古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「聖武」の詔報と年号使用について

2019年11月17日 | 古代史

 「公文」には「年号」を使用するべしというルールが「大宝」以前にはなかったと推察したわけですが、それと関係していると思えるのが「白鳳・朱雀」という年号について「聖武天皇」が「詔」の中で「年代玄遠」としていることです。

(神龜元年(七二四年))冬十月丁亥朔。治部省奏言。勘検京及諸國僧尼名籍。或入道元由。披陳不明。或名存綱帳。還落官籍。或形貌誌黶。既不相當。惣一千一百廿二人。准量格式。合給公驗。不知處分。伏聽天裁。詔報日。白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。尋問難明。亦所司記注。多有粗略。一定見名。仍給公驗。

 これを見ると担当官僚の奏上には「綱帳にはあるが、官籍にはない」という言い方がされています。その「官籍」については『書紀』(「天武紀」)に「寺院」が「国家」の管理下に入ったことを示す記事があります。

 「(天武)八年(六七九年)夏四月辛亥朔乙卯条」「詔曰。商量諸有食封寺所由。而可加加之。可除除之。是日。定諸寺名也。」

 ここに「寺封」記事があることさらに「寺名」を「定めた」という記事があることから、「諸寺」が「国家」の管理下に入ったを示します。「寺封」の額(量)は国家にとっての重要度などが重視されて決められると思われますが、一方抱えている「僧尼」の人数なども反映されていると思われ、そうであれば「僧尼」に対する「公験」もこの時点以降(国家により)行われるようになったと見るのが相当です。つまりこの時「僧尼」達も「国家」の管理下に入ったと見られるわけですが、すでにそれ以前に出家した人達は「綱帳」つまり「寺院」の側で保管していた記録に載っていただけで、「官籍」に載ってはいなかったこととなるでしょう。
 「綱帳」は営々と続く出家の記録であり、僧尼になることを奨励した時期のものと思われます。その後「官」による管理下に置かれるようになりますが、それ以前は「王権」から積極的に奨励されていたものです。その「綱帳」には年号付きで記録が残されていたものではないでしょうか。
 「綱帳」は「公文」ではなく、また「阿毎多利思北孤」以降「王権」と密接な関係があったものです。あるいは「仏教」関係の事案は「年号」付きで記録されていたのかもしれません。(『日本帝皇年代記』なども「仏教」関係者の記録と思われますが、「倭国年号」で紀年されています。)
 但しこの段階では「倭国王権」の元であり、いずれにしろ「聖武」の王権(そこに至る王権)には手の出せない範囲のことであったものです。(これは「白鳳」年間のこととなります)
 しかしこのような国家により「公験」を授ける行為は六八四年に発生した「白鳳地震」により停止せざるを得なくなったものと推量します。
  「白鳳地震」では特に「近畿」地方に多大な被害を生じさせたものであり、寺社の類で倒壊したものなど人命・財産に強い影響があったものです。当然「浮浪者」なども多く発生したものと思われますが、このような段階で「僧尼」になって「負債」を免れようとするものが急増したものではないでしょうか。しかし国家の側はそれらに対して「公験」を授与するなどの行使を行わなかった(行えなかった)ものであり、これ以降「僧尼」と「寺社」に対する管理・監督が曖昧となってしまったものと推察されます。
 この状態はかなり継続したものであり(そもそもこの地震被害が「倭国王権」から「新日本国王権」へと権力が移動する契機、というより少なくとも理由のひとつとなったとも考えられます)、「倭国」から「新日本国」へと「王権」の移動があった際に「僧尼」に対する許認可権も「新王朝側」へ移動したと見られるものの、「新王権」にもまだそれを執り行う能力がその段階では不足していたものであり、それが整ったのが「聖武」の時代になってからのことではなかったでしょうか。それを示すのが「公験」を授けるという記事です。

「(和銅)四年(七二〇年)春正月甲寅朔。…丁巳。始授僧尼公驗。」

 これを見ると明らかに「始めて」という文言が使用されており、「公験を授ける」という権利の行使がここで始めて『新日本王権』により実行されるということになったことを示します。逆に言うとこの時点では「僧尼」に対する「公験」授与の根拠は「綱帳」側にだけ依存していたこととなります。ところがそのような「僧尼」の中に「白鳳以来」「朱雀以前」、つまり「白鳳」という年号を施行可能な「権威」つまり「前王朝」による管理下で「公験」を受けていた僧尼達の申し立てが含まれていたものであり、これをそのまま認めるのか、否定するのかが問われたと思われる訳ですが、そのとき「治部省」の役人はこの件をわざわざ天皇にまで裁可を仰ぐこととしたものです。その理由は「白鳳」「朱雀」という年号が出たからだと思われます。このような「前王朝」が関係している案件は最重要なものであり、一介の官僚が決定できる性質のものではなかったものでしょう。そして「聖武」はこの件について「白鳳」「朱雀」という「前王朝」に関する決定を回避し、一旦「リセット」する形で問題の解決を図ろうとしたものと思われます。そのようなものをそのまま全て「認める」としても「認めない」としてもこの段階で以前国内に相当数いたであろう前王朝の関係者及び傾倒者に何らかの「シグナル」を送ることにつながりかねず、不安定要因を増大させることとなってしまう危惧を抱いたからであろうと思われます。  そしてこの段階でそのような不安定要因は「九州」の内部に残存していたものであり、それはこの三年後の七二七年になってやっと「九州地方」の「庚午年籍」が「聖武」側に渡ったということからも推察できるものです。  この「戸籍」が「聖武」の側の手に入ったことでいわば「最後」の砦が落ちたわけであり、それ以前の段階ではまだクリチカルな政治状況があったというべきでしょう。「白鳳」「朱雀」という「年号」を「玄遠」として処理した「詔報」はそれを示すものと思われるものです。

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「年号」の不存在と「暦」

2019年11月17日 | 古代史

 『令集解』「公式令」の「儀制令」には「公文」には「日付」を記すようにという規定があり、またその「年」の表記には「年号」を使用するように、という決まりが書かれています。これに対する注釈の中の問答(「穴記」による)では「庚午年籍」という表記はいかなる「法」に拠ったか、つまり「年号」ではなく「干支」で表記しているのはなぜかという問いかけに対し、まだ「年号」を使用するようにという決まりができていなかったからと答えています。この問答は明らかに「年号」の存在を前提としていると思われ、「年号」はあったが単に決まりがなかったからと理解せざるを得ません。(この「公文条」は「年号」を日付として採用するようにということを「ルール」として決めたというのですから、「未制」とはこの「ルール」がまだなかったと理解するのが相当でしょう。)
 そもそも『書紀』を見ても「大化」「白雉」「朱鳥」など記録上も「年号」はあるわけですから、これが発掘などで「公文」(木簡あるいは墓碑などの金石文)に確認できないのは「ルール」がなかったからと見るより他理解しがたいのではないでしょうか。
 金石文では僅かに「年号」を紀年に使用した例が確認できるものの木簡では皆無です。明らかに「廃棄」されたと見られるような木簡にも「干支」表記しか確認できません。年号は書いたが削られたという形跡もまたほぼ確認できません。ただし古賀氏の考察にあるように干支の上部に空白らしきものが確認できるものもあり、そこに(「白雉」など)年号が書いてあったものが削られたのではないかという可能性も考えられそうですが、それも明確ではありません。
 そもそも全ての木簡から「年号」を削るという作業があったと想定するのはかなり困難でしょう。それこそ当時無数に作られていたと思われるからです。「年号」を削るようにという指示がもしあったとしても「それ以前」に廃棄されたものには「年号」が残ったままになっているはずです。そのようなものが「遺物」として発掘されていないのは、「倭国律令」の「公式令」には「公文条」がなかったのではないかという「疑い」に正当性を与えるものです。問題は「なぜ」そのような決まりが造られていなかったのかということでしょう。
 年号の本家である中国では公文や金石文には必ず「年号」が使用されており、「干支」表記だけというのは管見した範囲では見たことがありません。(私が知らないだけかもしれませんが)
 つまり倭国が手本としていた中国では年号は日付を表すのに使用されるのが一般的であり、金石文等においても多くの使用例が確認できます。既に失われてはいますが、「開皇律令」等の律令においても「公文」に対する「年号使用」が書かれていたと見るのが相当であり、「倭国」において「年」表記に「干支」を使用するのが継続していた理由が一見不明となりそうです。
 「年号」を制定する権利を有するのが唯一「王権」だけであり、「王権」の絶対性や至高性の表象として「年号」が機能していたということを踏まえると、「年号」の使用を強制しなかったあるいはそのような規定を作らなかったというのはかなり不審です。
 これについては推測するしかないわけですが、「年号」と「暦」が不可分のものであることを考えると、「暦」の作成あるいは計算という部分が影響したのではないでしょうか。そもそも「暦」の計算に慣れていなかった倭国王権では諸々の「符」や「解」さらには「墓碑」などの公文の日付の根拠としての「暦」が「干支」表記であったことが大きかったと思われます。
 当時「暦」は役所(陰陽寮)で作成するわけですが、暦計算において日付を「数字」として扱って計算することが求められていたことから役所では「干支」のまま使用していたという可能性があると思われます。たとえば「墓碑」に記された日付は「死去」を届け出た際に「役所」から示されたものと推測されますが(木簡の日付も同様の手続きによって役所からの情報で記入されたと見られる)、これは「陰陽寮」で作成された「暦」のコピーが末端の役所に頒布されていたものであり、そこで「年号」が使用されていなかったという事情に帰着するのではないでしょうか。つまりすでにその中で「年」の表記に「干支」で行われていたこととなりますが、それは「計算」の結果がそのまま表記されていたという可能性があるでしょう。
 「暦計算」においては「干支」のままの方が計算しやすく、「干支」を数字というか「番号」として扱うことで計算を行うわけですが、計算結果としての「日付」の表記にもそのまま「干支」が残ったということが考えられるでしょう。「年月日」という形で表記しようとすると「干支」と「年号」を相互に換算する必要がありますが、それが彼らの暦計算能力にとっては困難なものであったのではないでしょうか。
 あるいは「六四八年」以降「唐」と(「新羅」を通じ)国交を回復して以降は、「唐」で使用されていた「戊寅元暦」を採用した(せざるを得なくなった)と見られ、またそれ以降「唐」については「天子の国」として「準柵封」状態状態ではなかったかと思われますが(伊吉博徳が派遣された遣唐使の記録によれば「唐皇帝」を「天子」と称しています)、「年」についても「唐」の年号を採用すべきとしていたものではなかったかと推測されますが、問題はその「唐」の年号が(リアルタイムで)判らなかったのではないかと思われ、勢い「干支」のみの表記となったという可能性もあります。
 いずれにしても「年号」(倭国年号)を使用した「公文」が発見されないのは「造暦」との関連が強く考えられるところです。

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「律令」名称と年号

2019年11月17日 | 古代史

 中国では『泰始律令』を初めとして『開皇律令』『武徳律令』等「律令」の名称には「年号」が冠せられています。八世紀以降の日本国においても「大宝」「養老」というように「律令」の名称に「年号」が使用されている例があるのに対して(『延喜式』『弘仁格式』などもそれに準ずるものでしょう)、それ以前の『飛鳥浄御原律令』には(その存在が不確かな『近江令』でも)「年号」が使用されず「朝廷」の名称が使用されています。
 『続日本紀』では「大略以淨御原朝庭爲准正」と書かれていますが、これは「武徳律令」制定の際の「大略以開皇爲准正」の筆法を真似たものであり、その「開皇」とは「開皇律令」を指すものですから「浄御原朝廷」の所には本来「年号」+「律令」という形で律令名が書かれて然るべきこととなります。また「浄御原朝廷之制」という回りくどい言い方がされている記事もあります。これについても本来は「年号」(倭国年号)があり、またそれにより呼称されていたと推定でき、『書紀』『続日本紀』はそれを隠蔽していると見るべきでしょう。
 ところで『令集解』を見ると『大宝令』の注釈書はあるものの(「古記」がそう)、それ以前の『浄御原令』についての注釈書が存在していません。この点ですでにその『浄御原令』の公布者がだれであったのかが明らかといえると思われます。当然「新日本王権」ではないこととならざるを得ません。それはまた、この『令集解』において「年号とは?」という定義付けとも言うべき中に各説が挙げている「代表的年号」を見ても言えることです。
 「古記」が最も古い「説」ですが、「大宝」を代表的な年号として挙げており、また他のいずれの説の中でも『書紀』に現れる「大化」「白雉」「朱鳥」の年号は「例」として挙げられていません。これらが挙げられない理由も同様に「前王朝」に関わるものであって「自王朝」のものではないからというものと考えるのが自然です。ただしそれであれば「庚午年籍」が重要視されるのはやや不思議といえるでしょう。明らかに「庚午年籍」も「前代」のものであり、一見「自王朝」によるものではないと思えそうだからです。しかしその後の「天智」重視の政策から考えて、「庚午年籍」が俎上に上がっているのはそれが「天智」の治績とされているからと見るのが相当です。
 「天智」は新日本王権からは「皇祖」あるいは「先帝」とされている人物であり、「元明」からは特に「天智」を崇める姿勢が見えます。(「元明」は「天智」の娘ですから当然ではありますが)新日本王権は彼の王朝の末裔を自認していたともいえるでしょう。このことから「倭国」から「新日本国」へ移行する前に一旦「天智」による「日本国」があり、それが「倭国」へと回帰した後に「天智」の「日本国」の再興という形で「新日本国」へと移行したことが推察できます。

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