古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭国の「楽」と「五弦琴」

2014年10月06日 | 古代史
 以前に書いた『「遣隋使」と「遣唐使」』の中で「倭国」の楽と「隋」の「楽」の関係について触れましたが、「隋書俀国伝」では「倭国」の「楽」として「五弦琴」があると書かれています。

(隋書/列傳第四十六/東夷/倭國 )「…樂有五弦琴笛…」

 ここに書かれた「五弦」が「五弦の琴」を指すものなのか「(五弦の)琵琶」なのかについてやや議論があります。この「五弦」を「琵琶」とすると「琴」の弦数については言及していないこととなりますから、当時の「隋」と同じく「七弦」であったと考えられる事となりますが、遺跡からは「七弦琴」が確認されないため、この「五弦」を「五弦琴」とつなげて理解して「五弦の琴」という意味と理解することもまた可能かと思われます。
 そのような理解に正当性があると思えるのは、同じ「隋書」内の「南蛮」の国々に対して「五絃」と「琵琶」が書き分けられている例があるからです。

(隋書/列傳第四十七/南蠻/林邑)「…樂有琴笛琵琶五絃,頗與中國同。…」
(隋書/列傳第四十八/西域/康國)「…有大小鼓琵琶五絃箜篌笛。…」

 これらの例では「琴」とは別に「琵琶」と「五絃」が存在していることが明らかであり、「五絃」という表現が「琵琶」を示すものではないと考えられることとなります。つまり「倭国」を含むこれらの国々には「五絃」と称される「琵琶」とも「琴」(七弦琴)とも異なる楽器が存在していたことを示すものであり、最も考えられるのは古代に「帝舜」が奏していたという「五絃の琴」ではなかったかというものです。

 「礼記」などに「帝舜」と「五弦琴」についての逸話が書かれています。

「礼記」「楽記」「…昔者舜作五弦之琴以歌南風,夔始制樂以賞諸侯。故天子之為樂也,以賞諸侯之有者也。…」

 このエピソードは「隋・唐代」においても著名であり、このことから「五弦」といえば「帝舜の五弦琴」というように連想されていたものと思われます。
 またこの「五弦琴」については「帝舜」の歌が「南風」を歌ったものと言う事もあり、特に中国南方地域に強く遺存していたようです。「北宋時代」に編纂された「太平御覧」の「州郡部」に引用されている「湘中記」の中でも「江南道潭州」(現在の長沙市付近か)では「帝舜」の「遺風」があるとされ、「古老は五弦琴を弾ずる」とされています。

(「太平御覧」州郡部十七「江南道下」「潭州」)「《湘中記》曰:其地有舜之遺風,人多純樸,今故老猶彈五弦琴,好爲《漁父吟》。」

 このように「南方地域」で「五弦琴」が見られるわけですが、それは「隋書」の「林邑伝」において、習俗として「文身断髪」とされるなどその記述が南方的であることと、そこに「五弦」と書かれている事とがつながっているように思われ、この「五弦」が「帝舜」の「南風」に影響された「五弦琴」であることを推察させるものです。
 また、「林邑伝」に描かれた習俗は「倭国伝」にも近似しており、そのことは同様に「服装」などが南方的と思われる「倭国」における「五弦」も「帝舜」の「五弦琴」と関係があると考える余地がありそうです。
 他の史料においても「五弦」とある場合ほぼ全て「五弦琴」を指すことが確かめられ、それに対し「五弦」の「琵琶」の場合は明確に「五弦琵琶」と書かれる場合が多いという実態が確認されます。

 また「林邑伝」で「楽器」を列挙した後に「頗與中國同」と書かれているのは、その先頭に「琴」が置かれていることと関係しているでしょう。つまりこの「琴」は「七弦琴」であり、それも含めて「楽器」は(「五弦」の存在を除けば)「隋」によく似た構成であると言う事ではないでしょうか。そうであれば「倭国」や「高麗」が「五弦」「琴」と始まってなおかつ「隋」と同じとは書かれていない事もまた重要であると思われ、ここには「七弦琴」が存在していないことを示すものと考えられるものです。
 これに関して「源氏物語」の主人公である「光源氏」が「七弦琴」を得意としていたという記述もそれなりに重要であると思われます。なぜなら「光源氏」は「聖徳太子」がモデルという説があるからです。
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