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Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

夜のススキノ -2-

2015年01月31日 09時00分45秒 | その他
1月27日(火)の2次会にはいま流行(はやり)のザ・ニッカバー(THE NIKKA BAR)にいってきました。
この写真はNIKKAの宣伝を外から撮影したもので、気温は-3℃でした。
ニッカバーでは「竹鶴17年」ものを飲みましたが、なめらかな味でした。
室内の棚にはキープされたウイスキーがズラリと並び、雰囲気はとても素敵でした。





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夜のススキノ -1-

2015年01月30日 08時58分41秒 | その他
1月27日(火)東京の友人(素敵な女性)、恩師など4人で行きつけの炉端焼きの店「五醍」に行ってきました。
五醍は開店40年近くなる老舗で、私も古くから通い、顔なじみの店です。
1階はカウンター席で炭火の上で魚(ホッケ、キンキ)を干しています。
2階は個室で4人以上でないと入れません。
急な階段の途中には昔懐かしい水瓶や酒瓶が置いてあります。
写真下は五醍のメニューです。

こちらは五醍の食べログのページになります。
http://tabelog.com/hokkaido/A0101/A010103/1000053/






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鶴巻 進氏紹介

2015年01月29日 08時23分32秒 | 猿島肝炎
猿島肝炎を考える会の代表を務めている鶴巻氏のご紹介です。
彼の仕事は自動車販売業で中古も新車も中古も損保保険もやっています。
坂東市在住の従弟が昨年7月購入したハーレーラビットソントライ三輪車で、年式H13年車中古(価格300万円)1200ccあり馬力?です。
新車は600万円位します。
昨年12月彼も乗ってみたそうですが、不慣れのため怖かったとのことです。
このバイクはヘルメットをしなくても大丈夫ですし、それに普通免許でも乗れるので夏頃にはまた乗りたいとのことでした。
ツーリング仲間も探しています(女の方大歓迎)
またゴルフも大好きで毎週ゴルフへいっています。




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猿島肝炎は人体実験

2015年01月27日 10時43分11秒 | 猿島肝炎
井戸水の汚染が原因と言われた「猿島の奇病」と呼ばれ住民から恐れられた猿島肝炎は、町の統計では1963(昭和38)年から1967(昭和42)年までの5年間にわたって776名の肝炎患者と61名の死者を出して終焉しました(表1)。
日本最大の肝炎の大流行でした。
ところが日本医大衛生学公衆衛生学の乗木秀夫、柚木斉は当初からこの猿島肝炎に関わっているが、彼らの統計ではグラフでしか総数を出していないため正確な患者数が解らない。
グラフで計算すると742名くらいの発症者数になる。
その後同教室の若山葉子による論文では、発症数は678名であると発表しているが、同じ教室内でも違うデータを出している。
流行時には伝染病に準じた届け出制を行っているの(猿島の奇病による新聞報道、p1078、境町の生活史、2004)で、町の統計が正しいといわざるを得ない。
猿島肝炎について乗木秀夫は1964(昭和38)年6月の「新しい医院」(猿島の奇病とその対策、6:92-96、新しい医院1964)の中で「1963(昭和38)年暮、農村保健のフィールドを求めに猿島地区に出向した。(中略)ところがこの時、現地の農協幹部の人たちから要望されたことはそのような手ぬるいものでなかった。この地に過去2年来多発している肝疾患で、しかも町の世帯で重要な人物がバタバタ倒れていき、一部には遺伝病とまで噂されているとの疾患である。」このため乗木秀夫は旧猿島庁舎に肝疾患対策本部を設置し、調査に乗り出した(写真1)。
「私どもはその発生が町内でも、逆井、山、生子地区にあることから特殊な食品あるいは飲料水を疑ったが精査しなかった。」彼が猿島で行ったことは「ウイルス学者のために、千件を超える血清がそれは患者そして健康者を含んで、私どもの冷凍庫に保存されている。貴重な肝も、同様に保管されている。」としている。
乗木は「流行性肝炎(糞口性感染)の常識は、感染による発症率は20%で死亡者は0.1~0.3%といわれている。岡山県の一地区に電撃性肝炎は10%で、外国においても30%を超した報告も見られないこともない。」「今後の対策として私どもは、肝障害者をみつけだす必要にせまられた。健康者を含めてごとに全員採血を行い、血清中のトランスアミナーゼを中心とする精力的な検査に入った。その成績はただちに報告され異常者については、訪医をすすめた。一方、異常者の成績は現地開業医の要請によって、一覧表を、そのつど作成報告し、治療および診断の補助にしていただいた。とくに自宅治療者、通院患者は少なくとも2週に一度は採血をおこなった。」と記載している。
猿島町史によると“乗木秀夫の言うこととは違い”町当局は昭和38年末、古河保健所に調査を依頼した。原因がつかめず、「流行性肝炎の疑い」として、県に報告、県は厚生省にこの通り報告したところから「奇病」言う名で全国に報道された。  
最初に当町に入ったのは昭和38年12月日本医大の乗木秀夫で、1964(昭和39)年1月からは柚木斉(ゆのき ひとし)が1989(平成元)年3月大学定年退職するまで25年にわたり、毎年研究室を動員して当町にはいり、新しい患者の発見とその管理、既往者の健康管理と防疫に努めた(大騒ぎした流行性肝炎、p1028‐1028、猿島町史(通史編)、1998)。
ところが乗木秀夫による1963年の「猿島の奇病」の劇症肝炎による死亡者(27/161)は18.8%なのである。
しかし町の統計では何と死亡者は27/102、26.5%である。
日本医大の統計が如何に町の統計と違うかを年度別(図2)に見たものと月別(図3)に同じ教室の乗木秀夫・柚木斉と若山葉子を提示する。
また乗木秀夫は(伝染性肝炎―基礎的立場から53;8-15、日本医師会雑誌、1965)「さて私どもの教室は、1963(昭和38)年1月より茨城県猿島地域に多発した伝染性肝炎に関係し、現在もなお活動を続けている。この間臨床、病理を中心にして、各方面の協力を得ることができた。多くの協力者の取捨選択することなく、幸いによき教室員に恵まれてこの事件に取り組んできている。」
 更に1982(昭和37年)10月には北海道根室保健所から教室員の稲垣光男を猿島協同病院(現茨城西南医療センター)に移動させている。
乗木秀夫は「乗木秀夫教授開講10周年記念研究業績、1970」の中で「本教室にポリオウイルスの分野を導入した。同じ糞口伝染病に域にあるが本教室には土着せず、(中略)突然訪れたのが、猿島肝炎である。この問題対して、正面から取りくんだのは若い教室員であった。そして現在、より深く、より詳しくその内容を掘り下げつつある。ポリオについて成功しなかった糞口ウイルス性伝染病が、ようやく土着した。」
猿島肝炎は乗木秀夫がおこした人体実験であると考えても過言ではない。
「朝日新聞」1964(昭和39)年1月29日の記事によると、厚生省は「流行性肝炎に関する特別部会」を1月30日に設置することに決めた。
流行性肝炎に関する特別部会の委員は柳沢謙(国立予防研究所副所長、昭和6年東大卒)、北岡正見(同ウイルスリッケチア部長)、甲野礼作(同中央検査部長)、多ヶ谷勇(同腸内ウイルス部長)、松田心一(同疫学部長、金沢医大、昭和5年卆)、北本治(伝染病研究所付属病院長、昭和10年東大卒)、佐野一郎(国立東京第一病院内科部長、東大13年卒)乗木秀夫、(日本医大教授、昭和20日本医大卒)であった。朝日新聞によると国立予防研究所会議室で2月3日に第1回会議が午後2時から予定されているとう記事が掲載された。
佐野一郎、北本治は猿島まで患者を診に出かており、乗木秀夫とは懇意にいているのが、
「猿島の奇病と対策、6:92-96、新しい医院、1964」で解る。彼らは、肝炎患者を診るために猿島までで出向いており、北本治は顔写真まで出ている(写真2)。
乗木らの目的は、北本治が雑誌、肝臓で発表した「供血者間の採血器具を通しての感染も皆無ではない。」(輸血後肝炎に関する研究、4:23‐28、肝臓、1963」つまり採血という行為で肝炎ウイルスは感染するという仮説を「流行性肝炎に関する特別部会」が企画し、乗木秀夫が実践したとすれば矛盾はない。
注目しなければならないのは、委員長の柳澤謙で、彼は人体実験ではなく、生体実験でBCGの開発を行った中心人物である。
ある図書館によると「流行性肝炎に関する特別部会」の報告書は現在医科学研究所(旧伝染病研究所)にある可能性があるという。







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あれから50年

2015年01月26日 08時00分00秒 | 猿島肝炎
「猿島の奇病」から50年、50年前の茅葺きの家がまだ残っていました。「猿島の奇病」が流行していた頃のものが写真(1)です。
50年経った今もまだあることが確認できましたが、
取り壊す寸前でした。貴重な写真です。(写真2)。
現在では西側に新しく立てた家に住んでいます。
茅葺きの家の野口 こうさん(大正9年10月30日生)で50年前の写真に写っている方だと思います(写真3)。
この方もC型肝炎で勝ってインターフェロン治療をしたそうです。
 写真(4)の方は野口 うめさん(大正15年3月20日生)で1963-1964(昭和37-38年)頃行政区の区長、稻毛田安五郎さん(故)宅で集団採血に参加した人です。
しかしC型肝炎については調べていないとのことでした。
「こうさん」と「うめさん」は姉妹ではありません。
この行政区には野口、稻毛田という姓がほとんどのことで、1963(昭和38年)年には2人が劇症肝炎で死亡しています。







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興津肝炎の真実とは?

2015年01月23日 09時45分26秒 | その他
B型肝炎訴訟の証人に立った当時広島大学の吉澤浩司は1996(平成8)年10月1日広島地裁で札幌のB型肝炎訴訟に被告国側証人として興津肝炎について次のように答えている。
被告代理人(大野)C型肝炎の調査をした際に、その感染経路が一般医療機関であると特定されたという事案があったというふうに証言されましたけれども、これはどのように特定されたんでしょうか。
「これは実に簡単なことなんです。これはある期間に限定してC型肝炎が一つの地域にありましてそして、そこに5つの医院がありまして、そして、そこに家族内で2人出た場合、1人出た場合、3人出た場合という家族があります。
その登録された患者さん1人1人に面接調査をします。そしていつの時点で肝炎になった、前に大体6ヶ月を目途にしてどこの医者にかかったか、どのような医療を受けたかということを聞きます。そうするとホームドクターというところで1つの収束をみせます。もう一つ大事な点はどこの医院で最初に診断を受けたかというふうにしていきますと、それは少しばらけますが、メインはそこに集積します。診断するためには採血をします。採血をすると言うことは注射器、シリンジに真っ赤な血液を一杯にするわけです。その注射器がまた医療に使われない保証がどこにもないわけです。
そのことからずーと収束させていきますと、80%くらいでしたかね、7割から8割は一つの医療機関に収束するわけです。」
その感染経路となった病院のどういう点がその感染の原因、経路となったというふうに考えられたのでしょうか。
これに対して吉澤浩司証人は「静脈注射です。これは具体的に接種を見たわけではなくて、あくまでも状況証拠でありますが、一番大きな特徴は、静脈注射が大変お好きな医師が、風邪を引いた方にも元気が出るぞと言って、ビタミン剤といろいろなものを混ぜた静脈注射をすると、そのことによって、田舎ですから、早く直るという評判になりまして、大抵そういうお医者さんは地元で極めて評判のいいお医者さんなのです。
患者の言うことをちゃんと聞くことから。」と答えている。
そうすると、その調査結果でディスポーザブルを使うようにお勧めになったのですか。
「これは私の上にいた教授がそのことを強硬に勧めて、その流行中にはディスポーザブルに変えさせたという背景がありまして、そして流行が収まった段階で、その当時の私がお仕えしていた教授に対して、流行が収まったから、デスポーザブルではなかなか経済的に成り立たんもんで、またガラスに戻してもよろしいかということを聞かれた。それが実情です。」と同じ被告代理人に回答しています。

写真は興津肝炎の原因となった医院



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ホワイトアウト

2015年01月21日 13時28分53秒 | その他
札幌は1月17日夕方から吹雪がひどく前が見えなくなりますした(ホワイトアウト)。
車は事情があり、1昨年ランクルから前輪駆動のプリウスαに替えました。
私の住んでるマンションは丘の上にあり、坂も急です。
道路に埋まっている車のため、プリウスαも巻き込まれ脱出できなくなりました。
この夜は次々と車がうまりましたが、沢山の人が集まり、助けあいました。
マンションからも手伝いに来てくれました。
札幌の人たちがこんなに親切なのかと感動しました。
1月18日朝「JAF」が来てやっとマンションの駐車場につきました。
どちらにしても冬の北海道は前輪駆動では危険です。

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訃報

2015年01月21日 13時27分10秒 | 猿島肝炎
1月16日午後6時30分「猿島肝炎を考える会」の会員、鈴木茂(65才)がC型肝硬変・肝がん
でお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りします。
「猿島の奇病」から50年立ちますが、C型肝がんで亡くなる方はあとを絶ちません。
「猿島の奇病」は井戸水が原因の糞口感染というのは真っ赤な嘘です。

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C型肝炎の基礎知識

2015年01月19日 09時16分58秒 | その他
国立国際医療研究センター、肝炎・免疫研究センター長 溝上雅史の静岡肝友会28回医療講演で、彼は次のように話している。
「実はHCVの感染力は弱いのです。日常生活で感染することはほとんどありません。
同じようなB型肝炎ウイルス(HBV)は感染力が強いですからよく間違えられるのですが、HCV性感染は1%もありません。
私は名古屋で結婚して20年たっているパートナーの奥さんや御主人を100人くらい調べましたが、夫婦間で感染していたのは1例のみで、99%ありませんでした。
それくらい感染力は弱いのです。またHBV感染はアジアでは母子感染が主体なのですが(中略)HCVの母子感染はせいぜい5%位しかありません。
感染した赤ちゃんは3才くらいまでの間に自然に治るものが約3割もあると報告されています。
それから医療による針刺し事故、これもほとんど感染しません。
我々のところで200例くらいの針刺し事故の人を1年間フォローアップしましたけれど、これも1例も感染しませんでした。
しかし、刺青や輸血や注射器や針を交換しない静脈注射では簡単に感染します。これはどういうことかというと日常生活で血液に触れる位では間単に感染しない。日常生活でお風呂とかお茶碗とか箸とかをまったく別にする必要がないと言うことを意味します。
感染するのは血管の中にHCVが入ると初めて感染するとことを意味します。 
したがってHCVは輸血なり注射器なりで血管の中に入れない限り、感染しないということです。だから日常生活はごく普通にしてもらえば良いのです。(中略)なぜ日本に肝がんが多いのかを明らかにするには時間という因子が非常に大きく、そのことを頭に入れておかなければなりません。
その時間を計算するのに分子進化学という学問があります。
特に分子時計(C型肝炎ウイルス分子系統樹分析)という手法を使ってHCVの広がりを研究しました。日本には1880年頃HCVは入ってきて、1990年頃から広がり始めました。
1950(昭和25)年には急速に広がり、1990(平成2)年頃からその拡散は止まったことが解ります。HCVの感染は血液を介する要因がないとほぼ感染しません。
それではその要因とは何でしょうか?
1880(明治13)年のHCV感染要因は何でしょうか?それは西洋医学が一番考えられます。
それまでの漢方医学は草の根を煎じて飲む医学でした。ところが1860年代にかけて西洋医学が入ってきました。その中には外科的手術があるわけです。
血液を介する感染で尚且つ血管に入らないと感染しないわけです。
西洋医学がHCVの侵入を許した要因と思われます。
その次には、1920(大正9)年代の頃からHCVは広がりました、実は1920(大正9)年頃に注射を使用したのは日本住血吸虫症に対する特効薬が作られ使用され始めたのです。(強めようさらなる絆を、静岡肝友会10年史、p162-167、2012)。
更に放送大学公開シンポジウムの席上(2014年11月1日)、溝上雅史氏は「なぜ佐賀に肝がんが多いのか?」と題して講演し、日本住血吸虫症に対する治療で、1本の注射器・針で何人にも注射したのが佐賀で肝がんが多い原因と述べています。
日本住血吸虫症の特効薬とは1922(大正11)年3月伝染病研究所(現医科学研究所)の宮川米次の依頼を受けて萬有製薬が製造したもので、商品名をスチブナールといいます(萬有製薬五十年のあゆみ、p31、1964)。
同年11月から山梨県の開業医、三上三朗が300例治験を行い、特に危険な副作用はなかったと報告した(スチブナールによる日本住血吸虫症の治療実験、9:1330-1339、1923、実験医報)。
溝上雅史の分子時計の方法が合っているとすれば、この三上三朗の治験の頃から注射器と針は連続使用されていたと容易に推測できます。
そして1931(昭和6)年寄生虫病予防法(法律第56号)ができ、日本住血吸虫病に対して静脈注射(スチブナール)の強制接種が行われるようになった。
佐賀県によると「住民検診で判明した有卵者は直ちに治療の措置をとるものとし治療は研究所、保健所及び医師会とし、集団治療等の徹底的な措置的な方途を講ずる、という方針が出された(佐賀県の日本住血病―安全宣言―、p67、1991)。
かくして日本住血吸虫症の流行地は肝がんの多発地域なった。




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「猿島肝炎を考える会」代表、鶴巻 進さんからの便り

2015年01月16日 16時45分45秒 | 支援者の方から
猿島は今は旧猿島町、旧岩井町が合併し、茨城県坂東市になっています。

私の儀兄親子で、父親が67歳、息子40歳です(写真上)
義兄の家は旧家で兄で20代目(約400年の歴史)です。
毎日白菜の出荷に追われ忙しいとのことでした。白菜の種類は黄芯(おうしん)といいます。
今年は1ヘクタール位耕作しましたが、年の暮れに頭をひもで縛り、霜除け対策した白菜です。
縛る事で白菜の表面に霜がかかり、白菜のなかのデンプンが増し、甘くて美味しい白菜に変化します。
昔は囲いと呼び、今は霜降り白菜と呼んでいます(写真中)
1箱4玉から6玉入りで近くの市場に120箱~130箱位出荷します。
この白菜は市場から北海道に船で送っているようです。
今年は値段が安く利益があがらないとのことでした。
安くて美味しいですからどんどん食べてください







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