
想像もつかないような「ド田舎」で育った研究者が、日本では数多く活躍している。彼らはそこで何を感じながら過ごしていたのだろうか。ノーベル賞受賞者をはじめとする、天才たちの故郷を訪ねた。

【写真】「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由
たったひとりのライバル
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愛媛県・松山空港から続く高速道路を三島川之江インターで降りると、徐々に道沿いの緑が増えてくる。そのまま銅山川の流れに沿うように曲がりくねった山道を登ること約18km、かつて新宮村と呼ばれていた小さな集落が姿を見せる。
「この地域からは、スポーツ選手や芸能人も出ていません。そんな土地の、しかも旧新宮村なんてド田舎からノーベル賞受賞者が出たとは、未だに信じられません」(60代の男性住人)

10月5日、真鍋淑郎氏(90歳)がノーベル物理学賞を受賞し、日本列島は歓喜に包まれた。
地球物理学を専攻し、地球温暖化のメカニズムを解析する研究の基礎を作り上げた真鍋氏は、ここ新宮村(現・四国中央市新宮町)の出身だ。
現在は人口900人ほどだが、真鍋氏が生まれた頃は集落に約3000人が住んでいた。とはいえ、県内でも指折りの過疎地域だったことに変わりはない。
そんな土地からノーベル賞受賞者が生まれるとは、驚くべき快挙だ。だが、これは真鍋氏に限ったことではない。ノーベル賞受賞者をはじめとした「日本を代表する頭脳」は、生活の不便な「ド田舎」から誕生したケースが意外なほど多いのだ。
果たして、天才が生まれるド田舎とは、どのような土地なのか。
新宮村には築100年は経っているだろう日本家屋が十数戸集まる集落が点在するが、それ以外は、まったくと言っていいほど何もない。
畑作業をしていた男性(40代)も「旧新宮村にはコンビニも信号も、交差点すらない。ここは本当にド田舎なんですよ」と自嘲気味に語る。
集落の中でも一番の高台に、真鍋氏の生家はあった。生家の2軒隣に住む女性(80代)が1940年代の村の様子を教えてくれた。
「産業が農業しかなく、食べていくのもやっとの人たちが多かった村で、真鍋家は村一番の名家でした。淑郎さんのお祖父さんの代から『まなべ医院』という、集落で唯一の病院を営んでいたからです。お父さんもお医者さんでした。
淑郎さんは4人姉弟の末っ子で、お姉さんは徳島の医院に嫁がれた。上のお兄さんはお医者さん、下のお兄さんは税理士になられて、姉弟も皆さん優秀でした」
真鍋氏が通った小学校の同級生は37人。成績は当然真鍋氏がトップだったのかと思いきや、意外な事実が発覚した。
実は、真鍋氏のさらに上を行く秀才が存在したのだ。親類で、真鍋家本家の息子である正さん(享年62)である。
地元の熊野神社の宮司である田邊捷さんが語る。
「正さんが同級生の中では勉強も運動も一番だったんです。どれだけ勉強しても正さんに成績で勝てないので、淑郎さんのお母さんは悔しがり『もっと勉強しろ』とはっぱをかけていました」
正さんは小学校卒業後、少年航空兵となった後、真鍋氏と同じ伊予三島市(当時)にある三島高校へと進学する。
真鍋氏が東京大学理学部に進んだのに対し、正さんは中央大学を選ぶ。卒業後の'64年に中村製作所(現・バンダイナムコゲームス)へと就職した。
会社では介護器具の営業に携わり、社名が変わり、主力商品がゲームソフトとなってからは営業部長を務めていた。'90年から2年間はナムコ(当時)の社長に上り詰める。狭い田舎の、それも親族から傑出した人材が二人も生まれたのだ。
正さんの大姪である澄代さんが語る。
「大叔父は淑郎さんをとても意識していたようです。『淑郎は先生の言うことを聞いて覚えられるけど、俺はひたすら書かないと覚えられない。それが悔しかった』と話していました」
級友のうち中学へ進んだのはわずか2名という状況において、競い合うことのできるライバルがいるのは、淑郎少年にとっても幸運だった。
何もない村でも、そこには互角の才能を持った友がいた。そこで切磋琢磨した経験が、数十年の時を経て、ノーベル賞受賞につながったのだ。
さらに、後編の「ノーベル賞を受賞する日本人に、実は「田舎育ち」が多い「驚きの理由」」でも、青色発光ダイオードを発明した中村修二氏や、ノーベル化学賞を受賞した鈴木章氏らの頭脳を育んだ環境をお伝えする。
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