熊谷市街前編、線路の遺構は一切なくイマイチ盛り上がりがなかったので、後編に期待です。
Q地点で国道17号中山道を渡り…(全く線路が交差している痕跡はなかったのですが)
そのまま公園がJR(当時は国鉄)高崎線との交差地点(R地点)に至ります。
鉄道の場合、後にできた路線が先の路線をまたぐのが鉄則ですから、東武熊谷線が国鉄高崎線をまたいだはず。
公園内に高崎線をまたいでいたであろう築堤が残されていました。
ちょうど、貨物列車が通過するところでした。
築堤自体は削られて低くなっているようです。
それでも、高崎線の先にもそのまま弧を描くように築堤が続いています。
ここが線路の跡の築堤であった証拠に、築堤をくぐる古いアーチ型の暗渠が残されていました。
久しぶりに線路の跡を物語る遺構に遭遇です。
さて高崎線を越えた先は再び住宅地の遊歩道になります(S地点)。
線路の跡を今に語り継ぐように踏切のモニュメントが。
そして、石原駅の西熊谷よりで秩父鉄道に沿うように合流したようです。
合流した先、T地点の踏切で東武熊谷線の遺構を確認します。
西熊谷、熊谷方面を観察。
右の高架橋は上越新幹線。そして中央は秩父鉄道。そして秩父鉄道の左の草むらに細いレールが見えます。
おそらく30kgレールなので、東武熊谷線が使用していたものと推測されます。
この先、熊谷駅にかけて秩父鉄道と並走していたようです。秩父鉄道の車窓からも確認できます。
終点の熊谷駅(U地点)は、秩父鉄道と共用だったようですね。
現在の秩父鉄道は秩父観光の営業面では西武鉄道寄りでしたが、当時は東武鉄道と密接な関係でした。
これにて東武熊谷線(妻沼線)の遺構を西小泉駅から巡るシリーズお開きです。
Q地点で国道17号中山道を渡り…(全く線路が交差している痕跡はなかったのですが)
そのまま公園がJR(当時は国鉄)高崎線との交差地点(R地点)に至ります。
鉄道の場合、後にできた路線が先の路線をまたぐのが鉄則ですから、東武熊谷線が国鉄高崎線をまたいだはず。
公園内に高崎線をまたいでいたであろう築堤が残されていました。
ちょうど、貨物列車が通過するところでした。
築堤自体は削られて低くなっているようです。
それでも、高崎線の先にもそのまま弧を描くように築堤が続いています。
ここが線路の跡の築堤であった証拠に、築堤をくぐる古いアーチ型の暗渠が残されていました。
久しぶりに線路の跡を物語る遺構に遭遇です。
さて高崎線を越えた先は再び住宅地の遊歩道になります(S地点)。
線路の跡を今に語り継ぐように踏切のモニュメントが。
そして、石原駅の西熊谷よりで秩父鉄道に沿うように合流したようです。
合流した先、T地点の踏切で東武熊谷線の遺構を確認します。
西熊谷、熊谷方面を観察。
右の高架橋は上越新幹線。そして中央は秩父鉄道。そして秩父鉄道の左の草むらに細いレールが見えます。
おそらく30kgレールなので、東武熊谷線が使用していたものと推測されます。
この先、熊谷駅にかけて秩父鉄道と並走していたようです。秩父鉄道の車窓からも確認できます。
終点の熊谷駅(U地点)は、秩父鉄道と共用だったようですね。
現在の秩父鉄道は秩父観光の営業面では西武鉄道寄りでしたが、当時は東武鉄道と密接な関係でした。
これにて東武熊谷線(妻沼線)の遺構を西小泉駅から巡るシリーズお開きです。