古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「天智」即位の年次について

2018年05月12日 | 古代史

 『古事記』序文にはその主人公たる人物の「即位」の年月として「酉年の二月」と書かれていますが、従来はこれを「天武」と考えて「六七三年」と見ていたわけです。しかしこの「序」が「元明」に宛てた「上表文」であるとすると、「西村氏」が言うように「虚偽」を書くことは許されないと考えられ、であれば「酉年の二月」という即位年月は動かせないこととなります。つまり、疑わしいのは『書紀』に書かれた「天智」の即位年と遷都の時期であると言うこととなるでしょう。
 「評制」隠蔽などで明らかになったように、『書紀』の記載が事実そのままではないことは明らかとなっていますから、この場合も『古事記』序文の方が正しいという可能性があります。そもそも『古事記』の方が編纂時期としては「先行」していたと考えられますので、『書紀』を基準として『古事記』を見るという「方法論」自体に問題があるとも言えます。そうであれば『古事記』が『推古記』までしかないということが重要となってきます。
 そもそも『古事記』の内容が『序文』に書いたことと全く別であるとすると不審の極みではないでしょうか。その疑いは必然的に「天智」の即位の年次(時代)として「推古」の「次代」を想定する必要があることとなります。

 ところで「推古」の時代がいつまで続いたかですが、『伊豫三島縁起』を見ると、冒頭に各代の「異族来襲」を撃退した話やそれに関連する事績などが書かれていますが、「舒明」「皇極」のところだけ「飛んで」います。つまり「舒明」「皇極」の前後を見ると以下のように記事が並びます。

「三十三代崇峻天王位。此代従百済國仏舎利渡。此代端正元暦。配厳島奉崇。面足尊依有契約。同奉崇彼島。毘沙門天王顕彼嶋秘書也。三十四代推古天王位同二暦《庚戌》。三島迫戸浦雨降。此〔石+切〕〔号+虎〕横殿。于今社壇在之。〔車+専〕願元年《辛丑》。従異國渡同亡。三十七代孝徳天王位。…」(代数が書いているのは『書紀』などの影響によると思われる)

 ここでは「辛丑」とされる「〔車+専〕願元年」記事が「推古」の条に書かれているように見えるのがわかります。これは西暦で言うと「六四一年」のはずですから、「舒明」の末年であり、また「皇極」の初年でもあります。しかしあたかも彼らはいなかったかの如く「推古」の代の記事として書かれているように見えるわけであり、「推古」からいきなり「孝徳」へとつながるように見えます。

 さらに有力豪族である「大伴」「物部」の系譜には「舒明」「皇極」(斉明)に「仕えた」という記事が見当たらないとされます。(※)
『先代旧事本紀』の天孫本紀には物部系譜があり、そこには「天皇」との関係が書かれていますが、それを見てみると「舒明」と「皇極」(およぞ「斉明」)に仕えた人がいないことに気がつきます。(全ての天皇の代でここだけにみられる現象です)
 つまり物部氏は「舒明」「皇極」「斉明」の朝廷には出仕していないこととならざるを得なくなるわけですが、そもそもそのような「王権」が存在していたのかということが問題となりそうです。つまりこれらのことから「天智」の即位の時点を「七世紀」の半ばとすると遅すぎると思われるのです。推古がそのまま存命していたとすると七世紀半ばには九十歳から百歳近くなり現実的ではないと思われるからです。そのことから『推古紀』の後に入る『舒明紀』と『皇極紀』がいわば「挿入」されたものであり、実際の歴史ではなかったという可能性が考えられるでしょう。つまり「天智」の即位の時期としては実際には「七世紀初頭」が想定できるものであり、そのような行動の要因となったものは「宣諭事件」ではなかったかと思われるわけです。

 すでに述べたように「倭国」は「隋」の皇帝(高祖)に対して「天子」を自称するという外交上のミスを犯し、その結果「隋」から「敵対国」のレッテルを貼られ「宣諭」されると共に「琉球」を侵攻されるという軍事的威嚇を受けました。これは「倭国王」が謝罪することにより不問に付されたと見られますが、この事件の後「倭国」内ではかなりの波紋が広がったものと推量されます。
 「大国」であり、そのゆえに友好を求めていたはずの「隋」からいわば「危険思想」の持ち主として「宣諭」されてしまったわけです。「倭国」としては不承不承この「宣諭」を受け入れ、謝罪することとなったものと推量されますが、そのような屈辱的な事態に立ち至ったとすると、その責任を問う声が上がったとして不思議はありません。
 「天子」を自称した「国書」を執筆した当の本人(これは王の側近の学者と思われます)はもちろん、それを承認した「倭国王」自体の責任を問う情勢もあったのではないでしょうか。当時は「倭国王」はその弟王と共に統治とを行っていたものと思われ、共に責任を問われたという可能性もあるでしょう。その結果彼等は揃ってその「責任」を取り「退位」したということも考えられますが、その場合その後当然のように後継争いが起きたものと見られます。
 このような事情で退位したとすると、その後継者については正常な皇位継承が実現されたとは考えられませんから、「倭国王」の「皇子」や「兄弟」ではない誰かが実権を掌握したと言うことがあり得るでしょう。「序文」を見る限りそれには「武力」が主役であったものであり、その場合彼は国内の軍事・警察力とそれ以前から関係が深かったという可能性が高いでしょう。そうでなければ「クーデター」は成功しませんし「革命」などできなかったでしょう。(今でもクーデターが起きた場合その主役はたいてい軍人です)
 彼らは当然それ以前から隠然と反対勢力を形成していたものと思われます。そしてこの「隋」による「宣諭」という事態を好機ととらえ反乱を起こすことに成功したものではなかったでしょうか。(その意味で何らかの形で「東国」の勢力と関係があったと見る事もできるでしょう。「東国」はこの時点付近で新たに勢力に入れられた地域と思われ、東国の権力者達はそれを嬉々として受け入れたものではなかっただろうと思われるからです。)
 その彼が『古事記』を書かせたとすると、その『古事記』に「推古」までしか書かれていないとして不思議ではないこととなります。なぜならそこで革命が起きたものであり、それ以前の王権とは隔絶している可能性が高いからです。


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2018/01/03)(ホームページ記載記事を転記)


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