Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

夜の札幌

2014年12月24日 16時45分39秒 | 回顧
娘、恵作の札幌の夜景です。なかなかいい出来映えでしょう。






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B―RTO(バルーン下逆行性経静脈塞栓術)

2014年12月18日 08時35分07秒 | 回顧
 食道静脈瘤の内視鏡的治療が進み食道静脈瘤の治療が行きわたるようになると、今度は胃穹隆部静脈瘤(図1)の問題がクローズアップされるようになりました。しかし高瀬らによる方法(食道静脈瘤硬化療法)では胃穹隆部静脈瘤を治療することができませんでした。
そこに現れたのが私と当時ペアーを組んでいた金川博史を初めとした若い医師たちでした。彼らは1990(平成2)年はじめ胃穹隆静脈瘤が静脈へ流れていることに気づきました。(流出路の発見)。
つまり胃静脈瘤の流出路(出口)に注目したのです。最初の例はアルコール性肝硬変で、何回もの食道静脈治療後胃穹隆部静脈瘤から大出血した症例です。この症例の出口は腎静脈に流れていました(図2のType1 )と判断し、金川らは右股静脈から風船のついたカテーテルを流出部まで入れ、そこでバルーンを膨らませ、出口を塞ぎました(図3a)。更に逆行性にエタノルアミンオレート(食道静脈瘤のとき使用したのと同じ血液の硬化剤)をいれバルーンを24時間留置しました。これで胃穹隆部の治療は終了でした。その後4日目のCT画像では胃穹隆部静脈は潰れ、4週後の内視鏡検査では消失していました。




 この方法ですべての胃穹隆部は腎静脈に流れていると思った矢先、思いもよらないことがおこりました。50代の女性が胃穹隆部静脈瘤破裂による胃からの大出血で緊急入院しました。
何せ緊急なことで腎静脈を中心に流出路(出口)を探しましたがついに見つからず、残念なことに出血死と言う結果になり、救命できなかった患者さんのことをいまでも思い出します。
 緊急な場合術者も出血が止まらないと焦りますから、その後はできるだけ予防的に行うことにしました。時間をかけて探すうちに流出路(出口)も下横隔膜静脈から下大静脈にもあることが解りました(図2のTypeⅡ)また私たちのチームには医学部6年間で3年かけて解剖学の単位を取った青年医師がいました。
彼は血管や筋肉などの起始部→停止部(はじまりから終わりまで)を嫌という程たたき込まれていたのでした。彼らの努力でTypeⅡが見つかりました、またTypeⅠやⅡやルートも発見され、カテーテル(図3a,b)もそれぞれにあうものが開発されました。   
英文論文に公表される直前にTypeⅢのルートも発見できました。このルートは胃静脈から心嚢静脈に流出路(出口)あるもので、極めて希なものです。
これは英文雑誌に公表される直前に発見されました。
日本では英文論文発表後B-RTOの技術は抵抗なく肝臓学会でも受け入れられ全国に広がりました。


具体的な症例です。
CT画像で矢印の示されたのが胃穹隆部静脈瘤です。


B-RTOでエタノールアミンオレートに造影剤を入れて造影したものです。
いかに大きな胃穹隆部静脈瘤かが解ります。


B-RTOの4日目のCTでは胃穹隆部静脈瘤は
潰れています。また内視鏡では4週目で胃穹隆部静脈瘤は消失していました。

3代にわたって継続開発された腹腔鏡検査、食道静脈瘤硬化療法、肝動脈塞栓術、マイクロ波やラジオ波治療、B-RTOは引き継がれいま札幌緑愛病院肝臓チームによって花開いている。


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肝動脈塞栓術は内科(肝臓)で

2014年12月18日 08時33分10秒 | 回顧
肝がんの切除は、外科の仕事であることには今でも変わりません。肝がんが肝臓内に多発し、外科的治療が不可能な場合には肝動脈塞栓術(肝がんは肝動脈のみで栄養をもらっていますので、肝動脈を詰め兵糧攻めにして肝がんを壊死させる方法)があります。
この方法を世界で初めて行ったのは、1977(昭和52)年頃からで当時大阪市立大にいた山田龍作によって考案された手技です。肝動脈塞栓術では肝がんは兵糧攻めに遭って死滅しますから、この技術は抗がん剤と併用するなどして確立した技術になっています。
私は京都遊学から帰った1978(昭和53)年からこの技術を取り入れました。しかし血管造影は外科で行っていましたので、肝動脈塞栓術も外科の仕事でした。
内科の要求と外科の考え方には温度差がありましたから、当然内科(肝臓)で肝動脈塞栓術を行いたいということは自然の成り行きでした。
つまり外科では肝動脈塞栓術をやりっ放しで患者の苦しみを日常診療(入院)で診てはいません。  
実際患者を診ている肝臓内科の医師が行った方が良いと判断するのが自然の流れでした。
客観的にみて肝臓内科医が行った方が術後の苦しみも減り、合併症も少なくなり生存率も上がりました。
更に血管造影を行う技術の内科導入によって考えてもいなかった新しい技術が生まれました。

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11.食道静脈瘤の内視鏡治療

2014年11月20日 20時08分22秒 | 回顧
一昔までは食道静脈瘤が破裂するとどうだったでしょうか。
肝硬変が比較的軽く、余力のある場合は命をかけて外科的治療を行いました。しかし、外科的治療に耐えられない肝硬変の場合には、食道にSBチューブを入れて止血しました。
SBチューブというのは、丸い風船と細長い風船が二つ付いた管です。これを出血後すぐ飲んでもらい、先端の丸い風船を胃の中で膨らませて、チューブが抜けないように外から引っ張ります。次に、細長い風船に空気を入れて食道を内側から圧迫することにより止血するのです。食道を内側から圧迫するため、胸の苦しさは想像を絶するものです。
これを繰り返しているうちに、肝臓の働きも悪くなって、肝性脳症になり、黄疸が出現し、血まみれで帰らぬ人となりました。
しかし、福音がもたらされました
昭和56年(1981年)秋、筑波大学外科の高瀬靖広先生が“内視鏡的食道静脈瘤塞栓療法(EIS、硬化療法)”をはじめたのです。これは累々と赤く腫れあがった食道静脈瘤に食道カメラ(ファイバースコープ)を使って、直接針を刺し、静脈瘤のなかを流れている血液を固めるという治療法です。
針を刺せば血が噴き出すはずの静脈瘤に、注射して血液を固めるーまさにコロンブスの卵でした。血液を固めるエタノールアミンオレイトという薬を注射すると、赤く腫れあがった静脈瘤はみるみる青くなり、更に白く変色し、最終的には静脈瘤が消えたのです。
私たちの肝臓内科(勤医協中央病院)でも高瀬先生の直接指導で、昭和58年(1983年)2月以降、この方法を導入しました。
それから食道静脈瘤の処置は一変しました。治療後3時間で歩いてトイレに行けるようになります。食事も治療当日から取ることができます。
このように食道静脈瘤の外科的治療でも、肝硬変の状態に変わりありませんから再発します。
当然内視鏡的治療でも再発することはありますが、何度でも手軽にできるのが強みで、命をかけるという悲壮な覚悟もなくなりました。外科的治療は終焉しました。
ところが術者が熟練しないと食道静脈瘤外に入り食道壊死になり、術後死亡した症例を2例経験しました。更に安全性を高めるため食道静脈瘤にインジゴカルミンを注入した後、食道静脈瘤であることを確かめた上で治療薬と造影剤を共に入れています。こうすれば安全です。技術はこのように積み重
ねられるものです。

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10.食道静脈瘤の治療 (外科治療の終焉)

2014年11月20日 20時05分28秒 | 回顧
食道静脈瘤とその治療法についてお話します。肝硬変になり、進行すると腸管から吸収された食物のエキスを処理できなくなります。門脈は処理できないで残った食物のエキスであふれます。このあふれた食物のエキスを処理するために、肝臓を通らない別ルートを造ります。一つは昔、子宮で母親から栄養をもらっていた臍帯を再開し、腹壁の静脈をへて心臓へ送り込むルートです。肝硬変の人の臍の周りに青い静脈が浮かび上がって見えることがあります。ちょうど、ギリシャ神話に出てくるメドウーサの頭の蛇のようです。
2つ目は腎臓から出る静脈に流失します。
3つ目は食道の静脈につながり、心臓へ直接帰るルートです(図1)。
前者2つのルートが破裂することはありません。しかし食道を通るルートは食べ物の通り道ですから、種々の刺激にさらされ、時に破裂し大出血を起こす事があります。
食道の静脈瘤ができても、最初は手の甲の血管が青く見えるのと同じ程度ですが、肝硬変が進むにつれて、食道を走っている静脈は数珠状に腫れ上がり数珠状になります。これが青いうちは大事に至りませんが、そのうち赤くなってきます。こうなりますと破裂を起こす前兆です(図2)



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9.インジゴカルミン静注法

2014年11月20日 20時03分59秒 | 回顧
同時に色素を静注し、慢性肝炎の凹凸を明らかにするため、色素(インジゴカルミン)静脈注射法を導入しました。
色素静注が有効でありましたB型慢性肝炎の症例の経験を報告します。
上段左は肝右葉、左は肝右葉を示します。
下段は肝右葉の表面拡大像です。インターフェロン使用前は赤色紋理(せきしょくもんりと言い門脈を中心にした広範な肝細胞壊死)という網目状の赤い斑点がみられます(下段左)。またインジゴカルミンを静脈注射すると青く染まった斑紋(はんもんと読みと初々しい結節)が肝表面にみられました(下段右)。



症例(図2)はインターフェロン(INF)療法を2回行い、HBe抗原陽性からHBe抗体にセロコンコにセロンバージョンしました(一般的にはHBe抗原→HBe抗体に変化すると言うことはB型肝炎ウイルスの増殖力、感染力が弱くなったことを意味します)。



IFN治療後の腹腔鏡写真ですが、下段右の肝表面写真では肝表面は網目状の白色変化(白色紋理、はくしょくもんり)が出現し、肝細胞の炎症が収まっています(図3)。
結節も消失しているのが解ります。



IFN投与前の肝組織像ですが、肝臓は線維(青いところ)で分断され、一部結節ように見えるところもあります。このままでは肝硬変になることが危惧されました(図4)。



IFN投与後は肝臓内の線維(青い部分)はほぼ消失しています。肝臓はほぼ正常になったのです(図5)



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8.腹腔鏡の色素散布法

2014年11月20日 20時00分28秒 | 回顧
腹腔鏡検査時、肝表面に色素散布(インジゴカルミン)する方法は、私が京都の国内留学から帰った1981(昭和56)年から関谷千尋と一緒に始めました。
 この方法は腹腔鏡検査時、肝臓の表面に色素をかけて肝臓の線維化の状態を明らかにする方法です。腹腔鏡検査(ふくくうきょうと読み肝臓を見る検査)のみでは肝臓の微妙な線維化の状態が解りませんが、インジゴカルミン(色素)をかけると肝表面の変化がよくわかります。下の写真は上段が肝右葉(肝臓は右葉と左葉に分かれる)の内視鏡像で下段は色素散布したものです。
色素散布をすると慢性肝炎から肝硬変に進行する過程がよく理解できます。


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7.肝がん検診

2014年11月20日 19時59分25秒 | 回顧
織田敏次の講演会に参加した人々のなかに、千葉健次郎という人物が参加していました。彼は1920(大正9)年3月東京で生まれ、1943年7月、東大文学部を繰り上げ卒業し、敗戦の色濃くなった中で海軍に入隊した経歴の持ち主であります。戦後は、夢とロマンを求め、開拓農民として北海道に渡ってきて、戦後共産党に入党し、道東方面で活躍していました。
その後離農し、1977(昭和52年)年に札幌へ転居。1980年夏(60歳)、B型肝炎を発症し、そこで私と彼は出会いました。彼は豊かな経験からすぐに、「北海道ウイルス肝炎友の会」の指導的役割を果たすようになり、新しい戦略へと繋がりました。
道内各地に点在する患者をまとめ、各地に患者会の支部を創るという壮大な計画を立て、ズバリ「肝がん検診」と銘打った検診を道内各地で行うことで一致しました。
このとき私が団長候補に挙げたのは勿論福田守道(わが国の超音波診断の草分け)でした。
夢の実現を目指して、千葉健次郎と私の二人で札幌医大の彼の元を訪ね、福田守道先生も「肝がん検診の構想」を快諾してくれ、検診団の団長の依頼を快く引き受けていただきました。
超音波装置はアロカ株式会社から検診ごとに必要な台数を借りることで決まり、主催は「北海道ウイルス肝炎友の会」と「北海道難病連」に決定し、事務局長には私がなりました。
この超音波検査を主体とした肝がん検診は、1981(昭和56)年11月7日(土)、8日(日)に札幌で始まり、初雪が吹雪に変わる悪天候でした。
しかしこの日には全道から汽車や車、なかには飛行機を使って検診を受診した人もいました。2日間で、117名が受診し、3名の早期肝がんが発見され、この話題は各種のマスメディにも取り上げられ、大成功でありました。
その後は患者会の支部づくりしながら、支部が出来れば、肝がん検診を実施する方法をとりましたので、当然支部はどんどん増えて行きました。
検診の概要は、肝臓病で悩む人、輸血歴のある人、B型肝炎ウイルスキャリアの人を対象にし、C型肝炎が解ってからは、C型肝炎ウイルスキャリアも対象に追加しました。これらの対象者には各支部でマスメディアや広報を使って受診者を集め、各地の患者会で電話での申し込みの受付をしました。
検診当日は「友の会」の役員が受付を行い、受診者にはセルフサービスで検診カードを書いてもらい、さらに検診結果郵送用封書に住所氏名を、採血ラベルにも検診ナンバーと氏名を書いてもらいました。
血液検査では肝機能検査、B型肝炎ウイルスマーカー(その後C型肝炎ウイルスマーカー)を調べ、AFP(肝がんの腫瘍マーカー)の測定も行い、 採血後の超音波検査では、医師と検査技師2人以上のダブルチェックで行いました。超音波検査が終わったところで、肝臓専門医が超音波検査結果の説明や療養相談を行い、約1ヶ月後血液データーが揃った時点で、本人宛に結果を郵送しました。この検診には多くの医療従事者が関わりましたが、すべてボランテアとしました。検診を維持するための必要経費は受診者から貰い、最初の検診料は3000円から初めました。
超音波検査は、まだこのころ医師は勿論、検査技師も育っていなかったため、肝がん検診は各種学会でも話題になり、私に何度も学会のシンポジウムなどで発表する機会がありました。
札幌での成功をもとに肝がん検診は、肝炎患者支部作りをしながら、帯広、函館、旭川、釧路、北見、遠軽、苫小牧、稚内などへと広がっていきました。各地へは日通のトラックを使い、超音波装置を載せて移動し、検診は23年間続きました。
20年間のまとめでは総人数2万4717人、実人数1万3394人で肝がんは177人に発見され、発見率は実人数で計算すると1.3%で、道内の胃ガン検診発見率の10倍でありました。
肝がん検診の前半10年と後半10年を比較すると、明らかに後半10年のほうが生存率は延びています。これは、ラジオ波(約450KHzの高周波のエネルギーで肝がんを焼灼(しょう しゃく)術などの内科治療の貢献が大きかったと思われます。
この肝がん検診の企画から、付き合ってくれた千葉健次郎は、1984(昭和59)年12月肝硬変に肝がんを合併し、1986(昭和61)年8月17日、肝がん破裂による腹腔(ふくくう)内出血を起こし、翌朝7時5分永眠しました。享年67歳。解剖では肝がんはびまん性であり、超音波の名手、福田守道も彼の肝がんはなかなか発見できませんでした。
彼には肝がんを告知しましたが、その後も肝がん検診には同行し続けてくれましたが、彼の両親はB型肝炎ウイルスキャリアではありません。
1995(平成7)年には私たちは北海道勤医協を離れ、稲積公園病院に活動の場を移し、肝がん検診をつつけましたが、2005(平成17)年1月稲積公園病院が標欠(病院の医師数を満していない(標欠)医療機関)ということで、札幌では唯一保険医療機関停止になり、私たちたちが国を相手取ってB型肝炎訴訟を起こしていたことと無関係ではないでしょう。これで私が手がけた肝がん検診は終了致しました。
今は札幌緑愛病院の川西先生が「肝がん検診」を続けています。

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6.肝炎患者会

2014年11月20日 19時58分08秒 | 回顧
私は肝臓病に取り組んだ時から、肝炎という同じ悩みを持つ患者をどう結びつけたらいいのかばかりを考え続けていました。これには歌志内の体験が活かされました。北海道には、道単独の事業とし、「難治性肝炎」という肝炎に対する公費負担制度が、1974(昭和49)年4から、始まっていました。これは当時の北海道知事堂垣内尚弘(北大、1939年卒)によって導入されたものであり、この制度を守るためにも患者会を作る急務でしました。
1975(昭和50)年10月18日、10人部屋にいた患者たちを中心に、「ウイルス性肝炎友の会」が20人で船出することになったのです。翌年には北海道難病連に加盟しました。
この年の4月、私たちの仲間に安井重裕(北大薬学部、1976年卒)が加わったことは大きな力となりました。
話をするのが苦手な私にとって、彼は話上手で、語学力にも優れていましたので肝炎患者会運動の発展に大いに貢献しました。
患者会結成1周年を記念して、当時旭川医大の内科講師であった関谷千尋を招き、医療講演を行い、予想をはるかに超える100人以上の参加があり、患者会も40人となりました。 
このときは患者会の会員を増やす手段として、考えられるのは講演会しかありませんでした。
1978(昭和53)年11月18日には、日大医学部病理学教授、志方俊夫(しかた としお)(東大、1952年卒)の講演会を開きましたが、450人の会場はあふれかえりました。 
この日の札幌は凍りつくほどの寒い日でした。
彼は前年の6月にチンバンジーの実験を行いB型肝炎ウイルスキャリアで、e抗原陽性の場合には、血清1㎖を1億倍希釈静注しても感染を起こすこと、さらにe抗体陽性の場合は未希釈液血清、1㎖を静注して、ようやく感染を引き起こしたことを証明した学者です。 
1980(昭和55)年に5周年を迎えた患者会は、北海道の非A非B型肝炎(C型)を幅広く結集すべく、名称を「北海道ウイルス肝炎友の会」とかえました。
同年五周年記念として、10月5日当時東大医学部長の織田敏次(東大、1944年卆)が講演に駆けつけてくれ、彼はインターフェロンを担いでこられなかったのが、残念だと話していました。まだその当時インターフェロンは出来上がっていなかったのです。
インターフェロンでき保険適用になったのは、1986(昭和61)年9月のことである。
インターフェロンも保険適応になってから沢山のB型肝炎患者に使用されましたが、B型肝炎の特効薬ではありませんでした。
特効薬である抗ウイルス剤(核酸アナログ製剤、ゼフィックス)が使用できるようになったのは、2000(平成12)年11月からです。私が肝臓病に取り組んでから、20年後のことでした。
これで高血圧を薬でコントロールできるのと同じような時代になったのです。
このときの後援会には1000人の会場に、1100人の人々が集まりました。
このように医療講演会の成功に全エネルギーを費やし5年目を迎えたが、会員数は200人足らずで、札幌周辺の人ばかりでした。
全道に点在する患者をどう結びつけていくのかという壁にぶつかってしまいました。
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5.京都遊学

2014年11月20日 19時57分21秒 | 回顧
肝臓病を専門的に学ぶため、私は1977(昭和52)年4月から翌年3月まで国内留学という形で「肝と免疫」というテーマで、京都大学内科に籍をおきましたが、私に特別な課題が与えられた訳ではなかったので、博士論文の手伝いと、肝グループのリーダーの先生の車の運転手が主な仕事でした。
お陰で免疫の基礎を学ぶことができました。京都観光では研究室でも私が最も詳しいとも「いやみ」を言われました。
その後京都の仕事では満足できなかったので、当時関谷千尋を通して、旭川医大の内科教授並木正義(北大医学部、1952年卒)の紹介状をもらい真弓忠(まゆみ まこと)(東大医学部、1962年卒)を訪ねました。彼は東京都臨床医学研究所WHO肝炎センター(1977~1985年)の所長で、東南アジアや日本のB型肝炎に関する多岐にわたる研究をしていました。 
彼を訪ねると、まず帰りなさいと言われ、帰れと言われても3ヶ月分のアパート代を前払していましたので、すぐ帰るわけにもいかず、1ヶ月だけ居座ることにしました。その後、真弓先生のところでは、検査技師や若い医師の面倒を次々と見てもらうことになりました。
彼の率いるWHO肝炎センターは、大きな検査工場のようでなところで、彼はそこではカリスマ的存在であった。
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