Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

B型肝炎訴訟コーナー新設(再掲)

2015年05月10日 07時00分00秒 | B型肝炎訴訟
第2次訴訟には今まで関わってきませんでしたが、今後はB型肝炎キャリアとは何かという観点から、積極的に参加することにしました。
本人は勿論、知人がB型肝炎でお悩みの方の相談にのります。また本人や知人で献血であなたの血液は使えないと言われた方はB型肝炎のウイルスキャリアの可能性があります。ブログのコメントに投稿して頂ければ匿名で相談に乗ります。


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B型肝炎訴訟コーナー新設(再掲)

2015年04月19日 07時00分00秒 | B型肝炎訴訟
第2次訴訟には今まで関わってきませんでしたが、今後はB型肝炎キャリアとは何かという観点から、積極的に参加することにしました。
本人は勿論、知人がB型肝炎でお悩みの方の相談にのります。また本人や知人で献血であなたの血液は使えないと言われた方はB型肝炎のウイルスキャリアの可能性があります。ブログのコメントに投稿して頂ければ匿名で相談に乗ります。


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B型肝炎訴訟コーナー新設(再掲)

2015年04月12日 07時00分00秒 | B型肝炎訴訟
第2次訴訟には今まで関わってきませんでしたが、今後はB型肝炎キャリアとは何かという観点から、積極的に参加することにしました。
本人は勿論、知人がB型肝炎でお悩みの方の相談にのります。また本人や知人で献血であなたの血液は使えないと言われた方はB型肝炎のウイルスキャリアの可能性があります。ブログのコメントに投稿して頂ければ匿名で相談に乗ります。


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B型肝炎訴訟コーナー新設(再掲)

2015年04月05日 14時20分08秒 | B型肝炎訴訟
第2次訴訟には今まで関わってきませんでしたが、今後はB型肝炎キャリアとは何かという観点から、積極的に参加することにしました。
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B型肝炎訴訟コーナー新設(再掲)

2015年03月30日 07時00分00秒 | B型肝炎訴訟
第2次訴訟には今まで関わってきませんでしたが、今後はB型肝炎キャリアとは何かという観点から、積極的に参加することにしました。
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武見太郎

2015年03月24日 07時00分00秒 | B型肝炎訴訟
1930(昭和5)年に慶応大学医学部を卒業、武見太郎は、戦後1957(昭和32)年から1983(昭和58)年3月までの26年26年間日本医師会会長を務め、日本医師会のドンと呼ばれた男である。
武見は、卒業と同時に内科教室に入局した。当時の内科教授は西野忠次郎、平井文雄(京大、大正2年卒)大森憲太(東大、大正4年卒)であり、主任教授は西野忠次郎(明治37年)であった。
「当時の医局風景を思い出すと、これまたこっけいの一語に尽きる。西野教授が酒を飲みだすとお相手をする取り巻き連中で、医局は夕方から宴会場とまでは行かないけれども、特別な雰囲気を持った酒場に変わった。その後片付けをする当直の看護婦さんは、たいていなことではないと同情してみていたことが度々あった。私は酒を飲まないので、このグループの人々と一緒になることは少なかった。このグループの結束は、純粋に学問上の結びつきとは云えないが、非常に強いものがあった。医局の片隅に天井に達するビール箱が置いてあったし、月給日ともなれば安い待合(料亭)の女中が医局に行列して勘定を取りにくるという有様で、医局生活を学問の場として考えていたわれわれは、大きな矛盾を感じた。この医局の隣が、図書室であったこともまことに皮肉なことであった。この酒びたりの雰囲気の中で、患者に取り返しのつかない生と死の問題が出てくることを考えると、容易ならざるものを私は感じた。」
「大森憲太教授は脚気心臓を研究され、心電図を読める数少ない学者の1人であった。大森先生の指導で私は心電図の勉強に入ることになった。
彼は33歳のとき決意をして、医局をやめることにした。この時大森先生は西野教授の間に入り、苦労されたが、しかし私は人生のなかで33歳から5年間も台無しにする気はなかった。
彼が辞表を出したのは、医学について根本的に認識を異にするというのが辞職の理由だったので、西野教授からひどく叱責(しっせき)され、「家庭の事情という風に書き換えて来い。」と云われたが、彼はとうとう書き換えることに同意はしなかった(武見太郎回想録、日本経済新聞社、1968)。 
1938年(昭和13年)私は仁科芳雄博士の生物物理学の構想に対して全く賛意を表していたので、生き甲斐をその方に求めることなり、理化学研究所に入所、仁科芳雄の指導の下、心電計を作った。翌年には、研究活動の傍ら銀座に武見診療所を開業し、開業医(自由診療)として生計を立てながら吉田茂とつながりがあり、政財界の要人とも交わるようになった。
1951(昭和26年)年文芸春秋4月号で、「結核撲滅策の撲滅」―これは人ごとではないーで武見太郎は「昭和17年からの結核予防対策閣議決定要綱に基づいて諸方策および諸施設にも関わらず、患者数の激しい増加をみただけに終わったではないか。それと同時に、BCGがこのファッショ的時代から強制されたことも明記する必要がある。」「ツベルクリン反応の根拠となる生物学実験が、どこで行われたかを私は知らない。又結核の専門家に聞いてみても今までのところ即答を得られないという状態である。」
つまり武見太郎は戦前日本の医者や厚生省官僚が、戦後細菌戦の技術提供の代わりに戦犯を免れたのだが、わが国の医者や官僚が中国で何をしたがよく知っていたのである。
ツベルクリン反応、BCG開発がどのようにして行われたかは当然のことである。武見太郎は医師会のなかでも恐れられた存在であった。
戦後の厚生行政に於いては、時には保険診療の拒否を強行するなど厚生省の官僚との徹底的な対決をも辞さない姿勢はケンカ太郎(武見天皇)と言われた。
武見太郎の再現を期待する医師会の声もあるが歴史的みてに不可能である。



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B型肝炎訴訟コーナー新設(再掲)

2015年03月23日 07時00分00秒 | B型肝炎訴訟
第2次訴訟には今まで関わってきませんでしたが、今後はB型肝炎キャリアとは何かという観点から、積極的に参加することにしました。
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日本のBCGの歴史

2015年03月23日 07時00分00秒 | B型肝炎訴訟
昭和17年(1942) 対象:国民学校卒業生で就職を希望する者
昭和19年(1944) 国民体力法により、対象:被管理者、重要工場・事業所の従業員と希望者、患者家族、同居者
昭和21年(1946) 対象:11~20歳の青少年(男女)と患者家族
昭和22年(1947) 対象:11~25歳の青少年(男女)と患者家族
昭和23年(1948) 予防接種法制定(BCG接種を組み込む)
昭和26年(1951) 結核予防法全面改正(BCG接種を組み込む)対象:0~29歳のツ反陰性者、偽陽性者
昭和42年(1967) 皮内接種法から管針による経皮接種法に変更
昭和49年(1974) 結核予防法一部改正、対象:0~3歳、小学1年、中学2年のツ反陰性者
昭和57年(1982) 対象:0~3歳、小学1年、中学1年のツ反陰性者
平成15年(2003) 小学1年、中学1年のツ反、BCG再接種廃止
平成17年(2005) ツ反を実施せずBCGを直接接種、対象:生後6ヵ月まで
平成19年(2007) 結核予防法廃止、BCGは予防接種法に組み込む
平成25年(2013) 対象:1歳に至るまで

ここでいうツ反とはツベルクリン反応のことを言う。
結核の予防のためBCGの予防接種が昭和17年から集団接種され、昭和23年には強制接種になり、昭和26年には小学校入学時にBCGをしていなければ小学校の入学を認めないという厳しい改正があった。
昭和42年管針による経皮接種に変更されたが、1人1人取り換えられたのは、とある保健婦の証言にもあるように管針が出来て10年も過ぎたあとの話である。
BCGの接種のあとは上腕に汚い不正形な瘢痕(はんこん)として残っており、世界中どこへ行ってもこの瘢痕をみれば日本人と解る。
皮下や皮内接種の瘢痕の大きさは空豆大、えんどう豆、大豆大まである。
管針の場合でも2ヶ所に分かれて小さな瘢痕(6から9個)が残る。

<参考資料>
・「新BCG接種の理論と実際」財団法人結核予防会
・「予防接種の歴史」公益財団法人予防接種リサーチセンター


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天然痘(痘瘡 とうそう)

2015年03月19日 07時00分00秒 | B型肝炎訴訟


天然痘(てんねんとう)は、天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、世界中で不治の病、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症。世界で初めて撲滅に成功した感染症でもある(図1)。その大きな感染力、高い致死率(諸説あるが40%前後とみられる)のため、時に国や民族が滅ぶ遠因となったことすらある。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。  医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。18世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘(人間も罹患するが、瘢痕も残らず軽度で済む)にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー (Edward Jenner) が1798年、天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していった。なお、ジェンナーが「我が子に接種」して効果を実証したとする逸話があるが、実際にはジェンナーの使用人の子に接種した。わが国でも種痘をすべくし、シーボルトなどの力を借り、オランダ領インド(インドネシア)から善感した子供の膿疱(図2)を入れようとしたが失敗した。しかし50年後の1849年には種痘後善感した子供の痂皮(かさぶた)を輸入し、佐賀藩の医師・楢林宗健と長崎のオランダ人医師オットー・モーニッケが種痘を実施し、ようやく日本全国に種痘が普及し始める。同年には日野鼎哉(ひの ていさい)が京都に、緒方洪庵が大坂に、「除痘館」という種痘所をそれぞれ開いている。江戸ではやや遅れた1858年に伊東玄朴・箕作阮甫・林洞海・戸塚静海・石井宗謙・大槻俊斎・杉田玄端(すぎた げんたん)・手塚良仙ら蘭方医83名の資金拠出により、神田松枝町(現・東京都千代田区神田岩本町2丁目)の川路聖謨の屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立された。除痘館に集められた子供次々に種痘が行われ、腕から腕へと植え継がれたので膿疱をとして、B型肝炎ウイルスは広がった。しかしC型肝炎ウイルスを持つ子供たちは当時少なかったからC型肝炎ウイルスが感染したことは否定できないが、広がったとまでいえない。



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B型肝炎の定義

2015年03月16日 08時47分01秒 | B型肝炎訴訟
 今まで集団予防接種の被害者の定義について医学的に話してきたが、HBc抗体のみで判断するのはきわめて危険である。
HBc抗体は採血する時期、検査機関によって結果が違うからである。
つまりこのままで行くと、本来の集団予防接種の被害者が救われず、母児間感染の人だけが救済されるということになる。
ここにB型肝炎救済問題について、診断書を作成する医師と、救済手続きを行う弁護士に警告する。
美馬聰昭(みま さとあき)  

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