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ライバー刺殺・容疑者の”最後通告”〉被害者は“フィアンセ”とタワマンに暮らし、旅行も…「なら1万円でもいいから返して!」暴露配信もしていた高野容疑者(42)は事件4日前にもDMを送りスルーされていた

2025年03月14日 18時03分27秒 | 事件と事故

 

 

〈ライバー刺殺・容疑者の”最後通告”〉被害者は“フィアンセ”とタワマンに暮らし、旅行も…「なら1万円でもいいから返して!」暴露配信もしていた高野容疑者(42)は事件4日前にもDMを送りスルーされていた

配信

集英社オンライン

事件直前、SNSに『フィアンセ』と投稿

 

「好きになって騙された自分が悪かったんだけど…」
八方塞がりの状況に追い込まれた高野容疑者には、佐藤さんが居直っているように見えたのかもしれない。

「事件直前の3月7日にも『最上さんのやっていることすべてを暴露したいけど、それでは自分も不正したことになり、捕まるかもしれない』『死んじゃおうかな。でも(キミと)話せなくなるの嫌だからもう少し頑張る』とも言っていたのに……。

健さんは『何でこんな目にあわなきゃいけなかったんだろうな』『好きになって騙された自分が悪かったんだけど』と自分を責めているようでした」

1月31日に東京地裁立川支部で接触したきりだった佐藤さんや「元カレ」に対し、高野容疑者は事件の4日ほど前になって“最後通告”をしたようだ。

「健さんは最上さんとフィアンセが一緒に運営しているSNSのアカウントにDMを送ったんです。『お金を返してください。貸すために借りた消費者金融の借金でもうマイナスで生活ができません。どうにかして1万円だけでも返してくれませんか』って。でも、それも無視されたって言っていました。

ここ最近は『薬をけっこう飲んでしまって一日中寝ちゃってた』とも言っていたし、犯行直後の健さんの顔もSNSで見ましたが目に光がなくて…。事件の前日の夕方、健さんからLINEが来ていて、モンスターハンターで自分の“お気に入り”のキャラクターを送ってくれたんです。それが、健さんが送ってくれた最後のLINEでした…」

3月13日、高野容疑者は戸塚警察署から送検された。警察署をでる際、顔を隠すことなく無言で終始下を向いていた高野容疑者は今何をおもうのかー。

※「集英社オンライン」では、今回の記事についての情報を募集しています。下記のメールアドレスかX(旧Twitter)まで情報をお寄せください。

メールアドレス:

shueisha.online.news@gmail.com

X(旧Twitter)

@shuon_news 
 

 

 

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《人気ライバー“最上あい”(22)刺殺事件》「山手線1周ライブ配信を見て、被害者を発見」逮捕された男の“配信を悪用した凶行” 【東京・高田馬場】

2025年03月13日 22時16分45秒 | 事件と事故

 

《女性ライバー“最上あい”刺殺》「200万円を超える額を貸している」「消費者金融から借金した」高野健一容疑者(42)が供述する被害者・佐藤愛里さん(22)との“金銭トラブル”(NEWSポストセブン) - Yahoo!ニュース

 

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/ed43e569a0910fb396810b0a312d5d2bcf4c8fed

 

《人気ライバー“最上あい”(22)刺殺事件》「山手線1周ライブ配信を見て、被害者を発見」逮捕された男の“配信を悪用した凶行” 【東京・高田馬場】
3/12(水) 7:15配信

NEWSポストセブン
ライブ配信アプリ「ふわっち」のライバー・最上あいさんが刺傷され心肺停止となる事件が起きた(左・Xより)

 3月11日午前10時ごろ、東京・高田馬場に「助けて!」という若い女性の叫び声が響いた。女性は男に刺され、搬送先の病院で死亡が確認された。彼女は、「最上あい」という名義で活動する“配信者”で、事件が起きたのは、まさに動画配信の真っ最中だった──。

【写真】被害女性(22)は「最高ランク・プラチナプラス」の人気者 「血だらけの人が倒れていた」実際の事件現場

 警視庁によると、女性は首や頭部などを刺され意識不明の状態で救急搬送されたという。同庁は、現場にいた40代の男を殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。

「凶器となったのは、13センチほどのサバイバルナイフのようなものです。逮捕された男は、犯行に使用していないナイフも別に持っていました。配信しながらひとりで歩いていた被害女性の真横から突然襲いかかったとみられています」(全国紙社会部記者)

 被害女性は22歳で、ライブ配信アプリ「ふわっち」で2600人以上のフォロワーを抱える人気配信者だった。ファンの40代男性が証言する。

「最上さんは可愛くてトークも上手く、バーなどでリアルイベントも開催していました。いわゆる“ガチ恋”的なファンも多く抱えており、有料アイテムによる“投げ銭”も受け取っていました。

 人気なぶん、アンチもいたようです。以前、配信のためのアカウントを“転生(作り直し)”したのは、ファンやアンチをめぐる悩みがあったからかもしれません」

事件当時の女性の配信動画
 この日、被害女性は、「3.11 山手線徒歩1周」と題した企画を行う様子をリアルタイムで配信していた。サイコロの出た目に合わせて、“1駅ワープ”や“1駅戻る”といった行動を取りながら、山手線沿いを徒歩で1周することを目指す企画だ。

 前出のファンの男性は、事件当日も女性の動画を視聴していたという。

「事件当日のだいたい午前9時頃でしょうか。別の男性配信者と動画でコラボし、“負けたらデートする”というルールでゲームの対戦をしていました。勝利した最上さんは、『私、歩かなきゃいけないんで失礼します!』と笑顔で手を振り、コラボ動画を終えました。いつも通りの明るい様子だったので、直後に事件が起きてショックを受けています。

 事件発生の直後にも動画を視聴しましたが、マスクをつけた男性の顔が突然映り、コメント欄は〈どんな状況?〉〈こわいこわい〉と騒然としていました」

 捜査においても“動画”が鍵となっているようだ。前出の全国紙記者が語る。

 

「被害者は動画の生配信中だったとみて捜査が進められています。捜査関係者も、配信された動画に被疑者と被害者の両方が映っていたところを確認しているとしています。

 被疑者の男は北関東在住ですが、『事件前日、被害者が山手線1周企画をすると配信で見たので、当日の朝に上京して、ライブ配信を見て、被害者を発見して犯行に及んだ』と供述しているそうです。

 男は調べに対し、『(被害者に)金を貸していた』などとも話しています」

 スマホを通じ、ある意味で“衆人環視”の状況で行われた犯行。女性はなぜ凶刃に倒れることとなったのだろうか。

情報提供募集
「NEWSポストセブン」では、情報・タレコミを募集しています。情報提供フォームまたは、下記の「公式X」のDMまで情報をお寄せください。

・情報提供フォーム:https://www.news-postseven.com/information

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《女性ライバー“最上あい”刺殺》「200万円を超える額を貸している」「消費者金融から借金した」高野健一容疑者(42)が供述する被害者・佐藤愛里さん(22)との“金銭トラブル”(NEWSポストセブン) - Yahoo!ニュース

 

 

 

 

 

 

 

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《衝撃の現場目撃証言》「ギャーッ! 助けて!!」「男が女性をバンバン蹴っ飛ばしていた」“最上あい”名義の人気女性ライバー(22)を男が刺殺 東京・高田馬場

2025年03月13日 17時03分13秒 | 事件と事故

 

 

 

《衝撃の現場目撃証言》「ギャーッ! 助けて!!」「男が女性をバンバン蹴っ飛ばしていた」“最上あい”名義の人気女性ライバー(22)を男が刺殺 東京・高田馬場(NEWSポストセブン) - Yahoo!ニュース

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/c5fa966873b15e2aed5e684c7c045a8451aa98cf

 

《衝撃の現場目撃証言》「ギャーッ! 助けて!!」「男が女性をバンバン蹴っ飛ばしていた」“最上あい”名義の人気女性ライバー(22)を男が刺殺 東京・高田馬場
3/11(火) 15:41配信

NEWSポストセブン
ライブ配信アプリ「ふわっち」のライバー・最上あいさんが刺傷され心肺停止となる事件が起きた(左・Xより)

 3月11日午前10時ごろ、東京・高田馬場で、22歳の女性が男に刺される事件が発生した。女性は救急搬送され、病院で死亡が確認された。【前後編の後編。前編から読む】

【写真】2600人以上のフォロワーを抱える人気ライバーの被害女性 「ギャーッ! 助けて!!」叫び声が響いた実際の事件現場

 大手紙社会部記者が解説する。

「凶器となったのは13センチほどのサバイバルナイフのようなものです。そのほかに犯行に使用していないナイフも持っていた。男はひとりで歩いていた被害女性の真横から突然襲いかかったとみられています。

 警視庁によると、被害女性は首や頭部などを刺され意識不明の状態で救急搬送され、その後死亡が確認されました。同庁は現場にいた40代の男を殺人未遂容疑で現行犯逮捕しています」

 女性は、ライブ配信アプリ「ふわっち」にて「最上あい」という名義で活動する配信者で、同アプリでリアルタイム配信していたという。有料アイテムによる “投げ銭システム”で配信者が報酬を得ることも可能絵、女性は「ふわっち」で2600人以上のフォロワーを抱える人気ライバーだった。

 事件が起きたのは、JR高田馬場駅から南西に2~3分ほど歩いた場所。付近には語学教室などがあり、朝は通学路にもなっているエリアだが、それ以外の時間帯は比較的静かな場所だという。

 事件発生時、オフィスから現場を目撃した会社役員の男性はこう振り返る。

「普段通り、自分のデスクで仕事をしていたところ、午前10時前くらいに突然『ギャーッ! 助けて!!』という女性の悲鳴が聞こえました。時間にして20〜30秒くらいでした。最初は、子供が騒いでいるのかなと思いましたが、今になって思い返すと、聞いたことがないような必死な叫び声でした。

 その後、ブラインドを開けて外を見たら倒れている人の足が見えました。スウェットも見えました。刃物などは見えませんでしたが、女性を覗き込んでいる男性がいました。オートバイも近くにあり、落ち着いて見ている感じだったので、介助しようとしているのかと思いました。交通事故かな……とはじめは思ったのですが……。自分は来客が控えていたので、事件現場を見に行きはしませんでした。それから、5分、10分くらいして警察車両が来ました」(50代会社員男性)

 事件直後に現場を通りかかったというタクシー運転手も、衝撃の現場を目の当たりにしたようだ。

「刺したところは見ていませんが、男が動画を撮りながら血まみれで倒れている女性をバンバン蹴っ飛ばしていました。男は何も喋らず無言で、立ち尽くしていたのが怖かったですね。女性は抵抗するどころか動きがなく、亡くなってるんじゃないかと思いました。女性の手は、血まみれでした」

 警視庁によると、犯人の男は女性と「面識があった」と語っている。いったい、2人の間に何があったのだろうか──。

(了。前編読む)

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高田馬場の路上で20代女性刺され死亡、40代男を容疑で逮捕…動画配信中にいきなり襲ったか(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/1e010fbbb23dcd8c9d8ee0b4897638aca0a316bb

高田馬場の路上で20代女性刺され死亡、40代男を容疑で逮捕…動画配信中にいきなり襲ったか

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読売新聞オンライン

 

 

 

 

 

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被災されたご本人のブログから>東日本大震災から14年。「とても長かった道だったけど、もう10年なのか」という矛盾の心とは>被災されたブログ友のブログからです

2025年03月12日 23時03分30秒 | 事件と事故
 
 
Ameba blog のきんちゃんさんからの転載です。
ご本人の許可を得て、転載いたしました。
 
きんちゃんは、岩手県三陸地方の田野畑村の漁師さんです。
311では大きな被害にあわれた経験を震災10周年にまとめられた力作です。ぜひ、ご一読ください。
 
3/11/2020
 
【3.11東日本大震災から今日で10年。「とても長かった道だったけど、もう10年なのか」という矛盾した感想になる訳とは 直後は戦禍のような悲惨な現実に唖然とした➠残してくれたのは「自分の人生の価値」を上げた多くの友だち達が大きな財産です】
 
「3.11東日本大震災から今日で10年」です。「10年といえば一昔」と良くいわれています。もう、ほんとに一昔なのかなあ。
罹災した自分の思い、2011年3月11日からこれまでを振り返るとひとことで言えば「とても長かった道だったけど、もう10年なのか」という、矛盾した感想になってしまう。

 誰かに聴かれればそう答えるしかない。
これはきっと、自分の脳の中で、津波が来た時の衝撃が大きく、その時が鮮明に記憶の残っていて、それ以降の生活再建で大きな負債返済しなけばならないためにがむしゃらに働いて来たが、そっちの記憶が10年間であるから分散された記憶として残っているからかもしれません。
 
 
 
【震災前にまさか、自分の人生の中で津波で苦労するとは思っていなかったのです】

 子供の頃から、親や周囲の人から「津波の恐ろしさ」については、ズッと聞かされて育ちました。でも、何故か自分が生きてる間には、津波が来るとは思っていなかったのです。
 実際に、自分のお婆さんや叔父、叔母などが実際に津波でなくなっているのにです。私は小学生の頃から、昭和三陸地震の命日の3月3日を「津波記念日」として、毎年「津波非難訓練」をしてきていました。
 しかも、先人達は、高い台にいろいろな石碑を建てており「地震があったら、津波が来ると思え」とか「津波の時はこれより高いところに上がれ」などと刻印されているのです。
  このため、岩手県沿岸には海抜DL=8Mの津波防波堤があったのですが簡単の崩壊しました。
 
 
FNNニュース:
Tsunami surging to Kamaishi city office and surrounding area (Footage provided by viewer) The Japanese text is followed by an English translation. 岩手県釜石市を襲う津波の様子を捉えた映像。釜石市在住の山口貴廣氏が撮影。 地震から約40分後の午後3時25分ごろ、津波到達の知らせに騒然とする、釜石市役所(釜石市只越町3丁目)第二庁舎前の通り。避難を急ぐ人々に混じり、撮影者も、わずかに海抜の高い市役所の敷地内へ駆け上がり、カメラを南側遠方へ向ける。
 
 すでに、150メートルほど離れた県道4号線付近で、波しぶきと噴霧が立ちのぼっていた。激しい水流に押し込まれたがれきや自動車が、あっという間に道路を埋め尽くす。港側(画面左・東方向)からの水流は、いつのまにか市役所に近い、辻(つじ)という辻から次々と出て、見る見るうちに勢いを増し、内陸部(画面右・西方向)へ流れていく。 やがて、市役所のつい目前まで激流が押し寄せ、人々の「逃げろ!」という声が飛び交う。撮影者も、さらに一段高い、市役所第一庁舎の入り口付近(当時工事中)まで駆け上がり、ここで撮影を中断した...。ーー以下略ーー

私の住んでいる三陸沿岸は、津波常習地域です。約80年に1回のペースで大きな津波が襲来しています。

【「三陸津波」の主な津波は以下の通】
・1611年12月2日に発生した慶長三陸地震による津波(慶長三陸津波)
・1896年6月15日に発生した明治三陸地震による津波(明治三陸津波)
  (※岩手県にとってはこの津波が一番大きな津波です)
 
 
1933年3月3日に発生した昭和三陸地震による津波(昭和三陸津波)。
  この3つの津波の震源地はいずれも岩手県沖です。

そして、宮城県沖を震源とするM9の大地震で発生したのが10年前の
●2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による津波(東日本大震災、平成三陸津波)です。
 つまり、丁度、自分が生きてるタイミンの中で津波が来たわけです。
1933年3月3日に発生した昭和三陸津波から78年目で、今思えばいつ来てもおかしくない次期だったのです。

この3月6日に、ニュージーランドと三陸津波の法則を書きました
【「要注意」ニュージーランドのM8.1巨大地震➠「NZと日本の法則」いつどこで起きてもおかしく日本】
過去の決まって、ニュージーランドの地震があれば、その後必ず日本でも大きな地震や津波が襲来しています。
この前、ニュージーランドで大きな地震がありました。だから、周期は関係なく、これで終わりという保証はなにもありません。
地震や津波は太平洋沿岸ならいつおきてもおかしくないのです。


  
【津波が来た直後。私は戦争は知りませんが、「戦禍のごとく」と表現しました】

 瓦礫で、道も何もなくどうにか1本道ができて、デジカメを持ってできるところまで写真撮影してきました。 

 実際に、ネット上ではとても悲惨過ぎて公開できない写真が沢山あります。もう、首とか足とか腕とかないご遺体が瓦礫と一緒にありました。警察や自衛隊が入って来ていて、「遺体にはさわるな!」でしたので、親戚や知人であっても、そもままにしておくしかありませんでした。

 ところが、夜になると黒い服の連中現れて、遺体の指や腕を切断して、貴金属を盗む、非常に悍ましい連中も現れました。

 また、鉄骨など業者を装おって切断して盗む連中もいました。 
マスコミは報道をほとんどしていないでしょうが、実際にそういうことがあったのです。火事場泥棒ではなく、津波泥棒です。
 
 
【辛かった、友人の遺体探しと、記憶に残るあの遺体仮置場の匂い】
 友人の一人が行方不明となり、隣町まで探しに行きましたがあの広い体育館での、おびただしいご遺体の数で無造作に棺桶ではなく、ブルーシートにくるまれあったのです。
 遺体と対面した、その遺族の泣き叫ぶ声やそれを諌める声。そこから離れようとしない姿がありました。
 そして、線香を炊いてるために、遺体の匂いが混ざり独特な匂いがありました。 今でもその匂いが完璧に記憶に残っていて、たまにフラッシュバック(記憶の再現)する時があります。
 
 
 
 
【とにかく午前中はこれまでの日常と何も変わらぬ光景は、一瞬にして戦禍のようになったのです】

 3月としては、とても寒い日で雪がちらつき、3センチ程度は積もっていました。無残な光景をまるで隠すかのような雪だったとおもいます。
 みんなが、ただただ呆然として、あの時は不安とか先の事は考えなかったのです。 頭真っ白ってかんじですかね。

 頭の中ではそういう、衝撃が大きく、その時が鮮明に記憶の残っていて、つい先日のように感じます。だから、短く感じるのでしょう。


【先の不安感はそのあとで、「自分たちはがどうやって生きていくのか?」方向を決めるかたに大きな決断が沢山ありました】

 そういう「ショックはさておき」、前を見なけばと思ったのはいつだったのか?記憶がないですが、とにかく生きていてどうやって生きていくか? 
 大きな「不安のストレス」は半端ではなかったと記憶していますが、どうやって方向性を見出して、決断したのか定かではありません。
 おそらく、外の被災者も同じような感じではなかったのかなあ。と思います。 

 自分の場合、幸い家族は無事非難し家も大規模半壊で二階で当面は生活しました。
  自宅を失った人は避難所や親戚などの家に行きました。
 
 
「千年に一度の大きな災害」と言ってる割には、被災者への「国の支援策」などはなかなか決まらずでした。

この原因は前投稿したように野党自民党が民主党の足を引張り、政権復帰だけを優先させた国会戦略を立てていたからだったのです。
避難所でテレビを見ていて、被災者はみんな怒ったのです。
 

3ヶ月めの頃で、被災地では身元不明の遺体を土葬していた頃ですーー。
2011-06-10

【「被災地の生の声」ー非人道的な野党自民党国会議員のみなさんへ。復興関係の予算、法案に全て反対。果ては審議拒否、内閣不信任案まで、今そんなことをやってる場合か!】
 
 

(内容は割愛しますが、見出しの通りです。詳細はリンク先をご覧ください
 
【最高にありがたく嬉しかった。世界や全国の国民も方々の「思いやりの愛情ある心」いつしか「頑張れ東北」が「頑張れ日本」になり「絆」という言葉】
 もう、直後からアメリカは「トモダチ作戦」で米軍が遺体捜査したり、瓦礫撤去をしました。
 
 そして、全国から警察官も集まり、遺体安置と身元調査を邁進しました。
一番早かったのは自衛隊です。自衛隊は、不明者捜索をして、遺体収容から被災者への炊き出し、風呂などやってくれました。あの時はまるで、ヒーローに思い感激感謝し、とても頼もしかったことを鮮明に覚えています。
 
 
 それと同時に、全国の国民の方々から支援物資が早く届きしました。世界からもです。ほんとに、政治はダメなのに国民は優しいと強く感じたことを覚えています。
 
 そして、多くのボランティアさんが入ってきました。もう、感謝感激でした。今でも、残っているボランティアはます。中には被災地に永住した人もいます。 今も地域を引っ張るリーダー的な存在になっています。
 

【わたしにとって、失ったものはあるけれど、それよりももっと大きな財産ができました。それは、震災を通じて知り合った友です】
 それは、みんな、いい人ばかりで今もその交流は続いています。
「災い転じて福となす」です。
 

 私は、人生においての価値は、「どういう人間と知り合って友なるのか」で決まると、震災前から思っていました。
 それを思うと、東日本大震災は人生でいろいろな経験もしたし、多くのっ素晴らしい友ができたことです。



これは、とてもありがたいことですし、心を寄せてくださった全ての人に感謝の言葉をいいたいです。
それは 「ありがとうございます!」です。
 
 
 
 
注>久しぶりに、きんちゃんブログをたずねると、
 
御病気でたいへんな状態のようです。
御平癒をお祈りするばかりです。
 
 
 
 
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のみ込まれた海辺の病院…入院患者40人、1人も助からず #東日本大震災>14年

2025年03月12日 21時03分43秒 | 事件と事故
3・7・2021
 
まさか3階には…
 
 リアス式海岸の小さな入り江にあった宮城県石巻市の市立雄勝病院は、2005年に同市と合併した旧雄勝町の住民が主な利用者だった。本館と新館がL字形につながり、1、2階は外来フロア。3階の病室からは、穏やかな雄勝湾が一望できた。 
 
【写真特集】患者40人が犠牲になった病院、何が起きていたのか 
 
 あの日、3階の病室には40人の入院患者がいた。医師や看護師、市職員を含む事務職ら30人が忙しくしていた。午後2時46分、震度6強の地震が発生し、直後に発令された大津波警報の予想高さは6メートル。3階なら安全だ。駐車場の車を高台に移動した方がいいかな。そんな雰囲気がすぐに一変した。  医師や看護師らは入院患者を屋上に上げようとしたが、到達した津波は16メートルを超え、建物ごとのみ込んだ。医師、看護師、職員らで生き残ったのはわずか6人。入院患者40人は1人も助からなかった。
 
 
「どうすれば良かったのか」
 
 入院患者40人の多くは寝たきりで、全員避難が不可能なことは明白だった。医師、看護師らを含め、64人が犠牲になった宮城県石巻市の市立雄勝病院。事務職の男性は患者を助けようとしたが、自身も津波にのまれ、翌朝に救助されるまで、運良く乗り込んだボートで海上を漂流した「どうしようもなかった。どうすれば良かったのか……」。あの日、助かった関係者が重い口を開いた。
 
シーツに患者のせ屋上へ
 
「ごめんね、ごめんね」のつぶやき
 
 男性職員は地震発生時、本館1階の事務室にいた。大津波警報が発令されたが、実際に津波が来るか、どこか半信半疑でいた。その2日前にも地震があり、石巻には約50センチの津波が到達したが、海面から高さ5・9メートルの防潮堤があるため、「津波が来た」という認識はなかった。まさか3階や屋上にまで達するとは想像もしていなかった。  
 
念のため、海抜3メートルにある病院の駐車場から、少し離れた高台の総合支所に車を移動させた。歩いて病院へ戻る途中、側溝から「ゴボゴボ」という音が聞こえた。「地震で水道管が破裂したのかな」。その数秒後、病院前の防潮堤を津波が乗り越えるのが見えた。 
 
 急いで病院に戻り、2階に人がいないかどうか確認して3階へ。このとき、既に1階は水没し、2階も浸水し始めていた。 
 
 3階で合流した薬剤科部長(当時57歳)ら4人で、患者1人を広げたシーツにのせ、屋上へ避難させることになった。火災を想定した避難訓練で、シーツで包んだ患者を引きずったことはあったが、持ち上げたのはこの時が初めて。「4人でやっと」というほどの重さで、患者は「どこに連れて行かれんだべ」と不安げだった。
  何とか屋上に上がった頃には3階も浸水し、屋上まで達するのは時間の問題だった。なす術すべなく、シーツごと患者を屋上に下ろしたとき、薬剤科部長が「ごめんね、ごめんね……」とつぶやくのが聞こえた。海水が屋上に流れ込み、腰の高さになったとき、男性職員は建物にしがみついたが、結局、海中に放り出された。
 
海面が屋上越える
 
 女性看護助手(40)は、新館3階の病室で入院患者の手足浴を介助していた。大きな揺れが収まると、他の看護師と「すごかったね」と話しながら、床にこぼれた水を拭いたり、ベッドやテレビを元の位置に戻したりした。 
 
 しばらくして、窓から外を見ると、防潮堤から波があふれ、駐車場では車同士がぶつかりながら流されていくのが見えた。「屋上に上がれ」。副院長(当時58歳)の叫ぶ声が聞こえた。 
 
 屋上からは、本館3階の病室の窓越しにベッドで寝ている患者の姿が見えたが、それを海水が遮った。海面が屋上を越えると、目の前に流れてきた民家の屋根に向かって泳いだ。
 
生死分けた「それぞれ逃げて」の一言
 
 
無我夢中で裏山へ
 
 派遣の女性事務員は、本館1階の事務室にいた。どうしていいか戸惑っていると、先輩の女性市職員(当時40歳)から「それぞれ逃げてください」と言われ、上履きのまま外に出た。 
 
 近くで工事をしていた人が「山へ逃げろ」と叫んでいた。病院を振り返らず、無我夢中で裏山を駆け上った。夜になって、病院が見えるところまで下りてくると、真っ黒な水が車を浮かべ、渦を巻いていた。避難していた近隣の人から「屋上で先生たちが津波にのまれるのを見た。全滅だろう」と聞かされた。  
 
「手伝って」とか「上に行こう」と言われていたら従っていたと思う。今も「患者を助けずに自分は逃げてしまった」という負い目を感じているが、「『それぞれ逃げて』という、あの一言が私の生死を分けた」。
 
自問続ける職員
 
 
雄勝病院の慰霊碑
 
 雄勝病院の跡地には、犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑だけが立っている。50~100歳代の患者40人のうち、35人は3階で遺体として見つかり、3人は今も行方不明のままだ。当時、病院にいた医師、看護師、職員30人のうち、生き残ったのは6人だけだった。 
 
 ヘリで救助された男性職員は今もこう自問する。 
 
 「雄勝病院のように海が目の前にある病院では、津波から逃げようがない。患者の人数分のストレッチャー付きの車を用意するというのも現実的ではない。でも、患者を放って逃げるわけにはいかないという思いは、今も変わらない」
 
 
 
 
 
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