Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

なぜ結核は広がったか?

2015年03月26日 07時00分00秒 | その他
わが国では有史以来結核はありましたが、明治政府ができ、1872(明治5)年10月フランスの技術者を招いて、現在世界遺産になっている官営の富岡製糸(蚕の繭から絹糸をとる)工場を群馬県富岡に創った。
富岡工場で働いていたのは、社会的地位の高い士族の子女が募集されましたから、製糸工場は華やいだ雰囲気を持っていた。
政府は富岡工場建設以降も官営の工場を建設して行ったが、1880(明治13)年からは民間へと払い下げを開始した。
ここからわが国の産業革命がはじまり、「女工哀史」の幕開けとなった。
工場主は労働力を貧しい農村から集め、彼女達は親への前払い金でしばられ、貧しい農村の家庭への送金などで、自由はなかった。
彼女達は女工と呼ばれ、狭い寄宿舎に収容させられ、12時間労(昼夜2交代制)働かされ、宿舎では二人で一枚の蒲団を使わされていた(ホットベット)。
女工のほとんどは20才未満で、中には12才未満の子供もいたという。 
また食事は砂交じりの南京米に、朝は菜っ葉の糠(ぬか)味噌汁に漬物(沢庵二切れ)、昼はそら豆に漬物、夜は焼き納豆に漬物(つけもの)というのが基本メニューだった。
彼女たちは資本家が当時飼っている犬以下の食生活を強いられていた。
このような労働条件(重労働と低栄養)だったので、女工に爆発的に結核が広がりました。
結核になり働けなくなった女工は、農村へ帰され、その結果農村でも結核が広がる原因になった(図)。
1931(昭和5)年まで女性の結核死亡率が、男性に比較してはるかに高率で、これが欧米諸国との大きな違いである。
結核患者は、産業革命後の経済発展の影響もあって1918(大正7)年以降一時減少しはじますが、1932(昭和6)年の満州事変(日本が中国の満州に侵略)の頃から再び増加に転じた。
丁度この頃からわが国は重工業国になり、工場には若い青年労働者が集るようになりましたから、今度は男性の中に結核が広がりました。
また軍隊という集団生活も結核の感染に拍車をかけ、満州事変以降は男性の結核が女性を上回るようになったのです。
軍隊の徴兵検査で、胸部のレントゲン検査(間接法)が行われるようになったのは1940(昭和15)年からのことで、それまでは空洞があり排菌している開放性結核患者も、徴兵検査には合格していた。
開放性結核患者は頑強な男性に多かったので、軍隊での結核感染は激しいものだった。
いずれにしても軍隊での結核蔓延は大問題で、富国強兵を目指す我が国にとって由々しきことでした。



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