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この世界はウイルスでできている

2025年06月28日 03時15分21秒 | 生き物のこと
この世界はウイルスでできている/武村政春氏(東京理科大学理学部教授)
 
 
 
6/2020
 目下日本は、新型コロナウイルス感染症の蔓延を抑え込むことと、そのための行動制限の結果生じている経済的な影響にいかに対応していくかが、喫緊の課題となっている。

 大半が症状が出ないか風邪程度の軽症なのに、その一方で一定割合が重症に陥り、高齢者や基礎疾患がある人は死亡してしまう場合もあるという新型コロナウイルスの非常に厄介な特性がある以上、社会全体としてまずは感染を抑え込むことに集中しなければならないのはやむを得ないことだ。そして、その結果生じる経済的な影響や生活困窮に対して、政府や社会が全力でこれをサポートすることも当然必要になってくる。

 しかし、それだけでは問題は解決しない。どれほど厳しいロックダウンを強行しようが、それだけで新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)が消えてなくなるわけではないからだ。医療崩壊を防ぐことで致死率を下げる努力を続ける一方で、遅かれ早かれこのウイルスと共存する方法を考えて行くことが不可欠となる。

 しかし、よくよく考えてみると、われわれはそもそもウイルスがどんなものなのかについて、ほとんど何も知らない。そこで今週のマル激では感染症とは直接関係のないウイルスそのものの専門家をゲストにお招きし、ウイルスとはどんな”物”で、どのように人に”吸着”し、どのように”増殖”するのかなど、ウイルスのイロハについて話を聞いた。

 そもそもウイルスが”物”だということを、どれほどの人が知っているだろうか。そう、ウイルスは自分自身では増えることができないので、”生き物”ではなく、あくまで”物”なのだそうだ。そしてウイルスは宿主(しゅくしゅ)を見つけてその細胞に入り込み、その中で増殖することによってのみ自らの子孫を残すことができる。だから、われわれから見ると”感染”に当たるものが、ウイルスにとっては自分の遺伝子を増やす唯一の手段、言うなれば再生産活動なのだ。

 ただし、地球上には全ての生物の細胞の数を合わせた以上のウイルスが存在する。空気中にも水道水の中にも食べ物の中にも、無数のウイルスが存在する。そのほとんどは人間には無害なもので、そのうちほんの一握りのウイルスだけが、人間に害を及ぼす病原性を持っている。人間主体で考えるとウイルスは厄介な存在かもしれないが、ウイルス目線で見るとむしろ地球の主役はウイルスの方であって、ウイルスにとって人間もたまには役に立つことがある程度の存在になるらしい。

 ウイルスは自分の意思を持たないので、ウイルスにとって”感染”というのは、どこかを浮遊していて、何かのタイミングである動物細胞に接触した時、たまたまそれが何億、何兆分の1の可能性で”吸着”できた時に起きる現象ということになる。ウイルスが他の生物の細胞に吸着できるかどうかは、ウイルス表面の形状と、その生物の細胞表面の物理的な形状がうまく噛み合うかどうかに依存するところが大きいのだそうだ。ウイルスが専門の武村政春・東京理科大教授によると、これは誰かが適当に鍵を振り回していたら、偶然それがすっぽり入る鍵穴にはまったというほどの、奇跡的と言っても過言ではないほどの偶然の産物なのだそうだ。

 しかし、その偶然の結果、新型コロナウイルスは人間の細胞に入り込む鍵穴を見つけてしまった。ウイルスには意思はないので、見つけてしまったというよりも、ウイルス側の鍵が人間が持つ鍵穴に何かの偶然ではまってしまったというべきなのかもしれない。その偶然の結果、もはやこのウイルスと人間は遭遇してしまい、しかも人間という生き物は不顕性感染などという形で症状が出ないまま感染者を増やすことが可能なため、このウイルスにとってはとても好都合な宿主だったことになる。しかし、一度出会ってしまった以上、もう二度と出会う前の世界に戻ることはできない。

 巨大ウイルスを専門に研究する武村氏はウイルスが生物の進化の鍵を握っている可能性があり、ウイルスの存在があったからこそ、現在の人類が存在するといっても過言ではないと語る。無論、病原性のあるウイルスについては致死率を下げる努力をしなければならないが、ウイルスを頭ごなしに悪い存在と位置づけ、これを撲滅すべき対象としてしか見れなくなってしまうと、大局を見誤るのではないかと武村氏は言う。

 戦うにしても、共存するにしても、まずは敵を知ることが大切だ。今週はそもそもウイルスとは何なのかについてウイルス研究者の武村氏に、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が話を聞いた。

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【プロフィール】
武村 政春(たけむら まさはる)
東京理科大学理学部教授
1969年三重県生まれ。92年三重大学生物資源学部卒業。98年名古屋大学大学院医学研究科博士課程修了。博士(医学)。専門は細胞生物学、分子生物学。名古屋大学医学部・大学院医学研究科助手、三重大学生命科学研究支援センター助手、東京理科大学理学部准教授などを経て2016年より現職。著書に、『生物はウイルスが進化させた』、『ヒトがいまあるのはウイルスのおかげ』、『レプリカ』など。
 
 
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ヒバゴン~実在した、謎の類人猿~ >広島県庄原市

2025年06月24日 00時01分09秒 | 生き物のこと
ヒバゴン~実在した、謎の類人猿~
 
 
ヒバゴン~実在した、謎の類人猿~|庄原観光ナビ 【公式】広島県庄原市観光情報サイト

1970年7月20日、広島県庄原市(旧比婆郡)西城町の比婆山麓で、身長約1.6m、逆三角形の顔、ゴリラに似た体つきをした謎の類人猿が目撃され、出没地にちなんで「ヒバゴン」と名付けられました。その後もヒバゴンの目撃は相次ぎ、全国的に報道されたため、旧西城町役場に「類人猿係」を設置して対応するなど、大騒ぎとなりました。

数年後、正体不明のままヒバゴンの目撃情報は途絶えましたが、西城町では、様々なヒバゴンのキャラクターと、ヒバゴンの名を冠した多くの産物がつくられ、ヒバゴンを題材にした映画も撮影されました。
現在も、西城のまちを歩けばいろいろなヒバゴンに出会うことができます。


当時のヒバゴンのイメージ(使用画像元:中国新聞社 1970年10月15日付 掲載)
 

ヒバゴン出没!
1970年7月から8月にかけて、西城町油木の比婆山のふもと付近で「怪物を見た」という目撃情報が相次ぎました。「猿にしては体が大きすぎる」「猿かと思ったら人言の顔立ちによく似ていた」「ゴリラに似た怪物なのでびっくりした」等の証言から、その生物が「類人猿か?」と言われるようになりました。
また目撃者たちは「震えが止まらなかった。夜は早めに戸締りをし、子どもを外に出さないようにしている」「恐ろしさのあまり親戚の家に駆け込んで泊まった」などと話しており、とても怖い怪物として認識されていました。


ヒバゴン出没マップ

静かな田舎町を賑わせたヒバゴン騒動
比婆山のふもとに怪物があらわれたというニュースは全国的に報道されるようになり、目撃者に多くの取材が押しかけたため、旧西城町役場では「類人猿係」を設置して対応にあたりました。ヒバゴンの正体を突き詰めようと、日本各地の大学や研究機関、類人猿調査隊が訪れ調査を行いましたが、目撃談と足跡だけでは推測にとどまり、結局正体はわからずじまいでした。
 
出没から5年を過ぎる頃、目撃情報は途絶え、ヒバゴンが紙上を賑わすこともなくなりました。そして29件の目撃情報を残し正体が解明されないまま、役場の類人猿係は廃止。人間への直接被害がなかったこともあってか「ヒバゴンが何者でもいい。どこかで元気でいてほしい。」という声もささやかれる中、ヒバゴン騒動は幕を閉じたのでした。
 
 
 
全文はリンクで


出没から5年を過ぎる頃、目撃情報は途絶え、ヒバゴンが紙上を賑わすこともなくなりました。そして29件の目撃情報を残し正体が解明されないまま、役場の類人猿係は廃止。人間への直接被害がなかったこともあってか「ヒバゴンが何者でもいい。どこかで元気でいてほしい。」という声もささやかれる中、ヒバゴン騒動は幕を閉じたのでした。


ヒバゴン出没マップ PDF版
現代に生きるヒバゴン


キャラクター化
1999年「西城ふるさと祭」のポスターやプログラムに登場したイラストのヒバゴン。山の中で人間に遭遇し、きょとんとした様子のヒバゴンの愛嬌のあるキャラクターが人気を呼び、今でもいたるところに登場しています。背景や衣装、色々なバリエーションがありますが、登場以来ポーズは1つだけ。地域の方々に愛されることで育ったキャラクターです。


※キャラクターはNPO法人ヒバゴンの知恵袋が管理しています。




地域の生活交通をみんなで守ろうとの願いがこもった、ヒバゴンバス。




色々な格好のヒバゴン。庄原市のあちこちで見ることができます。


着ぐるみ化
ヒバゴンはまだ謎の類人猿だった頃から西城では着ぐるみが作られ、「怪獣踊り」が披露されるなど早くもマスコット化が始まっていました
はじめは恐ろしい顔をしていたヒバゴンの着ぐるみも、キャラクター化後は愛らしいものに。時代によって、色々な着ぐるみが西城町で作られました。2014年には庄原市もヒバゴンの着ぐるみを製作し、祭りなど様々なシーンでヒバゴンを見ることができるようになりました。
愛らしいヒバゴンは、子ども達の人気ものです!

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「地球で最初の生命は、進化では誕生できない」…進化論で生じた「すこぶる当然の疑問」

2025年03月26日 23時03分49秒 | 生き物のこと
 
 



生命はRNAから始まった>RNAワールド仮説
 
圧倒的人気を誇るこのシナリオには、困った問題があります。生命が存在しない原始の地球でRNAの材料が正しくつながり「完成品」となる確率は、かぎりなくゼロに近いのです。ならば、生命はなぜできたのでしょうか?


この難題を「神の仕業」とせず合理的に考えるために、著者が提唱するのが「生命起源」のセカンド・オピニオン。そのスリリングな解釈をわかりやすくまとめたのが、アストロバイオロジーの第一人者として知られる小林憲正氏の『生命と非生命のあいだ』です。今回から数回にわたって、本書から読みどころをご紹介していきます。


今回は考察の原点となるダーウィンの進化論と、その後の「生命はどこから生まれたか」議論の変遷を見ていきます。

*本記事は、『生命と非生命のあいだ 地球で「奇跡」は起きたのか』(ブルーバックス)を再構成・再編集したものです。


ダーウィンのオリジナル概念ではなかった「進化」
1859年、チャールズ・ダーウィン(1809〜1882)は、ジョン・マレー出版社から『自然選択という手段、または生存闘争の中で好ましいとされる種が保存されることによる種の起原について』という長いタイトルの本を出版しました。これが、今日の生物進化学の基礎を築いた、『種の起源』という名で知られている著作の正式な書名です(「起“源”」ではなく「起“原”」と訳されました)。


実は「進化」という概念自体は、ダーウィン以前にもありました。たとえば、彼の祖父のエラズマス・ダーウィン(1731〜1802)は、生物学に進化(evolution)という言葉を持ちこんでいました。また、フランスの博物学者ジャン=バティスト・ラマルク(1744〜1829)は、キリンの首は高いところの葉を食べようとして伸びた、といった「用不用説」と呼ばれる考え方で進化を説明しようとしていました。


ダーウィンは初め、医者である父のあとを継ぐためエジンバラ大学に進学しましたが、医学学には向かずに退学し、牧師になるべくケンブリッジ大学に進みました。そして卒業後、恩師から、船で世界を一周する旅に誘われました。これが彼の人生を変える旅となりました。


1831〜1836年、ダーウィンを乗せたビーグル号は世界のさまざまな土地に立ち寄りましたが、とりわけ1835年に訪れたガラパゴス諸島での観察が、のちに彼が発表する進化論のベースになりました。


その頃のヨーロッパでは、キリスト教の教えにもとづく「デザイン論」が優勢でした。地球上のさまざまな生物たちは、創造主である神によって、うまく生きられるようにデザインされたとするものです。これは、前述したアリストテレス哲学とキリスト教の教義とが融合した結果、広まった考え方でした。


しかし、ダーウィンはビーグル号での航海で得たさまざまな標本や、観察の経験をもとにデザイン論を捨て、新たに自然選択にもとづく進化論を構築していきました。


その作業には長い年月がかかりましたが、1858年、イギリスの博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(1823〜1913)からの手紙で、彼が似たような考えを持っていることを知って発表を急ぎ、その年にリンネ学会において自身の論文とウォレスの論文を並べて発表し、翌1859年に、いわゆる『種の起原』の出版にこぎつけたのです。


『種の起原』は、世界は神が創造したとする創造説と進化論との間で大論争を引き起こしましたが、“ダーウィンの番犬”と呼ばれたトマス・ヘンリー・ハクスリー(1825〜1895)の援護もあり、進化論が徐々に認知されていきました。



【写真】チャールズ・ダーウィン、アルフレッド・ラッセル・ウォレス、トーマス・ヘンリー・ハクスリ

ダーウィンの進化論が生んだ「新たな問題」
すると、新たな問題が生じました。進化論では、ある生物種は別の生物種から進化することにより誕生します。これをずっと過去に遡っていくと、最初の生物にたどり着きます。では、その生物はどのようにして誕生したのでしょうか?


この問題に対して、ダーウィンは1871年に、友人の植物学者ジョセフ・ダルトン・フッカー(1817〜1911)宛ての手紙の中で、こう書いています。


「もし(ああ、何とありそうもない「もし」なのでしょう)さまざまな種類のアンモニアやリン酸塩が溶けた温かい小さな池に、光や熱や電気などが加えられたとしたら、タンパク質分子が化学的に合成され、より複雑なものへと変化したでしょう。今日ではそのような物質はすぐに食べ尽くされてしまうでしょうが、生命が誕生する前では、そうはならなかったでしょう」



今日の目から見てもなかなかいい線をいっているように見えますが、その後、ダーウィンはこの考えをさらに進めてはいないようです。ここに「生命はどのようにして誕生したのか」、つまり「生命の起源」という科学上の新たな問いが誕生したのです。


「パンスペルミア説」の登場
最初の生命は生物進化によっては誕生できないので、自然発生したと考えるしかありません。しかし、自然発生は、パストゥールの有名な「白鳥の首フラスコ」(空気は入るけれど微生物は入らないようにすに考案した実験装置)」を使った実験によって、否定されています。地球上では生命の自然発生ができないのならば、生命は地球外から持ちこまれたのではないか?


このように生命の起源を地球外に求めようと考える科学者たちが現れました。その中には大物科学者も含まれていて、熱力学第二法則で知られる英国の物理学者ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿、1824〜1907)もその一人でした。トムソンは1871年に英国協会で「生命の種が隕石によってもたらされた」という考えを述べています。


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【写真】ウィリアム・トムソンとスヴァンテ・アレニウス(

20世紀が始まってまもない1903年、スウェーデンの物理化学者スヴァンテ・アレニウス(1859〜1927)は、『Die Umschau』という雑誌に「宇宙における生命の分布」という論文を発表しました。そこで彼は、宇宙空間には生命の種(sperma)があまねく(pan)存在しており、それらが光の圧力によって移動して地球にたどり着き、地球生命のもとになったと述べて、「パンスペルミア」という言葉を用いました。


アレニウスは高校の教科書にも名前が載るほど有名な物理化学者であり、同じ年にノーベル化学賞を受賞しています。今日でもパンスペルミアというと必ずアレニウスの名前が引用されるなど、生命の地球外起源説の代表とされています。



パンスペルミア説への批判としては、まず、生命の種が過酷な宇宙空間で長時間生きつづけるのが困難と考えられることがあります。しかし現在では、生物の惑星間移動の可能性が実験などで検証されていて、この点からはパンスペルミアは一概に否定できなくなりました。


第二の批判は、その宇宙から来た「生命の種」がどのようにしてつくられたかについては、何も答えていないことです。つまり、問題を先送りしているにすぎないというわけです。こちらは「生命の起源」を議論するうえでは致命的といえますね。


*      *      *


このように「進化」という考え方が認知された結果、その原点にある「生命の起源」という問題につきあたりました。そこから、「生命の種」がどのようにしてつくられたか、そして、生命と非生命の違いとは何か、という問題も生じてきてきたのです。


続いて、近代における生命論の変遷の後半を見てみましょう。舞台は、19世紀から20世紀へと移っていきます。


生命と非生命のあいだ 地球で「奇跡」は起きたのか


生命はどこから生命なのか? 非生命と何が違うのか? 生命科学究極のテーマに、アストロバイオロジーの先駆者が迫る!

 
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女より男が、なぜ暴力的な犯罪を起こすのが多いのか…進化の過程だけでは説明できない「攻撃的になる理由」

2025年03月19日 21時03分40秒 | 生き物のこと
 
 
 
 
なぜ暴力的な犯罪を起こすのは女より男が多いのか…進化の過程だけでは説明できない「攻撃的になる理由」
2/3(月) 18:17配信




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プレジデントオンライン
出典=法務総合研究所「令和6年版犯罪白書」


「犯罪白書」(令和6年版)によると、傷害・暴行で逮捕される人数は男性が女性の約7〜10倍。心理学者の森口佑介さんは「13カ国が参加した国際的な調査でも全ての国で、女性より男性の方が身体的な攻撃性が高いという結果が出た」という――。


【この記事の画像を見る】


 ※本稿は、森口佑介『つくられる子どもの性差「女脳」「男脳」は存在しない』(光文社新書)の一部を再編集したものです。


■大多数のセクハラや犯罪が、男性によって行われている


 セクシャルハラスメントや犯罪に関する報道を目にしたとき、筆者は自分が男性であることを恐ろしく思うときがあります。


 もちろん、こういう言い方自体がジェンダーステレオタイプを助長する可能性があることは認識しています。セクシャルハラスメントや犯罪は、男性が加害者になるケースだけではありません。女性が加害者になることも当然あります。ただ、統計的には、大多数のセクシャルハラスメントや犯罪が、男性によって行われているという事実があります。そこで、攻撃性の入り口として、まず、犯罪について見ていきたいと思います。


 今日も殺人、暴力事件、強盗、詐欺のニュースがテレビやインターネットで報道されています。殺人犯が捕まったと聞いて、女性のイメージが浮かぶでしょうか、それとも、男性のイメージが浮かぶでしょうか。


 実際の事件であれ、小説やアニメなどの作品であれ、犯罪は男性によってなされることが多いような印象があります。特に、暴行や殺人などの攻撃性の高い犯罪において顕著なように思えます。


 犯罪には様々な種類がありますが、一部の犯罪は明らかに攻撃的な性質を持っており、暴力的な行動や他人への害を直接的に含んでいます。たとえば、強盗や殺人といった犯罪は、攻撃性の顕著な例と言えます。


■「男は攻撃的」だから、強盗や殺人を犯しがちなのか?


 多くの犯罪は男性によってなされます。強盗や殺人、強制性交や強制わいせつはほとんど男性によってなされています。男性の場合、武器を使った犯罪が多いという報告もあります。


 これは検挙された犯罪に限った話なので、検挙されていない犯罪も含めると多少の変動はあると思いますし、女性のほうが占める割合が多い犯罪もあるかもしれませんが、全般的に犯罪の多くは男性によってなされていることがわかります。


 なぜ男性のほうが犯罪を犯しやすいかについては、攻撃性の高さだけではなく、生物学的な要因、社会的要因や環境的要因が総合的に影響してくるので、攻撃性の高さを示す1つの傍証に過ぎません。実際に攻撃性は男性において高いという証拠はあるでしょうか。
 
■提供する食事に辛口のソースをかけて攻撃性を測定する方法


 攻撃性は、そもそもどのように調べられるでしょうか。一番手っ取り早い方法は、攻撃性の高さに関して色々と質問紙形式で尋ねるものです。当人に聞く方法もあれば、知人に聞く方法もあります。子どもの調査では、親や幼稚園・保育園の先生、学校の先生に尋ねることが多いです。


 質問紙は一番ポピュラーな方法ですが、自分であっても、親であっても、客観的に攻撃性の高さを評価できるかどうかわからないという問題点があります。そのため、実際の行動を調べる方法もあります。たとえば、研究者が遊びの場面などを観察して攻撃行動を評価するようなやり方です。


 筆者が面白いと思う方法に、辛口のソースを使う実験があります。皆さんが、気に入らない相手に食事を提供することになったとします。メニューはカレーで、その辛さは自分で調整できること、相手があまり辛いものを得意としていないことを知っているとします。その場合に、辛めのカレーを提供するか、甘めのカレーを提供するかで、その人の攻撃性の高さを調べるという方法です。実際の研究では、相手に提供される食事に辛口のソースをどれだけかけるかで攻撃性を測定します。


■身体的な攻撃は男性、「仲間外れ」のような関係性攻撃は女性?


 このような方法で調べる攻撃性は、いくつかに分類されることが知られています。性差の文脈で出てくるのは、直接的攻撃性と間接的攻撃性です。前者は身体的攻撃と言語的攻撃のことを指します。身体的攻撃は手が出るような攻撃性のこと、言語的攻撃は主に悪口や非難のようなもののことです。


 間接的攻撃には関係性攻撃が含まれます。これは身体的な攻撃ではなく、社会的関係性を使った攻撃性で、無視や仲間外れのような方法で心理的にダメージを与える攻撃性です。


 一般的なイメージとして、身体的な攻撃は男性、関係性攻撃は女性というイメージがあるでしょう。筆者自身は男性なので、まずもって男子が身体的な攻撃をしがちであることは否定できません。小学校でも中学校でも、自分も含めて殴り殴られ、という経験は一度や二度ではありませんでした。


 一方、筆者には女性の攻撃性の実態がよくわかっていません。ただ、中学生のころ見た光景として、女子生徒は様々なグループをつくっていて、そのグループ間に若干の序列がありました。怖いなと思ったのは、あるグループに属していた女子生徒がそのグループから徐々に締め出されていき、気づいたときには別のグループに所属していたことです。元のグループの他のメンバーは特に気にすることもない様子を見て、寒気を覚えた記憶があります。


 このようなケースは決して珍しいものではありませんが、一方で、同じような光景を男子グループの中で見たことも少なくないのです。女子も男子も仲間外れや無視をする光景に出くわすことはあります。これらの攻撃性に性差はあるのでしょうか。
 
 
■提供する食事に辛口のソースをかけて攻撃性を測定する方法


 攻撃性は、そもそもどのように調べられるでしょうか。一番手っ取り早い方法は、攻撃性の高さに関して色々と質問紙形式で尋ねるものです。当人に聞く方法もあれば、知人に聞く方法もあります。子どもの調査では、親や幼稚園・保育園の先生、学校の先生に尋ねることが多いです。


 質問紙は一番ポピュラーな方法ですが、自分であっても、親であっても、客観的に攻撃性の高さを評価できるかどうかわからないという問題点があります。そのため、実際の行動を調べる方法もあります。たとえば、研究者が遊びの場面などを観察して攻撃行動を評価するようなやり方です。


 筆者が面白いと思う方法に、辛口のソースを使う実験があります。皆さんが、気に入らない相手に食事を提供することになったとします。メニューはカレーで、その辛さは自分で調整できること、相手があまり辛いものを得意としていないことを知っているとします。その場合に、辛めのカレーを提供するか、甘めのカレーを提供するかで、その人の攻撃性の高さを調べるという方法です。実際の研究では、相手に提供される食事に辛口のソースをどれだけかけるかで攻撃性を測定します。


■身体的な攻撃は男性、「仲間外れ」のような関係性攻撃は女性?


 このような方法で調べる攻撃性は、いくつかに分類されることが知られています。性差の文脈で出てくるのは、直接的攻撃性と間接的攻撃性です。前者は身体的攻撃と言語的攻撃のことを指します。身体的攻撃は手が出るような攻撃性のこと、言語的攻撃は主に悪口や非難のようなもののことです。


 間接的攻撃には関係性攻撃が含まれます。これは身体的な攻撃ではなく、社会的関係性を使った攻撃性で、無視や仲間外れのような方法で心理的にダメージを与える攻撃性です。


 一般的なイメージとして、身体的な攻撃は男性、関係性攻撃は女性というイメージがあるでしょう。筆者自身は男性なので、まずもって男子が身体的な攻撃をしがちであることは否定できません。小学校でも中学校でも、自分も含めて殴り殴られ、という経験は一度や二度ではありませんでした。


 一方、筆者には女性の攻撃性の実態がよくわかっていません。ただ、中学生のころ見た光景として、女子生徒は様々なグループをつくっていて、そのグループ間に若干の序列がありました。怖いなと思ったのは、あるグループに属していた女子生徒がそのグループから徐々に締め出されていき、気づいたときには別のグループに所属していたことです。元のグループの他のメンバーは特に気にすることもない様子を見て、寒気を覚えた記憶があります。


 このようなケースは決して珍しいものではありませんが、一方で、同じような光景を男子グループの中で見たことも少なくないのです。女子も男子も仲間外れや無視をする光景に出くわすことはあります。これらの攻撃性に性差はあるのでしょうか。
 
 
■男性の攻撃性は進化の過程で強くなってきたか


 人間はともかく、人間以外の動物を見ると、この説明はうなずける部分もあるかもしれません。ボスのようなオスは身体も大きく、攻撃性があり、その力でグループを支配している動物もいるのです。一方で、人間にそのまま当てはまるかどうかというのは疑問があります。


 もう1つは、歴史的な性役割に関する説明です。この説明では、女性は家庭内での仕事を担い、男性は外で働くという、性別による固定的な役割分担に着目します。もちろん、このような役割分担は恣意(しい)的なものであり、歴史や社会の産物であるという点がポイントです。


 性別による固定的な役割分担がある場合、外で働く男性では、何らかの目標を達成するような役割が期待され、家庭を担う女性では、他人を気遣ったり世話したりする役割が期待されます。少し前の日本のような状況です。といっても、今でも地域によっては似たような状況があるでしょう。


■歴史的にも男性は社会で「目的達成」を課せられてきた


 以上のような性別役割分業意識により、男性は、目標を達成する手段として攻撃的な行動が適切であることを学んでいくのではないかというのが、2つ目の説明です。攻撃性を持つことが、目標を達成するうえで必要になってくるということです。確かに、目標を邪魔する勢力に対抗するには攻撃性が必要な状況もあるでしょう。


 さらに、男性の社会的地位が高いことが求められるような社会において、高い地位の獲得や維持には身体的、言語的、関係的な攻撃性が必要となるのかもしれません。結果として、男性の攻撃性が高くなるわけですが、社会がそのように方向づけているとも言えます。


 進化的な説明では、男性の攻撃性の高さは生まれつきほぼ決まっていることを想定しており、「女性脳」「男性脳」を主張する人が好む説明です。一方、歴史的な説明は、社会や文化の役割を強調するものです。現在のところ、どちらが正しいというわけではなく、どちらもそれなりの説得力があるというところです。


 子どもに目を向けると、たとえば遊びの性差が攻撃性の違いに影響を及ぼす可能性があります。それほど証拠が多いわけではないものの、女児は赤ちゃんのころから男児よりもヒトの顔を好む傾向があったり、人形を好んだりするなど社会的な傾向があるのに対して、男児身体的な遊びを好んだり、乗り物を好んだりするため、こうした好みや遊びの傾向が攻撃性の違いにつながるのではないかと考えられています。






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森口 佑介(もりぐち・ゆうすけ)
京都大学大学院文学研究科准教授
福岡県生まれ。京都大学大学院文学研究科准教授。京都大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。専門は、発達心理学・発達認知神経科学。主な著書に『10代の脳とうまくつきあう 非認知能力の大事な役割』(ちくまプリマー新書)、『子どもから大人が生まれるとき 発達科学が解き明かす子どもの心の世界』(日本評論社)など。
 
 
 
 
 
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犬は主人に対して忠誠心を持つ」は間違い…科学的研究でわかった本当のこと

2024年12月07日 09時03分24秒 | 生き物のこと



2022/11/26(土) 10:17:31.

犬は主人に対して忠誠心を持つ」は間違い…科学的研究でわかった本当のこと


昔から犬は主人思いの動物とされて、「犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ」などと言われてきました。

しかし、ここにも人間の勝手な思い込みが入っている気がします。

ただ飼えばいいわけではなく、飼い主が本能的欲求を満たしてくれる(十分な食事、安心な寝床、一緒に遊んでスキンシップをしてくれるなど)ことがなければ恩は感じてくれません。

「動物なのだから、食べ物をあげていれば懐いて恩を感じるだろう」と思うかもしれませんが、それだけなら、よそでもっとたくさんごはんをくれる人を見つければ、そっちへ行ってしまいます。

同様に「犬は主人に対して忠誠心を持つ」というのも、ほとんどの場合、人間の思い込みです。これも親和性の高い飼い方をしない限り、ただの幻想と言っていいでしょう。

幸せホルモン(オキシトシン)に満たされるような、安心と幸せを感じる関係にあれば、親愛の情や絆を感じさせる行為がみられることはあります。

実際、「飼い主に危険が及ぶのを察知して知らせてくれた」とか、「か弱い子どもを懸命に守ろうとした」といった感動的なエピソードには事欠きません。

それを忠誠心と呼ぶのは自由ですが、犬は犬社会でも、仲間に危険を警告したり、犬同士で助け合う行動は普通にみられます。それを飼い主に対しても行っているだけだ、というドライな見方もできるのです。

群れで生活する動物には、危機に瀕している仲間を助けようという行為は珍しくありません。社会性のある動物は、群れを維持していかないと自分の生存も危ぶまれるからです。

たとえばゾウの集団では、子ゾウを協力して助けたり守ったりしますが、それは群れ・集団の維持のために仲間を守る行為なのです。

そうした行動は、ときに自己犠牲をともなう“利他的”な、見返りを求めない無償の行為に見えることもあります。しかしそこには「自分の生存にも関わる」という動物の本能がはたらいているはずなのです。

 全文はソースでご確認ください。 




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