1937年以降の支那人の恩人達。鈴木明氏の著作から。

2018年06月20日 16時08分12秒 | 1937年 南京攻略...

日本国と日本人は、南京事件などでその【非道さ】を言いつのる人間は居ても、当時南京陥落以降に【漢奸】【傀儡】と罵られながらも、日本との協調関係を結んで、治安維持、行政などを行ってくれた支那人が多数いた事をほとんど触れる事はない。彼等は【罵られ】【蔑まれ】【裏切り者の烙印を押され】【憎悪され】ながら、さらに【国民党】や【共産党】の手先の暗殺集団によって多くの命を落という。中には、16歳のバスガールの少女まで含まれている。彼等の尊い無私の行為【千年後などではなく、現在こそ讃えられるべき】である。そういう立派な支那人達が居た事は忘れるべきではないし、むしろ日本人として心に刻むべきであろう。これは南京事件を【肯定】【否定】を関係無しに、そう言った方々に深く感謝し、日本人の心に刻む事こそ真の日中友好になるものと考える。
そんな立派な人物の文を鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』 飛鳥新社刊(1999年)より紹介したい。
鈴木明氏によると『維新政府初周年紀年冊』 中華民国・維新政府行政院・宣伝局発行の中に記載されているる文面である。
この【『維新政府初周年紀年冊』 中華民国・維新政府行政院・宣伝局発行】が、何故日本で翻訳され出版されないのか不思議でならないし、出版される事を祈念して止まない。

鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』から引用するのは、教育部長代理の 顧澄 という恩人の文章である。

引用 -------

P.339 南京 ─ その喪失から日本敗戦まで
4行目
しかし、教育部長代理顧澄の文章は、その中でひときわ異彩を放っていて、心から僕を驚かせた。全文では長いので、その中心になって居る部分を、ここで紹介する。
「蒋介石が政権を握ってから中国は一党独裁になり、親戚縁者を中心に集め、国民には酷税を課し、個人の道徳は低下した。その結果“西安事件”が起こ、八・一三(上海戦)の災いを呼ぶことになってしまった。
考えてみれば、彼(蒋介石を指す。以下同じ)は中国と日本を比較して、その強弱の違いを知らないわけではないかった。ただ、いたずらに首領としての地位に未練を残し、西欧列強の助けを求めて、万一の勝ちに望みを託したのである。その結果、若き者は前線で命を落と、老幼弱者は荒野にさまよい、地に倒れた。
これら若者、老幼弱者に何の罪があるというのだろうか。戦争というものは、はじめることは容易だが、収拾することは極めて困難である。その結果、彼は長期交戦を叫び続けることになり、焦土、決壊などを行って、さらに多くの人民が犠牲になった(ここでいう「焦土」とは、蒋介石が行った“焦土作戦”のことを意味し、その典型的なものが“長沙の大火”である。一九三八年十一月、蒋介石は日本軍が長沙を攻める、という情報を得て、この都市を日本軍に利用されないため、計画的に長沙の町に火を放って、街を全焼させた。しかし、この“作戦”は、係員の手違いから長沙域内で二万人余りが焼死して失敗に終り、日本軍が攻めて来るという情報もデマだとわかった。このため責任者の三人は銃殺刑となった。また「決壊」とは、一九三八年六月、華北での日本軍の進撃を止めるのが目的で、蒋介石は黄河の花園口堤防を爆破した。このため八十九万人が溺死し、約五百万人の家が押し流される大事故ととなった。しかし日本軍はこの個所を通らず、実質的な効果はほとんどなかった。数字はいずれも『中国近代現代史大典』〈中共党史出版社〉に拠る。)


私(顧澄)は昨年の二月、弟の葬儀のため、平津地方(北京・天津地区)に行った。私の故郷はほんの小さな町であったが、昔は繁栄、富有の地として知られていた。しかし、行ってみると天津城内はかつて三十万人の人口があったが、戦いのあとではわずか五千人を越えない有様で、街は荒涼として店舗も工場もなかった。
ところが北京市に入ると、街は活気に満ち、車馬も行き交い、人民は安心して業を営んでいた(天津では戦争があったが、北京は日中が協議を行い、北京の中国軍は少数の保安隊だけを残して撤退、日本は無血の中で、北京に「中華民国臨時政府」という傀儡政権を作り、王克敏を主席にしていた)。
私はこの原因は、その地に“政府”というものがあるか、ないかの違いが一番多きなことだと信寺、上海に戻ると、梁、温の両院長に従って、政府の組織に入る決心をした。
私の決心を知って、友人たちは皆、それは売国行為であるからやめろ、といった。家族も反対した。しかし、私は、私の行為の功罪を判定するのは千年後である、といい敢えて弁解がましいこともいわずに、この一年間の苦痛に耐えてきた。
この間の困難は、その量の大きさだけで数えることは出来ない。人びとは、われわれが人民の利益を計ることを指して、“漢奸”と呼んだ。新しい政府の行うことを“売国行為”と呼んだ。しかし、よく知ってもらいたい。人民こそが国の基本である。人民なくして国家はなく、既に数千万の人民を捨て去って逃亡した国土の上に新しい政府がなければ、人びとはどうやって生活することが出来るのであろうか。
これら人民のために人びとを保全する人のことを“漢奸”と呼び、逆に民衆を捨て、殺し合いの末逃げ去った者が、“非漢奸”であるならば、この論理の根拠はどこにあるのだろうか。“絶対に屈してはいけない。むしろ壮烈な死を選べ”と叫ぶ人も居る。が、壮烈な死を遂げ、国土だけが残っても、その国にどのような存在価値があるだろうか。
しかし、私の信じる道理に反対し、人民を捨て去った政府の方に盲従する人は、いまなお後を絶たない。彼等は朱を見ても緑といい、蚊の音をきいても雷鳴という。そしてさらに苛酷なことは、われわれを恐喝し、時には非業の剣すらしばしばわれわれの上に落ちてくることが横行していることである。このため、少しでも声望があり、地位がある者は、事態をただ眺めているだけで、心中に“漢奸”の批難を受けることのみを恐れ、名乗り出る者は少ない。そのため、われわれの部下の多くは、公文書の様式も知らず、帳簿、文書などを作るに当たっても、初めから困難を極めたのである」

この文章の中で「非業の剣」という文字が出てくるが、この『維新政府初周年紀年冊』の巻末には、この一年間で死んだ維新政府職員と保安隊員の死者の名簿が、フルネームで、その年齢、職種、住所、犠牲原因、犠牲期日、犠牲場所と細かくわけて、三百三十九人の名が列記されている
「犠牲原因」の多くは、遊撃隊(国民党の暗殺団か)、新四軍(共産ゲリラ)、匪賊(街の強盗団)だが、中には空欄も多くある。大物の筆頭は外務部長の陳籙はパリ法律大学に学び、ベルサイユ条約のとき、中国代表として出席した外交界のベテランである。国際連盟の中国代表にもなり、国民党外交部顧問の一人でもあったが、維新政府に加わったため、上海フランス租界のレストランから出るところを、「軍統」によって暗殺された。一番若いのは周有柱という十六歳のバスガールで、杭州湖野観音橋バス停で作業中、「便衣隊」の襲撃で「殉職」している。

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尚、当時南京特務機関に在籍し、この自治委員会の顧問をしていた原田熊吉少将の言も紹介されている。原田熊吉氏は第11軍司令官 岡村寧次大将に南京事件についての報告をした人物として紹介される事が多い。原田少将は、インドネシア独立に関与し、シンガポールで「B級戦犯」として死刑になっておられる。

 


 

引用 ----------
P362

なお、この文中に出てくる「原田少将」について、一言解説すると、原田熊吉は一九三九年には中将になっているが、日本側に残された資料は極めて少ない。逆に、維新政府が解散したき(昭和十五年)の原田熊吉の文章が残っている。原田熊吉は維新政府を去る際の公式文書の中で、次のようにいっている。
「思えば、維新政府の諸君は、硝煙がまだ収まらず、戦いの傷がまだ生々しいときに、悲愴な決意を以て起ち上がった諸君である。
諸君たちは、日夜“傀儡”という嘲笑と“漢奸”といわれる悪罵を全身にあびつつも、なお心の中にある苦しみを隠し、あらゆる困難と戦って、政府を作り出したのである。
特に、諸君がしばしば生命の危機に遭遇したにもかかわらず、なお自若として信念を変えず、中日提携を実現してきたことを考えると、どうして諸君のことを忘れることが出来るであろうか──。
民国二十九(一九四〇年=昭和十五年)年三月三日
維新政府最高顧問 原田中将
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Wiki

原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年8月8日 - 1947年5月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。香川県生まれ、大阪府出身。陸士22期、陸大28期。
経歴
日中戦争開戦後、第35師団長、第27師団長として中国大陸に駐屯した。その後第16軍司令官としてジャワ占領後の軍政を担当、ジャワの住民指導者に政治参加許可を通知し、司令官告示で「軍政協力団・ジャワ奉公会」を結成する。大戦末期の昭和20年の早春、ジャワから日本本土に召還され、第55軍司令官次いで四国軍管区司令官を兼ね本土決戦準備を指揮した。戦後戦犯に指名され、シンガポールのチャンギーで絞首刑。享年59。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%86%8A%E5%90%89

軍統
蒋介石直径の部下の戴笠が、CC団・藍衣社の解散後の作った秘密工作活動機関。軍事委員会調査統計局のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B4%E7%AC%A0