【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その4

2020年03月11日 14時23分10秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。


【16 [菅野嘉雄(=偽名)]陣中メモ】

P.297
16 [菅野嘉雄]陣中メモ

所属:歩兵第65連隊>聯隊砲中隊・編成
階級:一等兵

【戦闘詳報】

(1)歩65作命第26号 10月15日 午後2時 於 蔡寧宅
(2)命令 10月17日 午後1時30分 於 櫓網湾
(3)作命第6号 10月18日 午後8時 於 櫓網湾
(4)歩65R命令 10月20日 午後8時30分 於 櫓網湾
(5)命令 10月22日 午後6時
(6)R命令 10月29日 午後11時 於 馬家宅東方
(7)命令 104連隊残敵掃蕩中、旅団直轄となる命
(8)歩65作命第49号 11月2日 午後7時30分 於 劉家行
(9)歩65作命 11月12日 午後11時30分 於 倉頭鎮聯隊本部

【昭和12年 日支事変 陣中日記】

10月10日 豪雨の中、虬江碼頭上陸。呉淞永安紡績工場跡宿。
10月12日 永安堡発。悪路の中月浦鎮着。露営。
10月13日 道悪路。連隊集結地の蔡寧宅露営。
10月15日 14日と共に演習。
10月16日 午後出発。第一線へ。
10月17日 櫓網椀東南堤上に砲を設置し、初砲を開く。砲弾しきりに落下。
10月18日 老陸宅、馬家宅の交戦終日。
10月25日 8日間交戦の為そのまま在。第二次補充隊着。
10月26日 1名戦死。
10月27日 上海方面大火災。
10月29日 28日の膠着状態を打破する為、連隊が全滅を覚悟で揚涇クリーク渡河の為総攻撃開始。
10月30日 104連隊と交代命令の為、李家宅まで後退。
10月31日 小隊のみ弾薬補給。
11月02日 1日と本日休養。郷里の戦友戦死。
11月03日 午前8時発。羅点鎭西方地区の敵前配置。野戦砲隊周王前、弾薬小隊は沈家橋に配置。
11月04日 敵前守備。
11月12日 9日間儘守備。午前6時発。羅店鎮へ向けて追撃。雨で行軍困難となる。
11月13日 午前8時発。田圃状の泥道を行軍。に住民が居るのを目撃。
11月14日 午前7時30分発。夜間行軍10時半まで。
11月15日 午前8時発。渡渉は足が痛む。夜は雨。
11月16日 午前7時30分発。大雨で行軍難航。水牛徴発。支塘鎮通過。
11月17日 午前8時40分発。常熟鎭通過。雨の為行軍難航。馬が瘦せて、徴発した荷負わせの水牛が増える
11月18日 午前9時出発。路面益々悪化。何村周行鎭通過。
11月19日 午前10時発。雨は更に激しくなる。西方に初めて山が見える。
11月20日 連隊の激戦地である謝家鎭附近に宿営。昨日同様雨は激しい。
11月21日 午前9時出発。雨。港口鎮に宿営。
11月22日 雨止む。午前9時出発。顧山鎭通過、陳野鎭に宿営。
11月23日 午前6時30分発。雪ちらつく。長涇鎭で激しく交戦。
11月24日 午前11時30分発。市外に連隊集結。長涇鎭に宿営。砂糖・水飴徴発。
11月25日 午前6時20分発。晴。行軍楽。
11月26日 晴。霜多い。午前11時発。祝塘鎮、李家橋鎭通過。
11月27日 午前6時30分発。黄塘鎮通過。行軍短く楽。
11月28日 昨夜雨。午前7時30分発。江陰城攻略へ向かう。久し振りに砲弾が飛び来る。塗鎭宿営。
11月29日 晴。夜間行軍。南閘鎭宿営。
11月30日 僅かに前進。江陰城外のに宿営。
12月01日 弾薬受領の為に後退。
12月02日 早朝出発。江陰城陥落。午前9時30分連隊入城。城内に宿営。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 滞在休養。入浴。洗濯。
12月04日 午後1時発。城外北関に移転。釣鐘山麓宿。
12月05日 江陰砲台を見学。高射砲などと揚子江見る。
12月06日 釣鐘山麓にて聖旨伝達式有り。第三次補充隊着。
12月07日 午前7時10分発。遅れて12時出発。夏港を経て西□宿営。
12月08日 午前8時□□分発。町中火事○○9時頃着。
12月09日 午前8時出発。聯隊本部の兵□□4人□□陽を過ぎ鎭江に向かう。
12月10日 午前9時発。午後5時頃鎮江着。電灯を着を見る。道幅広く建物大きい。城内宿。
12月11日 8時半出発。
12月12日 7時出発。行軍約三里(約12km)
12月13日 午前8時半発。大華山山脈鉄路沿いに行軍。龍潭鎭通過。棲霞山近くの山中某に宿営
       夜敵斥候3名鹵獲。

12月14日 午前5時出発。夜明け頃より敵兵続々と捕虜とする。幕府山占領。午後2時戦闘中止。
       廠舎(*2)に捕虜を収容。前に宿営警戒。捕虜数1万5千。

12月15日 引き続き捕虜投降。総計2万と成る。


 

【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。

このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見ても、【一般人】が【大勢居た】ことも【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にない。

戦闘詳報に於ける軍の命令として、(2)の命令中でも、連隊命令は【敵重火器を撲滅すべし】であって、(3)3の作命6号でも両角大佐による【命令】は、【敵自動火器を撲滅】であり、【人間撲滅】の命は出ていない。部隊を一部割いて戦場掃除や戦死者の調査、戦闘詳報の整理などを命じている。幕府山に面する揚子江対岸の中洲である八掛洲から観音門(燕子磯)の部隊への砲撃による攻撃があり反撃している程度である。民間人住民の確認と掃蕩対象という命令と実行の記録は見当たらない。


幕府山の位置と観音門(燕子磯)の位置

この人物は、捕虜の数値を総計2万としている。一等兵という身分上、人数を数えたという話ではなく、単なる伝聞による戦場における混乱した情報によるものと考えられる。同書掲載の斎藤次郎(=偽名)の日記には、12月14日の旅団の調べとして1万4千777名とある。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*3)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この菅野という人物は、【殺害】を楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害を行ったという記述も見られない。

引用 チャールズ・メイヤー(*4)による【まえがき】

個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
  《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

この菅野の日記では、【棲霞山近くの山中某に宿営】しているにも関わらず、夜敵斥候3名鹵獲だけで、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。揚子江付近を進軍しているにも関わらず、存在すら気にも止められなかったし、話題にものぼらなかったようである。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。



【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』 全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】
(*2)廠舎:軍隊が演習先などで仮設する、四方に囲いのない簡略なつくりの小屋。goo辞書 【Link】
    廠舎いろいろ画像 【Link】

(*3)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*4)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】