私自身も含めて。
人って不確かなもの(こと)や人に対して、
本能的に不安を覚えるものなのかもしれない…。
人間関係の関わりを通して見ていくと、
私って〇〇な人、あの人って(きっと)〇〇な人。
イメージを固定化することによって安心感を得ている。
しかも往々にして。
自分に対しては、何かにつけてセルフイメージを低くしがちな傾向が強いように感じる。
矛盾をはらんでいるようだけど、
「自信の無さ」と「安心感」が奇妙に同居?しているような状態。
でも、そもそも…その〇〇って何をもって決めつけたの?
親に言われたから?
誰かに言われたから?
自分でもそうだと思うから?
でも、それって本当???
しかも、その〇〇を別の角度から見てみると。
「願望」と「恐れ」が同居している。
なぜ「安心感」の中で「願望」を持てないんだろう…。
どうして、そんなややこしいことをしてしまうんだろう…。
そう思うけど、それこそ人の数だけ理由がある。
私自身の経験を振り返ると。
ひとつ言えるのは、
肉体を着た自分が存在している「この世界」に対する前提だと思う。
「この世界は怖い」から「この世界は安心だ」と前提が変わり、
それに伴い「全ては常に動いて変化している」ということに対する恐れが薄らいだ。
意識が拡大すればするほど、わからないことのほうが遥かに多く、
知っていることなんてほんの僅か…ということに気づく。
だからこそ「好奇心」が生まれ、それが生きる原動力になっていく。
それまでとは全く違う次元から「この世界」を見ていることに自分でも驚く。
では、いつから前提が変わったのだろう。
何がきっかけになったんだろう。
「愛が恐れをとかしたんだよ」とメッセージが来た。
・・・ああ、そうだ。
私を信頼して下さる方達の「愛」。
支えてくれた仲間達の「愛」。
見守ってくれた家族の「愛」。
肉体を脱いだ方々の「愛」。
大きな拡がりの中で感じる「愛」。
力強くて、優しくて、あたたかい…沢山の愛に触れて包まれて。
ああ、大丈夫なんだ…って。
もう安心していいんだ…って。
愛が恐れをとかしてくれたんだ。
みんな、ありがとう。
本当に、ありがとう。
人って不確かなもの(こと)や人に対して、
本能的に不安を覚えるものなのかもしれない…。
人間関係の関わりを通して見ていくと、
私って〇〇な人、あの人って(きっと)〇〇な人。
イメージを固定化することによって安心感を得ている。
しかも往々にして。
自分に対しては、何かにつけてセルフイメージを低くしがちな傾向が強いように感じる。
矛盾をはらんでいるようだけど、
「自信の無さ」と「安心感」が奇妙に同居?しているような状態。
でも、そもそも…その〇〇って何をもって決めつけたの?
親に言われたから?
誰かに言われたから?
自分でもそうだと思うから?
でも、それって本当???
しかも、その〇〇を別の角度から見てみると。
「願望」と「恐れ」が同居している。
なぜ「安心感」の中で「願望」を持てないんだろう…。
どうして、そんなややこしいことをしてしまうんだろう…。
そう思うけど、それこそ人の数だけ理由がある。
私自身の経験を振り返ると。
ひとつ言えるのは、
肉体を着た自分が存在している「この世界」に対する前提だと思う。
「この世界は怖い」から「この世界は安心だ」と前提が変わり、
それに伴い「全ては常に動いて変化している」ということに対する恐れが薄らいだ。
意識が拡大すればするほど、わからないことのほうが遥かに多く、
知っていることなんてほんの僅か…ということに気づく。
だからこそ「好奇心」が生まれ、それが生きる原動力になっていく。
それまでとは全く違う次元から「この世界」を見ていることに自分でも驚く。
では、いつから前提が変わったのだろう。
何がきっかけになったんだろう。
「愛が恐れをとかしたんだよ」とメッセージが来た。
・・・ああ、そうだ。
私を信頼して下さる方達の「愛」。
支えてくれた仲間達の「愛」。
見守ってくれた家族の「愛」。
肉体を脱いだ方々の「愛」。
大きな拡がりの中で感じる「愛」。
力強くて、優しくて、あたたかい…沢山の愛に触れて包まれて。
ああ、大丈夫なんだ…って。
もう安心していいんだ…って。
愛が恐れをとかしてくれたんだ。
みんな、ありがとう。
本当に、ありがとう。