古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭国への仏教伝来について(十一)

2015年02月16日 | 古代史
 すでに見たように「推古期」以降「二倍年暦」ではなくなると思われることとなりました。これは「觀勤」の上表文の解析からの帰結として、彼の上表そのものや僧尼の戸籍作成及び「欽明紀」の仏教伝来記事などが一斉に「一二〇年」遡上すると推定されることと深く関係したことであり、「崇峻紀」以前の全体として「一二〇年」遡上するという可能性が考えられることとなったわけです。このことは別の点からも推定できると思われます。それを示すのが「武」の上表文にある「父と兄が同時に亡くなった」という記事内容です。

「…臣亡考濟、實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大擧、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣…」(「武」の上表文より)

 「宋書」の記事から「讃」の死去後「興」が即位したのが少なくとも「世祖大明六年」であり、またその死去は遅くとも「順帝昇明二年」であることとなると思われますから、結局「四六二年」から「四七八年」までの間のどこかで「興は」は死去したこととなりますが、いずれにしても「同時」と言うことはなかったと思われるものの「奄喪」という言葉が示すように「相次いで」というような状況はあったと思われます。さらにこの「奄(とも)に」という語の中には、その「死因」も同様であったと言うことが表されているのではないかとも考えられ、このように「父」と「兄」がほぼ同時期に同じような死因で亡くなったと見られることとなるわけですが、それはどのような事態が考えられるでしょう。
 当然「事故」もあり得ますし、「済」の場合は(年令が分からないため)単なる老衰というようなこともあり得るでしょうが、私見によればもっとも考えられるのは「病気」であり「伝染病」の可能性です。
 これについては、もし「推古紀」やそれ以前の「崇峻紀」「用明紀」などが移動するなら、その場合「武」と推定される「推古」の「父」と「兄」であるところの「欽明」と「敏達」「用明」の死去した際の状況との比較が気になります。
 「書紀」によれば「兄」である「用明」は「三年」という短い期間の在位の後死去しています。その彼は「瘡」つまり「天然痘」で亡くなったとされます。その前代の敏達も「同母兄」ですが、これは二十三年間の在位期間があるものの、その死はやはり「天然痘」によるものであったと推定されています。さらに「敏達紀」と「欽明紀」は「疫病」の発生という点で良く似ているといえます。「天然痘」による国内がパニックに陥った状況は「敏達紀」に詳しいのですが、「二中歴」の「年代歴」の「金光」年号はその元年が「庚寅年」とされていますから、これは「欽明紀」に相当するものであり、その「金光」という年号について既に見たように「請観音経」という「経典」の中にその原点があると見られることと、その「請観音経」が「天然痘」のような強力な病気に対する救済としての「経典」として尊崇されていたと言うことを考えると、「欽明紀」の状況は「敏達紀」の内容にますます近似することとなります。(筑紫の「元岡古墳」から出土した「四寅剣」も「庚寅年」に作られたとされ、その由来から考えても「天下熱病」という事態に対応するためのものという理解が可能ですから、ますます「欽明紀」にこそ「天然痘」の流行があったと考えなければならないこととなります。)
 また「敏達紀」と「欽明紀」はその仏教受容に関する経緯も甚だ似通っており、登場人物も「蘇我」「物部」「中臣」など父から子へとその問題解決が先送りされたらしいことが書かれているものの、普通に考えてこの両天皇紀の近似は不審であり、「同一記事」の重複という考え方も一部ではされています。
 そう考えると、上記のようにそれらの記事が「一二〇年」遡上するとした場合、「武」の上表文にいうような「父」や「兄」が時をおかず亡くなったという事実は「敏達」「用明」などの死去と重なるものであることとなり、それは「天然痘」によるものであったということになると思われます。
 後の「藤原四兄弟」の例を待つまでもなく、「天然痘」のような強力な伝染力を持った病気は近親者に発病者が続いて出る例が珍しくなく、その意味で不自然ではありません。

 同様の例と思われるのが「法隆寺」釈迦三尊像の光背に書かれた「上宮法皇」とその「母」(鬼前大后)と「妻」(干食王后)という三者同時期の死去と言う記事です。これもまた強力な伝染病(「天然痘」によるものか)によるものではなかったかと考えられるものです。それは彼らが「伝染病」などの治療に関係した事業を行っていたと考えられるからです。
 現在「四天王寺」の別院として「勝鬘院」があります。この「寺院」は元々「四天王寺」の「施薬院」として開かれたという伝承があります。この「四天王寺」は「聖徳太子」の手になる創建が伝えられていますが、この「別院」である「施薬院」についても同様に「聖徳太子」に関わるものとされ、ここでは、「薬草」の栽培から、「調剤」そして「投与」という段階まで行なっていたとされるなど、「貧窮」し、「病」に倒れた民衆の救済にあたっていたとされています。(『四天王寺縁起』による)
 この「施薬院」を初めとする「四箇院」は「上宮法皇」の「母」(鬼前大后)など彼の親類縁者の「女性」達により営まれた、当時としては画期的な「福祉施設」であったものと推測されます。そのような施設を運営していた彼らがほぼ同時に亡くなったとされているのは何らかの「感染症」によるという可能性もあり、それがこの「施薬院」等における「看護活動」の際に、患者から何らかの「病気」に「感染」した結果という可能性もあると思われます。
 同時期に家族などの近親者が病に倒れ、死に至るというからにはそのような「感染症」や「伝染病」を考える必要がありますから、「四箇院」の存在はその感染ルートとして考慮の対象とすべきものと思われます。
 その際最も可能性が考えられるのは「天然痘」ではないでしょうか。「天然痘」は上にみるようにかなり早い段階から国内に流行があったとみられますが、その後も「筑紫」など半島と交渉のある地域から繰り返し「病原菌」が持ち込まれていたものと思われ、「上宮法皇」たち三人もそのような環境の中で「天然痘」患者の救済にあたっていたものと思われますが、患者から感染し死に至ったものではないかと推察されるものです。
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