Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

ホームページ開設しました

2015年05月21日 08時01分59秒 | その他
ホームページを開設しました。

Dr.mimaが医原病を斬る!

http://kannen.wix.com/mima-kanen

ブログについてもこちらのブログからホームページ内のブログに移設しますのでよろしくお願い致します。

にほんブログ村 病気ブログ 肝臓・胆嚢・すい臓の病気へにほんブログ村
↑↑↑
クリックお願いします
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳澤謙の青春時代

2015年05月20日 07時00分00秒 | その他


彼は学生時代の思い出を次のように述べている。
「東大医学部在学中、夏休みに東京市療養所(現国立国際研究センター国府台病院)に、2ヶ月半くらい毎日通って結核の勉強をした。
ここでは結核の臨床ばかりでなく、病理、細菌、血清学、免疫学などの研究を行っており、学生の私にも親切に指導して下さった。
夏休みも終りに近づき、9月半ばには大学もはじまるので、お世話になった先生方にお礼の挨拶にゆくと、岡先生を除く先生方は来年の夏もまたおいでといわれた。
岡治道先生だけは、来年の夏は結核の基礎研究をやっている伝研の佐藤秀三のところへ行きたまえ、僕が紹介してやるからといわれた。
3年生の夏休みには、いわれるままに佐藤秀三のもとで勉強することにした。そこで私は見習学生として、まず菌の染色、培養を習い、ついでモルモットを用いての実験、結核菌の感染方法、経過の観察、ツベルクリソ反応の検査、解剖所見など一通り教えてもらった。その頃は結核症に対しては予防接種もなく、治療の特効薬もなかった。
万が一発病したら、安静にして栄養のあるものを摂り、きれいな空気を吸うということ以外に治療法はなかった。
早期診断としてのツベルクリン反応の陽性転化が、結核の感染と如何なる関係にあるかも、いまだ研究中という時代であった。
 伝染病研究所は東大の付属研究機関であったが、その気風は極めてなごやかで、上下の区別もさしてなく,教授連と一緒に野球をしたり、夜はビールをくみかわすといった風で、僅か2カ月半程の見習生活であったが、10年の住み家のように感じた。この時私は,卒業後はここで結核の研究を一生やろうと
と決意したのである。」
ところが四年目には何を実習したのか、その記載はなかった。
背蔭河に行くための特殊研究をしていたと考えられる。
背蔭河では人の生き造りをするのだから、実験動物(人)を生きたまま殺すための訓練は必要である。ホルマリン付けにした人間の解剖実習も初めはいい気のするものではない。
1989(平成2)年7月2日旧陸軍医学校跡地に100体を超える人骨が発見されたことと無関係ではあるまい。
「伝研に東京帝大医学部から私も含めて5人が基礎部門に入った。臨牀の方には、7人入ったので、1931(昭和6)年度の卒業生がいい合わせたわけではないが、一度に12人も伝研の門をくぐったことになる。」と語っている。
確かに柳澤謙は、1931年4月30日付けで伝染病研究所技手として採用されていた(「実験医学雑誌」雑報、15巻6号)
 先にもBCGの超音波処理のところで書いた、伝染病研究所の矢追秀武は著書「私の70年史 」のなかで「柳澤謙を知ったのは、1937(昭和12年)年4月30日であった(メディカル・カルチャー、1965)と書いており、柳澤謙が1931年春から1937年春までの6年間背蔭河にいたという証拠となった。


にほんブログ村 病気ブログ 肝臓・胆嚢・すい臓の病気へにほんブログ村
↑↑↑
クリックお願いします
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが一生の思い出

2015年05月19日 07時00分00秒 | その他


私は柳澤謙が「わが一生の思い出(非売品)」という遺稿集を自費出版していたことを知ったのは2007(平成19)年8月末のことである。
その後どうしても柳澤謙の遺稿集(わが一生の思い出)の全文を読破しない限り、BCG研究の全容を解明できないと判断して彼の遺稿集を必死で探した。
その結果、彼の故郷が新潟県中頸城(なかくびき)郡津有(つあり)村であることが解った。
ここは現在の高田市に当たる。
2007年12月、高田市立図書館へ電話したところ、図書館が所蔵していることが判明した。
早速札幌市立中央図書館に貸し出しを依頼して送ってもらった。
「わが一生の思い出」は、第一編 誕生から結婚まで、第二編 研究生活とその周辺、第三編 海外旅行の印象記からなっていた。
暮れも押し迫った12月28日、第二編 研究生活とその周辺を全部コピーした。
その後幸運なことに古本屋にあることが解り、2015(平成27)年4月16日購入することができた。
ついに核心に迫れる時がきたのである。
 この自叙伝は、1977(昭和52)年8月、彼が国立予防研究所(現国立感染症研究所)所長を70才で退職後、毎年夏の一ヶ月半、山中湖の別荘にこもり、執筆していたものであることが解った。
「わが一生の思い出」は未完であったが、彼の息子は父の意志を次いで出版しようと考え、遺稿集(非売品)を出版した。
第二編は出版の前に家族が国立予防研究所(国立感染症感染症研究所)の検閲を受けていた。
その結果、彼の業績目録の中から肝心な論文は削除射さていた。
この自叙伝は、1977年(昭和52)年8月、彼が国立予防研究所の所長を70才で退職後、毎年夏の1ヶ月半、山中湖の別荘にこもり、執筆していたものである。
 ところが、「悪魔の飽食」が1981(昭和56)年11月に発売された。
発売と同時にベストセラーにもった。
 彼にとって人生最大の恐怖だったと予測される。「悪魔の飽食」出版半年後の1982年5月3日に心筋梗塞をおこし、一時よくなるも6月18日には再発作をおこし死亡した。75才であった。


にほんブログ村 病気ブログ 肝臓・胆嚢・すい臓の病気へにほんブログ村
↑↑↑
クリックお願いします
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満州国衛生技術廠

2015年05月18日 07時00分00秒 | その他
1934(昭和9)年3月中旬満州国衛生技術廠の所長人事が伝染病研究所内で問題になった。阿部俊男(東大、大正8年卆)は長崎医大の教授から2年ほど前、伝研に転出したばかりだったので、伝研に残りたいと断った。
しかし宮川米次の強い希望で満州国衛生技術廠(以下満州伝研)に行かざるを得なかった。
1934(昭和9)年の7月21日から1ヶ月の予定で宮川米次と阿部俊男は満州の医事衛生視察のため出張した。宮川米次は背蔭河で進行し、成功し始めているある実験の視察(第4性病)、阿部俊男は満州伝研の視察もあったであろうが、宮川米次の「満州国に於ける見聞」の代筆の役目を負っていただろう。
1934(昭和9)年9月21日午後6時には主席者114名という非常に盛大な送別会催され、10月には阿部俊男(東大、大正8年卆)が、満州国衛生技術廠(長春)に所長として赴任した。
満州伝研は、99,150㎡(約10ヘクタール)の広さであった。  
阿部赴任の翌年すなわち1935(昭和10)年12月16日には田中正稔(まさのり)、加地信および委託浅田順一、島崎正雄、菅野征らが伝染病研究所から派遣された。
田中は阿部の片腕として期待されていた。
 田中正稔は、柳澤謙の同期であり、ともに背蔭河の工場で働いていた。
背蔭河の実験は1937(昭和12)年秋で終了となったので、通称満州伝研は背蔭河と同様の研究を続行するために造られたものである。
「工場」従業員の数は約300人であった。
1936(昭和11)年から昭和12年にかけて、柳澤謙が2年間BCG未接種者(144人)とBCG既接種者(162人)の経過観察を行っているが、観察できた総数は306人であった。
1938(昭和13年)年6月9日田中正稔交通事故で死亡した。
 阿部は田中の代わりに柳澤の赴任を要請したが、満州のことを良く知っていた岳父(義父)の助言によりそれを断り、代わって高橋義夫に行ってもらうことにした。高橋義夫の赴任時期は明確になっていないが、彼は1936年(昭和11年)9月2日(水)フランスのパスツール研究所に2年間の予定で留学していた。
彼が満州国衛生技術廠副所長に赴任したのは田中の死後まもなくであろう。
高橋義男(北大、昭和9年卒)は満州伝研では子供たちの腋窩(わきのした)にBCG接種を行っていた。
阿部は戦後ソ連に抑留され、1947(昭和22)年シベリアで死亡している。

にほんブログ村 病気ブログ 肝臓・胆嚢・すい臓の病気へにほんブログ村
↑↑↑
クリックお願いします

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふじ

2015年05月17日 07時00分00秒 | 支援者の方から
藤の木は鶴巻氏の近所の木村 廣さんが40年位手入れした藤の木です。







にほんブログ村 病気ブログ 肝臓・胆嚢・すい臓の病気へにほんブログ村
↑↑↑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

背蔭河(2)

2015年05月16日 07時00分00秒 | その他


網走監獄(博物館)は5万坪、16,5(ヘクタール)の広さがあり、定員は800名であった。
「1933年12月8日(金)降雪、午前8時雪を犯して飛行、吉林、拉法(らーふあ)を経て10時15分拉林(背蔭河)着、石井および伊達氏に迎えられ背蔭河の試験場を視察した。
600メートル平方(36ヘクタール)の大兵営で、一見要塞をみる感があった。一同の努力の跡、歴然であった。
20数万円の経費またやむを得ないか。
細部にわたり説明を聞き、昼食を共にして午後2時発、自動車にて帰途につき、午後6時、夜の荒野を幾度か道に迷いつつも、中馬大尉(石井四郎)の案内にてハルビンについた。
石井は疲労のため、発熱、1時間見舞い、7時に名古屋館(長春)に投宿した。」1933年に文部省から伝染病研究所への予算は、19万890円でしたので、背蔭河の予算の規模は伝染病研究所と同程度の大規模であった。
私は、2007年秋、寒い雨の日に網走刑務所(博物館)に行ってみた。
背蔭河の広さを実感するためだったが、面積を比較すると背蔭河の広さは網走刑務所(博物館)の2倍以上もあった。
これなら実験動物1500人以上を1人1人檻(おり)に収容出来ると確信した(写真1)。
「1933年年12月24日快晴、東郷氏(石井四郎)から電話があり、父を失いなお国に帰ることなく、背蔭河の仕事に没頭しているのを聞き気の毒に思った。」
「1934(昭和9)年8月11日(土)晴、午前8時半出発、モス機にて背蔭河を訪問する。東郷部隊を訪問した。10時着。予想以上の良好な飛行場ができていた。東郷(石井)中隊長等に迎えられ、試験場を3時間にわたり綿密に視察した。」
飛行場は実験動物(人)によって造られたと考えられる。
人は幽閉し労働させなければ、死んでしまう。
モス機とはデ・ハビランド社製(英国)のDH82Aタイガーモスのことです。

にほんブログ村 病気ブログ 肝臓・胆嚢・すい臓の病気へにほんブログ村
↑↑↑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

背蔭河(はいいんが)1

2015年05月15日 07時00分00秒 | その他


背蔭河はハルビン(中国黒竜江省)から南東約70kmのところにあった。
1931(昭和6)年春から開始され、ツベルクリン反応の基準づくり、BCGの毒性(副作用)、BCGの結核予防に対する研究、BCG未接種者と既接種者発病率と死亡率の比較(2年間)が行われ、1937(昭和12)年秋には終了した。 
背蔭河について残っている一番正確な資料としては、遠藤三郎の日記がある。
宮武 剛(毎日新聞社)がまとめた「将軍の遺言―遠藤三郎日記」の石井四郎に関するところを、口語訳にして紹介する。
遠藤三郎は、満州事変をおこしたとされる石原莞爾(いしはら かんじ)の後任として、1932(昭和7)年8月下旬満州に単身赴任しました(彼の宿舎は関東軍司令部のあった長春にありました)。
このとき遠藤は石原莞爾から極秘裏に、石井軍医正に細菌戦の研究を命じているから、面倒をみてほしいと頼まれている。
彼の日記の中には、石井四郎の名前が再三登場します。
最初は、「1932(昭和7)年1月20日(水)、この日は曇りで石井軍医正が東京の参謀本部に来て細菌戦準備の必要を説明、共感する点が多かった。速やかに実現できるように手配した。」
「1932年8月1日(月)晴、夕方からようやく涼しくなった。石井軍医正の細菌戦に関する話を聞き、細菌戦の映画をみた。」 
「1933(昭和8)年10月28日(土)晴、昨夜半(真夜中)石井軍医正より電話があった。細菌戦試験の準備に、一大頓挫(とんざ)を来きたせりとのことゆえ実情調査のため午前9時半に出発、ハルビンへ行き、石井軍医正と同乗し拉林 (らーりん=背蔭河)に赴き施設の大要をみて、かつ実情を聞き各種の障害を打破して邁進することを許可するとの結論を与え、午後3時に帰隊した。」
実験動物(人)の逃亡事件は、この時(10月27日深夜)におきた。
10月末だと北海道の峠は雪が降り、路面は凍結する。
まして満州の寒さはこの比ではなかろう。
逃げ続けなければ凍死する。
逃亡事件の日には背蔭河の隊員は、昼間から酒を飲んでいたという。
伝染病研究所(今の医科学研究所)で恒例になっている家畜群霊祭を行っていたと考えられる。
今村荒男は、「結核殊に肺結核」の中で、1933(昭和8)年の秋から大阪の某工場にて900人程に0、02㎎のBCGを皮下に与えましたが、全身および局所における変化は障害のないものであったと述べている。
1933(昭和8)年遠藤は石井四郎の実験場を訪れた。場所はハルビンと吉林の間にある拉林(らーりん)と背蔭河という寒村であった。11月16日(木)快晴「安藤大佐、立花大佐とともに交通中隊内試験場に行き試験場の実情を視察す。」
内容については理解できないように書かれているが、実験動物(人)が実験後高圧の電気炉で痕跡も残さないように焼くのを目撃したのは確かである。「午後1時半の列車で帰京した。夜、塚田大佐と午後11時まで話し床につきしも安眠しえず」と書かれおり、「安眠しえず」に遠藤の衝撃がうかがえる。 

にほんブログ村 病気ブログ 肝臓・胆嚢・すい臓の病気へにほんブログ村
↑↑↑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BCG未接種者と既接種者の2年経過観察③

2015年05月14日 07時00分00秒 | その他


前回№18で引き続き2年間脱落者なく経過をみたとして、№18 と№19 のBCG未接種者数の合計は995人で、BCG既接種者数の合計は939人である。
ところが表6でのBCG未接種者数、BCG既接種者数はそれぞれ1126人、1099人となっており BCG未接種者数は131名たりないし、BCG既接種者数では160名不足していることを話した。
この謎はすぐ解けた。常石著「医学者たちの組織犯罪」の記載から乾燥BCGのことが、1951(昭和26)年11月9日付の朝日新聞に掲載されていることが解った。
そこで朝日新聞本社から当日の新聞を取り寄せた。
このなかに柳澤謙が、BCG非接種144人と非乾燥ワクチン接種群162人に人体接種実験していることが掲載されていた。こうなると話は簡単で、今村・西野の「工場従業員」におけるデータのなかに柳澤のデータも入っていたのである。
柳澤謙のBCG未接種者数を入れたものは、1139人、既接種者は1101人となる。 
西野の№18の未接種群から13人、既接種群から2人が脱落していたことが解る。
したがってここまでBCGの研究で147名が逃亡に失敗し、BCGの結核予防の研究では3198人、2年間の経過観察で2238人が行方不明になっている。
ここまでの時点で約5583人以上が犠牲になっていることが理解できる。

にほんブログ村 病気ブログ 肝臓・胆嚢・すい臓の病気へにほんブログ村
↑↑↑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BCG未接種者と既接種者の2年経過観察②

2015年05月13日 07時00分00秒 | その他


第6表は、2年間のBCG未接種者群と既接種者群の結核死亡率比較で、この表は西野忠次郎と今村荒男の経過観察結果の集計である。
工場従業員のBCG未接種者群1126人と、BCG既接種者群1096人で2年間の結核死亡率をみている。
BCG未接種群では、結核死亡者数4人、0,36%、BCG接種者群では、結核死亡者数は0人であった。
 ここで不思議なことに気づいた。
第5表の№18で西野忠次は1年間しか経過をみていないが、№19では2年間経過をみている。
№18で引き続き2年間脱落なく経過をみたとして、№18 と№19 のBCG未接種者数の合計は995人で、BCG既接種者数の合計は939人である。
ところが表6でのBCG未接種者数、BCG既接種者数はそれぞれ1126人、1099人となっており BCG未接種者数は131名たりないし、BCG既接種者数では160名不足している。

にほんブログ村 病気ブログ 肝臓・胆嚢・すい臓の病気へにほんブログ村
↑↑↑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BCG未接種者と既接種者の2年経過観察 続き

2015年05月12日 07時00分00秒 | その他


第5表の中の実施集団のなかに工場従業員という群№18と№19は、対象は工場従業員で今村荒男の名前になっているが、主として西野忠次によって報告されたものである。
№18と№19では発病率の違いが見られるが、これは結核菌の感染量の違いだと考えられた。
 №18は1年間経過したものでBCG未接種群(ツベルクリン反応陰性者に結核菌を感染させた群)544人では、発病率は25人、4,6%で、BCG既接種者群(BCG接種後に結核菌を感染さた群)544人の発病率は10人、1,84%であった。
この成績は、有意差があるようにみえるが、統計学的処理をすると、有意差はなかった。
№19の実験は、2年間経過観察したもので、BCG未接種者群451人の発病率は54人、11、97%で、BCG既接種者群395人の発病率は10人、2,53%で、両者の発病率(BCG未接種者群とBCG既接種者群)を比較すると、統計学的に有意差を認めた。

にほんブログ村 病気ブログ 肝臓・胆嚢・すい臓の病気へにほんブログ村
↑↑↑
クリックお願いします
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする