笠原十九司教授による【南京大虐殺事件の定義】ついての考察

2019年03月07日 21時40分39秒 | 『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』

笠原十九司教授の著作『南京事件』と増補版の『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』で南京大虐殺事件(南京事件)に見る【その定義】を考察してみる。

最新の増補版の『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』(*1)で次のように簡略定義されている。

引用

一九三七年から開始された日中戦争の初期、当時の中国の首都南京を占領した日本軍が、中国軍の兵士・軍夫ならびに一般市民・難民に対しておこなった戦時国際法や国際人道法に反した不法、残虐行為の総体である。

さて、この文面でも以下の2つの疑問点がある。

①12月4日前後の中支那方面軍による南京戦区(表記まま)からの戦闘後とそれから始まる期間とエリア。
②国際人道法にも反した不法、残虐行為。

【①について】今回の定義について、12月4日前後の中支那方面軍による南京戦区(表記まま)からの戦闘後の期間とエリアと有る。然しながら定義には【首都南京を占領した】とあり、厳密にいえばご自身の定義からずれている部隊も存在する。南京占領入城しなかった部隊は除くのかどうかは、定義されていない。また、11月13日以降の16師団らの上陸以降の戦闘について笠原氏は自身の著作『「百人斬り競争」と南京事件』(P.125/大月書店 2008年)で述べている箇所もある。つまり、自身は論拠として含めている。本来なら11月7日の第10軍の上陸以降からの上海への侵略戦争に失敗し撤兵・敗走した蒋介石・共産党連合軍への追撃戦としての南京攻略戦に参加した部隊と定義づける方が笠原氏の考えと合致していると考える。この件に関して、査読をした筈の他の研究者は何も指摘しなかったのか。それとも今回は査読も行わなかったのか疑問が残る。

【②について】【国際人道法】(*2)とあるが、【戦時国際法】(*3)が別に並記されているので、国連の公式HPにあるように戦後の1949年と1977年の【ジュネーブ法という【国際人道法】であると考えられるが、【戦時国際法】にしても【国際人道法】にしても、該当する【法令】を明記する必要が出てくる。『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』のテーマは、

引用《

こうした疑問にたいして留学生や外国人の人たちにもわかるように》《(肯定否定の議論のやり取りが)「どっちもどっち」「ドロ仕合」といった嫌悪感が、日本人のなかに多数の傍観者を形成させ、南京事件の歴史認識の定着を妨げている大きな要因となっている。》《サブタイトルに書いた「日本人は(南京事件の)史実をどう認識してきたか」ということであり、その反意として「日本人はなぜ(南京事件の)史実を認識してこなかったか」ということである。

ならば、そもそも余り興味や知識のない人間に説明をする際は、【国際法】から該当箇所の【法令】をも明記する必要があると考える。それを端折って【反する不法】と記述しても、一般的には国際法はおろか戦時法や人道法について知る方は少なく。【日本軍のどの行為】が【どの法令】に【反している犯罪】かどうか判らないからである。

さらに、この【法律】を持ち出したことによって、南京攻略戦後の各事例について、示す【法を犯した犯罪】としての【日本軍の行為】への検討が必要になる事態となった。南京攻略戦後について、知る為には、前提として【国際法】を知って居無ければならないという事と成ってしまったことになる。
当然ながら、笠原十九司氏が【国際法】の【実務者】でなければ【研究者】でも無いことは云うまでもなく、その為に一々列挙するケースに【不法行為】かどうかの【法律家】の伺いを立てねば、それが【不法】による【犯罪】かどうかが、全く【判別出来ない】ことになると言う事になる。しかしながら笠原氏の今までの論考の中で提示してきた日本軍の行為が【法律家】による【不法判定の犯罪断定】が成された記述を見たことは無い
そして又【国際人道法】を南京攻略戦にあてはめるは【法の不遡及の原則】(注4)から不適当と考える。南京攻略戦は1937年12月であり、WW2終了後の法律を当時の日本軍人が知る由もなく、その【法的義務】も知るはずもない。それを当てはめるというのは適当ではない。
加えて言えば、1927年のジュネーブでの【俘虜の待遇に関する条約】(注5)については、日本国は批准していない。理由(*6)は、【①日本軍は捕虜の待遇を求めないので不公平の為受け入れられない。②航空機による作戦遂行後日本軍への投降は受け入れられない。③第86条規定(*7)で中立国の立会人不在では捕虜からの情報引き出しの可能性がある為受け入れられない。④捕虜に対する規定は日本軍兵士の待遇以上の優遇的であり受け入れられない。】の4点から、批准をしなかった。支那事変から四年後の1941年の米国の問い合わせに対しても【適当なる変更を加えて (mutatis mutandis) 同条約に依るの意思ある】(*8)という法の【準用】を返答している。
又、笠原氏が著作の中で国際法における【戦争犯罪】についての参考にした藤田久一著『戦争犯罪とは何か』(*9)の中で書かれていることは、【法の遡及】についてWW1の【戦争犯罪人】として訴追された元ドイツ皇帝ヴィヘルム・カイゼルを逃亡した先のオランダ政府に【法の遡及】による【法】によって引き渡しを要求した際、オランダ政府は【法の遡及】を次のように

引用P.60/9行目《

もし将来、国際連盟によって、戦争の場合に、犯罪とされた行為で、かつ犯された行為より以前の規定によって制裁を科せられる行為を裁くために、権限ある国際管轄権が設定されるならば、オランダはこの新制度にくわわることになろう

として【法の遡及】を【拒否】している。その後、満洲事変、支那事変、大東亜戦争敗戦後までに、【法の遡及】が【国際法】では認められる事と各国の【法の遡及】は認められない【国内法】と矛盾を越える為の【制度】が、【国際連盟】の加盟国(*10)及びその他の国において【法の遡及が認められた決められた】という話は聞いことがない。

さらに笠原氏の『南京事件』【定義】の中で、P.215/8行目に引用【三七年八月一五日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民にたいする無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。】と日本軍による支那大陸の各地点への空爆をその【定義】の中に入れているが、第二次上海事変が始まって直ぐの8月14日の【蒋介石国民党空軍】による【上海への無差別爆撃】(*11)の直後から行われた日本軍の各都市の空軍施設への爆撃を恰も【無防備都市及び非交戦者殺害の為の無差別爆撃】と、何等の【根拠】も無く、自己の主張する【定義】の中に入れている。
当時の国際社会全てでは無いが、国際連盟の主要国の一つである1937年10月6日のイギリス議会の議事録(CAB-23-89-7)(*12)の中で、

引用《
The General Staff also held that the actions of the Japanese had not been unjustified. For example, the bombing of the Capital was a justifiable act of war which was likely to be undertaken by any country in the event of hostilities.

当方訳:幕僚は又、日本軍の行動は不当では無かったと考えた。例えば、首都への爆撃は戦争として正当な行動であるし、万一敵対の場合には、どの国でも実施される可能性もありそうだった。

とあり、その後、議会でも賛成(The Cabinet agreed ---)を受けている。
確かに、イギリスの閣議であって、当時の国際社会全般の認識かと問われると他国の情報も調べる必要があるが、時系列的に起こった行為と当時の南京の首都が【民主主義制度の選挙】に則って選ばれた【政権】による【行政】が成されて【無防守都市】であったならいざ知らず、【軍閥】という【軍事拡張主義】的な指向性を持つ【蒋介石】が頂点に立つ【軍事政権】による都市運営である。その点を踏まえずに、【市民にたいする無差別爆撃】という記述は、学者にあるまじき【無知蒙昧】や【印象操作】による【読者】へのミスリードを誘う記述というものである。


【結 論】

この【定義】は【一般的】に【認知し得ない】【法】を前提とした【不法・違法】を【印象操作】する為の、【学問的とは呼べない】【政治的】な【責任】を【当時の日本将兵】や【現在の日本国と日本人】に【罪】を【擦り付ける】の為のものであると言わざるをえない。
苟も【歴史学者】を標榜する人物が、【政治的に責任を追及する為】だけの【法の遡及】や【偽証罪不問】、【戦勝国の戦争犯罪不問の不公正】を抱える【極東国際軍事裁判(=通称東京裁判)】(*13)と同様に、一学者如きが【国際人道法】を【日本軍の戦闘実行将兵】に当てはめ、現在の日本国と日本国民にたいして【責任】を押しつけようとするのは問題である。しかも【日本軍兵卒】の行為だけにそれを当てはめるというのは更に【公平性の欠片】もない異常なことである。
本来【責任問題】と【史実の追求】という【学術・学問】とは【表裏一体】のものでは無い全く【別物】とすべきだからである。どうしても【責任問題】をしたいというのであれば、【中国近現代史】を【専門家】であれば、【日本軍兵卒】のみならず、支那事変に係わった【支那軍兵卒】【米国人】【ロシア人】【ドイツ人】の【行動・行為】についても【探究】し【その責任を追及】すべきでは無かろうか。




(*1)増補版の『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』(Kindle版) 笠原十九司著(都留文科大学名誉教授。中国近現代史専門。南京大虐殺肯定派の専門の権威。) 平凡社 2018/12/12

(*2)国連広報センター(http://www.unic.or.jp/activities/international_law/humanitarian_laws/
引用《
国際人道法は戦争の手段や方法を規制する原則や規則、それに文民、病人や負傷した戦闘員、戦争捕虜のような人々の人道的保護を扱ったものである。主要な文書としては、赤十字国際委員会の主催のもとに採択された1949年の「戦争犠牲者の保護のためのジュネーブ諸条約(Geneva Conventions for the Protection of War Victims)」と2つの1977年追加議定書(1977 Additional Protocols)がある。

Wiki ジュネーブ法:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%B4%E6%9D%A1%E7%B4%84
俘虜の待遇に関する条約:捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第3条約)
戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第4条約、新設)
(*3)
Wiki 戦時国際法:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E6%99%82%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%B3%95
陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E9%99%B8%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84
陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約・御署名原本・明治三十三年・条約十一月二十一日 https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000018884
信夫淳平著『戦時国際法講義 第2巻』(info:ndljp/pid/1060837)
信夫淳平著『戦時国際法提要 上巻』(info:ndljp/pid/1707271
(*4)法の不遡及:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%B8%8D%E9%81%A1%E5%8F%8A
野呂浩著論文『パール判事研究:A級戦犯無罪論の深層』(info:ndljp/pid/9212941
(*5)Wiki 俘虜の待遇に関する条約:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%98%E8%99%9C%E3%81%AE%E5%BE%85%E9%81%87%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
B04122508600

(*6)【「俘虜ノ待遇ニ関スル千九百二十九年七月二十七日ノ条約」御批准方奏請ニ関スル件回答 八月九日付条一機密合第三〇九一号:https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B04122508600


(*7)KKnanking氏のサイトより、【俘虜の待遇に関する千九百二十九年七月二十七日の条約】第八編 条約の執行>第二款 監督の組織>【第八十六条】条約適用の保障(http://www.geocities.jp/kk_nanking/law/ko_hou/1929.html
(*8)Wikiより引用《
日本は本条約を批准していないが、太平洋戦争開戦後の1941年12月27日、アメリカ合衆国は当時の日本における利益代表国であったスイスを通じて、同国が本条約を遵守する意思があることを伝え、また日本の意向について問い合わせてきた。1942年1月3日には、英国およびその自治領が同様に利益代表国のアルゼンチンを通じて問い合わせを行った。
1942年1月29日、日本政府はスイス、アルゼンチン外交代表に対し「適当なる変更を加えて (mutatis mutandis) 同条約に依るの意思ある」との声明を発表した。

(*9)藤田久一著『戦争犯罪とは何か』岩波書店 1995/3/20 P.59、P60
(*10)Wiki 国際連盟加盟国:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E7%9B%9F%E5%8A%A0%E7%9B%9F%E5%9B%BD
(*11)第二次上海事変での蒋介石・共産党連合軍の空軍による無差別爆撃。
1937年8月 第二次上海事変。キャセイホテル前。 - EA_ Warhistory http://blog.livedoor.jp/ea_warhistory/archives/13468651.html
1937年8月14日。支那空軍が上海を空爆。 - EA_ Warhistory http://blog.livedoor.jp/ea_warhistory/archives/10565599.html
1937年8月24日。第二次上海事変。上海百貨店の惨状。 - EA_ Warhistory http://blog.livedoor.jp/ea_warhistory/archives/10767954.html
1937年8月 第二次上海事変。アジア石油の火災。 - EA_ Warhistory http://blog.livedoor.jp/ea_warhistory/archives/13468290.html
(*12)The National Archives(http://www.nationalarchives.gov.uk/)で公開されているイギリス議会の議事録(CAB-23-89-7)の256・257


(*13)【極東国際軍事裁判】については、国際法学者の田岡良一博士の発言に、【裁判に適用された法律は事後法で、これは政治的目的を達成するために、便宜上作られた法です。】とある。(注)昭和41年12月20日発行の『アイ ラブ ジャパン ─パール博士言行録─』 第2部 東京裁判の回想(NHK総合テレビ『土曜談話室』録音) 『東京裁判の思い出』(聞き手は、国際法学者 田岡良一博士)P.98/上段 7行目 田岡氏の発言。