ちょっとだけ風邪をひきました。
喉だけの風邪だったので、体がつらくないのをいいことに、昨日の飲み会でしゃべりまくったら声がガラガラになってしまいました。
自分でも違う人みたいで笑ってしまいます。
それでは、渡井さんからの「しらせ便り」です。
---------------------------------------------------------------
2007年4月14日 (土) 晴れ 晴れときどき曇り 持ち帰り物資荷下ろし
しらせは昨日のうちに晴海埠頭から大井の日通食品埠頭へと回航した。
持ち帰り物資を下ろすためである。
予定されている日数は3日間。
今日が冷凍品や冷蔵品としてある研究サンプル、明日がその他の観測物資、明後日は廃棄物のみだ。
もっとも船倉は船の前部と後部にあるので、廃棄物などは3日間並行して下ろされる。
が、3日間である。
往路の積込の時に比べて随分と日数が短い。
これは
・設営物資をほとんど昭和基地やS17に設置してきたので持ち帰りはほとんどないこと
・ドラム缶などの燃料もないこと
・狭いところから広いところに下ろすのでどんどん作業を進められる
ことにあるのではないだろうか。
午前中は冷凍物資がほとんどであった。
これには隊員個人へと配布される公用氷も含まれる。
越冬隊員は小ダン4個(あるいは中ダン2個)、夏隊員は小ダン2個(あるいは中ダン1個)を
各自一時的に保管されている冷凍車から取り出して、家庭や職場などに送付する。
が、小ダン4個分である。
一般家庭にはこれほどの量を保管できる冷凍庫など普通はない。
手間になり送料も嵩むが、埠頭で開梱し小分けにしてそれぞれの送付先に送ってしまった方が良いようだ。
私物も午前中に甲板に出された。
冷凍品以外の公用品が船倉からでないこともあって、早々船室においてあった荷物と合わせて車に積み込んだり、甲板や埠頭に出店を設けている日通のペリカン便で送付する。
ダンボールの数が多い隊員は個別の輸送よりも引越しパックを利用した方が安かったようだ。
午前中には前部のハッチから大型の廃棄物なども下ろされた。
トラッククレーンや修理の必要なブルドーザ、それに役目を終えたSM509も下ろされる。
ほとんど廃棄物と化し残骸しか残っていないKC型雪上車と比較して、SM50型は実際に使用していた車種だけに愛着もある。
役目を全うしたばかりなので感慨もひとしおだ。
「ごくろうさん」と声を掛ける。
午後からは観測物資の荷出しも始まった。
ほとんどの物資は4トントラック1台と2.5トントラック2台で、大井埠頭と板橋の極地研との間をピストン輸送する、
極地研側では極地研の職員の方が荷受を行ってくれている。
私物の回収を終えて他に下ろす物資のない設営系の隊員は三々五々帰途に着く。
もうこれで合えなくなる隊員もいるはずだ。
そう思うと寂しさを感ぜずにはいられない。
1600頃には本日の荷下ろしは終了。
土曜日なので車の流れも速い。
これから極地研に向かってもトラックの荷下ろしに間に合うかどうか。
私物もあるので直帰させていただいた。
荷物を車に載せて家に着いたのは1830頃。
昭和基地や船室の中では普通に見えた中ダンも、家の中では置き場所に困るほどの大きさであった。
-----本日の作業など-----
・持ち帰り物資荷下ろし
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帰ってきた「しらせ」にどうしても会いたかったので、私物運びを買って出て、荷下ろしの場に連れて行ってもらいました。
シドニーでは、隊員さんたちを迎える気持ちと仕事を終えたばかりの観測装置に気をとられていて、思えば「しらせ」そのものを迎えた気にはなっていなかったようで(まだ航海の途中だったからでしょうか?)、あまりよく見ていなかったのです。
一昨年(2005年)の出航前の11月10日に47次隊を乗せていく「しらせ」に会いに行き、昨年(2006年)も11月10日には47次隊を迎えに行く「しらせ」に会いました。
南極へ向かうピカピカの「しらせ」を見送ってから5ヶ月、日本に帰ってきた「しらせ」を、晴海で出迎えられなかったのは残念だったけれど、帰港翌日に大井で「おかえり」を言うことができました。
「しらせ」のおなかには、47越冬隊と48夏隊の成果が詰まっているので、その宝物たちに会うのも楽しみの一つでした。
それから、隊員さん以外にも南極でたくさん働いてきたものたちが帰ってきます。
9時前に着いたのですが、さっそく後部から下ろされたのは宝物の一つであるドームふじで掘削したアイスコアでした。
今回の48次夏の掘削で一区切りつけた「第二期ドームふじ 南極氷床 深層掘削計画」。
持って帰ってきた宝物の中には、3000m以上の氷床の下にある岩盤のかけらもあるはずです。
下ろされたアイスコアは、パレットの上で仕分けをして、保冷トラックとJR貨物コンテナに分けて積み込まれていました。
ほとんどが北海道大学の低温科学研究所に運ばれるということで、フェリーの中でエンジンを切らなければならないトラックではなく、-25℃の低温を保つJR貨物のコンテナを使用するのだそうです。
#JR貨物コンテナに積まれる氷床コア
一部は極地研究所に運んだということで、保冷トラックは極地研究所行きだったのですね。
暖かな日だったので、段ボールの中も発泡スチロールなどで保冷してあるとはいえ、氷が溶けてしまうのではないかとヒヤヒヤしてしまいました(そんなにヤワではないみたいです)。
一方前部のハッチからは大きなものが下ろされていました。
昭和基地で1月はじめに積み込まれた車両の一部も下ろされました。
役目を終えた雪上車SM509は静かにトラックの荷台に載せられると、極地研究所の物資担当の方が屋根にのぼり、お酒をかけて労をねぎらっていました。
ついこの前まで現役で25年間も働いた車体はすっかり塗装もはげているけれど、堂々としていてなんだかとてもかっこよかったです。
私も思わず頭を下げて見送りました。
#クレーンで下ろされるSM509
#四半世紀を南極で働いた雪上車
すでに役目を終えて久しいKC型の雪上車は廃車状態で次々にトラックに積まれていきます。
KC型は南極観測の初期の頃に使用されていたと聞いており、同じ型の雪上車を第1次隊の写真でも見たことがあります。
半世紀にもわたる南極観測の歴史が目の前に表れたような気がして、厳かな気持ちになりました。
#KC型は風化しかかっていた
廃棄物の持ち帰りも4年間かけてのプロジェクトになっており、廃棄物同然になっている雪上車の他にもリターナブルパレットに入ったドラム缶もたくさん持ち帰ってきました。
そのほかにも生活で出たゴミをエコパックに詰めたものもありました。
47次越冬中にアンテナ島のクリーンナップも終え、持ち帰った廃棄物の量は200tあまりになることが予定されていました(実際にはどれくらいだったのでしょう?)。
#リターナブルパレットに入ったドラム缶
#廃棄物の入ったスチコン(スチールコンテナ)も次々おろされトラックに積まれていく
#エコパックもたくさん運び出されていた
私物とおみやげの公用氷は、隊員さんたちが出てくるのを心待ちにしていたものなのだそうです。
極地研究所の担当の方は「とにかく私物と公用氷をなるべくスムーズに出して、隊員さんたちに渡してあげたい」とおっしゃっていました。
午前中に公用氷が出されました。
こんなにたくさんの氷、自宅でどうするんだろう?と思っていたら、その場で開けて詰め替え、電話で送り先を聞いて送っている方もいらっしゃいました。
小ダン(小段ボール)1箱で、大型冷蔵庫の冷凍室がいっぱいになるくらいですから、研究室か大きな調理場に業務用冷凍庫でもない限り、さすがに4箱も持ち帰ったらどうにもならないと思います。
#保冷トラックから出したら、すぐに送付作業をして、日通の保冷トラックへ。
午後一番で、私物の搬出も行われました。
渡井さんの私物は、中ダン(中段ボール)、小ダン(小段ボール)合わせて12個。
私の小さい車でも積むことができます。
どうやらこの私物量は他の隊員さんに比べて少ないようなのです。
つまりほとんどの隊員さんの荷物が12個以上で、それが36人分あり、さらに48次の夏隊の分もあるので(夏隊の方はしらせをベースにしていたので、船倉には荷物がないようでしたが)、私物だけでもかなりの量になります。
後部ハッチから飛行甲板に出された荷物の量は、見ていて壮観でした。
しかも、それが隊員さんたちによってテキパキと仕分けされていく様子を見て、気持ちよかったです。
でも、私個人としては、皆さんが働いているのに何もできずにとっても手持ちぶさたで、一緒に働きたいくらいでした。
南極だよりでたくさん伝えてもらっていた隊員さんたちの作業を、最後の最後に初めて生で見ることができたのは、とても嬉しかったです。
#船倉からのハッチはエレベータのようになっている
#出された物資は隊員が手作業で仕分けをしていく(これが速いんです!)
観測物資が船倉から上がってきたのは、午後になって私物の仕分けが終わってからでした。
物資の確認のために残っていた隊員さんたちは、ちょっと疲れている様子でしたが、私は(何もしていないので)、観測物資の入れ物に書いてある字を見ながら興奮気味でした。
「アルゴフロート」って書いてある!
「リリーサー」って書いてあるから、地学の物資かな・・。
Pテントもあるー!
次々出てくる観測物資に興奮しつつ、これらが南極での観測を支えていたのだと思い、ふたたびお疲れさまと心の中で声をかけました。
#観測物資(これは地学のだったと思う)
#Pテントも甲板で下船?を待っていた
荷下ろしに関わられた皆さま、すっかり遅ればせながらですが、お疲れ様でした。
「しらせ」は、まだまだ廃棄物や観測物資をおなかに入れたままだけれど、行くときには満杯だった昭和基地で使う燃料も空になっていて、喫水線がかなりあがっていました。
行く前は「10」というメモリ?のあたりでしたが、長い航海で「10」の塗装ははげてしまい、わずかにその痕跡が残っているだけでした。
よく見ると船体のあちこち塗装がはげて、南極の海で海氷を割りながら航海した様子を物語っていました。
「しらせ」にも、お疲れさまでしたと静かに声をかけました。
「しらせ」は砕氷船としての役目を、あと一度の航海で終えることになっています。この秋からの最後の航海前に「しらせ」を見送りに行くような気がします。
#航海を終えたしらせは傷だらけに見えます
#喫水線は驚くほど高いです
航海前ははっきり見えた「10」は見難くなっていました
#船尾は海氷を割るときのダメージが少ないので、塗装がきれいです。
喫水線が高いのがよく分かりますね。
出発前の喫水線を調べてみました。
#47次出発前の喫水線(2005.11.10)
#48次出発前の喫水線(2006.11.10)
47次のほうが物資が重かったようですね。
喉だけの風邪だったので、体がつらくないのをいいことに、昨日の飲み会でしゃべりまくったら声がガラガラになってしまいました。
自分でも違う人みたいで笑ってしまいます。
それでは、渡井さんからの「しらせ便り」です。
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2007年4月14日 (土) 晴れ 晴れときどき曇り 持ち帰り物資荷下ろし
しらせは昨日のうちに晴海埠頭から大井の日通食品埠頭へと回航した。
持ち帰り物資を下ろすためである。
予定されている日数は3日間。
今日が冷凍品や冷蔵品としてある研究サンプル、明日がその他の観測物資、明後日は廃棄物のみだ。
もっとも船倉は船の前部と後部にあるので、廃棄物などは3日間並行して下ろされる。
が、3日間である。
往路の積込の時に比べて随分と日数が短い。
これは
・設営物資をほとんど昭和基地やS17に設置してきたので持ち帰りはほとんどないこと
・ドラム缶などの燃料もないこと
・狭いところから広いところに下ろすのでどんどん作業を進められる
ことにあるのではないだろうか。
午前中は冷凍物資がほとんどであった。
これには隊員個人へと配布される公用氷も含まれる。
越冬隊員は小ダン4個(あるいは中ダン2個)、夏隊員は小ダン2個(あるいは中ダン1個)を
各自一時的に保管されている冷凍車から取り出して、家庭や職場などに送付する。
が、小ダン4個分である。
一般家庭にはこれほどの量を保管できる冷凍庫など普通はない。
手間になり送料も嵩むが、埠頭で開梱し小分けにしてそれぞれの送付先に送ってしまった方が良いようだ。
私物も午前中に甲板に出された。
冷凍品以外の公用品が船倉からでないこともあって、早々船室においてあった荷物と合わせて車に積み込んだり、甲板や埠頭に出店を設けている日通のペリカン便で送付する。
ダンボールの数が多い隊員は個別の輸送よりも引越しパックを利用した方が安かったようだ。
午前中には前部のハッチから大型の廃棄物なども下ろされた。
トラッククレーンや修理の必要なブルドーザ、それに役目を終えたSM509も下ろされる。
ほとんど廃棄物と化し残骸しか残っていないKC型雪上車と比較して、SM50型は実際に使用していた車種だけに愛着もある。
役目を全うしたばかりなので感慨もひとしおだ。
「ごくろうさん」と声を掛ける。
午後からは観測物資の荷出しも始まった。
ほとんどの物資は4トントラック1台と2.5トントラック2台で、大井埠頭と板橋の極地研との間をピストン輸送する、
極地研側では極地研の職員の方が荷受を行ってくれている。
私物の回収を終えて他に下ろす物資のない設営系の隊員は三々五々帰途に着く。
もうこれで合えなくなる隊員もいるはずだ。
そう思うと寂しさを感ぜずにはいられない。
1600頃には本日の荷下ろしは終了。
土曜日なので車の流れも速い。
これから極地研に向かってもトラックの荷下ろしに間に合うかどうか。
私物もあるので直帰させていただいた。
荷物を車に載せて家に着いたのは1830頃。
昭和基地や船室の中では普通に見えた中ダンも、家の中では置き場所に困るほどの大きさであった。
-----本日の作業など-----
・持ち帰り物資荷下ろし
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帰ってきた「しらせ」にどうしても会いたかったので、私物運びを買って出て、荷下ろしの場に連れて行ってもらいました。
シドニーでは、隊員さんたちを迎える気持ちと仕事を終えたばかりの観測装置に気をとられていて、思えば「しらせ」そのものを迎えた気にはなっていなかったようで(まだ航海の途中だったからでしょうか?)、あまりよく見ていなかったのです。
一昨年(2005年)の出航前の11月10日に47次隊を乗せていく「しらせ」に会いに行き、昨年(2006年)も11月10日には47次隊を迎えに行く「しらせ」に会いました。
南極へ向かうピカピカの「しらせ」を見送ってから5ヶ月、日本に帰ってきた「しらせ」を、晴海で出迎えられなかったのは残念だったけれど、帰港翌日に大井で「おかえり」を言うことができました。
「しらせ」のおなかには、47越冬隊と48夏隊の成果が詰まっているので、その宝物たちに会うのも楽しみの一つでした。
それから、隊員さん以外にも南極でたくさん働いてきたものたちが帰ってきます。
9時前に着いたのですが、さっそく後部から下ろされたのは宝物の一つであるドームふじで掘削したアイスコアでした。
今回の48次夏の掘削で一区切りつけた「第二期ドームふじ 南極氷床 深層掘削計画」。
持って帰ってきた宝物の中には、3000m以上の氷床の下にある岩盤のかけらもあるはずです。
下ろされたアイスコアは、パレットの上で仕分けをして、保冷トラックとJR貨物コンテナに分けて積み込まれていました。
ほとんどが北海道大学の低温科学研究所に運ばれるということで、フェリーの中でエンジンを切らなければならないトラックではなく、-25℃の低温を保つJR貨物のコンテナを使用するのだそうです。
#JR貨物コンテナに積まれる氷床コア
一部は極地研究所に運んだということで、保冷トラックは極地研究所行きだったのですね。
暖かな日だったので、段ボールの中も発泡スチロールなどで保冷してあるとはいえ、氷が溶けてしまうのではないかとヒヤヒヤしてしまいました(そんなにヤワではないみたいです)。
一方前部のハッチからは大きなものが下ろされていました。
昭和基地で1月はじめに積み込まれた車両の一部も下ろされました。
役目を終えた雪上車SM509は静かにトラックの荷台に載せられると、極地研究所の物資担当の方が屋根にのぼり、お酒をかけて労をねぎらっていました。
ついこの前まで現役で25年間も働いた車体はすっかり塗装もはげているけれど、堂々としていてなんだかとてもかっこよかったです。
私も思わず頭を下げて見送りました。
#クレーンで下ろされるSM509
#四半世紀を南極で働いた雪上車
すでに役目を終えて久しいKC型の雪上車は廃車状態で次々にトラックに積まれていきます。
KC型は南極観測の初期の頃に使用されていたと聞いており、同じ型の雪上車を第1次隊の写真でも見たことがあります。
半世紀にもわたる南極観測の歴史が目の前に表れたような気がして、厳かな気持ちになりました。
#KC型は風化しかかっていた
廃棄物の持ち帰りも4年間かけてのプロジェクトになっており、廃棄物同然になっている雪上車の他にもリターナブルパレットに入ったドラム缶もたくさん持ち帰ってきました。
そのほかにも生活で出たゴミをエコパックに詰めたものもありました。
47次越冬中にアンテナ島のクリーンナップも終え、持ち帰った廃棄物の量は200tあまりになることが予定されていました(実際にはどれくらいだったのでしょう?)。
#リターナブルパレットに入ったドラム缶
#廃棄物の入ったスチコン(スチールコンテナ)も次々おろされトラックに積まれていく
#エコパックもたくさん運び出されていた
私物とおみやげの公用氷は、隊員さんたちが出てくるのを心待ちにしていたものなのだそうです。
極地研究所の担当の方は「とにかく私物と公用氷をなるべくスムーズに出して、隊員さんたちに渡してあげたい」とおっしゃっていました。
午前中に公用氷が出されました。
こんなにたくさんの氷、自宅でどうするんだろう?と思っていたら、その場で開けて詰め替え、電話で送り先を聞いて送っている方もいらっしゃいました。
小ダン(小段ボール)1箱で、大型冷蔵庫の冷凍室がいっぱいになるくらいですから、研究室か大きな調理場に業務用冷凍庫でもない限り、さすがに4箱も持ち帰ったらどうにもならないと思います。
#保冷トラックから出したら、すぐに送付作業をして、日通の保冷トラックへ。
午後一番で、私物の搬出も行われました。
渡井さんの私物は、中ダン(中段ボール)、小ダン(小段ボール)合わせて12個。
私の小さい車でも積むことができます。
どうやらこの私物量は他の隊員さんに比べて少ないようなのです。
つまりほとんどの隊員さんの荷物が12個以上で、それが36人分あり、さらに48次の夏隊の分もあるので(夏隊の方はしらせをベースにしていたので、船倉には荷物がないようでしたが)、私物だけでもかなりの量になります。
後部ハッチから飛行甲板に出された荷物の量は、見ていて壮観でした。
しかも、それが隊員さんたちによってテキパキと仕分けされていく様子を見て、気持ちよかったです。
でも、私個人としては、皆さんが働いているのに何もできずにとっても手持ちぶさたで、一緒に働きたいくらいでした。
南極だよりでたくさん伝えてもらっていた隊員さんたちの作業を、最後の最後に初めて生で見ることができたのは、とても嬉しかったです。
#船倉からのハッチはエレベータのようになっている
#出された物資は隊員が手作業で仕分けをしていく(これが速いんです!)
観測物資が船倉から上がってきたのは、午後になって私物の仕分けが終わってからでした。
物資の確認のために残っていた隊員さんたちは、ちょっと疲れている様子でしたが、私は(何もしていないので)、観測物資の入れ物に書いてある字を見ながら興奮気味でした。
「アルゴフロート」って書いてある!
「リリーサー」って書いてあるから、地学の物資かな・・。
Pテントもあるー!
次々出てくる観測物資に興奮しつつ、これらが南極での観測を支えていたのだと思い、ふたたびお疲れさまと心の中で声をかけました。
#観測物資(これは地学のだったと思う)
#Pテントも甲板で下船?を待っていた
荷下ろしに関わられた皆さま、すっかり遅ればせながらですが、お疲れ様でした。
「しらせ」は、まだまだ廃棄物や観測物資をおなかに入れたままだけれど、行くときには満杯だった昭和基地で使う燃料も空になっていて、喫水線がかなりあがっていました。
行く前は「10」というメモリ?のあたりでしたが、長い航海で「10」の塗装ははげてしまい、わずかにその痕跡が残っているだけでした。
よく見ると船体のあちこち塗装がはげて、南極の海で海氷を割りながら航海した様子を物語っていました。
「しらせ」にも、お疲れさまでしたと静かに声をかけました。
「しらせ」は砕氷船としての役目を、あと一度の航海で終えることになっています。この秋からの最後の航海前に「しらせ」を見送りに行くような気がします。
#航海を終えたしらせは傷だらけに見えます
#喫水線は驚くほど高いです
航海前ははっきり見えた「10」は見難くなっていました
#船尾は海氷を割るときのダメージが少ないので、塗装がきれいです。
喫水線が高いのがよく分かりますね。
出発前の喫水線を調べてみました。
#47次出発前の喫水線(2005.11.10)
#48次出発前の喫水線(2006.11.10)
47次のほうが物資が重かったようですね。
ちょっとうらやましいです。
先日湾岸を走っていたら「しらせ」が停泊しているのが見えました。
ちょっとだけ幸せになりました。
ちょっとビックリです。
帰りの航海でもリリーサーを使っていました。
でも、使い終わった後に船倉には入れなかったと思うので、船倉から出てきたのは地学の海底コア掘削で使用したリリーサーかな?と思ったのです。
以前の多いときは5002の表示が真ん中ぐらいまできていたと思います。
帰りの航海で回収していると思うのでリリーサーは使っていると思いますが、どうなんでしょう。
海洋観測のは、船倉から出てくることはないですものね。
一緒にあった物資がまさに地学のものでしたので、間違いないと思います。
うみんちゅさん、さすがですね。
48次の喫水線は47次より高かったです。
写真を追加したので、比べてみてください。
地学であってると思います。
アルゴフロートはJAMSTECが詳しそうです。
今回しらせの見送りには行きましたが、
例年より物資が少ないせいか喫水が高かった気がします。