古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「智蔵法師」という人物とその時代(2)

2016年10月31日 | 古代史

 『隋書俀国伝』には「大業三年」(六〇七年)に遣使記事がありますが、すでに述べたようにこれは実際には「隋」の「開皇年間」の事実を流用した記事と考えられ、「六〇〇年以前」であることを推定しました。記録を見るとこの時「沙門数十人」が派遣されており、この中に「智蔵」が居たという可能性もあると思われます。
 また『書紀』の「裴世清来倭」記事(以下の記事)は既に見たように「隋初」の頃の記事が移動されていると考えられることとなったわけですが、その帰国に「遣唐使」が同行したことが書かれており、そこには「八人」の人物の名前がありますが、この中には「智蔵」の名前がありません。

「唐客裴世清罷歸。…是時。遣於唐國學生倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。」「推古十六年(六〇八年)辛巳条」

 このように「智蔵」がいつ派遣されたか記録がないわけですが、だからといって派遣そのものがなかったとは即断できません。なぜなら同様に派遣記録がない學問僧達の「帰国」記事があるからです。

「新羅遣大使奈末智洗爾。任那遣達率奈末智。並來朝。…是時。大唐學問者僧惠齊。惠光。及醫惠日。福因等並從智洗爾等來之。於是。惠日等共奏聞曰。留于唐國學者。皆學以成業。應喚。且其大唐國者法式備定之珍國也。常須達。」「推古卅一年(六二三年)秋七月条」
 
 ここには「新羅」の使者に同行して帰国したという「大唐學問僧」四名の名前が書かれています。しかし、これらの人名は先の「六〇八年記事」で「隋」へ派遣された人名と比較してみると、「福因」を除いた人物達はこの時の「八人」にはおらず、彼らはこの時のメンバーではなかったことが判明します。つまり彼らには「派遣された」という記録がないこととなるわけです。このことは、彼等は『書紀』に書かれていない「遣隋使」ないしは「遣唐使」の一員であったこととなると思われます。ここで「惠日」が報告した内容である「其大唐國者法式備定之珍國也。常須達。」という言葉の中に出てくる「大唐」については、既に考察したように実際には「隋」のことを指すと考えるべきでしょう。
 「法式が備わっている」という「恵日」の評価も特に「唐」に特定されるものではなく、「法式」が完備されたのはそれ以前に「隋」において画期的であったものですから、この「大唐」が「隋」を指すという考えは的外れとはいえないと思われます。
 そもそも彼らが「唐代」に派遣されたとすると「唐」成立が「六一八年」ですから、帰国が「六二三年」であったとすると数年しか経過していないこととなり、「唐」で「学問」のために留まっていたという表現は似つかわしくないこととなります。
 そのように彼らが「隋代」に派遣されたと見て、その後「唐」になってから帰国したとすると(たとえば「大業三年」の「遣隋使」やその後の(『書紀』には記載がないものの)「大業六年」(六一〇年)の「遣隋使」(『隋書煬帝紀』による)の場合、途中に「唐」によって「隋」が亡ぼされるという事件を挟んでいることとなり、そのような経験をした彼等の報告とすると、「違和感」の残るものです。なぜなら、この報告の中では「唐」に対する「賛美」のようなニュアンスしか感じられず、「唐」の軍事力に対する「危険性」なども報告されて然るべき事と思われるのに対してそれがないように見えるのは「不自然」であると思われるからです。またこの帰国時点ではまだ「唐」国内には反対勢力がかなり強い勢力を持っていたものであり、一概に「唐」が「法式が整った」といえるほど安定していなかったこともいえるものであり、その意味でも不審と思われます。
 
 「惠日」らの派遣が実際には「隋代」ではなかったかということは、『続日本紀』中に彼の子孫が「藥師」の姓を変えて欲しいという奏上をした文にも現れています。

「天平寳字二年(七五七年)夏四月…己巳。内藥司佑兼出雲國員外掾正六位上難波藥師奈良等一十一人言。奈良等遠祖徳來。本高麗人。歸百濟國。昔泊瀬朝倉朝廷詔百濟國。訪求才人。爰以徳來貢進聖朝。徳來五世孫惠日。小治田朝廷御世。被遣大唐。學得醫術。因号藥師。遂以爲姓。今愚闇子孫。不論男女。共蒙藥師之姓。竊恐名實錯乱。伏願。改藥師字。蒙難波連。許之。」(『続日本紀』巻二十「孝謙天皇紀」)
 
 これを見ると「惠日」については「小治田朝廷御世。被遣大唐。學得醫術。」とされていて「推古」の時代に派遣されたことは書かれていますが「孝徳朝」に「遣唐使」として派遣されたことについては何も触れられていません。以下に見るようにこの時は「惠日」は「副使」という重要な立場で派遣されており、それに触れられていないのは不審です。

「(六五四年)白雉五年…二月。遣大唐押使大錦上高向史玄理。或本云。夏五月。遣大唐押使大華下高玄理。大使小錦下河邊臣麻呂。『副使大山下藥師惠日』。判官大乙上書直麻呂。宮首阿彌陀。或本云。判官小山下書直麻呂。小乙上崗君宜。置始連大伯。小乙下中臣間人連老。老。此云於唹。田邊史鳥等。分乘二船。留連數月。取新羅道泊于莱州。遂到于京奉覲天子。於是東宮監門郭丈擧悉問日本國之地里及國初之神名。皆随問而答。押使高向玄理卒於大唐。…」(孝徳紀)

 このことから「孝徳朝」の派遣は事実なのかということが問われるものであり、実際にはかなり遡上した「推古」の時代ではなかったかと推測されるものです。上に見るように『推古紀』の「惠日」については帰国記事につながる出発記事がないのもそれを裏付けるものでしょう。
 この「白雉年間」の派遣記事に続く「伊吉博徳」の証言の内容もこの「惠日」等の遣唐使についてのものではなく、その前年とされる「白雉四年」の派遣についての情報に限ったもののようであり、その意味でもこの「白雉五年」の派遣というものが本当にこの年次のものであったのか大変不審といえるものです。(六十年遡上が疑われるものです)

 これらの推定からは「惠日」等が帰国した年次についても実際には「隋代」のことではなかったかと考えられることとなり、「大業三年記事」などと同様遡上する可能性が強いと思われます。(二十年ほど遡上するか)
 そう考えると「智蔵」についてもその派遣記録がないこともあながち不自然ではないこととなり、「隋代」の派遣を措定して無理とはいえないこととになるでしょう。(続く)

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「智蔵法師」という人物とその時代(1)

2016年10月31日 | 古代史

 『懐風藻』や『元享釈書』『三国仏法伝通縁起』『三論祖師伝』『扶桑略記』など各種の史料に「智蔵法師」という人物について書かれています。それらによれば彼は「福亮法師」の出家前の子供とされます。その「福亮法師」については「法起寺」の創建に関わっていたとされ、「露盤銘文」によれば「戊戌年」(六三八年)になって「金堂」を「構立」したとされています。 (この「構立」とは「本建築」の前に「仮」に目印的に「木柱」などを建て「仏式」による「地鎮祭」様のことを行う意と思われます。)
 また、「露盤銘文」そのものについては真偽が取りざたされているものの、その場合でも問題となっているのは「聖徳太子」との関連部分であり、「福亮僧正」に触れた部分については問題とはされていないようです。(※1)
 また「福亮法師」は『三国仏法伝通縁起』によれば「慧灌僧正以三論宗授福亮僧正。」とされており、ここでいう「慧灌僧正」については「推古三十三年」(六二五年)来日とされており(同じく『三国仏法伝通縁起』による)、これに従えば「出家」は当然それ以前のこととなるでしょう。
 また「福亮」と違い、子の「智蔵」については「慧灌僧正」から教えを受けたという記事はなく、それは「六二五年」という段階ではすでに「隋」に渡っていたという可能性を示唆するものです。ではいつの時点で「智蔵」は「隋」に渡ったのでしょうか。

 この「福亮法師」については「呉人」とされており、この「呉」が中国「南朝」の「陳」を指すと考えると、これが「隋」により「征服」される以前の来倭であることが示唆されるものであり、「南朝滅亡」の年である「五八九年」以前がその年次として有力となるでしょう。
 (これについてはすでに指摘したように『書紀』に書かれた「百済人」たちの「遭難記事について「隋初」段階(五八〇年代か)のことと推定できると思われるわけですが、「福亮法師」がこの中にいたという考え方もあるようです。)
 この段階では彼は「俗人」として来倭したものであり、国内においては「熊凝氏」を名乗ったとされますが、後に出家したとされており、「智蔵」が出家前の子供と考えると、彼は既に「来倭」時点では生まれていたとみられることとなります。
 
 また「智蔵」は『元亨釈書』によれば「隋」の「嘉祥大師吉蔵」から薫陶を受けたともされており、(※2)その「嘉祥大師吉蔵」は「六二三年」には死去していますから、少なくともこれ以前に「隋」(ないしは「唐」)に渡っていなければならないこととなります。
 ところで「智蔵」は『懐風藻』の記述によれば「呉越之間」において「尼」について勉学したとされます。

「智藏師者,俗姓禾田氏。淡海帝世,遺學唐國。時呉越之間,有高學尼,法師就尼受業,六七年中,學業穎秀。
  同伴僧等,頗有忌害之心。法師察之,計全躯之方,遂披髮陽狂,奔蕩道路。密寫三藏要義,盛以木筒,著漆秘封,負擔遊行,同伴輕蔑,以為鬼狂,遂不為害所以。…」(『懐風藻』釈智蔵伝)

 これによれば彼には「同伴」の僧がいたこと、彼らと共に「呉越之間」という旧南朝支配下地域(現在の杭州市付近か)にあった寺院で「高學尼」について「業」を受けたことなどが明らかであり、(記録はないものの)正式な「學問僧」として派遣されたらしいことが判ります。しかし、派遣され勉学に励んだ先は「隋」(及びその後の唐)の首都ではなかったわけです。
 「隋」は南朝滅亡後高僧などを「大興城」(長安)などに招集したとされますが、それは特に煬帝の時期であり(彼は「大業三年」以降は「長安」にいたとされています)、それ以前であれば当時「吉蔵」は「会稽」にあった「嘉祥寺」にまだいたわけですから、彼から教えを受けたとすると逆にこれ以降の時期であれば「呉越之間」で修行している「智蔵」が「嘉祥大師」から教えを受けることは適わないこととなるでしょう。そう考えると、彼は「大業三年」以前に「隋」に渡ったものであり、これを「開皇末年」付近と想定すると後の学問僧の例から考えて、その時点で十代後半程度の年令が想定されますから、「五八〇年」付近の生年と想定できるでしょう。それは「福亮」の出家前(というより「来倭前」か)の子供であるとみられることと整合するものです。(続く)

(※1)大山誠一『「法起寺塔露盤銘」の成立について』(弘前大学デジタルリポジトリ2001年10月)
(※2)(元亨釈書)「釋智藏、呉國人、福亮法師俗時子也。謁嘉祥受三論微旨。」

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『書紀』の年次移動の痕跡について(2)

2016年10月23日 | 古代史

 さらに『書紀』『続日本紀』の年次移動の痕跡について検討します。
 『旧唐書』では「日本国」からの遣唐使の記事として以下のことが書かれています。

「其大臣朝臣眞人來貢方物。朝臣眞人者、猶中國戸部尚書、冠進徳冠、其頂爲花、分而四敵、身服紫袍、以帛爲腰帯。」

 ここでは「粟田真人」とおぼしき人物は「進徳冠」をかぶっています。
 『続日本紀』によれば、「大宝元年」(七〇一年)の記事として「始停賜冠。易以位記。」というものがあり、これは「冠位」としての名称には「冠」は残るものの「実際」には「冠」はかぶらず、その代わりに「位記」(官位等を書いた紙)を「賜う」こととしたというものです。
 しかし、翌「七〇二年」に発遣された「遣唐使」である「粟田真人」は「進徳冠」をかぶっていたとされているわけです。
 ここに書かれた「進徳冠」は、「易経」に「子曰、君子進德脩業。忠信所以進德也」(易経乾下文言伝九三)とあるように「君子」が「徳を進める」ための「修業」の過程を表わす「冠」であり、「唐」では、「天子」に至る途中の「太子」の冠であったものです。
 この「冠」を「日本国」の使者がかぶってきたわけであり、当時の「日本国」の「冠」が「唐」の「礼」によっていたことを示しているものです。
 ところで、上に述べたように『続日本紀』では「大宝」と「建元」と共に「始停賜冠。易以位記」とあり、この時始めて「冠」を与えるのをやめ、「文書」にしたとあります。

『続日本紀』
「(文武)五年(七〇一年)三月甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。始依新令。改制官名位号。親王明冠四品。諸王淨冠十四階。合十八階。諸臣正冠六階。直冠八階。勤冠四階。務冠四階。追冠四階。進冠四階。合卅階。外位始直冠正五位上階。終進冠少初位下階。合廿階。勳位始正冠正三位。終追冠從八位下階。合十二等。『始停賜冠。易以位記。語在年代暦。』」

 しかし、『書紀』を見ると「六八九年」という年次に筑紫に対して「給送位記」されており、その後「六九一年」には宮廷の人たちに「位記」を授けています。

「(持統)三年」(六八九年)九月庚辰朔己丑条」「遣直廣參石上朝臣麿。直廣肆石川朝臣虫名等於筑紫。給送位記。且監新城。」

「(持統)五年(六九一年)二月壬寅朔条」「…是日。授宮人位記。」

 これらの記事は『続日本紀』の記事とは明らかに齟齬するものであり、しかも、『書紀』ではこの記事以前には「位記」を授けるような「冠位」改正等の記事が見あたらないこともあり、この「位記」がどのような経緯で施行されるようになったのか不明となっています。

 中国では元来「官爵」の授与は同時に授与される「印綬」によって証明していたものです。これは後に「文書」である「告身」に拠るようになります。その延長線上に「位記」が存在するものであり、「位記」は「隋・唐」においては日常的に使用されるようになっていたことを考えると、「大宝年間」まで「位記」が採用されていなかったという『続日本紀』の記事には疑いが発生することとなります。つまり「倭国」が「遣隋使」「遣唐使」を送って「隋・唐」の制度導入を図っていた時期になぜ「位記」が採用されていないのかが不明となるでしょう。その意味では『書紀』の記事にはリアリティがあるといえます。この時代には「位記」が「印綬」に代わって使用されていたとして不思議ではないと思われるからです。(すでにそれ以前に「冠」だけでは位階が区別できなくなっていたことと関係があるかもしれません。)

 このことについても年次移動を想定すると理解が容易かもしれません。つまり、『続日本紀』の「位記」制定記事についてはそれが「冠」をかぶることと関係しているとすると「髪型」変更記事と強い関連が考えられるものであり、(髪を結い上げるということは「冠」をかぶる前提と思われるため)同様に「五十七年」の遡上がある可能性が考えられると共に、「持統五年記事」については(新羅王の喪使に関する記事と同様)「四十六年」を措定するとこの二つは共に「六四四年」と「六四五年」というように連年の記事となり、きれいに整合します。また「持統三年記事」は「三十四年~四十年」程度の遡上を措定すると「六五四年」付近のこととなりますから時系列として他の記事との齟齬もありません。

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『書紀』の年次移動の痕跡について

2016年10月23日 | 古代史

 『書紀』と『続日本紀』の記事移動に関するものとして「秦造綱手」に関するものがあります。
(以下に『書紀』の「秦造」記事を列挙します。)

①「(推古)十八年(六一〇年)丁酉条」「客等拜朝庭。於是。命『秦造河勝』土部連菟爲新羅導者。以間人連臨蓋。阿閇臣大篭爲任那導者。共引以自南門入之立于庭中。時大伴咋連。蘇我豐浦蝦兩臣。坂本糠臣。阿倍鳥子臣。共自位起之進伏于庭。於是。兩國客等各再拜以奏使旨。乃四大夫起進啓於大臣。時大臣自位起。立廳前而聽焉。既而賜祿諸客。各有差。」

②「(皇極)三年(六四四年)秋七月条」「東國不盡河邊人大生部多。勸祭虫於村里之人曰。此者常世神也。祭此神者。到富與壽。巫覡等遂詐託於神語曰。祭常世神者。貧人到富。老人還少。由是加勸捨民家財寶陳酒陳菜六畜於路側。而使呼曰。新富入來。都鄙之人取常世虫置於清座。歌舞求福。棄捨珍財。都無所益損費極甚。於是。葛野『秦造河勝』惡民所惑。打大生部多。其巫覡等恐休其勸祭。時人便作歌曰。禹都麻佐波。柯微騰母柯微騰。枳擧曳倶屡。騰擧預能柯微乎。宇智岐多麻須母。此虫者常生於橘樹或生於曼椒。曼椒。此云衰曾紀。其長四寸餘。其大如頭指許。其色緑而有黒點。其貌全似養蠶。」

③「大化元年(六四五年)九月丙寅朔戊辰条」「古人皇子。與蘇我田口臣川掘。物部朴井連椎子。吉備笠臣垂。倭漢文直麻呂。朴市『秦造田來津』謀反。或本云。古人大兄。此皇子入吉野山。故或云吉野太子。垂。此云之娜屡。」

④「斉明七年(六六一年)九月条」「皇太子御長津宮。以織冠授於百濟王子豐璋。復以多臣蒋敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔。小山下『秦造田來津』。率軍五千餘衛送於本郷。於是。豐璋入國之時。福信迎來。稽首奉國朝政。皆悉委焉。」

⑤「天武元年(六七二年)六月辛酉朔己丑条」「天皇往和■。命高市皇子號令軍衆。天皇亦還于野上而居之。是日。大伴連吹負密與留守司坂上直熊毛議之。謂一二漢直等曰。我詐稱高市皇子。率數十騎自飛鳥寺北路出之臨營。乃汝内應之。既而繕兵於百濟家。自南門出之。先『秦造熊』令犢鼻。而乘馬馳之。」

⑥「天武九年(六八〇年)五月乙亥朔乙未(二十一日)条」「大錦下『秦造綱手』卒。由壬申年之功贈大錦上位。」

⑦「天武十二年(六八三年)九月乙酉朔丁未条」「倭直。栗隈首。水取造。矢田部造。藤原部造。刑部造。福草部造。凡河内直。川内漢直。物部首。山背直。葛城直。殿服部造。門部直。錦織造。縵造。鳥取造。來目舍人造。桧隈舍人造。大狛造。『秦造』。川瀬舍人造。倭馬飼造。川内馬飼造。黄文造。薦集造。勾筥作造。石上部造。財日奉造。泥部造。穴穗部造。白髮部造。忍海造。羽束造。文首。小泊瀬造。百濟造。語造。凡卅八氏。賜姓曰連。」

⑧「天武十四年(六八五年)六月乙亥朔甲午条」「大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。『秦連』。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸。」

⑨「朱鳥元年(六八六年)八月己巳朔辛巳条」「遣『秦忌寸石勝』奉幣於土左大神。是日。天皇太子。大津皇子。高市皇子。各加封四百戸。川嶋皇子。忍壁皇子。各加百戸。」

⑩「持統十年(六九六年)五月壬寅朔甲辰(三日)条」「詔大錦上『秦造綱手』。賜姓爲忌寸。」

 これらの記事を見てみると、最後⑩の『書紀』の「持統十年(六九六年)条」に記されている「秦造綱手」への「忌寸」賜姓記事が気になります。
 何が問題かというとこの「秦造綱手」は上でみるように「天武九年(六八〇年)条」にその死去の記事があり、その時点で「大錦下」から「大錦上」へ「昇進」されています。ですから、この『持統紀』の記事は「死後追賜」となるわけですが、「秦造」氏は「天武十二年」と「天武十四年」にそれぞれ「造」から「連」、「連」から「忌寸」というように「改姓」されており、ここで改めて「忌寸」を与えたとするとその理由が不明といえるものです。記事中にも何ら「理由」といえそうなものが書かれていません。
 彼が存命中には「造」であったから、死後改めて「忌寸」姓を与えたものと理解できなくはないですが、それが「死去」してから十六年後という時点で行なわれたという、その理由が全く不明と思われます。
 「忌寸」姓を与えるのであれば、「秦氏」を含む各氏に「改姓」を行ない「忌寸」姓を賜与した「天武十四年」という段階付近で行なうのが最も適切なタイミングであったはずです。そこからはるかに下った『持統紀』に入ってから「唐突」に行なわれる事となった事情が不明であり、理解に苦しむものです。
 
 しかし、この「秦造」氏の場合も『書紀』の記事移動を背景として考えると整合すると思われます。つまり彼が死去したという「天武九年」記事については「三十四~四十年程度」の遡上があると推察され、「実際」には「六四六年」付近の事と考えられるのに対して、「忌寸」を「賜」したという「持統十年」記事も前項で述べたように、「四十五~五十年」程度の遡上が考えられると思われますから、「六五〇年」付近の記事となるでしょう。(死後数年後に「忌寸」が追賜されたもの。)
 また「秦造」を含む「諸氏」への「忌寸姓」賜与記事についても三十四~四十年程度の遡上が想定されるわけですから、これは「六五〇年」付近の年次のこととなり、「秦造綱手」への「忌寸」姓賜与とほぼ同年次付近のこととなります。つまり、死去した時点で冠位が「大錦上」に格上げされた後(数年後)「諸氏」に「忌寸」姓が授与されてまもなく他の「秦氏」と同様「故人」となった「秦造綱手」についても「忌寸」姓が与えられたこととなったとみられるわけであり、改姓のタイミングとしては『持統紀』の記事そのままよりも数段合理的と考えられ、理解できるものです。
 このような理解が成立するとした場合やはり『書紀』には記事移動があると共に、『持統紀』の前半と後半でその移動年数が異なると見る立場に合理的な根拠があることとなるでしょう。

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「田中朝臣法麻呂」について(2)

2016年10月23日 | 古代史

 既に「田中法麻呂」については七世紀半ばの「倭国王」の「喪使」として「新羅」に派遣された可能性について考察したわけですが、彼は派遣時点で「直廣肆」であったとすると、「山陵」造営時点は「直大肆」となっていますから、当然時期としてはその後ということとなるでしょう。
 ところで「田中法麻呂」は「越智山陵」の修造に関わったとされていますが、この「越智」が「伊豫」の「越智」であるという可能性も考えられるところであり、それは「田中法麻呂」が「伊豫国司」となっていることからも推察できるものですが、ここで「中央」から派遣されたメンバーの中に「田中法麻呂」が存在していることから考えると、「山陵」の修造後「伊豫国司」として現地に残ったものと考えることができるでしょう。(元々の出身地がこの「伊豫」であったという可能性もありえます)そしてその後「伊豫」に止まり「白銀」献上という貢献により「総領」となったというわけですが、すでに述べたように「金春秋」の官位の変遷からの推定として「田中法麻呂」が「喪使」として派遣されたのはまだ「金春秋」が「翳飡」(「伊餐」とも)の頃と推察されることとなっています。
 彼(金春秋)は「六〇三年」の生まれですが、両親とも「新羅王」の子供であり、若い頃から高い官職を得ていたものと推測されます。そう考えると、「巨勢稲持」が喪使として派遣されたのはかなり時代を遡上するものとしても不審ではなく、概数的に六四〇年代が想定できるでしょう。(六二二年の「阿毎多利思北孤」の死去時点ではまだ未成年となり、さすがに非現実的です)
 これに関しては『隋書俀国伝』によれば「利歌彌多仏利」は「阿毎多利思北孤」の「太子」であったとされていますから、「六二二年」とされる「阿毎多利思北孤」の死去以降(法隆寺釈迦三尊像光背銘による)「倭国王」であったとみるべきであり、彼の死去に際して派遣されたのが「巨勢稻持」であったと見られるわけです。その年次としては「六三六」に「九州年号」では「僧要」に改元されており、この年次に倭国王交代があったと見ることもできるでしょう。そう考えると「田中法麻呂」が喪使として派遣されたのはその王権を継承した人物に関わるものであり、「命長」改元年である「六四七年」が可能性が高いものと推量します。その意味でも「新羅」へ喪使として派遣された際の「直廣肆」が記事中最低なのも首肯できるものです。
 つまり中央官人として存在していた彼が「喪使」として派遣され、帰国後それにより位階が上がり「直大肆」となった後「越智山陵」の修造に関わったものと思われるわけですが、この「直大肆」という位は「国司」として平均的なものですから、「山陵」修造後「伊豫国司」として赴任したと見るべきでしょう。その後「白銀」献上の功績があり、それにより四国全体を総括する「伊豫総領」に昇進したと見ると全てが整合すると思われます。
 以上を踏まえて新たな時系列を想定すると以下のようになります。

①「(持統)元年(六八七年)→(六四八年付近か)春正月丙寅朔甲申条」「使『直廣肆』田中朝臣法麻呂。與追大貳守君苅田等。使於新羅赴天皇喪。」

②「(文武)三年(六九九年)→(六五四年付近か)冬十月辛丑条」「遣淨廣肆衣縫王。直大壹當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。『直大肆』田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。」

③「(持統)五年(六九一年)→(六五五年付近か)秋七月庚午朔壬申条是日条」「『伊豫國司』田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀三斤八両。銚一篭。」

④「(持統)三年(六八九年)→(六五六~七年付近か)春正月甲寅朔辛丑条」「詔『伊豫惣領』田中朝臣法麿等曰。讃吉國御城郡所獲白燕。宜放養焉。」

 これらから移動年数を推定すると、持統元年記事は「三十九年」、『続日本紀』記事については「四十五年」程度。また『持統五年』記事は『持統紀』の「新羅王」記事と同様「四十六年」の移動を措定できます。また「総領」記事は「白銀」献上による褒賞として位階の増進があったと見れば首肯できるものであり、「三十四年」前後の移動が考えられることとなります。
 つまり『持統紀』でも「六九〇年」付近を境に移動年数に大きな差があるらしいことが考えられ、それは『書紀』の成立事情(あるいは「潤色」の時期と方法)に複雑なものがあったことを示すものです。それを別の記事から見てみることとします。

「六九四年」に「刑部造」が「白山鷄」を捕らえて献上したという記事『書紀』にあります。

「(持統)八年(六九四年)六月癸丑朔庚申条」「河内國更荒郡獻白山鷄。賜更荒郡大領。小領。位人一級。并賜物。以進廣貳賜獲者刑部造韓國。并賜物」

 ここでは「河内国」で「白山鷄」を捕らえた功績を受けた人物として「刑部造韓國」がいると書かれています。ところが、この「刑部氏」を含む「三十八氏」に対して「連」を賜ったという記事が『天武紀』にあります。

「(天武)十二年(六八三年)九月乙酉朔丁未条」「倭直。栗隈首。水取造。矢田部造。藤原部造。『刑部造』。福草部造。凡河内直。川内漢直。物部首。山背直。葛城直。殿服部造。門部直。錦織造。縵造。鳥取造。來目舍人造。桧隈舍人造。大狛造。秦造。川瀬舍人造。倭馬飼造。川内馬飼造。黄文造。薦集造。勾筥作造。石上部造。財日奉造。泥部造。穴穗部造。白髮部造。忍海造。羽束造。文首。小泊瀬造。百濟造。語造。凡卅八氏。賜姓曰連。」

 つまり、この「賜姓」時点以降「刑部造」は「刑部連」に改姓されたこととなるはずですが、上の「白山鷄」献上記事はそれとは矛盾するものです。彼は既に「連」姓を賜っているはずですが、相変わらず「造」姓であるように書かれています。
 この「矛盾」についても従来余り気にされていないようですが、これも記事移動の結果と考えることができるものであり、「連」への改姓が書かれた「六八三年記事」は「三十四年遡上」の対象記事であるとすると「六四九年」へ移動することとなりますから、「刑部造」という人物の存在が記される「六九四年記事」はこの年次よりも遡上する必要があることとなります。そうすると「最低」でも「四十五年」遡上する必要があることとなり「四十六年」程度の遡上という上の推定と整合する事となります。

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