答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

あらためて「利他」(その4) ~合理的利他主義批判~

2022年12月21日 | あらためて「利他」

 

前回までの投稿はコチラ

↓↓

その1 → プロローグ

その2 → (談志の)『文七元結』

その3 → 「どうしようもなさ」が「利他の本質」へと反転する構造

 

さて、中島氏が間接互恵的利他の危険性をさまざまな角度から説くそのなかで、もっともすんなりとわたしの腑に落ちたのが、頭木弘樹著『食べることと出すこと』における著者自身の体験談を紹介したくだりでした。以下、頭木氏が体験したエピソードをかいつまんで説明します。

 

まず前提として、頭木氏は潰瘍性大腸炎という持病を持っていました。そのため、なんでも食べられるわけではなかったということを頭に置いて読んでください。

あるとき、仕事の打合せで食事をすることになったのですが、「これおいしいですよ」と相手から勧められたものが食べられないものだった頭木氏は相手にそう伝えます。その場はそれでおさまったのですが、なおも相手は「少しくらいいいんじゃないですか」と同じものを勧めてきます。ちなみにその相手は頭木氏の持病のことを知っていました。

頭木氏は、いくら「少しぐらい」でも大変な結果を引き起こすかもしれないため手をつけないでいましたが、そのうち、まわりの人までがそれを勧めだし、同調圧力を強めてきます。その結果、その場は気まずい雰囲気となり、結局その相手との仕事はなくなる羽目になりました。

 

このエピソードには「利他を考える際、大切なポイント」がいくつも含まれていると中島氏は言います。

******

 まず考えなければならないのは、「支配」という問題です。「利他」行為の中には、多くの場合、相手をコントロールしたいという欲望が含まれています。頭木さんに料理を勧めた人の場合、「自分がおいしいと思っているものを、頭木さんにも共有してほしい」という思いがあり、それを拒絶されると、「何とかおいしいと言わせたい」という支配欲が加速していきました。相手に共感を求める行為は、思ったような反応が得られない場合、自分の思いに服従させたいという欲望へと容易に転化することがあります。これが「利他」の中に含まれる「コントロール」や「支配」の欲望です。

(P.107)

******

とはいえ、中島氏は何も間接互恵性を完全否定しているわけではありません。利他の可能性は「円環的な相互依存システム」である間接互恵関係に行き着くとさえ書いています。氏によれば、問題はそれを前提として「いいことをすれば、将来、利益となって返ってくる」という思いが行為の動機づけとなっていくという点にあるのです。

******

 将来の利益を期待した行為は、贈与や利他ではなく、時間を隔てた交換になっていますよね。今の行為が、将来の利益と等価交換されることが想定されており、利他の可能性が捨象されています。「今、損をしても、いずれ間接的な互酬関係によって、利益がもたらされる」という考えは、とても打算的です。「将来の自分に利益がありますように」と願って渡すプレゼントは、かなり利己的なものです。贈与ではなく、間接互恵を利用した交換に他なりません。

 利他は未来への投資ではありません。

(P.162)

******

ここにジャック・アタリの「合理的利他主義」が内在している問題があると中島氏は指摘します。

「合理的利他主義」は未来への投資としての利他であり、「利他の事後性をあらかじめ先取りする行為」です。自分にとっての利他がそのまま相手に利他と受け取られることを前提としているため、それは容易に強要へと転化します。強要とはすなわち「利他の押しつけ」であり、そこには「相手を制御し、コントロールしようとする欲望」が含まれているというのです。

その上で、「合理的利他主義」をこう批判します。

******

 因果の物語は、偶然を必然として経験し直すことです。なので、私たちが間接互恵を経験するのは、現在から過去を遡行して、因果の物語を形成する際です。

 しかし、特定の行為を行う「現在」において、未来との因果は成立していません。私たちの行為は、どのように展開し、どのように受け取られるか、未知のままです。一方、アタリの「合理的利他主義」は、不可知の未来をコントロールすることで、間接互恵を起動させようとします。

 アタリが想定する世界では、可能態としての未来が失われています。間接互恵をめぐる因果を前提とすると、未来は現在の中に飲み込まれてしまいます。現在が未来を支配してしまいます。間接互恵は前提とされるべきものではありません。あくまでも結果的に現れるものであり、因果は事後的に物語として経験されるものです。

 (略)利他は未来からやって来ます。その未来を現在化することは、利他が本質的に成立しないことを意味します。「合理的利他主義」は利他ではありません。むしろ利他の本質を崩壊に導くイデオロギーです。

(P.165)

******

そして、「長兵衛はなぜ利他の循環を生み出すことができたのか」についての中島氏の結論はこうです。

******

 長兵衛はなぜ利他の循環を生み出すことができたのか。

 それは偶然通りかかった吾妻橋で、「身が動いた」からです。身を投げようとする青年を目の当たりにして、思わず駆け寄って抱き寄せた。そのとっさの行動が文七に受け取られ、利他を起動させることになったのです。

(P.172)

******

なぜ本のタイトルが「思いがけず利他」でなければならなかったのか。キーワードは「思いがけず」です。長兵衛の純粋利他とアタリの合理的利他主義との比較において、それを了解していただくことができるのではないでしょうか。

 

(ということで、あしたから「まとめ」に入ろうと思います。うまくまとまればよいのですが)

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« あらためて「利他」(その3... | トップ | あらためて「利他」(その5... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。