【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その5

2020年03月12日 11時09分17秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。


【15 [高橋光夫(=偽名)]陣中日記】

P.281
15 [高橋光夫]陣中日記

所属:歩兵第65連隊>第三大隊>第11中隊・第4次補充
階級:上等兵

10月16日 増派の為、臨時招集を受ける。会津若松佐藤部隊。
11月08日 畑俊六大将が演習地を見学。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 呉淞上陸。今朝、支那人の遺体が川を流れていく。
        呉淞砲台や上海への続く路面には支那人の遺体がある。臭気が鼻をつく。呉淞出発、大日本紡績に宿。

12月04日 上海の日本人租界で過ごし、上海楊樹浦の大康廠大日本紡績工場に宿営。
12月05日 南翔へ向けて出発。南翔着。支那人の子供が片言の日本語を使う。
12月06日 晴。午前6時、崑山に向け発。路面に遺体多くある。夜犬の遠吠え。
        途中輜重の支那兵の遺体が山になっていた。途中で宿営。

12月07日 午前8時。崑山に向け出発。途上は戦場整理が出来ていない。支那人苦力を雇い、荷を背負わせる。
        蘇州午後6時着。ビールを飲む。この日午前1時に南京陥落の報を聞く。

12月08日 6時蘇州発。無錫へ。
12月09日 午前7時、無錫着
12月10日 午前8時青陽鎮に向け出発。途上支那人の遺体多数。車輌乗車での行軍。青陽鎭着。
12月11日 晴。午前8時出発。車輌故障になり部隊より遅れる。常州城に午後8時に着。宿営。
12月12日 晴。午前7時発。車輌にて丹陽へ。宿営地不明。
12月13日 午前8時50分常州出発。車輌で移動。鎭江に11時30分着。読売と新潟の新聞記者を目撃。
12月14日 8時に出発。高資に4時着。宿営。徴発。
12月15日 午前8時発。前夜は月光が輝々と壁を照らす。4時龍潭着。途上にて支那人2名殺害。
       ニーヤ(支那人)に徴発品を負わせて宿営地へ運ぶ。何かの工場。

12月16日 午前8時30分発。東流に2時頃着。分隊衛兵の任。寒い。
12月17日 午前8時30分発。本田上等兵銃を紛失する。聯隊本部に着。
12月18日 雪。寒い。午前8時半。12時に中隊第11中隊に配属される。
       午後に連隊で殺害した捕虜2万5千近くを片付ける

12月19日 本日も第一小隊第二分隊は午前は死体片付けの為前日の地に行く。16人の敗残兵殺害
12月20日 分隊に入る。一日中(不明)。
12月21日 午前6時10分発。揚子江を8時に渡る。午後6時頃目的地着。小に宿営。
12月22日 午前8時40分津浦線のある発。城外の一に宿営。このは日本軍を歓迎



【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。

このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見ても、【一般人】が【大勢居た】ことも【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にない。

この人物は、第4次補充で、日本が戦闘で勝利を収めて通過したコースを本隊を追求している人物で、悲愴な泥濘難路の行軍を殆ど体験していない。

表記だが、遺体を支那人としているので、民間人か兵卒かは、不明な点がある。一般人はニーヤとしているため、支那人は兵卒を指しているかも知れない。日記は報告書の類ではない為、他者に正確に状況を伝えるものでは無いという面を持つという一例であろう。

12月10日などの無錫から江陰という錫澄線(*2)という支那軍の最終第4防衛ラインに近く激しい戦闘が行われたことは17の近藤の11月27日〜29日や18の黒須の11月26日〜30日にも現れている。武進は揚子江と◆(氵+鬲)湖の錫澄線よりも更に狭い約30kmほどの狭エリアで軍事的に重要ラインである。


錫澄線と武進のライン

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*3)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この菅野という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない。

引用 チャールズ・メイヤー(*4)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

この高橋の日記でも、12月15日に宿営した龍潭から棲霞山は約10kmぐらいの距離なので、宿営地が実際何処かは不明だが、ここでもBBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。揚子江付近を進軍しているにも関わらず、存在すら気にも止められなかったし、話題にものぼらなかったようである。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』 全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】
(*2)偕行社『南京戦史』 P.47 要図:淞滬線陣地と外衛線陣地より 【Link】
(*3)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*4)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】

【参考サイト・Twitter】


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・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
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