新型コロナウィルスで、南京市の施策を【絶賛】し、日本政府をこき下ろす前に。

2020年03月05日 20時30分32秒 | 日記

新型コロナウィルスで、南京市の施策を【絶賛】し、日本政府をこき下ろす前に是非とも

新型インフルエンザ等特措法〜政府はマスク完売も渡航制限もシミュレートしていたのに・・
柏原竜一 秋吉聡子 【チャンネルくらら】

https://youtu.be/lm8DUEPymYU @YouTube

を是非見て頂きたいものです。

Twitterでは、南京でのコロナウィルスへの封じ込め【施策】を【絶賛】されているTLが多く流されている。

その多くは【宣伝】によるものだと考えるが、フワフワした方は中国共産党の体制を忘れて、日本政府の対応のみを批判する方も居られるかも知れない。

日本にも新規の感染症に対するマニュアルがあり新型インフルエンザ特別措置法というものだが、この法律にもとづく緊急事態宣言が発せられて居れば、

【1】知事は不要不急の外出の自粛、学校や劇場、体育館、映画館など人が集まる施設の使用制限を要請できる。

【2】知事は医薬品、食品などの売り渡し要請や収用、保管命令が出来る。
   売り渡しに不当に応じない場合は収容も可能、罰則も適用する事も出来る。

【3】病院が足りない場合、土地や建物を借りて臨時の医療施設を設置できる所有者が
   正当の理由なく同意しない時には強制的使用も可能。

なぜ、これが施行されなかったのかは、これに【反対】しているのは、日弁連などであろうし、恐らく社会党など野党も反対して居るのは目に見える。

そして、一番の問題は、野党や外野だけではなく自民党内の【親中派】の中国共産党への【忖度】が問題だったはずである。

我が国の一番の最大問題点は、【法】があっても【施行せず】と言う事が判る。恐らく将来スパイ防止・処罰法を作ったとしても【施行】や【実行】など出来そうもない。
そう言った事が、見えてくる悲しむべき嘆くべき情けない国内政治状況である


【新型インフルエンザ等発生時の行政対応訓練・研修ツール訓練・研修用テキスト②(研修企画者・講師用)平成26年3月内閣官房新型インフルエンザ等対策室】
https://www.cas.go.jp//jp/seisaku/ful/02_text_H1NX.pdf

新型インフルエンザ特別措置法
https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=424AC0000000031


【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート

2020年03月05日 15時06分06秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居て、それらの人々が殺害されたのかという記録が無いかを調べてみる。

全体を通してみないと判らないが、手始めに小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から初めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。

 


【19 [目黒福治]陣中日記】

【P.360】 
19. [目黒福治(偽名)]陣中日記

所属:第13師団>山砲兵第19連隊>第三大隊>大隊段列・編成 (横尾部隊)
階級:伍長

10月06日 上海紡績工場。
10月08日 上海。午後5時頃 便衣隊の襲撃を受ける。追撃し、歩兵2名戦死。
10月09日 第9、11、3、13師団の4師団が集結。間もなく総攻撃。
10月10日 連日の雨 兵士の心労重なる。班長(自分)以外の兵士が働く気の毒に思う。
10月11日 月浦鎮。敵軍は最後になると日の丸旗を立てて万歳を唱えて友軍を偽り攻撃又は移動するため、
        以後日の丸の旗は禁止の命令が下る。便衣隊が1名鹵獲され斬首。憐愍の情薄くなる。

10月12日 便衣隊1名鹵獲、斬首。
10月17日 大場鎮攻略。総攻撃。劉家行着。
10月22日 劉家行在。敵兵鹵獲(捕虜)。年齢16〜45歳位まで裸足、草鞋履き、夏服、半袴。
10月24日 血便。
10月27日 少し回復。
10月13日 劉家行から李家宅へ。
11月12日 李家宅出発、羅店鎮へ向かう。
11月13日 夕方無名の入口で敵兵からの射撃。友軍兵士1名死亡。午後8時迄進軍し銭家石着。
        支那土民は歓迎出迎える

11月14日 銭家石在。徴発、豚1頭、鶏3羽。鶏卵。その後出発。途上農家に日章旗を散見。
        水牛2頭徴発。1頭20銭とは安い。

11月15日 進撃中。クリークの水を飲むもの続出。敗残兵9名殺害。
11月16日 休憩中の敵兵3名殺害。別所で敗残兵2名殺害。彼らの作っていた中華飯を食べる。
        行軍5日目、未だ軍からの給養を受けられず、徴発に頼む。

11月17日 南京まで3分の1位の位置。敵軍有力部隊に遭遇、交戦、停滞。
11月19日 交戦。徴発。徴発した支那酒を支那人に背負わせて持ち帰る。
11月20日 宿営地の支那人から鶏を進上される。
        途上謝家橋鎮の激戦後で友軍の遺体と、敵兵遺体の山積みを見る。

11月21日 クリーク点在の難路に進軍難航。無名にて青年5名打ち殺す。寡婦を憐れむ。
11月22日 江蘇省江陰県陳野鎮宿営。13師団に合流。給養を得る。
11月25日 無錫に向け進軍中、前衛が敵と交戦。停滞。
11月26日 祝塘鎮。前衛の敵の為停滞。に22名在。家財は徴発され全て燃やされる。可哀相に思う。
11月27日 前方の橋が敵工作により破壊され、進軍が停滞。途中のは火災。劉玉村宿。
        敗残兵3名の内逃走の2名殺害。

11月28日 朝、敗残兵5名殺害。青陽鎮を過ぎ一里半(約6km)で敵遭遇、交戦。
11月29日 病死者一名。友軍機墜落。搭乗者重傷。前方敵堅固。
11月30日 敵堅固で停滞。アヒル徴発。
12月01日 江陰城へ総攻撃開始。
12月02日 江陰城陥落。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 銭家村付近の宿営。南京攻撃の為の休養。
12月04日 各種の物品を徴発。
12月05日 支那人家屋17戸を焼き払う。土民を銃殺。敗戦国人を憐れむ。
12月06日 南京攻略戦の準備。
12月07日 銭家村在儘。
12月08日 陳壁鎮。
12月09日 埤城鎮。進軍途中に敵中央軍敗残兵10数名斬首を見る。
12月10日 丹徒鎮から鎮江へ向かう。
12月11日 鎮江市から高資源鎮着、宿営。徴発のため前進し無名にて日本語の出来る支那人家族に出会う
        【日本軍が来て安心】と言及。その真偽は不明。

12月12日 前日の無名へ日本語の出来る支那人家族から徴発する。
12月13日 南京幕府山にて1万3千の敵兵を捕虜としたことを知る。
        中には12、13歳の子供や女性2名のことも伝わる。
        日本軍各隊での鹵獲した総数は10万にのぼるという伝聞を聞く。



月浦鎮から南京幕府山への13師団のだいたいのルート

 


 

【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】以降であるから、この中では、12月5日の家屋17戸の焼却と住民と思われる土民の銃殺。【幕府山】は【敵兵】の【捕虜】という【認識】であり、一応【区別】し、今回は研究の対象には入れない。【幕府山】についての当方の【分析】は日を改めて試みたいが、兎も角知りたい方はZF殿のサイトやTwitter(*2)を覗かれることをお薦めする。

12月5日の【家屋焼却と土民殺害】であるが、これがどういう状況で【発生】したものかは、この文面だけからでは判らないし、問題の人数すら不明である。これを以て直ちに大人数と全て殺害されたというのは早計である。

面白いのは、11日の日本語が出来る家族との遭遇で、ここでの家族を殺傷していないということがわかる。5日と11日の違いが何であったかは不明だが、10月10日、11日、12日、13日あたりの便衣隊の攻撃(13日は敵兵の不意打ち)や南京までの行程での敗残兵との交戦があったと言うことは念頭に置かなくては成らない。又その他のでも【殺害行為】に及んだ所及んでない所があることも考慮に入れる必要がある。
この人物も日本人らしい、【敵】への【憐愍】の情は【希薄】になって居るようだが、【戦災】を受けた【一般人】にたいしては【憐愍】と【同情】の【心情】を継続して持ち合わせている。つまり、進軍と戦闘行為が進む中で【間】になって居ると言う事が見られない。土下座強要派が主張するような【非人間的】な【残虐性】の【面】が見られないという【反論】資料でもある。

余談だが、この日記の中には、セメント工場の話は出てこない。BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのデンマーク人のベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場は、この進軍ルートだが、日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は小指の先程も出てこない。12日の夜間行軍の最中であり、存在すら気にも止められなかったし、話題にものぼらなかったようである。

 

【参考文献】



(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』 全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)ZF殿サイト及びTwitter

・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】