死者2名を出すが撃退。

10月27日 快晴。敵猛射続く。午後2時頃日本軍による空爆実施。地響き天地に轟く。夕飯の給養無し。水と乾パン。
10月28日 三家村守備。朝食の給養もなく空腹。昼も給養無く、兵士の士気と戦力が低下する。
        午後1時おむすび一つ給養。午後4時第三大隊攻撃。午後5時半夕食1つ(おにぎりか?)、
        間食餅半分、乾パン2袋、キャラメル4粒。

10月29日 昨日小隊との連絡が途切れる。クリーク渡河前進。小隊に追求。友軍の山砲弾が付近に落下して危険。
        馬家宅東方面に連隊は終結。午後0時より午後1時迄友軍の空爆、
        3時30分から友軍山砲の一斉攻撃後、第2中隊による突撃が成されたが失敗。
        第2中隊はほぼ全滅。我が分隊は援護射撃で千何百発を撃ち、銃が焼ける。

10月30日 午前2時頃敵来襲、撃退。午前10時104連隊の甲と交代。櫓網湾へ後退。
        途上数は知れないほどの友軍兵と敵兵の遺体を見る。三家村の壕へ背嚢を取りに戻るが、
        背嚢の中はなくなっていた。班長以下8名の腐敗した遺体を運ぶ。さらに後方の王家橋のへ後退。
        銃声が絶え間なく聞こえる。

10月31日 午前中平気の手入れ。又戦死傷者の平気を三家村付近へ取りに戻る。
        櫓網湾より小隊の遺体を王家橋に運び午後4時半荼毘に附す。遺体はなかなか焼けない。

11月01日 雨で休養となる。壕内に水が溜まり、睡眠が取れなくなる。間食におはぎ1個。
       第7中隊戦死者33名、負傷者71名。大隊中一番の犠牲者を出した。

11月02日 起床後点呼。休養。壕中に水が益々溜まる。機関銃隊へ遊びに行った際、家が潰れ何とか逃げ出す。
11月03日 明治節の為宮城遙拝・万歳三唱。酒・菓子給付。午後0時馬家宅の前線警備へ向かう。
       第11師団第22連隊と午後4時交代。敵全約200mの距離。3交代で夜間警備。

11月04日 膠着状態。勤務外は手紙を書き、昼寝をする。迫撃砲が盛んに撃ちこまれる。
11月05日 歩哨に立つが飛弾で危険。餅一切れ間食給付。タオルが二人に1枚給付。
11月06日 休養。歩哨の戦友が迫撃砲の為負傷。要因が減り困ったことになる。
11月07日 壕中益々水が溜まり、汲み出し後寝るが、蚊と蠅に悩まされる。
11月08日 警備も成れる。食事は22連隊が物資を置いていってくれたので不自由なし。犬を食べる。
11月09日 酒保が出来る。日用品を購入。饅頭が2個で5銭と高いので呆れる。分隊より猫を貰うが食べず。
       間食麦オコシ1個、餅一切れ。

11月10日 酒保で買った便箋封筒ハガキで便りを書く。夜間歩哨に付く。
11月11日 敵弾の飛来は止まらず。午前0時に銃声止む。
11月12日 午前8時■(厄+頁)家宅出発。敵昨夜総退却。追撃を敢行。夜間行軍にて道を間違えたり
       元の場所へ戻る。午後7時頃第104連隊と敵軍追撃の為行軍。

11月13日 嘉定前の敵陣地を占拠。午後3時30分花園宅に着。敵弾少数が飛来。
       夕食、玉子・鶏、大根の葉とご馳走。

11月14日 午前0時発。前の花花園灘を占拠。全面敵状観察後宿営。午後8時大隊の予備隊編入。
       渡河後前進。行軍続き行き先不明で疲労し、新道路を行軍追撃。午前0時半、某所で宿営。

11月15日 昨日に鹵獲した敗残兵1名を刺殺する。午前3時40分頃。待機。午後1時発。
       途中支那人を荷役で使う。某街に着、徴発、宿営。

11月16日 午前7時半出発。雨で難路となり歩行困難。午後2時45分某地で突如交戦。前に突撃し占拠。
       1軒家で重機関銃隊と共に警戒する。

11月17日 停滞儘。午後8時頃街に突撃開始。昨日5中隊が不首尾に終わった拠点を占拠。
       正午更に前進。街(謝家橋鎭)の中程で敵との市街戦。小隊長負傷。家屋内で休息。
       支那人使用人が戦死。

11月18日 第9中隊前面クリーク線を渡河を援護。午前8時30分渡河。街での交戦開始。友軍戦死傷者を出す。
11月19日 夜明けと共に十字砲火(*2)を浴びせる。1日中交戦。
11月20日 午後1時発。左方面を掃討。午後2時30分、謝家鎭出発。工兵隊による道路敷設が間に合わず
       行軍は難航。追撃を敢行。鷲山に宿営。某所は寺院で約200名位の避難民を確認。豚と鶏を徴発。

11月21日 午前7時30分鷲山出発。雨で行軍難航。午後0時30分昼食を取るが2時半まで行軍。某大に宿営。
11月22日 午前10時迄、兵器・被服の検査・手入れ、後休養。ご馳走で満腹になる。
11月23日 午後7時50分頃、支那人の運送船を鹵獲して船で出発。江陰城の敵陣へ向かう。
       上陸後敵の猛射を浴びながら前進。1名負傷。夜間継続して行軍。小にて大隊全員で宿営。
       午前0時30分。

11月24日 午前3時頃敵夜襲があり、分隊長戦死。分隊の士気が下る。午前8時、荼毘の用意が出来たが
       出発命令で、埋葬。涙が流れて如何とも無し。午前10頃前面占拠。拠点確保交戦で敵撃退。
       午後4時頃出発。祝塘鎮手前ので宿営。

11月25日 前日に続き前面を占拠。小で宿営する。夜間の進撃は敵弾にて停滞。
11月26日 午前5時30分発。祝塘鎮を占拠後又前進。某の手前で友軍の砲撃で小隊3名負傷。
       で大豚と鶏徴発。たらふく食す。

11月27日 午前7時半発。追撃開始。野砲部隊を師団が収容し行軍。煙草(ひびき)(*3)2箱と靴下の給養。
       某で2、3日休養後江陰城攻撃の予定となる。

11月28日 朝急の命令で出発。江陰城を目指す。軍行路には戦車、自動車も通行。
       江陰城の敵が総退却の報を受けての敵退路を断つ目的で行軍。途上全面的多く停滞。
       第7中隊右方面迂回攻撃。夕食と宿営の準備の途中で出撃命令。クリーク線で敵との交戦停滞。

11月29日 夜明け前日の民家で朝食準備。南閘鎭を夕方までに完全占拠。工場に露営。
       第5中隊の准尉戦死。

11月30日 明け方、工場より退却敵軍に対して射撃。数百名殺害。午前9時発。前面占拠。
       クリークを越えた所で警戒線を作る。伍長戦死。

12月01日 晴。夕方まで警戒。敵退却。夜襲を実施。友軍の戦車・自動車と共に江陰城目指し前進。
       軍行路で露営。

12月02日 晴。午前10時、江陰城入城。敵の遺体が山の様に路面の両サイドにある。
       城門近くで友軍の山砲の誤射に合う。街から出た場所で昼食と休憩。
       大隊の兵が敗残兵1名を鹵獲。街の北方山頂で軍旗遙拝し連隊長より訓示後所定の宿舎に宿営。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 休養。武器・被服の手入れ。街中へ徴発。江陰城の街は略奪されて何もない状態。
        水飴・ナツメご馳走沢山ある。

12月04日 晴。休養。外気は寒く。平穏で特に記述する事がない。
12月05日 晴。朝氷が張る。平穏。附近のへ徴発。他部隊のものは要塞砲の見物に行く。
        昨日第3次補充兵が到着。補充兵はそのまま出立。

12月06日 晴。朝東方山で第3次補充兵隊の軍旗遙拝及び部隊長の訓示。
        後編入があり、3名となった分隊にも編入され7名になる。

12月07日 晴。午前7時半発。南京へ向け行軍。寒いが敵影無し。某に宿営。
12月08日 晴。支那人を荷役に雇い行軍。通過や宿営は名前が分からない為書き残せない。
        途中の橋梁などの損壊などで行軍が停滞する事がある。

12月09日 行軍。鎭江附近。疲労困憊。
12月10日 鎭江に着。先着部隊に町中心部を取られて町外れで宿営。物資は豊富。電灯が付き便利。
12月11日 晴。サイダー徴発。午前11時出発。京図鎭着。
12月12日 晴。徴発。
12月13日 出発。前日夜間行軍。明け方近く某着。
       明日早朝出発予定だが、宿舎で二度も火災を起こしかける。

12月14日 出発直後、第8中隊が山手から敵兵による手榴弾攻撃で、戦死者1名、負傷者1名を出す。
       明け方に南京目前となり、前衛の第3大隊が支那兵の投降兵を鹵獲。
       1万8千の全ての捕虜を一に収容した。第5中隊が幕府山を攻撃・占拠。
       両角部隊が南京攻略戦の戦死に名が載る。軍旗中隊となり夕方支那軍水雷学校に宿営

12月15日 何もする事がない。周辺で敗残兵掃討へ出るが、敵影無く。徴発に変更。
       支那饅頭が旨かった。16師団が敗残兵を殺害するのを見たが残酷だったという話を聞く。
       英国会社は電灯付くが、日本軍は手出しが出来ないと聞いた。

12月16日 晴。朝8時に出発。小隊長と共に南京城見学に入る。明日の入城式には歩哨の任があり式典に
       出席できない為の配慮である。城内は結構荒れている。大きな街だが、何もない。夕方帰営。
       第4次補充兵編入。

12月17日 晴。4交代の歩哨。日中は単独の歩哨。夜間は複数での歩哨。工兵隊が南京附近のトーチカ類を
       爆破しているのが印象に残る。夜は第2小隊が捕虜を殺害する為に行く。
       戦友が兵を半円形に布陣して機関銃・軽機関銃で射殺。その事については余り書く事が出来ない。
       7千余りが揚子江でと戦友からの情報。

12月18日 休養。1昼夜の歩哨の為、殆ど寝て過ごす。足の小指痛む。
12月19日 平穏。第3小隊が昨日の支那兵の遺体を取り片付けに行くが、足の小指の痛みで残る。
       片付けるのは面白かったと聞かされる。

12月20日 朝9時出発。揚子江渡航。浦口鎭着。


 

【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、

これと言って特筆すべきものは無い。

12月8日に支那人を荷役に雇っている事。12月15日に16師団が行ったという敗残兵殺害が残酷だったという話を聞いた事。英国企業おそらくは和記洋行と考えられるが権益の問題から【手出しが出来なかった】と記述している。

その他のエリアに【一般人】が【大勢居た】ことも【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。この人物も鎭江を越えた当たりから宿営地が火災になっている。単なるミスなのかフシギな点である。

《A》の定義外ではあるが、11月20日に謝家橋鎭(常熟の北5kmぐらいの地点の街)の附近にある鷲山という地の寺院とおぼしき場所で200名程の避難民を確認している程度だが、これを殺害等々を行ったような記述は見られない。
この人物は以前ブログに書いた同第二大隊の遠藤高明(第8中隊)が書いているような【収容所火災】の記述が見られない。南京からの夕刻帰営後の中間に出した火災跡の騒然とした事も書かれて居らず、第7中隊と第8中隊の宿営地が異なっていた可能性を示してはいるが、その他にそのような記述や史料が無いので少し違和感のある内容となっている。
11月17日には、荷役の支那人が戦死をしたのは気の毒である。

 

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*4)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この柳沼という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない。

引用 チャールズ・メイヤー(*5)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この柳沼の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)十字砲火 wiki 【Link】
(*3)懐かしい日本のタバコ歴史博物館サイト【⑭[口付タバコ]】 【Link】
(*4)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*5)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 

 

 


【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その10

2020年03月23日 13時25分43秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。


【9[新妻富雄(=偽名)]陣中日記】

P.177
9[新妻富雄]陣中日記

所属:歩兵第65連隊>第二大隊>第7中隊・第2補充
階級:上等兵

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月13日 晴天。前夜夜間行軍。午後5時××站発。某へ宿営。
        山上より警戒中敵兵を発見、鹵獲、捕虜を小隊長が斬殺。
        この手帳はその支那兵の所持品。

12月14日 晴天。午前4時50分整列。南京との中間にある虎子台砲台攻略の為出発。
        夜明け間もなく敵兵白旗を揚げて投降。1万5、6千人。武装解除。
        砲台攻略には第二大隊戦死者45名、負傷者78名を出しながらも占領。
        後、第二大隊中、第7中隊はそのまま南京へ向かう。
        途中、揚子江沿岸の支那軍虎子台海軍独立陸戦隊兵営に到着し、宿営。
        第4次補充部隊430名合流。

12月15日 晴天。海軍兵営の儘。銃声はない。捕虜2万5、6千を連隊のみで収容したと聞く。
        上海戦からの戦死した戦友にこの報告で慰めになるかと思う。

12月16日〜20日まで 記事全文が抹消されている。

12月21日 西葛東街巷浦口鎭着。行軍開始。午後4時宿営地着。
12月22日 晴天。全椒鎭県浦口より第7中隊は入城。地元の支那人に歓迎を受け入城する。敵影無し。



【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。

このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるが、この人物は、13日の敵要塞占領後警備中に、発見し小隊長が処刑した敗残兵の持ち物を使うというちょっと変わり種で、何故突然日記をつけだしたのかよく判らない。それまでの記録は別にあるのかどうかという情報は記載されていない。持ち主である敵兵の中国語の部分は破棄したのかどうかについても情報は不明の儘である。
小野賢二氏の書籍のこの人物の扉の部分にはこういう記述しかない。

引用《
入手経緯 遺族より
日記の様態 縦10センチ×横15センチ,穴をあけた用紙を革表紙とと〈改行〉
もに太い紐でとじてある。縦書き。1937年12月13日から記述が〈改行〉
始まっているが,その冒頭1頁目にはシミが多く,解読できない〈改行〉
箇所が多い。また,「十二月十六日 晴天」という記述のあと,イ〈改行〉
ンクで書いたものをなにかで抹消したらしく,空白となっている。〈改行〉
さらに12月17〜20日にあたるところは,残っておらず,あとで〈改行〉
破棄されたものと推定される。〈終了〉

この【日記】と称する資料の印象は、極めて不明確で本来史料としは使うべきではないと考えるが、このような載せたのは、小野氏や彼を取り巻く編集部や本多勝一という虚偽拡散者、藤原彰などの加虐史観の学者の【加虐史観】をより強く【印象】づけるためのものでしかないと言える。
因みに、インクはインク消しというものがあって万年筆の書き損じなどは消すことが出来る。万年筆とインク消しで検索されると良いと考える。当時の軍事状況の中でこの人物がインクとペンをよく使えたなという感想は持つ。

 

【参考文献・参照サイト】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 


【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その9

2020年03月20日 11時55分00秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。

 


【10 大寺隆(=本名)陣中日記録】

P.183
10 大寺隆 陣中日記録

所属:第65連隊>第二大隊>第7中隊・第4時補充
階級:上等兵

12月02日 船上から呉淞を通過。岸を眺めると砲弾の後が生々しい。兵士が廃墟の中でせわしく歩いている。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 午前8時30分呉淞上陸。支那人の遺体が流れている。戦痕跡を見学。
        呉淞砲台跡には遺体が放置され着衣と骨ばかりで、異臭が酷い。
        休憩後午後3時、大場鎮へ向かう。伝令の任につく。紡績工場宿営。

12月04日 徴発。町は汚く乱雑。支那人は一人もいない淋しい町。生水は不可。
        南京米は美味しくなく食べられない。

12月05日 午前8時発。上海の日本人租界は店舗も再開され、兵士達で大混雑している。
        閘北・真茹は激戦の為かなり破壊されている。人馬の遺体腐敗。昼食後行軍、午後4時南翔着。
        海軍の酒保が大繁盛。遺体のある中鍋の徴発。略奪後のようで乱雑。

12月06日 午前4時起床。今朝掘りに氷が張るほどの寒さだった。午前6時発。
        追撃戦の跡に支那兵人馬の遺体が方々に転がっている。
行軍に足が痛む。
        激戦の跡に胸痛む。午後7時30分崑山着。宿営地の遺体を片付ける。

12月07日 午前1時に命令有、午前8時発。宿営地設営者は先行する。
        車が徴発できずにいた所衛生隊の同行させて貰う。途上道端の人馬の遺体が多数ある。
        蘇州城着。蘇州で初めて山を見る。ビールを1本25銭で購入。午後8時半本体到着。

12月08日 午前6時蘇州発。16里(約64km)行軍予定。午前8時頃ニヤ(支那人)を捕まえて荷役をさせる。
        ニヤ(支那人)に乾パンを支給すると大喜びする。
        昼頃、5、6里(約20km、24km)の荷役の代金として20銭を与える
        昼寝をして予定より大幅に遅れる。別の支那人を雇って出発。部隊よりの落伍者に追いつき同行。
        8里(約24km)の行軍で疲労困憊する。午前3時30分大休止。機関銃小隊と宿営。
        本隊はそのまま前進。

12月09日 午前7時出発。ニヤ(支那人)を雇って無錫へ午前10時着。無錫では火災で空が明るくなっている。
        徴発から戻ると火災が起こっている。支那人が火を付けたと聞く。

12月10日 青陽鎮まで6里(約24km)の車での行軍。部隊の者がニヤ(支那人)を雇っているので
        中隊の人数が倍になっている。今までの行軍の疲れから腰が痛む。
        今日より朝香宮鳩彦王が上海派遣軍司令官に着任。西洋鎮でも火災後の戦場跡が生々しい。

12月11日 先行隊として先に出発。難路の為部隊との差は、1km位。午後輜重部隊の馬と同行。
        午後5時30分常州着。宿営。

12月12日 前日と同じく先行隊。輜重隊の車輌で先を行くが、本体は行軍難航。午後馬と行軍。
        丹陽城は火災が酷い。宿営地がなかなか見つからない。部隊本隊の到着は午後11時頃。

12月13日 丹陽から鎮江まで最後の行軍。敗残兵に注意しながら難路を行軍。午後6時過ぎ鎮江着。
        ここに到着すると至る所で火災がある。行軍中は疲労と電灯がないので日誌を付けられなかった
        が、電灯があるので午後11時迄2、3日分の日誌をつける。

12月14日 南京ヘ向け両角部隊追求。第4中隊は徴発担当となる。
        鎮江のビール工場が火災でビールの徴発ができなかった。携行食無く行軍。
        午後の行軍途上敗残兵と交戦。午後4時高資鎮の着。アヒル2羽、山羊2匹、驢馬1頭徴発。

12月15日 朝食は前夜の残り。午前8時30分発。山道を行軍。左側斜面に延々と続く交通壕と所々のトーチカ。
        龍潭鎭午後5時着。途上附近で敗残兵殺害。大きなセメント会社に宿営。
        徴発(米2斗、アヒル2羽、豚2匹、チャン酒、味噌、醤油、小豆)

12月16日 徴発隊。午前8時30分発。物資豊富で徴発容易。
        龍潭鎮から約4里(約16km)の午後2時半東流鎭着。午後7時半、敗残兵2名殺害
        16連隊の一部が夕方敗残兵掃討。機関銃小隊分隊で夜半火事を出す。

12月17日 午前7時40分整列、上元門へ向け発。天気よく汗をかき水が無くなり、クリークの水を飲む。
        山行峠を行軍。午後3時南京では入城式があった事を聞く。峠から南京城が見える。
        両角部隊駐屯する揚子江沿岸に着。宿営。



【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。

このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、第4次補充隊員の為で、ほぼ南京攻略戦を体験していない。この大寺氏は、偕行社の『南京戦史』の方にも紹介・検証されておられる方で、実名である
上海周辺でも、遺体整理が出来てない事が書かれている。上海陥落という大場鎭が陥落したのは10月の末で当時の状況が許される状況では遺体整理は無理であったようである。ビールが1本25銭で、12月8日に荷役賃料が20銭を支那人に支払っているが、煙草代やビールと比較して安すぎるように感じるが、当時の支那農家の労賃物価としては1900年頃に米国の宣教師が使役した際に支払った賃金が1円/月ぐらいであり(*2)、37年経って貨幣制度改革などや米国の銀買いの影響でのデフレも含めて物価としては2倍ぐらい(*3)であろうかと考えると、農家の1ヵ月の30%近いの現金収入が得られたわけで、荷役として本来敵国日本軍の行動に支援することになるにも関わらずスンナリ雇われた事が理解できる。しかも、乾パンという給養付であれば割の良い仕事であったと考えられる。日本軍の悪影響は、鎭江やそのた場所での火事は、支那人雇用により敵工作者側に部隊の位置を教える事になるものではないかと考える。当初の部隊とは違い、携行食の乾パンを所持していた様である。



(1906年から始まり1933年までしかないが、実質賃金がどれぐらい上がっているかを見るとほぼ2倍程度)


12月16日、棲霞山近くの東流鎭以降に【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
この人物は、12月19日に幕府山麓の遺体処理に参加しているが、他に特筆できるものは無い。今回のテーマではなかったので詳細は示さず紹介に止めておく。興味のある方は小野賢二氏の書籍か偕行社の『南京戦史 史料集Ⅱ』(*4)を読んで頂く事をお薦めする。後者には小野賢二氏の史料には無い荒海清衛氏の日記も記載されているので【幕府山】のケースの参考になるかと考えられる。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*5)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この大寺という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない。

引用 チャールズ・メイヤー(*6)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
  《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この大寺には12月15日には大きなセメント会社に宿営と徴発をしたようだが、場所が棲霞山より16kmも離れた場所のようであり、棲霞山近くの東流鎮で敗残兵2名を殺害しているが、付近に於ける大きな交戦は書かれていない。BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

【参考文献・参照サイト】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)別宮暖朗著『失敗の中国近代史』第五章 北清事変=>キリスト教の台頭 P.169/14行目 並木書房 2008年3月20日 【Amazon】
(*3)王玉茹「戦前の中国物価推計に関する考察」 【Link】
     V.賃金指数=>附表6 中国農業賃金指数(1906-1933年) 【Link】
(*4)偕行社『南京戦史 史料集Ⅱ』【Link】http://www.howitzer.jp/topics/index2.html
(*5)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*6)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 


柏原竜一氏の今回の映像は、支那事変・南京戦に興味があるのなら絶対に見るべきである。

2020年03月19日 23時55分25秒 | 1937年 南京攻略...

近衛内閣の必然性?! 日本人だけが知らないインテリジェンス 柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら(2020年3月19日背信)】


日本人共産主義者で、当時中国に渡って対抗日活動に鹿地亘とともに参加した青山和夫の話である。

当方は、この人物については殆ど無知で、抗日活動をしたと言う事ぐらいしか知らなかったが、こんな分析を行っていたとは知らなかったし、その通りのコースで日本国・日本軍は進んでしまい、日本人、支那人ともに本当に多くの命を無駄にしてしまった。

こんな卑劣なくだらない共産主義者の為に翻弄された事は本当に残念でならない。

しかしならが、将来このような恐るべき人物がでないとは限らないので要注意である。

日本人の人物評価には、マズイ点が多々あり、こういう人物を生み出す可能性は将来もないとは言えない。

尚、柏原竜一氏の今回の映像は、支那事変・南京戦に興味があるのなら絶対に見るべきであるし、是非とも見て頂きたい。

https://youtu.be/Xhr87f7wiQg