古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭国への仏教伝来について(十)

2015年02月16日 | 古代史
 『書紀』の日付記事を分析すると「推古」の前代まではその日付に「偏り」があったことが明らかとなっています。(貝田禎造氏の研究(※)による)
 彼の研究は余り日の目を見ませんが、その内容は重要な意味を含んでいると思われます。その研究を改めてなぞってみると、『書紀』の日付入り記事の分析から、「崇峻紀」を含んでそれ以前においては「月」の前半(十五日以前)の記事しか現れないのに対して、「推古紀」以降は後半(十六日から三十日)の日付も現れ、元となった暦には明らかな違いがあるとされています。つまり「推古」とそれに続く「舒明」「皇極」などは月の後半の日付も確かにある程度存在し、それは明らかに「太陰暦」に基づいて記事が書かれていることを示しますが、それ以前は「太陰暦」ではない「暦」に基づいて書かれた可能性が高いとされます。(但しいくつか例外となる「代」は存在するようです)
 彼も既に検討したようにこの「偏り」には「暦」の違い以外の理由が見いだせません。彼はそうはいっていませんが、これは古田氏のいわゆる「二倍年歴」に相当するものではないかと推量されます。しかし、「崇峻紀」の終わりまで「二倍年暦」が継続していたとすると、「矛盾」が発生することとなるのは必定です。
 普通に考えても「遣隋使」を派遣するような段階まで「太陰暦」が国内になかったとは信じられず、明らかに不審であることとなるでしょう。
 『隋書俀国伝』の中にも「毎至正月一日必射戲飲酒」という文章があり、「太陰暦」の使用が明確です。
 また、「年号」と「干支」が「太陰暦」と関係があることは言うまでもないものと思われ、そうであれば「年代歴」の「干支」についての理解がもし仮に「通常」のものとしても「六世紀前半」という「太陰暦」と「六世紀後半」の「二倍年暦」の終焉とは全く時期として整合しないといえることとなります。(もちろん「六十年遡上」した場合であればなおのことですが。)ここに年代のずれが生じることは避けられないと思われます。

 ところで、すでに見たように「古賀氏」及び「中小路氏」の研究により「仏教」の初伝は「五世紀初め」(四一八年か)と考えられる事となり、そのことについて言及している「百済僧」「觀勤」の上表も実際には「六世紀初頭」のことと推定されることとなりました。つまり、実年代として「百二十年」程度遡上して考える必要があるということとなったわけです。
 このことは「日付」の分析からの帰結として得られた「二倍年暦」終焉の時期として「崇峻紀」と「推古紀」の間に存在している境界線についても同様に「遡上」する可能性を示すものと思われます。
 上に見たようにこの境界線の存在が「有意」であるとすれば、倭国の「暦」の使用実態とは整合しないのは確かであろうと思われ、いずれかの年数遡上する必要があると考えられる訳です。その意味でもしこれが「百二十年」程度遡上したとすると、時期としては「四七〇年」付近のこととなります。これはすでに考察した「結縄刻木」が止められたという「明要年間」におよそ該当するものです。
 「二中歴」によれば「明要」年間に「結縄刻木」が止められたとされています。

「明要 十一 元辛酉 文書始出来結縄刻木止了」

 ここに書かれた「辛酉」は「干支一巡」(六十年)遡上して「四八〇年」付近のことと考えられることとなったことはすでに述べました。それに対して「二倍年暦」終了と推測される時点は(百二十年の遡上を含んで考えると)「四七〇年」付近となりますから、ほぼ重なっていると言えるでしょう。
 このことは「二倍年暦」と「結縄刻木」には密接な関係があるという考えからも推察できます。つまり「結縄」が数字あるいは日付を表すとした場合、その日付とは「古暦」つまり「二倍年暦」ではなかったかと考えられる訳です。
 「年号」と「干支」が使用されるようになった時点では確実に「太陰暦」(元嘉暦)が導入されたと考えられる訳ですが、当然それ以前は「古暦」の時代であり、それは「二倍年歴」と見られるわけですから、それ以前に行われていた「結縄」は「二倍年暦」を表記するものであったと考えざるを得ないものです。


(※)貝田禎三『古代天皇長寿の謎』(六興出版)
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