【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その3

2020年03月09日 20時58分19秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。


【17 [近藤栄四郎(偽名)]出征日誌】

P.311
17 [近藤栄四郎(偽名)]出征日誌
所属:山砲兵第19連隊第8中隊・編成
階級:伍長

10月03日 上海揚陸。
10月04日 休養。
10月05日 射撃演習。
10月06日 月浦鎮へ向かう。月浦鎮着。
10月07日 東の屯家宅宿営。
10月10日 屯家宅宿儘。蒋介石の誕生日という話で、支那軍からの猛攻撃。
10月11日 珍しく晴天。郷里へ手紙を出す。
10月12日 雨。平穏。休養。
10月14日 移動。李家綱着。
10月15日 李家綱儘。徴発の途中に支那兵の3名の遺体を見る。
10月18日 李家綱発、鯉魚湾へ夜間行軍。胡家宅宿。
10月19日 交戦。敵との距離70m。夜民家に宿営。
10月20日 給養無し。中隊の放列(展開)では、旨く給養を分配できない。
10月21日 平穏。父命日。米の分配少ない。夜10時半頃より劉家行に100発ほどの着弾命中。中隊後退。
10月22日 劉家行から馬の厩を後方500m程後退。
10月23日 砲撃着弾弱まる。平穏。
10月28日 23日儘、交戦停滞で、塹壕生活単調。放列陣地を移動。
10月31日 馬を後退させる。
11月01日 徐家巷着。張家宅を退却する敵兵を追撃行軍。
11月02日 途上雨で行軍難航。火傷場に宿営。
11月03日 徐家巷へ給養を受け取りに戻る。昨日のように機関銃による攻撃を受けずに済む。謝村へ移動。
11月04日 謝村在。
11月05日 謝村事務開始。戦事名簿などを作成。
11月06日 謝村在。射撃猛烈に受ける。
11月07日 謝村在。65連隊より援護射撃をと毎晩依頼。
11月08日 甕風呂入浴。戦事名簿と陣中日誌を整理。今夜も65連隊への援護射撃。
11月09日 晴天だが夜は寒い。陣中日誌の整理。日直下士の勤務。
        
上海へ毛布の給与を受け取りに輜重車で行き戻る。晩にビールを頂く。
11月11日 10日とも謝村在。散髪をする。
11月12日 羅店鎮北方の某へ移動行軍。観測所へ行く。敵姿無し。
11月13日 井戸無くクリークの水で炊爨。魚の給養有。一分隊分紛失。
11月14日 行軍出発。戦死者は今のところ4名、行方不明1名、負傷者1名。
        
部隊から送れ他の中隊と出発から5里位(約20km)の某へ宿。
11月15日 馬盗まれる。直ぐ取り戻す。部隊から益々遅れる。
11月16日 自部隊へ追いつく為の強行軍。追いつかず某町らしき所にて第6中隊と共に宿。
        部隊の急追撃は蘇州まで追撃して南京までの鉄道破壊阻止が任務の為という真偽不明の話がある。
        支那民を使役して荷物を負わせて同行させる。服従無くば即射殺となり仕方なく付き従う。
        途中支那兵の遺体散乱射殺実況を見たことも数度、敗戦国の惨めさ。
        宿舎で支那人の60位の男1名と女2名(内1人は病人)と同宿。彼らの恐怖心を思う。
        途上学校で面白そうな2、3冊を持ち帰る。

11月17日 本体に追いつかず、梅郷鎮宿。寺院風な所に支那人男女3名がおり師団の位置を聞くと、
        支塘鎮、梅郷鎮、虎山鎮など判然とせず。大隊の輜重部隊と同宿する。

11月18日 今日も強行軍を行う。泥濘の悪路の為馬はクリークに落ち、砲身も水没する。
        悪路に難航しながら、漸く本隊を探し当てる。中隊から遅れてから5日目で合流。
        直ぐさま味噌と缶詰を分配する。敵との交戦盛ん。

11月19日 敵退去。大隊より給養を受け分配する。
11月20日 追撃出発。難路に人馬疲労する。
11月21日 父の命日。戦地へ来て殊に思う父母の恩。行軍の道が比較的に良く進む。
        顧山鎮(常熟城と江陰城を結ぶほぼ中間点)を通過し先のへ宿営。
        途中の町々では実際目を覆うような徴発だった。各の火災もその通り。人を殺傷するもその通り。
        敗残兵及びその他の死体も相当見る。精米所より充分な米などを徴発。
        中隊幹部のひがみも嫌になる。霜降りる。寒い。

11月22日 徴発。塩、醤油、甘藷等の徴発物を一軒家へ集積。徴発したシャツで寒さを苦にせず。
11月23日 行軍。隊を展開させ交戦。雪がちらつき寒さ増す。戦闘の為停滞。
11月24日 展開の儘寸軍、1里半(約1.5km)で敵遭遇交戦。予定地より後退し宿営。
11月25日 前進ままならず。豚をして後ろ足1本を隊へ持ち帰る。出発。王田庄宿営。
11月26日 祝祷鎮、黄祷鎮を通過しながら追撃。行軍進む。
11月27日 追撃。風邪をひく。行軍辛く馬に乗る。
11月28日 本隊と合流。江陰へ。某所に宿営。
11月29日 南閘鎮付近にて展開。江陰の敵堅固。砲撃を受ける。
11月30日 歩兵104連隊への援護射撃協力を受ける。銭家鎮着。陣地構築射撃開始。某に宿営。
12月01日 在陣そのまま。中隊江陰城南門攻撃の為進軍。今日は入城の予定とか。
        そんなに簡単にいくのかという感想。

12月02日 江陰城攻略。敵攻撃一段落。板橋鎮に移動。城外に宿営。江陰城陥落。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 銭家村宿。宿舎火災有。夜10時中隊基幹の宿舎より発火し大混乱。メガネ紛失。火の番に着く。寒い。
12月04日 翌晩の火災の為、中隊基幹は後ろの寺院に移動。
12月05日 洗濯。事務整理。給養を受ける。
12月06日 休養。整理すべき給養の伝票類も出来ずその日が終わる。3度入浴する。
12月07日 南京ヘ向け進軍。江陰へ一端戻り常州へ通じる街道を直進。乗馬する。
12月08日 行軍。
12月09日 馬で先を急ぐ余り、宿営地を通り越して宿営の設置が出来ず。
12月10日 丹筒鎮に敵有との情報で宿営地設営の為の先行は中止と成る。諫壁鎮を経て鎮江に至る。
        鎮江は電気も付いている。上海と比べても意外に良い町である。城内宿営。
        風呂屋が営業していて入浴する。

12月11日 第11師団歩兵第10旅団渡河支援の為、東方の象山要塞への射撃命を受け。行軍射撃。
        交戦はなく、城内に戻り宿営。揚子江を海軍軍艦が遡航するのを見る。

12月12日 朝行軍発。倉頭鎮宿(棲霞山、龍潭の手前)。
12月13日 第13師団進軍。寒家巷宿。南京まで5、6里(約20、24km)。明日の出発は午前4時半。
        斥候命じられる。

12月14日 午前8時頃、降伏兵の一団。武装解除。敗残者の悲哀。3千名に達する。
        揚子江を船で逃げる兵を小銃・軽機関銃で狙撃する。面白いという感想。
        南京目前に南京城を背景に降伏兵の一団を馬上から見下ろすのも気持ちが悪くない
        南京牧場宿営。女を交えた敵兵の姿を見る。


 

【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。

このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見ても、【一般人】が【大勢居た】ことも【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にない。

この人物の来歴はよく判らないが、11月16日に中国の学校から面白そうな書籍2、3冊を持ち出したり、11月17日に寺院風の所にいた支那人に中隊へ追いつく為に場所を聞くなど、中国語が出来る人物と感じる。同日の支那人に対する同情にしても、又11月21日に【幹部に対する嫌悪】にしても、日本軍の行動に対して良い印象を持ち得ない人物のように感じる。(但し当方個人の印象に過ぎないことは言う迄もない。)

11月16日の処刑の実見に関しては、状況がこれだけでは不明なので何とも言えない。この人物は悲惨であるという印象を持ったようである。
11月21日は、常熟と江陰を結ぶ街道の途上での目撃だと考えるが、が燃えているので、日本軍の行為の跡か支那軍による焼土作戦の跡か不明である。この人物は日本軍によるものと考えたようである。【人を殺傷する】ことの【数値】とはよく判らない。状況が判らないのでこの【行為】も何とも言えないのは言う迄もない。
錫澄線という支那軍の最終第4防衛ライン(*2)に近いものであり、何があったかは不明である。
12月14日の川上の逃走兵を狙撃して【面白い】と感じる姿は、アメリカの戦闘アクション映画などにみられるような【敵を殲滅して喜ぶ姿】とかぶる。つまり戦場に見られる兵士の【普遍的の感情】の一つと考えられる。
11月14日には、女性を交えた敵兵への記述があり、単なる一般人か兵卒かはこの記述からは不明ながら当方記事の18黒須19目黒の日記などにも【少年兵】はむろん【女性】の【存在】みられ、【女性兵士】の姿も浮上している。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*3)という著作の中で見られるハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵への【イメージ】としての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この近藤という人物も、敗戦国民の悲哀を感じしている(強弱は不明だが)し、その他の行軍中に於いても個人として軍事上不必要な殺害は行っていない。

【はじめに:チャールズ・メイヤー教授(ハーバード大)(*4)

引用《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

11月21日の殺害目撃でも、その他の兵にしても殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。人間性を喪失しているとも考えられない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

19の目黒の陣中日記と同様に、その内容にはBBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場は、この進軍ルートだが、日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。揚子江付近を進軍しているにも関わらず、存在すら気にも止められなかったし、話題にものぼらなかったようである。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。


【参考文献】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』 全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】
(*2)偕行社『南京戦史』 P.47 要図:淞滬線陣地と外衛線陣地より 【Link】
(*3)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】
(*4)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】


中国での新型コロナの隔離施設というホテル倒壊で70人が一時閉じ込め。

2020年03月09日 11時04分36秒 | 日記

【ホテル倒壊で70人が一時閉じ込め、新型コロナの隔離施設】

CNNのこんなニュースを目にした。
詳しくは、この2020年3月8日の記事を読んでくださればよい。
何が言いたいかというと、中国というのはこういうことが自然に人為的不作為によって起こる国である。

Twitterなどでは、【南京市】での新型コロナウィルス封じ込めをアゲアゲして、日本政府の施策を批判しておる連中がおるがね。
中国というのは本来こういう国なのである。

マトモにしなければならないことが、マトモに出来ない国である。

南京だけが中国ではないし、各都市に蔓延すれば南京といえど発症してない感染者は入り込めるのですわな。

もうすこし、視野を広げて中国という国家自体を見る必要があろうよ。

余りにも

視野狭窄

というものであろう。