テレビ画面の向こうの立川志らくが、移動中の車中で「これから執筆です」と言ってスマートフォンに向かったのを見たのはどのくらい前だったか、思い出す術は皆目ないが、兎にも角にも少なくない衝撃を受けたのは、ハッキリと覚えている。
「今時の学生はこれで論文を書くんですよ」
それより以前、顔見知りの大学教授が、まるで異次元の生物を紹介するかのように言うのを聞いたのがいつだったか、これはハッキリと覚えている。2017年のことだ。そのときは、にわかには信じることができず、話し半分冗談半分だとばかり思っていた。だが、それからしばらくの時が経ち、テレビ画面に写る噺家はぼくより少しばかり年下でしかない立派な昭和人だ。彼がそうするのだもの、若い人たちの今がどのようになっているかは推して知るべしだと、俄然それを今そこにある真実として捉えるようになった。
それからのぼくは、思いついては、フリック入力というやつによるまとまった文章作成を修めようとチャレンジし、挫折し、しばらく置いてはまたチャレンジし、またまた挫折。というようなことを幾度か繰り返していた。するとよくしたもので、いつのまにかある程度のことができるようになっていたことに気づいた。
たとえば一昨日の稿、スマートフォンを用いて、いわゆるフリック入力で全編を書いている。あれが、今的基準で計ったとして、ある程度なのかその程度なのか、どの程度なのか判別できないが、少なくともこれまでの経緯を勘案するぼくにとっては、けっこうな程度であることはマチガイない。
とはいえ一日以上が経過し読み返してみると、少しばかり詰めが浅い気がする。だがそう感じるのはたぶん、書いた当の本人だけなのだろう。ぼく自身はそこに、自分の思考に指が追いつかないもどかしさを体感しながら書いているからだ。
「書く」という行為は、「考える」という行為と不可分に結びついている。それが手書きであっても、またタイピングであっても、文字がそこに表れたならそれでよいというものではない。つまり、「書く」=「考えながら書く」である以上、考える主体としての脳と書く主体としての手指の動きに時間差があればあるほど、その出力としての文章のデキはわるくなる。
となれば、自分の思考に指が追いついてこないという事態は致命的な欠陥となる。
ゆえに多くの人は、それ以前のスタイルにしがみつく。齢を重ね、それに依存した時間が多くなればなるほど、そこまでの方法を捨ててあたらしいツールを使うことが億劫になる。
それは何も「書く」だけに限らず、テクノロジーの進歩に対するオジさんオバさん爺さん婆さんの姿勢全般について言えることだ。
とはいっても、今から35年ほど前を思い起こせばさもありなんである。
あの当時、突如出現したワードプロセッサという道具をまったく使いこなせていなかったこともまた同様で、もどかしさを感じながら一つひとつのキーを打っていた。そしてそれを断固として拒否した人も少なくなかった。
だがぼくは、そうはしなかった。もちろん、まだ若くバリバリだったというのはあるが、同年代の他人にも増して、ぼくはその修練にいそしんだ。そしていつしかそれが、手で書くのと遜色がないスピードになり、考えるとほぼ同時にキーが打てるようになるまでに、いったいどのくらいの年月を要したのか。少なくとも、5年や6年ではなかったことは確かだ。
かといって、エラソウに語るほどに長い文章が書けたわけでもない。そして、肝心の時間はといえば、キーボードでPCに入力する数倍も要している。かてて加えて、ただでさえよくある誤字脱字が、さらに多くなっていたりもする。
ただ、かつてのキーボードタイピング修得の経験をもとに、フリック入力の現在地を見ると、そこにそこはかとない希望がわいてくる。
ケータイを「書く」ツールとして使い、PCの代理ぐらいのことはできる。ようやっとその段階に到達したのではないかと、ささやかな自信がついたのである。
ということで、調子に乗って今日もまた、レッツ・フリック。年甲斐もなく・・・という視線をものともせず、「年寄りの冷や水」はつづくのである。