「人生のある時期に感じる時間の長さは年齢の逆数に比例する」
これをジャネーの法則と言います。
たとえば「1年」を例にとりましょう。
現在ぼくには3人の孫がいますが、最年長は10歳。66歳のぼくと、その約7分の1ほどしか生きていない彼とでは体感時間がまるでちがいます。というように、歳をとるにつれて自分の人生における「1年」の比率がちいさくなるので、体感として時間が早く過ぎると感じてしまうということです。
以前、このことを調べていたとき、北祐会神経内科病院『北祐会ブログ』というサイトでわかりやすい表をみつけていたので、ちょっと拝借してみますね。

これによると、1歳の赤ちゃんにとって1年は365日ですが、10歳にとっては37日、66歳のぼくに至っては、なんと6日でしかないということになります。彼我の比は37:6 ≒ 6:1。道理で・・・思わずうなずき納得したものでした。
ところがつい先日、次のような説を目にしたのです。
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それにしても、一年が速い。だんだん年齢に比例して、なんだか加速度がついてきたような気がします。以前、その話を当時九十歳を過ぎた老僧にしたら、「それなら結構だ。ワシはもう速さ自体、感じない」。
続きの会話。
「何でこんなに日がたつのが速いんでしょう。小さい頃は、小学校が永遠に続くのじゃないかと思うほど長かったのに」
「お前、その頃、先の心配をしたか?」
「いやあ、しなかったなあ。明日の宿題や、何をして遊ぶくらいかは考えたような気がするけど」
「そうだろう。成長して先の予定を考えるようになるほど、時間は速くたつ。そして先の予定が死ぬだけになれば、時間は止まる」
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出典は再読中の南直哉『刺さる言葉ーー「恐山あれこれ日記」抄』(筑摩選書)です。
けだし、慧眼というべきでしょう。
そう言えばと思い起こしてみると、(ぼくの場合めったにそういうことはないのですが)何をするとも決めずにダラダラと過ごす休日は時間が長く感じられるし、その一方で、あれしてこれして何をする、というスケジュール設定にもとづいて行動するときは、あっというまに時が流れていく。同じ休日でも段違いの体感です。
そしてふだんのぼくはというと、朝起きればその日に何をするか、またしなければいけないかを考え、同様に、次の日、翌週、次の月、また何ヶ月後にはあれをしてこれをしてと、先のことを考えない日はありません。昼飯を食べながら夕餉に想いを馳せる、なんてこともめずらしくありません。
元来がそういう性質だったのでしょう。ですが、この仕事についてからはそれに拍車がかかり、良きにつけ悪しきにつけ、今のぼくという人間をかたちづくっているようです。それをして、強迫観念と表現すればいささかオーバーかもしれませんが、似たような感覚に陥ることもよくあります。
もしかしてそんなぼくの場合は、フツーではないのかもしれません。しかし、大人ならば誰でもが、大なり小なりあることでしょう。
ジャネーの法則か曹洞宗某老師の説か。いずれも説得力があります。
となれば、ぼくごときがどちらかに軍配をあげるのは差し控えるべきでしょうし、どちらにしても、ぼくにとっては逃れようがないことのようです。
そして、これから先はなおさらそれが加速する。これも避けようがないのでしょう。先の予定が「死ぬ」のみとなり時間が止まるそのときも、指呼の間、とまでは言いませんが、案外速くやってくるのかもしれません。
であればなおのこと、今というこの時間を大切に精一杯生きなければなと思ったりしながら、令和6年の夏空をながめる爺さんなのです。