【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その8

2020年03月18日 11時30分00秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。


【12 [本間正勝(=偽名)]戦斗日誌】

P.321
12 [本間正勝]戦斗日誌
所属:歩兵第65連隊第三大隊>第9中隊・編成
階級:二等兵

10月03日 午後3時虬江碼頭に上陸。東洋紡績会社宿営。煙草12銭(=0.12円)。
10月05日 午後8時発夜間行軍。
10月06日 午前9時帰家宅着。午後4時以降歩哨含む。支那婦人、子供を含め8名殺害。
10月07日 帰家宅まま休養。戦場のクリークを見学。雨で行軍進行困難な輜重隊を見る。
10月08日 帰家宅まま。中隊教練。午後3時帰営。夜間空襲の為火は焚けない。
10月09日 小隊40名で斥候。5里(約20km)を探索。友軍の遺体多数。午後7時帰営。
10月10日 雨。休養。午後中隊長よりの講義。
10月11日 休養。午後平穏。日用品徴発。夜1時間の立哨。
10月12日 午前7時帰家宅発。午後2時蔡寧宅着。途上支那兵の遺体多数。
10月13日 午前7時30分蔡寧宅発。工兵隊を支援。軍行路200m程度敷説
        砲兵陣地前に小銃弾2発撃ち込まれる。

10月14日 晴。午前徴発。薪と野菜。洗濯、武器・被服の手入れ。午後中隊教練。
        手紙を初めて出す。午後7時敵機2、3度来。

10月15日 晴。午後8時より大隊教練。煙草24銭。
10月16日 午前8時。大隊教練。午後4時発。1里半(約6km)停止。
10月17日 午前8時30分発。大河橋着さらに1里(約4km)の前線へ進み塹壕掘る。
        迫撃砲等を受ける。午後11時反撃。

10月18日 塹壕内で夜を明かす。一端連隊本部前に集合。西方第一線へ1kmに進み更に塹壕を掘る。櫓綱湾在。
10月19日 塹壕内にて休養。弾丸は雨の様で塹壕内から外へ出ることが出来ない。
        給食隊員も各隊への配給を停止している。

10月20日 出動命令も戦況により中止・停滞。午後1時より友軍砲兵部隊からの一斉射撃。
10月21日 午前弾丸給養のため。午後2時発。途中炊事を採る。
10月22日 途中の塹壕より弾丸の給養。塹壕内で給養。夜下痢。老陸宅。
10月23日 下痢の為、連隊の位置へ後退。食は受けつけず体重が減り死ぬかと思った。
10月24日 休養。コレラではないかと疑う。第2次補充員着。
10月25日 下痢続き休養。
10月26日 炊事して朝食を食べる。体に力が出ず休養。負傷者が運ばれてくる。
10月27日 御飯を食べる。受診。軽微との診断。
10月28日 朝食後、1km行軍。体調は良くなる。第2、3小隊長戦死。馬家宅。
10月29日 療養の為、休養。
10月30日 休養。連隊交代に附き大家橋に後退。酒の給養がある。
10月31日 大家橋にて給養。分隊編成。大隊長の勅諭奉読。戦死者の遺体整理と火葬・分骨
11月01日 午前7時炊事。療養。
11月02日 午前9時より小隊の火葬後の遺骨を拾う。餅・梨・煙草の給養有。
        午後戦友を1里先(約4km)の第4野戦病院へ送る。中隊205名中100名死傷。

11月03日 明治節。午前4時より炊事。夕食の為の弁当となる。午前9時出発。3里強(約15km位か)の行軍。
        周家宅着。第9師団と警備交代する。各分隊に別れて不寝番。煙草25銭。

11月04日 休養。午後6時夕食後、周家宅より分隊長と2名で200m前方にて警備。
11月05日 経理に行き糧秣受領し11時に戻る。7時発。警備。12時帰営。後小隊長代理による講義有。
11月06日 午前4時200名の敵襲有、交戦、敵全滅。敵大隊長1名と6名を鹵獲。
11月07日 午前7時帰営。休養。郷里からの手紙受け取る。
11月09日 前日8日と同様警備から引き揚げ平穏。警備後半夜の寒さに困る。野菜の徴発。休養。
        午後7時警備に付く。警備の合間に手紙を書く。

11月10日 午前6時30分帰営。午後7時出発。
11月11日 午前6時30分帰営。9時頃上海路へ毛布を徴発。途中弾丸飛来。煙草12銭。
11月12日 周家宅発。午前7時迄警備後部隊を追求。自由行動。祭家村休憩。雨の為行軍困難。
        羅店鎮にて桃缶詰を購入して食。氷砂糖も購入。桃缶詰70銭。砂糖50銭。友軍は追撃。

11月13日 9時出発中隊に合流する為追求。中隊に追いつかず。
11月14日 午前8時発。夜午後9時迄行軍。仮眠。
11月15日 午前8時発。午後は別中隊(第12中隊)から給養を受ける。
11月16日 雨。午前7時発。10中隊に同行。疲労の為自由行動。第6中隊と同行する。
11月17日 雨。午前9時出発。中隊を追求。支那人荷役を同行し始める。
11月18日 午前9時発。支那人荷役を同行。
11月19日 悪路の為行軍困難。戦友と2人で宿。
11月20日 前日同様悪路で困窮。前日同様2人で宿。
11月21日 午前8時自由行動。午後4時に入り2名で宿。
11月22日 二人の儘自由行軍。途中敗残兵1名鹵獲後、他部隊の兵5、6名で銃殺。
        旅団本部、連隊本部を通過し、午後5時大隊本部に到着。

11月23日 午前8時出発し、午前9時に中隊に追求。報告後、100m前進み命令まで待機。隊へ復帰。宿営。
11月24日 午前8時軽い塹壕を掘り、目標へ向け射撃。午前10時長涇鎮占領。
        午後3時出発半里(約2km)行軍。敵状後退。長涇鎮宿。

11月25日 午前7時30分発。2里半(約10km)行軍。祝塘鎮着。休養。武器と被服の手入れ。
        6貫目(約22.5kg)以上の豚を7名で食する。部隊編成。

11月26日 午前8時発。2里(約8km)行程。宿営地にて徴発。
11月29日 前日28日同様、大隊整列後軍行路行軍。途中交戦。9時に前方のまで追撃。閘座鎮宿営。
        風邪をひく。

11月30日 午前7時敵襲。10中隊包囲される。9中隊支援に前進。
        午前10時に頃敵退却。追撃を加え相当の損害を与える。

12月01日 風邪引きの儘夜警の歩哨に付く。午前7時迄眠る。江陰城外迄前進。城壁より猛烈な射撃。風の為休養。
12月02日 中隊全て江陰城入城。物品警備の為城外儘。午後2時頃迎えの戦友と入城。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 午前8時。風邪ではなくマラリヤで苦しむ。薬で全快する。
12月04日 午後1時発。約1km行軍滞在。第3次補充員入隊。
12月05日 午前7時火事。監視に付く。風邪ぶり返し、10時〜3時迄苦しむ。夕方薬を飲み回復。
12月06日 午前7時30分起床。洗濯。「マラリア」と診断を受ける。午後休養。
12月07日 午前7時出発。旅団行軍約7里(約28km)。午前9時フルエ(?)着。
        部隊から落伍。戦友が同行。後に追求。

12月08日 午前7時発。午後3時落伍。戦友2名に助けられ午後7時追求。
12月09日 午前6時20分発。午前10時落伍。午後5時頃部隊から離れたまま宿営。
12月10日 午前8時発。中隊へ追求する為に行軍。午前11時前線部隊交戦。行軍には支那人荷役を同行。
12月11日 午前9時出発。マラリア悪化。行軍困難ながらも午後1時鎮江入城。3里(約12km)行軍後宿営。
12月12日 午前8時発。10中隊と3名で行軍。前日鎮江は支那人に待遇されて宿泊。
        午後3時中隊に追求。2里(約8km)の夜間行軍後大休止。

12月13日 南京ヘ向け午前7時発。牛を引きながら行軍。午後6時まで7時に宿営。所々に残敵有。
12月14日 午前5時発。体調良い。途上降伏兵を鹵獲。中隊でも500名程度捕虜とする。
        連隊では2万人余りと聞く。



【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。

このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、12月1日に【マラリヤ】を発症して、完治せずに部隊を落伍・追求を繰り返しながら、何とか行軍している状態で、周りの状況を見る余裕はなかったようである。それでも【一般人】が【大勢居た】ことも【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。

どうしてもいうならば、定義期間外ではあるが、10月5日の記述で引用《午後八時ヨリ夜行軍ニテ六日午前九時マデ続ケル、帰家宅に天幕露営、四時ニ終ル、ソレヨリ歩哨服ムス、支那婦人、子供、八名銃殺スル。とあるが、上陸そうそうの出来事であり、保管する情報の記載もない。

考えられるのは、

加虐史観・土下座強要史観ならば、《練習代》として無辜の一般人が犠牲となったなる。

②別の客観的な史観で見ると、【敵対行動】があった。女性兵士・子供兵士は後日の南京周辺でも【記載】としてはこの小野賢二収集の兵士の記述にも見られるので、

兵士又は便衣のままでの【敵対行為(攻撃・武器の隠匿・運搬・敵兵逃走援助など)及び【敵対誤認による誤殺】も考える事ができる。

どちらにしても殺害があったことだけが存在するだけで状況は不明の儘である。

11月22日の敗残兵の処刑(殺害)に関しても、【陸戦法規】での【助命拒否の不認】を【犯】しているように見えるが、【陸戦法規】には、事実上状況に於は実行不可能な場合は、【助命拒否】を認めている為【完全】に【違反】しているかどうか明確に言えない(*2)

この人物にも感情記載は少なく、簡素で客観的な書き方をしている。その為情報が不足して状況が不明である。
鎮江周辺は、親日的であったのか、このマラリアの病人を待遇してくれたことを記している。又荷役の支那人はその後どうなったのか判らないが、少なくとも殺害したという記述は無い。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*3)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この本間という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない。

引用 チャールズ・メイヤー(*4)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
   《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。むしろどちらかと言うと【客観的】に状況を見ている。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

この本間の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。本人はマラリアで落伍から部隊への追求を焦っていたはずなので、それどころではなかったことは確かであろう。揚子江付近を進軍しているにも関わらず、存在すら気にも止められなかったし、話題にものぼらなかったようである。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)田岡良一著『国際法Ⅲ(新版)法律学全集57』 有斐閣 1973年1月 【Amazon】
田岡良一は、国際法Ⅲ(新版)347-348頁において、戦数否定派も個々の戦争法規の解釈に当たっては、戦数を是認している としている。
例えばハーグ附属文書23条d項(助命拒否の禁止)について、ウェストレイクは、「この規定が実行不可能な場合として一般に承認されているのは、戦闘の継続中に起こる場合である。このとき投降者を収容するために軍を停め、敵軍を切断して突撃することを中止すれば、勝利の達成は妨害せられ、時として危うくされるであろう。のみならず戦闘の継続中には、捕虜をして再び敵軍に復帰せしめないようんに拘束することが実行不可能な場合が多い。」とし、助命拒否が承認される場合があることを認めている。
(*3)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*4)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

【【オイラの!】 2chネラーなりに一生懸命調べた南京事件 【完全否定論】】氏のサイト 【【第37項】 国際法学者立博士と『戦数』【前編】】 【Link】