古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「かった」と「から」と- フェイクな情報について

2019年04月28日 | 言語・文法など

 トランプ大統領がよく「フェイクニュース」というものを問題としています。彼の場合は自分に不利益な情報を「フェイクニュース」としているわけでありそれ自体が「フェイク」といえそうですが、先日社内資料として某市役所の職員に対するトレーニングマニュアルを見る機会があり、そこにやはり「フェイク」といえそうなものがあるのに気づいたというか驚いた一件がありました。
 そこには「ダメな応対例」として注文や指示を受けた際の確認で「~でよろしかったでしょうか」という言い方がダメな例として書かれていたのです。理由は「過去形」は必要ないとのことでした。「現在形」で表現しなさいと言うことのようですが、これがネットにある根拠不明な記事ならともかく公的な立場である某市役所の職員教育の資料にあったことは驚きです。このような「フェイク」としかいいようがなく大した見識があるわけでもない人が深く考えたわけでもないものがネットに晒されていたものをさらによく吟味しないまま引用しているらしいことは明らかですが、それが「過去形」であるという判断が驚きであると同時にそこに「過去形」が使用されているのが「ダメ」という理由であるのもまた疑問と感じました。
 なぜ「過去形」が使用されていて「ダメ」なのかがまったくわかりません。その用語法がどの点で不適切なのかどのような誤解を与えるものなのかがちゃんと説明できる人はいないのではないでしょうか。というよりそもそも 「~でよろしかった」という表現を「過去形」と理解していることが疑問です。なぜなら「日本語」の文法には「過去形」というものは存在しないからです。(「現在形」も同様)
 意味内容が「過去形」様のものというのは当然あるわけですが、それらを表現する「文法型式」としては日本語に存在するのは「完了形」です。「過去形」というような文法型式は「英語」などにはありますが、「国文法」にはないのです。
 「過去形」というのは一般的に「その事象が過去にあったことを示す」ものであり、それが現在まで継続しているかについては触れていない、というよりたいていの場合は「切れて」いるものです。それに対し「完了形」は「その事象が過去にあったことを示す」と同時に、それが現在まで継続していることを示すのが一般的です。(特に「現在完了」という場合)典型的な例が「SPRING HAS COME」という文章です。これは英語における「現在完了形」です。この文章に対する「適訳」は「春が来た」ではないでしょうか。
 この例では「発話」時点でも「春」であり、とすれば「来た」は「過去形」ではないことは明確です。これはまさに「完了形」であり、「現在完了」としての英語表現に対する「訳」として不自然ではありません。つまり「よろしかった」も「過去形」ではなく「完了形」であると見るのが自然なわけです。
 指示を受けたあるいは注文を受けた状態が「発話」された時点でも継続していることは明らかですから「完了形」表現がまさに適合していると言えるわけです。そう考えれば「ダメな例」としてあげられていることがそもそも疑問であり、不適切と言えるでしょう。(また「現在形」と捉えられているのは「終止形」と呼称されるものです)
 ちなみに「終止形」ではなく「完了形」表現を好むのは東日本に多いようです。東北北海道で多く聞かれるのは「ありがとうございます」「おはようございます」の代わりに「ありがとうございました」「おはようございました」というような完了形表現です。また北海道では「今晩は」の代わりに「お晩です」が使用され、それが更に「お晩でした」となってしまいます。東京はかなりの東北北海道出身者がいるそうですから、自然と完了形表現をするものの割合が増えているのではないでしょうか。

 更に「から」という表現についても書かれていました。つまり「会計」の際に「一万円『から』お預かりします」が「ダメ表現」とされており、理由として「から」は必要ないというものであり「一万円お預かりします」が正解というものです。しかしこれもまた「フェイク」というべきであり、疑問というより驚くべきものです。これでは「預かった一万円」は全部返さなくてはならなくなるのではないでしょうか。
 「預かる」という表現はそもそも「一時的にこちらの管理となる」というだけであり、必要な理由がなくなれば「当方の管理からはずれる」こととなるわけですから、全て返さなければならなくなります。そう考えれば「から」は「釣り銭」の存在を前提した表現であり、「預かっている」のは「釣り銭」であって、品代だけを「頂く」こととなるということを端的に表現したものといえ、適切で簡潔な表現といえるものでしょう。(当然「一万円頂きます」も間違いというべきであり、これでは「釣り銭」さえも戻ってこないこととなります。)

 これらフェイクな情報が(他にもあります)公的史料にさえ登場しているということは、昨今いわれている「ネット」に対する過信という流れがあることを強く示すものと言えます。大多数の人達が自分で考えないで人の言ったこと、ネットに出ていたことを口真似しているだけの現状があることを示すようであり、論文等の「コピペ」とよく似た事象と思われる訳です。
 またそれは「九州王朝」論に対する反応にも同様の部分があるように思われます。かなりの人達が「Wikipedia」などに書かれたものなど考え抜かれた論というようなレベルのものではないものしか目にすることができないことがその無理解や誤解の一端があるように思います。その意味ではそのような人達が私たちの論を目にして、従来抱いていたかもしれない誤解などを払拭する良い機会となるよう内容を充実させなければならないと自戒する必要があるようです。

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