Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

ツベルクリン反応とは?

2015年03月31日 09時18分05秒 | その他
1890(明治23)年8月月ベルリンで、開催された国際医学会総会で、コッホは突然結核の特効薬の開発に成功したと取れる報告を行った。
このニュースは、ヨーロッパはもちろんのこと、全世界を駆け廻った。
全世界の結核患者や医者は、コッホ(1843-1910)の報告を聞いて熱狂的に歓迎し、何とか「秘密のくすり」を手に入れようと、ベルリンに殺到した。
しかしコッホは、まだ開発途上というだけで、薬の成分も製法も明らかにしなかった。 
 この薬の正体はツベルクリンで、結核菌の培養液をそのまま煮沸し、濃縮濾過したものであった。 はるか離れた日本でも、政府は直ちに新薬を入手するため、3名の医者をベルリンへ派遣した。
 結核の特効薬と期待されたツベルクリンは1891(明治24)年3月日本に到着したが、結核には効果はなかった。世界各国も同じ結果で、ツベルクリンに対する失望に包まれた。
 ツベルクリンが結核の診断に利用できる事を発見したのは、アメリカからコッホのもとへ留学していたペアーソンである。彼は故郷で、外見上問題のない79頭の乳牛にツベルクリンを注射したところ、30頭の乳牛に発熱がみられた。
そのうちの2頭を選び解剖をしたところ、結核に罹患していた。
牛の結核の診断に、使用できることが明らかになった。
1907(明治40)年には、ウイーンの小児科医ピルケが、皮下にツベルクリンを入れると、赤く腫れ硬くなるのを発見し、人の結核の診断にも使用できることを発表した。
彼は2㎜を陽性に取ったが、これだと小児の九八%が陽性であった。
その結果ヨーロッパでは、小児期に結核に感染するというのが常識になった。
 欧米では子供の頃にツベルクリン反応がほとんど陽性であると判断されていたため、大人の結核は再感染によるという考え方が1960(昭和35)年代まで信じられていた。
岡治道(東大、大正6年)は我が国の青年の肺結核は、初めて感染したときに、発病するものであって、再感染ではないと結論づけた。
また一度結核にかかった人が2度、3度結核に
罹ることはないとした(東京医学雑誌、43、208-241、 1932)

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B型肝炎訴訟コーナー新設(再掲)

2015年03月30日 07時00分00秒 | B型肝炎訴訟
第2次訴訟には今まで関わってきませんでしたが、今後はB型肝炎キャリアとは何かという観点から、積極的に参加することにしました。
本人は勿論、知人がB型肝炎でお悩みの方の相談にのります。ブログのコメントに投稿して下さい。


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古河の桃

2015年03月29日 13時28分18秒 | 支援者の方から
茨城県古河市古河総合公園の「桃の花」です。
常連の鶴巻代表からの便りです。
この公園は鶴巻家から車で30分くらい、北西のところにあります。
彼も北海道に続いて猿島の春を夢見ています。



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時計台(札幌)

2015年03月29日 07時00分00秒 | その他
北海道大学の前身である札幌農学校の演武場として、初代教頭のクラーク博士の構想に基づき1878(明治11)年に建設されました。
農学校の生徒の兵式訓練や、心身を鍛える体育の授業を行う場、および入学式・卒業式等を行う中央講堂として使われていた建物です。
開拓期のアメリカ中・西部で流行した風船構造と呼ばれる木造建築様式が特徴。
赤い屋根と白い壁が印象的な建物だが、市立図書館として使われていた一時期には壁の色が緑だったという意外な記録があります。
1階展示室では色の移り変わりや大火に遭った際のエピソードなど、時計台にまつわる歴史を展示。
2階では再現された演武場の歴史的な雰囲気を体感しながら、実際に時計台で使われているものと同じハワード社の時計機械を見学できます。
3月16日(月)黒澤誠二(由仁・三川C型肝炎訴訟団副団長)氏に車を止めてもらって、私が撮った2枚の時計台の写真(写真上、下)。
「友情とは何か?」を再考する記念すべき日でした。
やっと由仁・三川C型肝炎訴訟の展望が見えました。



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戦前の結核の特徴(後篇)

2015年03月28日 07時00分00秒 | その他
これも生活の方法とか色々なことが関係するため、
感染したら、どれほど発病するか、発病したらどれだけ死ぬかも考えなければなりません。
これも生活の方法とか、種々のことが関係するため、この数字もはっきりしないが、死ぬものがどれ位の速度で死んでいるかという統計はあります。
特に奈良県の砂川技師がつくられたものによると、表1がそれですが、男女約1000名、男性は1018人、女性は958人、合計1976人という死亡者について、警察の手をかり、医者の手も煩わせて、県の衛生技師らの手を使って、かなり詳細に調べたものがあります(表1)。 
そうすると驚くべきことに、1000人あたり500人が、11ヶ月で死んでいる。
7割5分はどれだけかというと、1000人について769人という数字が1年半で亡くなっています。
これを曲線で現すと図4の如くになります。こういうような急激な死に方をします。後はゆっくり死んでいのが特徴です。大部分は2年も経たない内に死んでいることが明らかです。
感染して発病したら、短期間に死んでしまうということになります。
丁度あの山の高い時期に日本では感染が多く、感染して発病して割合に短期間で死ぬということが、証明されたことになります。」と述べています。



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戦前の結核の特徴(前篇)

2015年03月27日 07時00分00秒 | その他
戦前の我が国の結核問題について、東大付属伝染病研究所(現医科学研究所)の佐藤秀三(東大、大正4年卒)は1940(昭和15)年10月9日東京市軍人会館(現九段会館)で、結核問題の医学講演会(実験治療社主催)の講演で述べた要約を引用する。
この年には東京オリンピック、万国博覧会も予定されていましたが、日中戦争1937(昭和12)年のため中止になった。
この記念すべき年には、長引く戦争と窮乏する生活から国民の鬱憤(うっぷん)を晴らすため、祭りや行事があらゆる分野で行われた。
佐藤秀三によると「結核は結核菌が身体に入って結核になるわけで、予防はその結核菌が身体に入ることを阻止できればよいわけです。
結核菌が発見されてから50年、その結核撲滅の努力はしていますが、一向に結核は減っていないのです。
そこで結核の予防を論じるに当たって、最初に結核がどれほど日本に蔓延しているかを知ることが必要です。
その年齢、地方分布をみておくことは必要なことです。さらにこの分布を、人為的にどう変えることができる、変えるのかを考えるためには、その実態をつかむことが結核の予防につながります。
今日はこの疫学方面のことを話したいと思います。


我が国では不幸にして結核の死亡率が非常に高い。
1年に人口10万人に対して200人死んでいる。それを年齢別に区別してみると、図1のような数字になる。
これは人口10万人についてであるが、たとえば女子が20才になると550人という数字になっている。
平均に対して2倍半以上の死亡率を示している。
男子も同じようである。これは25才の所にきているが、人口10万については500人以上、約2倍半になっている。
これは年齢別の結核死亡である。
我が国に非常に特有な現象であり、他の諸外国ではあまりみない。
支那(中国)においてもこの現象はない。
これは日本人の風俗、習慣および産業状態というようなものが、関係すると思うのでそれについて話したい。
この図1の山は、年齢の丁度15才から25才、30才位の所に死亡率が非常に高いということを示している。
根本的な人的資源の損失と、国防上における損害は、非常に重大なものである。
英国では図2のように、年齢がずっとあとの方になって山の高さが上がってくる。
これは.諸外国、先進国における一般にみられる形であって、日本のような形は非常に特有である。     
支那でも満州でもイギリス型を取っている。
台湾に行つても本島人と内地人と比較すると、内地人(日本人)はやはり図1のような山の形を取るし、本島人は山の形はずつと高くなるが、年齢はずっと遅れることが明かである。
これは諸君とともに非常によく考へなければならないことである。
この山の高い所を減せば、これだけを取ると、英国と同じようになる。
英国の死亡統計は10万に対して70人位になっているが、この山を滅しただけで10万について100数人かが減ってくるわけである。
我が国の結核の事業も、この山をへらすことが出来れば、まず成功したとみて差し支えないのである。 
それでこの山がいかにして高くなっているかを研究することが、結核病の最も重大な課題である。この山がどういうふうにしてできるかということを色々分析して考へてみると、若い時には結核の感染が割合に少なかつたが、ここにいたって感染が非常に多くて、感染するとその何%か10%か20%が発病する。これはツベルクリン反応が陰性であつたが、陽性になった時にどれだけ発病しているかということについては、しつかりした統計が出ていない。
1割くらいというが、悪い時には一割以上が発病する。発病しても慢性化してゆっくり死ぬと考えれば、第1図にはならない。したがって結核は若い時に感染し、ばたばたと急性の病のように死んでしまう。
この様な想定が事実であるかどうかを検討してみたい。
この想定が正しいかどうかをみるためには、ツベルクリン反応をみるのが一番正確である。
ツベルクリン反応は若いものに低く、年齢とともに高くなるし、陽性率は、田舎では低いが都会では高い。
この関係をグラフにしたものが図3である。石川県、愛媛県、福岡県は中間の所を通っているが、大体において田舎に少なく、都会に多いことがわかる。
次に死亡率であるが、田舎に非常に少なく、東京、京都、大阪あたりが非常に多い。」


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なぜ結核は広がったか?

2015年03月26日 07時00分00秒 | その他
わが国では有史以来結核はありましたが、明治政府ができ、1872(明治5)年10月フランスの技術者を招いて、現在世界遺産になっている官営の富岡製糸(蚕の繭から絹糸をとる)工場を群馬県富岡に創った。
富岡工場で働いていたのは、社会的地位の高い士族の子女が募集されましたから、製糸工場は華やいだ雰囲気を持っていた。
政府は富岡工場建設以降も官営の工場を建設して行ったが、1880(明治13)年からは民間へと払い下げを開始した。
ここからわが国の産業革命がはじまり、「女工哀史」の幕開けとなった。
工場主は労働力を貧しい農村から集め、彼女達は親への前払い金でしばられ、貧しい農村の家庭への送金などで、自由はなかった。
彼女達は女工と呼ばれ、狭い寄宿舎に収容させられ、12時間労(昼夜2交代制)働かされ、宿舎では二人で一枚の蒲団を使わされていた(ホットベット)。
女工のほとんどは20才未満で、中には12才未満の子供もいたという。 
また食事は砂交じりの南京米に、朝は菜っ葉の糠(ぬか)味噌汁に漬物(沢庵二切れ)、昼はそら豆に漬物、夜は焼き納豆に漬物(つけもの)というのが基本メニューだった。
彼女たちは資本家が当時飼っている犬以下の食生活を強いられていた。
このような労働条件(重労働と低栄養)だったので、女工に爆発的に結核が広がりました。
結核になり働けなくなった女工は、農村へ帰され、その結果農村でも結核が広がる原因になった(図)。
1931(昭和5)年まで女性の結核死亡率が、男性に比較してはるかに高率で、これが欧米諸国との大きな違いである。
結核患者は、産業革命後の経済発展の影響もあって1918(大正7)年以降一時減少しはじますが、1932(昭和6)年の満州事変(日本が中国の満州に侵略)の頃から再び増加に転じた。
丁度この頃からわが国は重工業国になり、工場には若い青年労働者が集るようになりましたから、今度は男性の中に結核が広がりました。
また軍隊という集団生活も結核の感染に拍車をかけ、満州事変以降は男性の結核が女性を上回るようになったのです。
軍隊の徴兵検査で、胸部のレントゲン検査(間接法)が行われるようになったのは1940(昭和15)年からのことで、それまでは空洞があり排菌している開放性結核患者も、徴兵検査には合格していた。
開放性結核患者は頑強な男性に多かったので、軍隊での結核感染は激しいものだった。
いずれにしても軍隊での結核蔓延は大問題で、富国強兵を目指す我が国にとって由々しきことでした。



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第2の国民病→第1の国民病

2015年03月25日 07時00分00秒 | その他
第1の国民病結核撲滅のため、ツベルクリン反応、BCGを、また地方病といわれた日本住血虫症撲滅のためスチブナール(静注)が行われた。
その結果、第2の国民病ウイルス肝炎が広がった。
私たちの世代(団塊の世代)は肝炎の感染のルートを明らかにし、治療を考える世代であった、
どういう立場を取るかによって医者の生き方が問わる時代でもあった。
残念ながら肝炎の感染ルートの解明に取り組む医者はいなかった。
それでは第1の国民病結核(日本住血吸虫症)はどのようにして克服されたのか?
この問題について考えてみたい。
不愉快なものになるかもしれないが真実を語りつがなればならない。


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猿島の便り

2015年03月25日 07時00分00秒 | 支援者の方から
逆井小学校跡地のこぶしの木。古木でもう何百年の経っています。
鶴巻進氏の母校だそうです。母校が近くにあるとは羨ましい。





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C型肝炎における経口2剤の適応追加

2015年03月24日 08時14分03秒 | ニュース
3月20日付けで、C型肝炎の内服治療薬、ダグルインザ・スンベプラはインターフェロン使用歴の有無にかかわらず処方可能になりました。
つまりC型肝炎と診断された方は誰でもダグルインザ・スンベプラを服用できます。
但し肝がんのある方、非代償性肝硬変(腹水、食道静脈瘤、肝性脳症)の方には適応は認めらていません。

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