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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「黥面」の刑罰化について(3)

2014年10月05日 | 古代史
 「伊都国」はその支配領域が「海」に近接した領域であり、また「邪馬壹国」と関係の深い「クニ」でもあり、「形骸化」はしているものの「倭人伝」で諸国の中では唯一「王」の存在が書かれている「クニ」でもあります。
 「倭国」において指導的「権威」を長く保持し続けてきた「伊都国」が海に深く関係しているとすれば、「黥面」という倭国の一般的風習の形成に「伊都国」が関係していたという可能性も大きいのではないでしょうか。
 「魏志」の「韓伝」においても(「弁辰」の項)『「倭」と接しているところでは「文身」している』とされています。(「男女近倭,亦文身。」)
 「韓」から近い「倭」とは「対海国」や「一大国」「末廬国」あるいは「伊都国」などを指すと思われますから、この地域と「文身」という習慣が密接な関係があるのは確かと思われます。(但し「韓伝」では「黥面」については書かれていませんから、「黥面」は「倭人」独自の習慣であったものでしょうか。)
 しかし、その「伊都国」は「倭人伝」でも「一大率」が「伊都国王」を差し置いて「刺史」の如く統治権を行使しているように書かれており、既にかなりその権威が低下している風情がみられ、これがその後さらに進行し、推測によれば「博多湾」に面した「大津城」が「伊都国」の支配下から「奴国」に編入されるという事案が発生したとみられる時点以降、「伊都国」そのものがいわば消滅したものではないかと推量され、このような政治的変化が(あるいは闘争を伴って)起きて以来、「伊都国」を象徴するものとして存在していた「黥面」が、その「伊都国」という権威の否定と共に「刑罰」化したものではないでしょうか。(倭人伝時点で既に「戸数」も少なくなっており、実力はほぼなかったと思われますから、伝統とそれに基づく権威だけで存在していたと見られ、その意味でも消えゆく運命であったともいえるものです。)
 またそれは「海人族」一般の没落をも意味していると思われ、その後の「倭の五王」などの時代には「海人族」は傍流という立場とされていたのではないでしょうか。このことは相対的により内陸にあった勢力が伸張したことを示唆するものであり、「筑紫」から「筑後」そして「肥後」というように「玄界灘」から奥まった地域に倭国の権力中心が移動したことを暗示するようです。
 そして以後この「黥面」は「罪」を犯して「」となった人々以外にも「東国」など「被征服民」とされた人々など「部民」とされた人々に対しても同様に施されたものであり、これが「刑罰」としても停止されるのは「六世紀末」の「阿毎多利思北孤」の改革まで待たなければならなかったものです。
 「隋書俀国伝」によれば刑罰としては「其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重或流或杖」という記載があり、これによると「黥刑」(墨刑)がありません。「丈刑」(棒で叩く)「流刑」(遠隔地へ追いやられる)「没刑」(奴刑)「死刑」などがあり、これは後の「笞丈徒流死」にかなり近いものであり、かなり近代化されていることがわかります。これは「黥刑」を含む「古代的刑罰」から一歩進んだものであり、これは「倭の五王」以降の段階を示すものであると同時に「遣隋使」などの積極的な外交政策を推進しようとしていた「阿毎多利思北孤」の時代付近で確立されたものではなかったかと推定できるものです。その意味でも「黥面」が「點面」になってしかも「ファッシヨン」となっていたらしいことは注目されるものです。「女性もしている」という中にそれが「化粧」としての扱いを受けていたらしいことが窺えるものです。

 このように「伊都国」について衰えゆくものと考えられるのは、逆に「伊都国」が「伝統」と「権威」を長く保ってきたとみられることの裏返しであると思われます。
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