わが家には、かつて祖母の隠居部屋として建てられ、その後、わが子たちが年長になるたびに代々寝起きしてきた六畳一間の離れがある。
その部屋が、買ったばかりの懸垂マシンを持ちこんだのをきっかけとして、かねてよりあったフィットネスバイクやダンベルも持ちこみ、ちょっとしたトレーニングルームの様相を呈してきたのにはわけがある。
コロナ禍による太鼓練習の中止からはじまり、体調不良→入院→経過観察とつづいた個人的状況のせいですっかりなまってしまったこの身体を、以前なみとまではいかずとも、せめて「いざ」というときに、たとえばロックネットをよじ登って落石発生源にたどり着けるぐらいには回復したいという願望からだ。
とはいえなかなかどうして、齢六十が過ぎていったん鈍った身体には、道はるかなり。早晩挫折の憂き目にあってしまうという可能性も大いにある。
その部屋に、わたしの蔵書の、主に近年分が同居している。
いや、その表現はあきらかにちがうな。
あくまでも本のほうが先住民族で、いかにデカいツラをしようと、今のところトレーニングツールは居候にすぎない。
きのう朝、そのプチトレーニングルームでエアロバイクを漕いでいると、本棚にある一つの本のタイトルに目が惹かれた。
いつも同じところにあるはずなのに、なぜだろう。
その日にかぎって、吸い寄せられてしまったのだ。
まるで「私はここよ」と言っているかのように。
その本の名は『養老孟司の大言論1 希望とは自分が変わること』。
読んだ記憶はたしかにある。
はて、いつごろだったろうか。
たしか、ブログにも書いたはずだと検索してみると、2012年3月26日に『人は変化するのが当たり前だということ』という稿があった。
締めくくりに書かれていたのはこうだ。
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「変わらない(変われない)」人が、「変わらない」を是としているのか、はたまた「変わる」を恐れているのか、どちらでも良くはないが、この際おいておく。
いずれにしても、人は「変わる」のが当たり前だというアプローチから入ると、もう少し楽に考えられるのかもしれないかなと・・・
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ふむふむ・・・
あらためて、はじめから超速で飛ばし読みしてみた。
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「人は変わる、それが学ぶということだ」
(P.215)
そもそも「変わらない私」が存在し、それが人間の「本質」であるなら、教育は要らない。本質的に変わらないガキを、どう教育すればよいのか。冗談じゃない。だから若者は育たなくなり(育つとは変わることですからね)、いつまで経っても一人前にならなくなったのである。
(P.226)
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それから8年が経った今も、「変わる変わらない」問題は、あいも変わらずわたしのメインテーマのひとつである。
そして、それに対する自分なりの答えを出してはいるものの、一つひとつの現実に直面したとき、対応に苦慮する日々がつづいている。
だから、だろう。
本が「わたしはここよ」と言っているわけでもなんでもない。わたしがわたしの必然として、白地に黒字で記された『希望とは自分が変わること』というタイトルに目を奪われただけのことである。
「人は変わる、それが学ぶということだ」
180°回転させるとそれは、
「人は学ぶ、それが変わるということだ」
ということになりはしないかといえば、いささか強引にすぎるだろうか。
いやいや、そうでもあるまい。
「学ぶ」
と
「変わる」
が
セットであるとしたら、その入れ替えはじゅうぶんに成り立つ。
すると、そこから導きだされる結論は、「学ばない」人は「変われない」、もしくは、「学べない」人は「変わらない」となる。
それが世の中の理ならば、その結論でシャンシャンと手を打って、「だってそうじゃないそりゃそうだもの」となるかというと、お節介なわたしはそれではおさまらず、腕組みをしてハタと考え独りごちる。
「それで済んだら苦労はいらんさ」
「学ばない」も「変われない」も「学べない」も「変わらない」も、所詮は他人のことだからといってうっちゃっておくわけにはいかない。なぜならばわたしは、誰の手も借りずに一人前になったわけではないからである。
どこかの誰かさんたちがわたしを育ててくれた。
どこかの誰かさんたちによってわたしは育てられた。
ただ今ここにいるわたしは、たしかに自分ひとりで大きくなったようなエラそうな面をしてはいるが、そのじつが先人たちの贈与によってできているものだということは、じゅうぶん承知のうえでここにある。
贈与を受けたものには返礼の義務がある。
そしてその返礼は、贈与者に向けて直接返せばそれでチャラになるという類のものではない。
贈与を与えてくれた人とは別の誰かにパスして、はじめて返礼の義務を果たしたことになる。
その「贈与と返礼のパス&レシーブ」のサイクルにわが身があることを思えば、訳知り顔で「だってそうじゃないそりゃそうだもの」とふんぞり返っているわけにはいかないのだ。
とかナントカ、今日もたいそうご立派なことを書いてしまったが、養老先生が言うように、教育の本質が「人を変える」だとしたら、いっこうに変えることができないわたしは、先生失格でしかない。
いやいや、たとえ他人さまからはそう思われようと、自分自身で失格の烙印を押すのはまだ早い。この身枯れるまで。あがいてあがいて足掻き抜く。未練たらしくて格好わるいが、ヘタレにはヘタレにしかできない方法もある。
なーんてことを、懸垂マシンにぶら下がりながら考えていた。
そう、懸垂マシンとは名ばかりだ。
鈍りきったわが身では、いまだ「ぶら下がり健康器」としての使用方法から脱することができていないという、これまた見事なヘタレっぷりだ。
そうかといって、簡単にあきらめはしない。
ということで、今日もまた、わたしの朝は忙しい。