******中島 西部邁先生がよく言っていたのは、現代というのは非常に変化が激しいので、まさにサーカスで綱渡りをしているようなものである、と。綱渡りをするときに、非常に重要なのは何かというと、あのバランシングバーである、と。あの棒というのが、死者からやってきた「伝統」とか「基準」というもので、これがあるがゆえに、細い、危なっかしい道を渡ることができる。みんな、バランシングバーには意味がないというふうに思いがちだけど、これが大切なんだと言っていたんです。(『ええかげん論』土井善晴、中島岳志、P.160)******
公共建設業におけるDXを考えれば考えるほど、アナログを捨ててはいけないという思いが強くなってきているぼくには、このメタファーが腑に落ちます。
そもそも、デジタルとアナログを二項対立的な図式で語るのが、甚だしく勘違いだったのかもしれません。
きのうはアナログで明日がデジタルという考え方には、基本的かつ大局的なところで賛同しますが、スポット的また局地的にはその逆、今はデジタルあしたはアナログであってもよいのではないでしょうか。いやむしろ、そういう部分がなければならないと思うのです。
大切なのは、双方のあいだを行きつ戻りつ、ちょうどよいのはどこかを探り、そしてそれを固定された不変なものとして捉えることなく、その場その時々で、適解だと思えるものを選択するということ。その判断にとって、デジタルが絶対善でアナログが絶対悪だという固定観念にもとづいた基準が、邪魔でさえあるときもあるでしょう。
などということを言ってしまうと、回りはじめたスピニング・ホイールを逆回転させることにもなりかねません。ですから、今という時代の公共建設業では、取り扱いに十分注意しなければならないのがこの考え方ではあります。
いずれにしても、今このときに渡っているのは、また、これから渡ろうとしているのは、「太く安全な道」ではありません。であれば、ゆらぎながら平衡を探り、重心を移しながら歩きつづけなければなりません。そこでは、ゆらぎすぎて落っこちてしまわないように、平衡をとる棒の存在が不可欠です。
そのバランシングの基準をどこに置くか、どこに置けば平衡が保てるのか。いずれにしても、不変で固定されたものがないのであれば、いかにデジタルテクノロジーを手法として活用するといえども、過去や先人に習うことが捨て置かれてよいというものではありません。いやむしろ、本質的な部分においては、そちらの方がより重要度が高いということも少なくないでしょう。そしてそれは、けっして時代遅れの考え方などではないはずだと、ぼくは思うのです。