賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている。
だからこそ、すぐそこまでやって来ている愚劣さから逃れようと努力を続けるのであり、そしてその努力にこそ英知があるのである。
これに反して愚者は、自分を疑うということをしない。
つまり自分はきわめて分別に富んだ人間だと考えているわけで、そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられる理由がある。
(『大衆の反逆』、オルテガ・イ・ガセット、Kindle版位置No.1086)
自分が「賢者」だとは夢おもわないが、「すぐそこまでやって来ている」、あるいはもうすでに飲みこまれてしまっているかもしれない)「愚劣さから逃れようと」悪戦苦闘をつづけていることだけは確かなことだ。
ひょっとしたら「愚者」なのではないかと思うことはしょっちゅうあるが、「自らの愚かさの中に腰をすえ」ることは断固として拒否したい。当然、「安閑として」などいられる理由がない。
主体的な在りようで日々を生きるということは、どこかで「自分を疑う」、という行為をともなうものだとわたしは思う。
ここまで書きかけて「下書き」として保存されていたこの稿。書いたのは先月のことなのだが、どんなことを書こうとしたのか、どこへ結論を持って行こうとしていたのか、今となってはとんとわからない。
この中途半端をナントカ陽のあたる場所に出せないかと、しばしこのあとの展開を考えてみたが、どうにも上手く行かない。
だが、このまま眠らせておくのもなんだか可哀想に思えて仕方がないので、このまま陽の目を見せてやることにした。
「ブログを書くというのは、将来に向かって、過去の記録を残すことだ」(桃知利男)とすれば、
「自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている」
ためにも、こんな稿も存在していいだろう。
と、そう思ったからである。
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